第3話君と僕





シャドウ・ライト

君と僕


強い人間は自分の運命を嘆かない。   ショーペンハウエル








































  第三章 【 君と僕 】


























  劉が城に拘束され、拷問を受けて一カ月が経とうとしていた。


  心も身体もすでに限界など超えているが、抵抗するだけの体力も残ってはいない。


  「いい加減に吐けよ!」


  「嘘でもいいから、『嘘吐いてました』って言えばいいだけだろ!」


  劉よりも、拷問している兵士たちの方が疲れているようで、交代交代でやってはいるものの、どうにもならない。


  未だに何も言わない劉に痺れを切らし、兵士はつい、顔を殴ってしまった。


  「顔は止めろよ」


  「こ、恒楊様!」


  いつの間にか、ドアに佇んでいた恒楊は、死にかけている劉を下から上まで一通り見た後、耳元で囁く。


  「お前がいつまでもその態度なら、こっちにも考えがある」


  動かせる目だけを恒楊の方に向けると、自分と同じ顔の男は、口角をあげる。


  「お前の弱点、連れてくるぜ?」


  それだけを言うと、恒楊は部屋を出て行ってしまい、残された劉と兵士は、また同じことを繰り返すのだった。


  「この野郎!!!」


  先程、恒楊に“顔は止めろ”と言われたばかりなのにも係わらず、兵士は劉の額を思い切り叩いた。


  爪が当たったのか、劉の額からは微かではあるが、血が出てきてしまった。


  「ほら、さっさと立て。戻るぞ」


  そう言われ、手に巻かれているロープを外されるが、すでに立つ力さえ残っていない劉は、床に倒れてしまう。


  「何してんだよ、さっさと立つんだよ!」


  「早くしろ!!」


  横になったまま動かない劉の腹や背を蹴って起こそうとするが、劉は呼吸をするだけで精一杯だった。


  なかなか動かない劉を見て、兵士たちは置き去りにしようと決断した。


  「明日もやるんだ。いいだろう」


  「そうだな。ほっとけ」


  バタン、と重たく冷たいドアを閉められてしまい、劉は真っ暗でカビ臭い部屋に一人残された。


  このまま寝てしまったほうが楽だと、劉は目を閉じて寝ようとしたが、頭の中の何かがそれを邪魔する。


  ザザザ・・・と砂嵐のようなものが頭と視界を覆う。


  ついに、自分の命もここまでかと劉は腹をくくったが、どうもそうではないらしい。


  刹那―




  「兄上」




  ぽつり、と無意識に口から出てきた単語は、ここしばらくの自分の記憶には存在しなかったものだった。


  だが、走馬灯のように駆け巡る、脳裏に浮かぶ背景は何だろう。


  「私は?兄上?恒楊?私は?劉?違う。影武者。私は?兄上?劉・・・?劉圭?私は?恒楊?劉圭?影武者。父上。母上。廉家。影武者。劉圭。薗家。私は薗家。兄上、劉圭。私は?恒楊?違う。違う。劉圭、兄上。薗家。影武者。薗家。兄上。劉圭。父上。母上。私は・・・」


  グルグルと巡る記憶に、不確かな存在と、落ちている破片を組み合わせる。


  自分と同じ顔をしている恒楊と、恒楊と同じ顔をしている自分。


  それらは絶対的な現象ではなく、ただ単に避けられなかった皮肉な運命であり、この時代に産まれてきた副産物。


  今、点だけで存在していた過去が線となり、それらは現実の事実としてあった。


  楽しそうに笑い合うのは、誰か。


  ずっと一緒に生きてきたのは、誰か。


  泣きたいほど悲しい時も、悔しい時も、傍にいてくれたのは、誰か。


  世の中を嘆き、現状に不満を漏らした時、耐えることを教えてくれたのは、誰か。


  時には、自分のことさえ嫌いになって、外で呑気に遊んでいる、同じくらいの歳の子を見て、親のもとに産まれてきたことに疑問を覚えたこともあった。


  それでも、何があっても、自分の味方でいてくれて、何を言っても愛してくれていたのは、誰か。


  そんな生活を当たり前と思わせてくれたのは、誰か。


  この世で一番大切で、一番忘れてはいけなくて、一番笑っていてほしくて、心を埋め尽くす思い出たち。


  通り過ぎてきたこれまでの日常は、無意味に時の狭間を歩んだ秒針のように短く、その存在を確認出来る人間はいない。


  繰り返し声を出しては、そうではない、違うのだ、そう自分に言い聞かせてきた。


  ただ、普通に、生きたかっただけ。


  「私は、薗義景」


  記憶の中で呼ばれていた自分の名を思い出した義景は、名前を口に出した途端、思わず涙があふれてきた。


  「アァァァアァアアアアァアァアァアァアァアッ・・・・!!!!!!!!!!」


  思い出さない方が良かったのか、思い出して良かったのか、思い出してしまった良かったのか、思い出すことが本当に良かったのか。


  「なんで・・・・・なんでなんでなんでなんでなんでなんで・・・!!!!!!!」


  どんなに大きな声で叫んでいても、この部屋の中にいる限り、誰にも聞こえない。


  影として生きていた人生、少しでも光の中を生きてしまったら、影など価値が見出せなくなる。


  太陽はあんなに輝いていて、みなに見られてそこにあるのに、月は輝いていてもそれに気付く者はほとんどいない。


  比べられて、結局、太陽の光には負けてしまうのだ。


  力の入らなかった身体にも、怒りか悔しさか嘆きか憎しみか寂しさか愛おしさか、何からか得た力が拳に入る。


  今までそんな力が残っていたのかと自分でも疑うほどの力で、床を思いっきり殴りつけた。


  骨がミシミシと軋む音と、力に耐えきれなかった皮膚が切れて、そこから赤い血が流れた。


  ―こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。


  ―なんで今更思いだしてしまったんだ。


  ―あまりにも酷い仕打ちだ。


  ―私が、貴方に何をした?


  ―“神様”!!!!!!!!!


  自分の事、廉家のこと、死んだ兄のこと、全部を思い出した義景だったが、数日は現実から逃れようと、まだ思い出せないフリをしていた。


  というよりも、何も言う気力がなかった。


  痛みさえも、今の自分の心を慰めてくれるような気がして、冷たささえも、これまでの出来事を全部嘘であると言ってくれる気がして。


  もし、普通の生活をしていたとしたら、もっと幸せに暮らせていたのかもしれない。


  もし、両親のもとに産まれていなかったとしたら、小さな幸せにさえも気付けなかったかもしれない。


  もし、ここではない何処かで生きていたとしたら、毎日、太陽のもとで走り回っていたのかもしれない。


  時折、空を見て思う事がある。


  この空は、どこに繋がっているのだろうかと。


  戦に出ているときも、余裕があるわけでも油断しているわけでもなく、空を見ていた。


  何の躊躇もなく人を殺している味方の兵士、敵の兵士、互いに斬られて血を流し、泣いて助けを乞う兵士もいた。


  仲間が殺されたことに怒りを覚え、憎しみばかり大きくなる。


  そしてまた、殺し合う。


  そんな兵士たちを、まるで絵画でも見ている様で、まるで夢の中での出来事のようで、顔をあげて青い空を求めた。


  何ものにもとらわれず、縛られずに、その美しい青はあった。


  ただ、現実から逃れるために、見ていた。








  「何?思い出した?」


  「はい」


  やっと、自分の心も整理することが出来た義景は、恒楊のもとへ行って、全てを話すことにした。


  逃れられないことは、小さいころから分かっていたから。


  「そうかそうか!!!ハハハハハ!!!まあ、大分時間はかかったが、良しとしよう!これで、ようやく俺は復活。戦も再開。んでもって、廉家もまた然り。いや、実に結構だな。で?いつからもとの俺に戻れそうだ?」


  「しばらくは、体力を戻したいと考えています。もうしばらくだけ、待っていただけますか」


  「勿論だ!ま、正直なとこ、早いに越したことはないんだけどな。そこは大目にみとくぜ」


  「ありがとうございます」


  恒楊の部屋から出て、義景が向かったのは鉄格子に囲まれたあの部屋ではなく、以前ずっと義景がいた部屋だ。


  すでに埃まみれ、蜘蛛の巣もそこら中にあり、廃れた物置きと成っていた。


  恒楊の部屋から出てくる時、恒楊に言われたこと。


  「おい、義景」


  「はい、何でしょう」


  「義景。お前がもし裏切るような真似したら、あの村にいた女を殺す」


  「裏切りなど、いたしません」


  ああは言ったものの、義景は迷っていた。


  どんなに懸命に闘い、生き延びても、それはもう誰の為にもならないのではないかとか、すでに恨んでいる廉家を守る意味はあるのかとか。


  迷った末に、また廉家の恒楊として自分を殺すことを決めたのは、家族のためだった。


  先祖のことなど知らないが、父親、母親、そして兄が守り通して来たことを、義景が壊すわけにはいかないと、そう思っただけだ。


  とりあえず小窓を開けて空気を入れ替えると、簡単に部屋を掃除した。


  小窓から見える街の景色は、変わっているのかいないのかさえ分からないが、きっと少しは変わっているのだろう。


  義景が死んだという話が恒楊の耳に届いたとき、まず真っ先に心配しなければいけなかったことは、これから廉家はどうなるか、ということだ。


  表向きは恒楊はまだ生きている、ということにしておいたが、そうなると、敵国は戦を持ちかけてくる。


  死んだということにしてしまうと、廉家の跡継ぎは誰だ、ということになる。


  恒楊は滅多に外に出ず、戦もしないようにしてきた。


  「これでやっと、落ちるとこまで落ちた廉家の名声も、復活だな」


  そんなことくらいにしか思っていないだろう。


  埃臭い部屋で何日も寝ていると、すでに身体も慣れてしまったのか、最初の頃出ていたくしゃみも出なくなっていた。


  とある夜、ふと、義景は城からこっそり出る準備をしていた。


  ―すぐ戻ってくれば、平気か。


  部屋の外には、義景が二度と逃げ出さないようにと、兵士が数十人体勢でズラーッと並んでいる。


  そのため、義景は小窓からの外出を試みていた。


  小さい頃は、それなりに大きいと思っていたが、やはりただの小窓。


  大きくなった身体では少々窮屈だが、なんとか頑張れば、痛むだろうが出られないわけではなかった。


  古びた布団を何枚も結んでロープ上のものを作ると、小窓から外に放り投げた。


  近くの柱に強くギュッと結んで解けないようにすると、義景は少しずつ、下へと移動して行った。


  最後はジャンプして着地すると、足が少しだけ痺れてしまった。


  コソコソと街の中を走って行く途中、こんな夜中にも係わらず、若者が集まってなにやら騒いでいる場所があった。


  そのため、義景は人影がないであろう、裏道を通っていくことにした。


  思った通り、裏道は人がいなかった。


  「これは珍しい」


  「!?」


  気配も感じなかった道で、急に声が聞こえてきて、義景は驚いて思わず足を止めてしまった。


  もしも、恒楊の顔をしている自分が見つかってしまい、最悪、顔がバレテしまってはまずいと、影に入って顔を隠した。


  のっそりと現れたのは、全身茶色の布を身に纏い、頭もフードを被っている人物だった。


  声からして、多分男だ。


  「警戒するな。お前のことは知ってる」


  「誰だ?」


  「俺のことはいい。こんな夜中に城から抜けだして、誰かに見つかったら大事件になるぞ」


  「分かってる。だから、この道を通ってる」


  「・・・・・・だろうな」


  男はストン、と道の端にある低めの石段に腰掛けると、こんな時間なのに、手に持っていたブドウを食べ始めた。


  皮ごと食べられるブドウなのか、それとも気にせず食べてしまっているのか、男は頬を膨らませて食べていた。


  「ここにいるってことは、城に戻ったってことか。一時は死んだか、もしくは逃げたとばかり思ってたが。どうやらそうじゃないようだな」


  「どんな風に、世間には?」


  「特には何も。お前が死んだっていう確実なものは何も無かったからな。所詮、偽物が死んだって、困るのは恒楊本人だけだ」


  「・・・じゃあ、街は特に変わりないのか」


  「ああ。それより、お前、急いでるんじゃないのか」


  男に言われ、義景は思い出したようにまた走りだそうとした。


  「なんで、俺のことを知ってるんだ?」


  義景の問いかけに、男は喉を鳴らして笑った。


  「さあな」


  頭に?が残ったまま、義景はまた足を動かし始めた。


  「薗義景」


  「!」


  産まれた時にすでに捨てたといっても過言ではない、本名を呼ばれたため、義景はハッと息を飲んで男を見る。


  「例え名を捨てても、心までは捨てるな」


  口元だけしか見えなかったが、一瞬、男の目も見えた。


  そこから覗いた目は、思っていたよりも穏やかで優しく、口元も笑っていた。


  それに応えるように、義景も笑って男を見ると、男はまたブドウをひとつふたつと食べ始めた。


  街を抜けて行くと、そこからは遠い遠い道のりとなっていて、もっとしっかりとした靴を履いてくればよかったと後悔した。


  こんなにも遠かったのかと、自分の体力の無さにほとほと呆れてしまう。


  途中で何度も休みながらも、まだ着かない目的地を目指すのだった。








  夜、月も星も輝きを増していた。


  泣くことも嘆くことも怒ることも疲れ、スヤスヤと寝ている弟の顔を見て、少しだけ安心していた。


  自分も早く寝ないと、明日の街の仕事に支障をきたすと、星蘭は自分のベッドに横になった。


  しばらくすると、コンコン、というドアを控えめに叩く音が聞こえた。


  「(誰?)」


  音は一度鳴って止んだため、もしかしたら気のせいだったのか、それとも誰かが何か用で来たけど、帰ったのかと思った。


  だが、もう一度鳴った。


  ぼーっとしている頭を起こし、ドアまで近づいてそっとドアに耳を当てて、外の様子を窺ってみる。


  特に何も音がしなかったが、またノックをする音がしたため、そーっと開けた。


  「!!!」


  疑った。疑うしか出来なかった。


  もう二度と会えないと思っていた人物が、そこに立っていたからだ。


  「劉さん!」


  「すみません、こんな時間に」


  変わらない優しい柔らかい口調と表情に、星蘭は胸につかえていたもの全てが解けたように、ボロボロと涙を流した。


  それに驚いた義景は、あわてふためいてしまう。


  「どうかしましたか?」


  「い、いえ・・・・・・。な、中に、どうぞ」


  「失礼します」


  涙を拭いながら義景を家の中に案内すると、義景は奥の燈翔が寝ている部屋をそっと覗いた。


  「やっぱり、もう寝ちゃってますよね」


  温かい飲み物でも用意しようかとした星蘭だったが、義景に止められ椅子に座るように言われたため、上着を羽織って椅子に座る。


  星蘭が泣き止むのを待つと、義景はゆっくりと話し始めた。


  「全部、思い出しました」


  「え?」


  「自分の名前も、どうやって生きてきたのかも、全部です」


  「良かった」


  嬉しそうに笑う星蘭だが、それとは裏腹に、義景は複雑そうな表情を浮かべる。


  言うべきか、言わない方がもしかしたら良いのかもしれないとも思ったが、せめて、誰かに知って欲しかった。


  「私の本当の名は、義景。薗義景」


  「義景、さん?じゃあ、劉っていうのは」


  「それは、戦で亡くなった、兄の名の一部です」


  「そうだったんですか」


  城にいる兵士たちとは違う、心からの笑みを見せてくれる星蘭に、義景もホッと安心してしまう。


  「私は、私の家系は、廉家の影武者として存在していました。ある日の戦で、死ぬのが怖くなり、私は逃げました。その途中で、崖から落ちて記憶を失い、貴方に助けられました」


  じっと、義景の言葉に耳を傾ける星蘭。


  「私の兄は、今の廉家城主、恒楊の兄の尤楼の影武者として生き、死んだ。そして私は、恒楊の影武者として生きてきました。そして、これからも。小さい頃に顔を変えたので、自分の本当の顔も、兄の顔も、父の顔も母の顔もわかりません。声もです。私達は、産まれたときに、自分でなくなる。それは、小さい頃はとても悔しくて、廉家を憎んでいました」


  まるで自分の身に起こったことのように、星蘭は唇を噛みしめ、悔しそうな表情をする。


  それを見て、義景は逆に、顔を歪めるどころか、いつものように優しく頬を緩ませて笑うのだった。


  「それでも、生きることを選びました。兄も父も母も、先祖が皆そうしてきたように、私も廉恒楊として生きて行くことを決意したんです。兄が死んだときは、悔しくて、悲しくて、心が壊れてしまいそうになりました。いっそのこと、壊れてしまったほうが良かったのかもしれません。自分には一生、幸せは来ないと、笑って死ぬことは出来ないのだと、諦めていました」


  義景は、腕をすうっと伸ばして、星蘭の頬を掌で包んだ。


  「でも、貴方たちに出会えた」


  低く、しっかりと耳に届く、まるで小鳥の羽音のように、まるで地をかける風のように、まるで全てを照らす太陽のように、義景の声を受け止める。


  「二人に出会えて、私は楽しかった。毎日が待ち遠しかった。自分でいられた」


  義景の言葉一つ一つを聞き逃すまいと、星蘭は目を見つめて聞いていた。


  「出来る事なら、過去を全部忘れて、新しい人生を歩みたかった」


  とても悲しそうに、今にも泣きそうな表情になった義景を見て、星蘭まで険しい顔を見せる。


  「でも、忘れることは出来なかった。私が産まれてきてから、これまでの人生。兄が死んだこと。両親が死んだこと。笑い合って生きてきたこと。全部、愛おしい私の全てだった。一方で、ずっと、生きていることに疑問を抱いていた。自分でいてはいけない。小さいころは理解出来ずに、両親につっかかり、兄にあたっていた。分からなくても、受け入れなくてはいけないことがあって、逃げたくても逃げる場所なんて無かった。ただ、それが運命なんだと、自分を納得させていた」


  義景は、包んでいた星蘭の頬を解放し、椅子からゆっくり立ち上がると、目を細めて柔らかく笑った。


  「私は、あなたのことを忘れません」


  その言葉を聞いた途端、義景の後ろに見える月が余計に明るくなったように感じ、その月に義景が連れて行かれそうな気がした。


  思わず義景の腕を掴むと、しっかりと掴めたその感触に、安心してまた涙を流しそうになる。


  星蘭の行動に驚いた義景は、目をパチクリさせていたが、頬を緩めて腰を折り、星蘭と目線の高さを合わせる。


  すでに、星蘭の視界はぼやけていて、しっかりと義景の顔を捉えることは出来なかった。


  「ありがとうございました」


  星蘭の耳元に口を近づける。


  「さようなら」


  近くで感じていた体温が低くなっていき、義景が離れて行くことがわかった。


  顔を両手で覆って泣いている星蘭だが、義景は足を止めること無く歩き続けて行く。


  足に力を入れて椅子から立ち上がった星蘭は、溢れ出してくる涙を抑えられる限り抑え、去っていく背中にもがいた。


  「そんな言葉はいりません!!!!」


  怒鳴ったことによって燈翔が起きてしまったかとも思ったが、熟睡しているようで、燈翔が起きてくることはなかった。


  星蘭の大声に驚いた義景は、ドアを半分ほど開けたところで手を止めた。


  背中を向けたままの状態で少しいたが、開けたドアを静かに閉める。


  自分の方を向いてくれるかもしれないと待っていたが、義景は一向に身体を動かそうとはいない。


  重い何かを背負った背中を見て、星蘭は続けた。


  「さよならなんて、言わないでください。ずっと、待ってますから。生きて帰ってきて、ただいま、って言ってください」


  「約束は出来ません」


  気付くと、いつの間にか自分の前に戻ってきていた義景。


  まだボロボロの顔のまま義景を見上げると、整った顔は眉間にシワを寄せながらも悲しそうで、瞳はなおも力強い。


  目を擦って涙をぬぐおうとすると、義景にその手首を掴まれた。


  「絶対に生きて帰ってくるという約束は出来ません。命を懸けて、廉家を守らねばなりません。私と係わり、ましてや、ここにいたことが公になれば、貴方たちもただでは済みません。私のせいで、不幸にしたくはありません。二人が笑顔でいてくれるのなら、私はそれでいいのです」


  「よくありません・・・!!なら、私たちも罰を受けます!だから!!」


  「私のことは忘れ、平和な時を過ごしてください」


  「待ッ・・・!!!」


  また去ろうとする義景の腕を掴もうと伸ばした手は、何もない空気を掴んだだけだった。


  代わりに、背後に気配を感じて振り向こうとするが、刹那、首筋に何かを感じると、急に意識を手放した。


  倒れそうになった星蘭を抱え、義景は奥の部屋へと運んだ。


  燈翔の隣に星蘭を寝かせたとき、肩をビクッと動かして、燈翔が目を開けた。


  「あれ?おにいちゃん?」


  寝惚けたままの燈翔に微笑むと、「おやすみ」とだけ言って部屋を出て行った。


  寝ている二人に音が聞こえないようにとそっと閉めたドアは、いつもよりも重く、冷たい様に感じる。


  ふと空を見上げた。城から見ていた空とは、何かが違う。


  来た道を戻るのは、向かう時よりもずっとずっと長く、寒く、そして、孤独だった。


  最後に見た星蘭は、昔の自分と同じ顔をしていた。


  父親、母親、兄が戦に行くたびに、行かないでほしい、死なないでほしい、帰ってきてほしい、と願って祈っていた。


  帰ってくることが嬉しくて、それが無傷ならなお嬉しかった。


  だから、自分にあんなことを言ってきた星蘭の気持ちがわからないでもない。


  それでも、義景に残された道はただひとつ、恒楊として生き続け、この命が尽きるまで戦に出ることだけだ。


  街に戻って城までの道のりの途中、ある角を曲がろうとしたとき、誰かにぶつかった。


  互いに倒れてもおかしくはないほどの衝撃があったが、義景もその誰かも、倒れることはなかった。


  それは、相手が義景の腰ほどの背丈しかなかったからだ。


  「!!!!」


  義景の顔を見て硬直してしまったのは、小さな小さな女の子だった。


  きっと、義景の顔が、この城の主でもある恒楊と同じ顔だったからであろうことは、なんとなくわかった。


  街にいる者で、恒楊の顔を知らない人はいないだろうから。


  「ごめんなさい!」


  それだけを言って走って去って行こうとする女の子の腕を掴み、何か感じた違和感について聞こうかと思ったが、出来そうもない。


  女の子の顔が、恐怖に怯えていたからだ。


  違和感の正体は、きっとお腹に何かを隠して持っていて、その上から両手で大事そうに包んでいることだった。


  すでにしまっている店か、誰かの畑からか盗んできた食べ物だろうと推測出来た義景は、掴んでいた手首を離す。


  手が離された瞬間、女の子は義景から逃げるように走っていった。


  零す様にため息を吐くと、寒さからか、息は白く濁って消えた。


  部屋から垂らしていた布は、義景の帰りを待っていたかのようにゆらゆら揺れていて、義景はそれに掴まる。


  ほぼ腕の力だけで部屋まで辿りつくと、証拠隠滅とばかりに布を回収する。


  窓をしめてベッドに横になると、冷たくなった身体ではなかなか温めることが出来ず、しばらくは寝られないでいた。


  「ごめん」


  誰もいない部屋で、呟いた謝罪の言葉。


  「ごめんなさい」


  もう一度呟いたその言葉に、義景はしずかに頬を濡らした。


  腕で目元を覆うが、つー、と重力に逆らうこと無く流れる涙は、寝ているベッドをも濡らす。


  ―いくら祈っても、どんなに願っても、報われない。


  我儘を言えるのであれば、こんなところで死にたくはないし、これからは義景として生きて行きたいし、あの村で暮らしたい。


  だが、使命というべきか運命というべきか、残酷な自分の途をただ辿るしかない。


  声を出して泣いた。


  部屋の外にいるであろう、兵士たちには聞こえないように、だが、静かな部屋には充分響くくらいの声を出して泣いた。


  確か、兄や両親が死んだときは、声が枯れて喉から血が出るんじゃないかというくらいに声を出した。


  声とは言い難い、そんな叫びをしていた。


  止めどなく溢れ出す涙を、兵士たちは冷めた目で見ていたことも覚えている。


  やっと収まってきたと思う頃には、すでに太陽は昇り始めようとしていて、それでもまだ薄暗い空を見て、切なさを覚える。


  ベッドに張り付いてしまったのかと思うほど重たい身体は、ノックされたドアにさえ反応出来なかった。


  このまま寝たふりをしていようかと思っていた義景だが、ドアは強引に開かれた。


  「おい、起きろ」


  顔だけを気だるそうに動かせば、そこには兵士では無く、恒楊が立っていた。


  ニヤリと口元を動かして妖しく笑う恒楊は、寝ている義景のもとへとズカズカ歩いてきて、寝ている義景の顔の横に手をついた。


  顔をグイッと近づけてきた恒楊だが、自分の顔が近くにあるというのは、なんとも気持ち悪いものだ。


  「今日は俺の復活の祝杯をあげる。盛大なパーティーの開催をすることにした。勿論、国民の前に出るのは、お前だ。俺じゃあない。俺は別の場所で楽しんでっから」


  「きょ、今日ですか?急な話ですね」


  「ああ。正式に決定したのは今だ。俺が決めた。これからすぐに着替えて、髪型もぴし―っと決めとけよ?これで、また今日から戦も堂々と出来るってわけだ。頼りにしてるぜ?」


  「戦なんて、もうしばらく無いのでは・・・・・・」


  「何言ってんだよ。戦してなんぼの廉家だろ。じゃ、そういうことだから」


  言いたいことだけ言って、さっさと部屋から出て行った恒楊の背中を眺めていると、次々と兵士たちが部屋に入ってきた。


  兵士の間を縫って入ってきた一人の正装をした男が、義景の髪型をいじり始めた。


  力任せに義景の身体を起こして、別の男は着替えをさせようと、着ていたものを脱がせ始める。


  みるみるうちに、王と名乗ってもおかしくない格好になる。


  スピーチ用に用意された紙を暗記している間に、最終調整をされ、頭の上には王冠を被せられた。


  あたりがザワザワとなると、そろそろ式典が始まるのだと分かる。


  下を向いて目を瞑っていると、あたりはざわついているにも関わらず、今義景がいる部屋だけは沈黙が鳴る。


  『みなさま、お待たせいたしました!いよいよ、廉恒楊様のご登場となります!国の王として立派に成長なさり、戦にも積極的な恒楊様のお姿、とくとご覧ください!』


  ワ―ッ、と歓声が挙がると、城の中央にある大きな窓から突き出た途には、赤いカーペットが敷いてある。


  その先から見える景色は、こんなにいたのかと思うほどの人、人、人。


  ビュウッと吹いている強い風は、歓迎されているのか、それともここには立つなと拒まれているのか。


  膝くらいまであるブーツを履いているからか、歩き難い。


  首を下に動かさなくても辺りが見渡せる位置まで来ると、あがっていた歓声はより大きくなった。


  「恒楊様―!!!」


  「大きくなられましたなー!!!」


  「こちらを見てください!!!」


  「恒楊様万歳!!!」


  数々の言葉が飛び交うが、全ては恒楊に向けられたものであって、義景にではない。


  小さくしか見えない国民たちは、ここからはよく見えないものの、きっと目を輝かせて、恒楊の言葉を今か今かと待っているのだろう。


  深呼吸をして、先程まで確認していた紙に書かれた内容を思い出す。


  『廉恒楊である。私のための盛大な式典、感謝する』


  五分くらいだろうか、それとももっと話しただろうか。


  ただ、頭の中に入っているスピーチを口から流しているだけだが、時間が経っている感覚さえ麻痺しているようだ。


  感情を入れているのかいないのか、それも分からないまま話した。


  少しして内容を全部言い終えると、一呼吸おいて、大きな拍手が鳴りだした。


  ふと、視界の端のほうに、先日というべきか今朝というべきか、出会った幼い女の子が見えた。


  柱の影の方から、恒楊となっている義景を恨めしそうに、また怖そうに、天高い場所に立っている恒楊を見上げている。


  義景としてなら、微笑んでもいいところだったのだが、恒楊としては、緩く軟く柔らかく笑うことは出来なかった。


  視線を他の国民に戻すと、お酒やら見世物が始まった。


  「恒楊様、こちらへ」


  恒楊用の椅子が用意され、そこに座って国民たちが騒いでいるのを見るだけ。


  グラスにワインを注がれたが、しばらく飲まずに、楽しそうにしている国民を見ながらグルグル回していた。


  ラッパを吹く者、バイオリンを演奏する者、笛、太鼓、鈴、ハープ、様々な楽器で奏でられる音楽は、思ったよりも心地良かった。


  こんな時代もいつか終わるのかと、義景はようやくワインを口に含んだ。


  「・・・・・・つまらない」


  ぽつり、と呟いた義景の言葉を聞いたのは、本人だけ。


  少しすると、恒楊本人がトランプを持ってコソコソと現れた。


  「なあ、ちょっと顔貸せよ」


  「はい?」


  グイッと引っ張られ、義景は戸惑いながらも恒楊の後をついていくと、さっきまでいたのであろう、女性たちもいる部屋に連れて行かれた。


  「わー。本当に同じ顔ね」


  「けど、貴方よりそっちの方が知的な感じ」


  「何だよそれ。俺だって知的だろ?」


  「あの、私はなにをすれば」


  女性たちの間には、不自然に開いた席があり、そこに恒楊が当たり前のように座ると、向かいの席に座る様に義景に言った。


  シュッシュッ、と手なれた様子でトランプをきると、それを分け始めた。


  「サシで勝負しようぜ」


  女性達も混ざるのかと思っていたが、恒楊は自分と義景の前にだけ分けていた。


  分け終えると、残されたトランプを真ん中に置き、手元にあるトランプを見てニヤニヤ笑った。


  「別に、勝っても負けても何もねーけど、これから戦でお前とはなかなか顔合わせね―だろうし?最初で最後の勝負といこうや」


  「あまり、やったことありませんが」


  「三回勝負。俺よりお前の方が有能なことは、俺にだって分かってる。きっと、一回くらいやればルール理解出来るだろ」


  不利な気がしてたまらないが、特に何もないというのならいいかと、義景はとにかく同じように手を動かした。


  結果、三戦三敗。当然と言えば当然の結果だった。


  だが、恒楊は嬉しそうに笑い、女性の肩を抱いて満足気だ。


  「では、これで失礼してもよろしいですか?」


  「なあ、俺が本当に、これだけの為にお前を呼んだと思ってるのか?」


  「思っていましたが、違うんですか」


  「どいつもこいつも失礼な奴ばっかりだな」


  ケラケラ笑って女性を抱きよせる恒楊は、去ろうとしている義景に、首を動かして椅子に戻る様に指示した。


  迷いはしたが、ここで抵抗しても無駄だろうと、義景はまた座る。


  「なんでしょうか」


  真っ直ぐに前を見れば、そこにいるのは自分。


  「前に言ったこと、覚えてるか?逃げようとしたら、あの村の娘を殺すって」


  「ええ」


  「あれ、本気だからな。娘の家に見張りをつけて、お前が変な動き一つしようものなら、娘を殺す手はずになってる」


  「分かっています。それに、もう逃げようなど、考えていません」


  「ならいいけどな。一応、腹括ってもらわねーとな」


  部屋を出て長い廊下を歩いていると、外からは未だに宴会のような、楽しそうな声が聞こえてくる。


  その輪には入れないし、入ろうとも思わないが、なんとも言えない疎外感。


  三日三晩、恒楊のための式典は続き、当の本人は一度も国民の前に出ることはなく、女性達と遊んでいた。


  最初だけ出た義景も、恒楊と会ったあの後、ずっと部屋に籠っていた。


  戦がすぐに始めると、兵士たちが言っていたのも聞いて、怖いというよりは、懐かしいという感情だ。


  今更逃げようなどとも思わないし、思ったところで逃げ切れない。


  式典が終わったのか、次第に城の前は静寂を取り戻し、いつもと同じ朝が来た。


  「戦へ向かう。準備しろ」


  「もうしてある」


  部屋に迎えに来た兵士の横を通り過ぎ、義景は腰に剣をさしながら部屋を出て廊下を歩いた。


  義景が来ると、尻尾を振ってお出迎えする馬。


  「随分待たせたな」


  愛馬ではないが、自分を慕ってくれているものは、人であれ動物であれ、いればやはり良いものだ。


  撫でてくれと、義景に顔を近づけてくる馬を触っていると、兵士が咳払いをする。


  「早く乗れ。動物と戯れてる暇はない」


  「・・・・・・わかってる」


  馬に跨り手綱を引けば、軽快に走りだした。


  しばらく奔っていると、昔、本当に一番最初、馬に乗った時のことを思い出した。


  ユラユラ揺れるのが気持ち良いと自分に言い聞かせていたが、時間が経つにつれて気持ち悪くなり、吐きそうになった。


  止める方法も分からず、放心状態で乗り続けていた。


  だが、今は景色を眺めて楽しめる余裕も出てきて、時には、周りの兵士を振り切ってどこかに行ってしまいたい衝動にもかられる。


  そんな気持ちを抑えて乗っていると、敵国の旗が見えてきた。


  一旦、馬を止めて兵士たちと作戦の流れを確認すると、幾つかのグループに分かれて、また走り始めた。


  敵陣を取り囲むようにして攻めれば、大砲が飛び交う。


  恒楊に戻って再びの戦は、義景にとっては嫌なものだった。


  もともと争い事が好きではないのに、なぜ人を殺し、殺されることを自分はしているのだろうかと、何度疑問に思ったことだろう。


  「おおー!!!!!!!!」


  雄叫びが聞こえてくると、敵国の兵士たちが、恒楊を狙って銃を撃ってくる。


  まだ距離が遠いため、的確に的に当たることは愚か、届くことさえないのだが、これからはどうなるか分からない。


  「廉恒楊だーーー!!!」


  「殺せええええ―――――!!!!」


  弓も使って矢を放ち、銃を撃ち、剣を振り回してくる。


  義景も自ら戦い、戦は激しさを増した。


  回り込んだ廉家の兵士が敵を囲むと、敵は一気に衰えはじめ、敵を取りまとめていた男を捕まえることが出来た。


  捕まえた男達を綱で縛り、頭の男の前に立つ。


  「お前の首を取る」


  「廉恒楊。最悪の城主と聞いてる。女遊びも激しく、兵士たちさえゴミ扱い。一時は死んだという噂もあったが、生きていたとはな。さぞ、国民たちは生きた心地がしていないことだろう」


  「貴様!!!恒楊様に無礼を申すか!」


  「止めろ」


  男の口を塞ごうとする兵士を止めた義景は、男と目線を合わせるように膝を折る。


  「だが、お前を見る限り、そういう男には見えない」


  「それは、褒め言葉か」


  「どうだかな」


  男は、義景だけに聞こえるように言った。


  「お前、本物の恒楊じゃないな?」


  「・・・・・・」


  それに対しては何も答えなかった義景だったが、答えなどなくてもその顔色だけで悟ったのか、男は自嘲気味に笑った。


  「まあ、俺の首を取ることは、お前の為でもある。さっさとやれ」


  スッと義景が立ち上がると、近くにいた兵士から剣を渡され、男の項にあてた。


  周りにいる兵士たちは少し距離を置き、男の首が斬られるのを待つ。


  勢いよく剣を振り上げ、力を入れなくても、剣の重さと重力で自然と落ちて行く剣を、無感情で眺めた。


  ズバッと斬られた男の首は、ゴロン、と地面を伝って行った。


  血飛沫が飛び、義景の顔だけではなく、身体中至るところに男の真っ赤な血潮が飛んできた。


  男の首を持って城に帰ると、兵士たちは男の首を見世物のように飾ろうなどと言っていたため、義景は珍しく声を荒げる。


  「止めろ!不謹慎だ!」


  兵士たちにもあまり抗議など言ったことがない義景の言葉に、兵士たちは一斉に顔を義景に向けた。


  言った瞬間、しまった、と思った義景だが、もうどうにもならなかった。


  「おい、何様の心算だ」


  「お前はさっさと部屋に戻れよ」


  踵を返して部屋に戻ろうとしたとき、誰かとドアで肩をぶつけた。


  「おお、悪い悪い」


  「恒楊様!こちらへどうぞ!!」


  本物の恒楊が現れると、兵士たちは顔色を変えて媚びを売る様に周りに群がっていくが、特に嫌そうな顔はしていない。


  取ってきた獲物を見て、恒楊はふんふんと品定めをするように首を眺めた。


  「よくやった。てめーら、酒でも呑め」


  そう言って、恒楊は部屋から出て行く。


  そして、一人部屋に戻って行った義景の後を追って行くが、早歩きで歩いているのか、それともすでに走っているのか、なかなか追いつけなかった。


  「おい、待て待て」


  「何でしょうか」


  「不機嫌だな」


  軽く息を荒げている恒楊とは反対に、義景は全く呼吸を乱していなかった。


  「久々の戦で、正直、お前は使いものならねーと思ってたが、逆だったな」


  「逆、と仰いますと?」


  「あいつらのほうが、鈍ってたってこった」


  クイッと顎を動かして、先程いた部屋を指していたことから、兵士たちのことを言っているのだと分かった。


  自分用にと持っている酒瓶の口を開け、グビグビとラッパ飲みをする恒楊。


  口の端から零れる酒など気にすることもなく、半分以上一気に飲むと、喉を鳴らして笑い出した。


  「戦はいいもんだぜ。なんせ、戦は金が手に入る。兵士の命を犠牲にして金が入るなら、楽なもんだ。なあ、そう思うだろ?」


  「・・・疲れているので、部屋で休みたいのですが」


  「ああ、そうだな。そうだろうな。分かってて引き止めた」


  悪びれた様子もなく、はっきりとそういう恒楊に、多少の苛立ちを覚えそうになるが、分かっていたことだと、諦めるしかなかった。


  「じゃーまっ、ゆっくり休め」


  「失礼します」


  一礼して部屋に帰ると、血塗られた自分の身体を洗い流す為にシャワーを浴びる。


  知っていた。洗っても洗っても、身体に沁みついた血が落ちないことくらい。


  戦から帰ってきた両親や兄も、シャワーを浴びると長い時間出て来なかったことを覚えている。


  身体に沁みついただけではなく、臭いとして鼻にこびりつき、その臭いの記憶は脳に根深く残ることだろう。


  明日も、またその次も、戦にでなければいけない。


  また、人を殺し、殺される兵士を助けることもできず、見殺しにしなければいけない。


  シャワーを浴び終えてベッドに腰掛けていると、ふと、窓の外が気になって、上着を羽織って窓際に立つ。


  戦があったことを知っている大人たちは、兵士たちを、城を、恒楊を、崇めて喜んでいる。


  戦とはどういうものかを分かっていない子供たちに、戦自体が悪いことだとは教えず、戦に勝つことが重要なのだと教える。


  教えるというべきなのか、洗脳しているというべきなのか。


  無垢な子供は大人の言葉を鵜呑みにし、そのまま成長する。


  髪の毛を乾かしてベッドに腰掛ける。


  いつの間にか、部屋に用意されていた水の入った容器と、それを入れるためのコップを手に取り、注いだ。


  一口含んだだけで、身体中に沁み渡る。


  「はあ」


  疲れているのかさえ分からないが、勝利を祝した歓声が、なぜか、義景にとっては煩わしいものだった。


  もっと戦えと言われているようで、まだ戦えと言われているようで、守らなければいけない国民にさえ負の感情が芽生える。


  もう一口水を飲んで、コップをテーブルに戻した。


  横になって身体を休め、しばらく天井を眺めた後、義景はそっと目を閉じた。


  ―早く、夜になればいいのに。


  ―私が逃げれば、迷惑がかかる。


  ―ここで耐えていれば、みなが幸せになれる。








  空には太陽が昇り、大地を照らす。


  「おかわりー」


  「もう終わりよ」


  「えー。まだ食べられるよー」


  「無いんだもん。しょうがないでしょ」


  ブ―ブ―文句を言って、姉の星蘭を睨みつける弟の燈翔。


  先日、真夜中に突然家に来た義景。


  本当の名も過去も、全て話してくれたが、心が満たされてスッキリ出来たはずもなく、星蘭は我儘をいう燈翔を見ていた。


  夜、義景を寝ぼけながらも見ていた燈翔は、翌日、星蘭に義景が帰ってきたんだと言っていた。


  だが、事情を知っている星蘭は、帰ってきたわけではないと何度も言い聞かせたが、燈翔は受け入れようとしなかった。


  小さくため息を吐いて、星蘭は燈翔の顔を覗き込む。


  「ねえ燈翔」


  「なあに?」


  「今日さ、お出かけしない?」


  「いいよ!」


  ご飯を食べ終えると、星蘭と燈翔は持っている洋服の中で一番立派な服を着る。


  星蘭は何やら風呂敷袋に何かを詰めると、それを持って燈翔の手を握り、家を出た。


  まだ少し肌寒い時間ではあったが、燈翔は星蘭の手を払って、元気に掛け走っていたため、注意するようにと伝える。


  太陽が真上に来た頃、まだ目的地まで辿りつかないので、少し休むことにした。


  持ってきたおにぎりを燈翔と分けて、体力が戻るのを待つ。


  待つとはいっても、待っているのは星蘭だけで、燈翔はまだまだ走れるようで、星蘭の回復を待っていた。


  「まだー?」


  まだ二十分も経っていないが、星蘭は仕方なく、まだ疲労が溜まっている身体を動かした。


  やっと辿りついたころには、太陽は跡かたも無く消えており、代わりに、丸い月が笑っていた。


  自分達が住んでいる家よりも大きく、あたりにも幾つも家から漏れる灯りが溢れる場所で、星蘭は安心したように息を吐いた。


  コンコン、と数回ドアを叩くと、すぐに返事が返ってきた。


  「はーい、どなた?」


  初めて聞いたその声にドキドキしていた星蘭だが、燈翔はぼけーっと暗くなっていく空を見ていた。


  ドアを開けて出てきたのは、見たことがあるような、ないような女だった。


  「どちら様?」


  自分よりも背の高い、綺麗な女は、星蘭たちを見て首を傾げる。


  名前を告げようとしたとき、別の声によって遮られた。


  「どうした。誰だ?」


  奥からは、女より少し年上の男が出てきた。


  その男の顔を見た途端、星蘭は思わずホッとしたのか、燈翔の手を離して丁寧にお辞儀をした。


  「もしかして、星蘭か?」


  男の方から名前を言われ、星蘭は首が取れそうになるくらい、ブンブンと首を縦に振り続けた。


  その星蘭の反応に驚きを見せつつも、顔を綻ばせた男は、次に星蘭を見た後、隣にいる燈翔を見る。


「大きくなったな。じゃあそっちの小僧は燈翔か?」


  燈翔は、なぜこの男が自分のことを知っているのか、などという疑問は持たず、コクン、と正直に頷いた。


  男は燈翔と目線を合わせるようにして膝を折ると、ニコリと笑って頭を撫でた。


  気持ちよさそうに、燈翔は目を細めて笑い返す。


  「あら、貴方知り合い?」


  女が男に訊ねると、男は「ああ」と答える。


  「俺の姪と甥だ」


  立ち上がって女に説明をすると、女は星蘭と燈翔をもう一度見る。


  「そうだったの。外は寒いし、中に入って?」


  「ありがとうございます。」


  燈翔は、星蘭よりも先に家の中に無遠慮に入って行き、暖かい暖炉の前を陣取った。


  「燈翔ったら。ごめんなさい」


  両手を暖炉に差し出して、暖かそうにしている燈翔を見て、女は笑う。


  「いいのよ。それより、スープでも用意するから、星蘭ちゃんも座って?」


  フカフカそうなベッドや椅子があるが、どこに座っていいものかと困っている星蘭とは対照に、燈翔は暖炉から移動してきて叔父の膝に座っている。


  足をばたつかせているが、叔父は怒る様子もなく、燈翔の頭をまた撫でる。


  撫でられている燈翔は、ニコニコ笑って首を動かし、叔父の顔を見ては星蘭に自慢するようにフフン、という顔をしている。


  叔父は、大人しく近くにあった椅子に座った星蘭に声をかける。


  「それにしても、星蘭は久しぶりだな。それに燈翔は初めてだ。産まれたってことだけは聞いたが、なかなか会いにいけなかったしな。随分、成長したな。それに、大変だっただろう」


  星蘭と燈翔の両親の死を、報せの手紙で知っている叔父は、親代わりとなって燈翔を育ててきた星蘭を見て優しく微笑んだ。


  その笑顔は、どことなく親に似ていて、星蘭は流れそうになる涙を堪える。


  「はい」


  「わー!!!おいしそー!!!」


  叔母が持ってきたスープを受け取ると、燈翔はズズズ、と音を立てながら一気に飲んだ。


  「燈翔!音を立てないの!」


  「ハハハ。気にするな。好きなように食べればいい」


  パンとおかずも出てきて、ほくほくと湯気を出しながら出てきたところを見ると、わざわざ温め直してくれたのだろう。


  スカスカだったお腹に徐々に溜まってくると、燈翔は次第にウトウトとしだした。


  「燈翔は眠いのか。軽く風呂にでも入れて、寝かせよう」


  「そうね」


  燈翔を簡単に風呂に入れると、叔父たちが使っている大きくてフカフカのベッドに横にした。


  気持ちよさそうにスヤスヤと寝ている燈翔を見届けると、叔父は星蘭のいる部屋に戻ってきた。


  「それで、急にどうしたんだ?」


  パンをちぎって食べている星蘭に、叔父は疑問を投げかけた。


  「星蘭のことだから、何か俺に大事な用があって、ここに来たんだろ?親が死んだときでさえ、俺がそっちに暮らすことを拒んだくらいだ。相当、切羽詰まってるんだろ?」


  二人の様子を見て、叔母はそっと部屋から出て行く。


  口に入っているパンの欠片を飲み終えると、星蘭は真剣な表情で叔父を見る。


  「お願いがあって、きました」


  「何だ?言ってみろ」


  「燈翔のこと、ここで面倒みてもらえませんか?」


  「?それは構わないが、星蘭は?」


  持ってきていた燈翔の荷物を叔父に渡すと、黙ってそれを受け取ってくれた。


  詳しいことを何処まで言おうか迷っていた星蘭だが、叔父は急かせる様子もなく、ただじっと、星蘭が話してくれるのを待っていた。


  「実は・・・・・・」


  知り合った義景のこと、三人でしばらく暮らしていたこと、どういう状況だったか。


  そして、義景が記憶を戻したこと、自分の中で義景はとても大切な人であること。


  義景が恒楊として影武者をしていることは話さなかったが、大方のことは話した。


  それは、きっと叔父が義景に似ていて安心出来たのもあり、約束を守ってくれる人だと信じていることもある。


  「燈翔まで、巻き込みたくないんです」


  「わかった。燈翔のことは心配しなくていい。ところで」


  弱弱しく笑っている星蘭に気付かないほど、鈍い大人はいないだろう。


  「本当のところ、星蘭はどうするつもりなんだ?」


  一人で暮らしていく、と叔父には言った星蘭だが、そのままずっと一人でいるかどうかは、まだ決断出来ないでいた。


  ここに来るときだって、兵士が着いてきていることは分かっていた。


  最悪、叔父にまで迷惑をかけることもあるかもしれないが、自分で解決できることなら、解決したかった。


  「今の星蘭の顔を見てると、お前の母親のことを思い出す」


  「え?」


  「戦に行く数日前、俺んとこにちょっとだけ顔を出しにきた。そんときも、似たような顔してた。で、あいつは死んだ」


  戦で死んだ星蘭の親。何故死んだか、どういう風に死んだか、全く知らない。


  単に巻き込まれたのかと思っていたが、本当のところ、どうなのか。


  「星蘭。まさか、死ぬつもりじゃないよな?」


  一瞬、星蘭の瞳の奥が揺れた。


  「どんなことがあっても、生き抜かなきゃいけない。燈翔には、星蘭が必要だ。二人でこれまで生きてきたんだろ。たった一人の家族だろ。それに・・・」


  「私・・・!!!!」


  叔父の言葉を遮り、星蘭は怒鳴った。


  怒鳴る心算はなかったのだが、高まった気持ちは声を抑えきれなかったようだ。


  「叔父さん、私、足手まといなんて嫌なんです」


  「足手まとい?」


  「あの人が、私がいることで苦しむなら、私は・・・・・・」


  「なら、星蘭もここに住めばいい。そしたら、俺がしっかり守ってやる」


  「分かってないわね」


  二人の会話に割って入ってきたのは、先程、空気を読んで部屋から出て行った叔母だった。


  星蘭の近くに寄ると、そっと肩を包んで、その手を頭まで持っていくと、自分の首あたりに寄りかからせるようにする。


  頭をゆっくり撫でながら、叔父に言う。


  「女っていうのは、誰かのために生きてるの。働いて、料理作って、寝顔見て。大切な誰かを守るための方法は、男とは違うの」


  「だがなあ」


  星蘭の肩をしっかりと抱きながらも、優しい声色で囁いてくれる叔母は、小さいころ感じたことのある温もりと似ていた。


  一人怯え、何かを背負う星蘭の背中に手を当てて、数回ポンポンと叩く。


  「けど、それ以外の方法もあると思うわ」


  星蘭を見てニッコリと微笑む叔母は、綺麗だった。


  叔父と叔母に御礼を言うと、星蘭は燈翔を二人に託した。


  その日は夜遅かったため、叔父の家に泊まることにした。


  大きくてフカフカのベッドに寝ている燈翔の横に寝て、眠れないでずっと目を開けたまま天井を見ていた。


  ギィ、とドアが開いたかと思うと、叔母が星蘭の寝ている隣に身体を横にした。


  叔父は今風呂に入っているようで、まだ星蘭が寝ていないと思った叔母は、まだ身体が温かいうちに寝てしまおうと思ったようだ。


  「寝られない?」


  「ちょっと・・・・・・」


  口あたりまで布団をあげて、寒そうにしている叔母は、天井を見ていた星蘭に話しかけた。


  顔を星蘭の方に向けて様子を見ていると、ぐいっと星蘭の方に身体を持っていき、星蘭の顔をまじまじと見始めた。


  叔母の行動に驚いた星蘭は、ただ目を丸くした。


  「な、何か?」


  「ああ、ごめんね。やっぱり、まだ子供だなあ、と思ったのよ」


  褒められているのか馬鹿にされているのか、判断に困っていた星蘭だが、叔母の表情から察するに、馬鹿にはされていないのだろうと感じた。


  「あなたの御両親が死んだって報せが来た時、あの人ったら、貴方達の親として育てるんだってずっと言ってたのよ?私達には子供がいないし。会おうとも思ったけど、あそこの村はギリギリ廉家の領地内だから。責任、感じてるのよ」


  「責任?」


  「そう。ちょっとした喧嘩がきっかけで、縁を切るんだ―、なんて言って。そのままだって聞いたわ。星蘭ちゃんの小さい頃は知ってたし、良い子だってことも聞いてた。しっかりしてるなー、なんてのんきなこと思ったけど、そうしなくちゃいけない環境だったんだものね。まだ沢山甘えて良い歳なのに」


  初めて会ったとは思えないほど、叔母は星蘭との距離を縮めてきてくれた。


  布団の中でギュッと星蘭の手を握ってくると、叔母は燈翔が起きない程度の音量で、何かの唄を歌い始めた。


  「―小さな腕が掴んだ夢 小さな声が産んだ奇跡


    小さな足が踏んだ大地 小さな空が隠した涙


    貴方と私 二人で歩む 一つの道を 約束を―」


  「それ、何の唄ですか?初めて聞きました」


  「あら、そう?私の国の唄よ。すごく貧しい国でね、みんな明日の食べ物にさえ困ってたの。けどある時、旅の詩人が来て、国に唄を作ってくれたの。それから、なぜか国は栄えるようになったのよ。あ、これは、私の祖母から聞いた話だから、そこは不確かだけどね。でも素敵でしょ?」


  「ええ。とても」


  しばらく、叔母の唄を聞いていたら、だんだん眠たくなってきた。


  スヤスヤと寝息をたてて寝始めた星蘭の寝顔を見て、またもや叔母は楽しそうにニコリと笑う。


  「可愛い寝顔」


  星蘭と燈翔、二人の、まだ幼くいたいけな寝顔を眺めていると、背後から近づいてきた叔父が叔母の頭を軽く叩いた。


  「星蘭がやっと寝つけたんだ。邪魔をするんじゃない」


  「邪魔してないわ。ただ、ここでこうやって、心を許して寝てくれたことが嬉しいの。きっと、ここに来るまでも、精神的に追い詰められていたんでしょうし」


  二人で星蘭の寝顔を見、叔母はそっと髪を撫でた。


翌日朝早く、星蘭はまだ夢の中にいる燈翔を置いて、一人で家に帰って行った。


  「落ち着いたら、また来ると良い」


  「ありがとうございます。よろしくおねがいします」


  きっと、起きたら星蘭はどこだと泣いてしまうかもしれないが、そのときは叔父が上手く言ってくれるだろう。


  星蘭は再び、ほぼ一日かけて家まで帰った。


  どっと疲れた身体を休めるべく、すぐさまベッドに横になって目を瞑るが、耳元には燈翔の声が聞こえる。


  静まり返った家の中は、喪失感で埋め尽くされた。


  少し休んで、星蘭は部屋の本棚の奥に隠してあるものを取りだした。


  両親が死んだと聞かされた時、死亡の通知と一緒に渡された小刀。


  両親が使っていたものかどうかさえ分からないが、それを大事にしまっていた。


  台所から布巾を持ってきて、その小刀を綺麗にしていると、錆びて綻びた個所が、牙を失くした獣のように鋭さを失う。


  小刀を持ってベッドに座ると、星蘭は一人、唄を歌った。


  燈翔が小さいころも、こうやってよく子守唄として歌ったなぁ、と思いながら、星蘭は掠れた声で奏でた。


  空は青くて広く、どこまでも続いているが、同じ空を見ているはずのあの人は、なぜ今ここにいないのだろう。


  歌いながら窓の外を見ると、燈翔と二人でせっせと作った畑が見え、そろそろ収穫出来そうなくらいになった野菜もある。


  燈翔が気に入っていたボールは、叔父の家に燈翔の着替えなどと一緒に置いてきたため、ここには何も無い。


  目を瞑らなくても、情景として浮かんでくる。


  燈翔が走っている、燈翔が転んだ、燈翔が一人で遊んでいる、星蘭を手伝おうと畑に入る、ボールで畑を荒らしてしまう。


  怒ったり笑ったり、思い出は数えきれないほど、星蘭の心の中にある。


  歌い終えた時、星蘭は覚悟を決める。


  窓の外、畑とは反対の方をちらっと見れば、自分を監視している兵士たちが見える。


  何かの機械を持っていて、きっとそれは、義景が下手なことをしたとき、すぐに連絡が入る様になっているのだろう。


  冷たくなっているベッドは、人の温もりを求めているようだ。


  多少の刃毀れはあるものの、まだ刃としての役割は残っている小刀を見て、星蘭はその先端を自分に向ける。


  両手でしっかりと持ち、小刀を逆にしていると、人に向けているのと同じくらいに怖い。


  怖くない、と自分に言い聞かせるが、無意識に震えているのは両手だけではなく、足や目、身体全体だ。


  心臓までもがバクバクと鼓動し出し、この鼓動ももうすぐ止まってしまうのかと思うと、さらに早まる。


  ―あなたの名前を聞けて良かった。


  ―あなたの笑顔を見られて良かった。


  ―あなたが幸せになってくれるなら、それで良かった。


  ―あなたに、出会えて良かった。


  目をギュッと瞑り、自分に向けた刃を思いっきり手前に引いた。


  自分自身で行う行為とはいえ、自分に襲いかかる予想の出来る痛みに、怯みそうにもなったが、勢いよくお腹に届いた。


  浅かったからか、余計に痛みを長引かせてしまいそうだ。


  「ごめんなさい、ごめんなさい」


  親に対してか、義景に対してか、燈翔に対してか、叔父たちに対してか、自分に対してか。


  誰かに届けばいいと思っても届かない言葉は、痛みとともに星蘭の中を疼き続け、流れ出る血は手を赤く染めた。


  「痛い・・・痛いよお」


  身体が痛いが、心も痛い。


  ベッドに身体を横たわらせ、自分の身体から流れる血液を見て泣いた。


  「ごめん、なさい」


  ―これ以外の方法、私には見つけられませんでした。


  自分がずっと生きていれば、義景はその分、ずっと廉家に捕えられてしまうことになり、逃げたい時に逃げられない。


  そんな足枷になってしまうのは、自分で自分が赦せない。


  星蘭は、目を閉じた。


  閉じた目からは涙が出て、頬には涙の筋が伝う。


  ―燈翔、ごめんね。


  ―叔父さん、叔母さん、ごめんなさい。


  ―お母さん、お父さん、ごめんなさい。


  ―一つだけ我儘が言えるのなら、最期にもう一度だけ、貴方に会いたかった。


  瞼の裏に浮かぶ、あの優しい顔を焼きつけたまま、


  「ありがとう」


  か細い言葉は、消えた。








  翌日、朝起きるとまだ太陽が昇る前だった。


  寝たには寝たが、身体に残っている疲労は気だるさだけを感じさせる。


  だが、こんな朝早いのにも係わらず、何やら外では人の声が聞こえてくる。


  何だろうと、のっそり上半身を起こし、その後足を動かしてなんとか窓の近くまで来たとき、声の正体が分かった。


  以前見た少女が、街の大人に掴まっていたのだ。


  きっと、何か盗んだのか、それとも何かしてしまったところを見つかり、大の大人が寄ってたかって少女を取り囲んでいる。


  声に気付いて家から出てきた他の大人達は、少女に気付いていながらも、誰一人、助けようとはしない。


  少女はそんな中にも、怯えた顔ひとつ見せず、大人達を睨みつけている。


  その目つきが気に障ったのか、囲んでいた大人のうちの一人が、少女の頬か頭あたりを激しく叩いた。


  力の差は歴然で、少女は地面にドサッと倒れてしまった。


  一人の大人が、倒れた少女に対して蹴り始めると、周りの大人たちも一斉に少女に向かって暴力を振るう。


  窓を開けると、少しだが、声が聞こえてくる。


  「このガキ、どうする」


  「もっと痛めつけてやろう」


  「いや、売って金にしよう」


  「こんなガキ、売れるもんか」


  大体、そういう内容だった。


  何度も何度も叩かれ、少女は立ち上がる力さえ無くなってきたようだ。


  男が少女に跨り、最後の一発とばかりに腕を大きく振りかぶったとき、義景は思わず声を出しそうになった。


  しかし、その前に男の動きを制止する影が現れた。


  フードを被った全身茶色の布に身を包んだ男は、男の腕を掴んで家の壁に叩きつける。


  大人たちは一斉に男に襲いかかろうとするが、関わってはいけない男であることに気付くと、みな一定の距離を保つ。


  「あの男」


  男が少女の前に立っている間に、少女は家と家の隙間を駆け抜けて逃げて行った。


  あの男は、人助けをしたわけではないようで、大人たちに囲まれながらも何か言っていた。


  大人たちは顔を青くし、パラパラと帰って行くのが見え、義景はホッと胸をなでおろしていると、男と目が合う。


  「!」


  男は義景に気付いていたのか、義景を見るとすぐに目線を逸らして、どこかへと行ってしまった。


  それからも、義景は戦に何度も出る。


  一方、城からあまり出ることはない恒楊は、女性たちには目もくれず、珍しく城から出かけた。


  義景が戦に出ているときに何処に行くのかと思えば、あの男のところだった。


  薄暗い路地を歩いて行き、以前はすぐに見つかった男だったが、今回は簡単に見つけられない。


  だが、人通りが少ないところを歩いて行けば、そこに、顔も身体も全身隠した目当ての男が座っていた。


  「よう」


  男はまたしても無言。


  首を動かして肩を震わせ笑う恒楊は、前回のように怒ることはなく、両膝を曲げて男を見上げる。


  挑発するように歯を見せてニヤけるが、男は目を瞑っている。


  「俺の心臓、てめえに渡さなくても、欲しいもんは手に入った」


  「そうですか。それは何よりですね」


  「馬鹿にしてんのか」


  「滅相も無い」


  男が一向に目を開かず、自分の事さえ見ようとしていないことに、多少の苛立ちを覚えた恒楊は、小さく舌打ちをする。


  話を早々に切り上げて、さっさと城に戻ろうとした恒楊だったが、男の視線を感じた。


  ふと後ろを振り返ると、男の赤い目がちらりと見える。


  「五体満足で産まれてもなお、人は不幸だという。五体不満足で産まれるとなぜか、人は幸福だと言う」


  「ああ?」


  「独り事です。探し物が見つかったのなら、なぜ私のところへ?」


  男は再び目を閉じると、気配だけで恒楊を見ているようだ。


  「もしかして、あいつがここの来たかと思ってな」


  「あいつとは?」


  「まあいい。ああそうだ。俺に対してのてめえの無礼、忘れてやる。俺は今、気分が良い」


  「そうですか。ありがとうございます」


  「もし、あいつが此処に来て、何かと引き換えに自由だのなんだの求めてきても、手助けするなよ。あいつが俺から逃げることは、出来ねえ」


  用事が終わった恒楊は、男に言葉を吐くだけ吐き、背中を向けた。


  男のもとから去っていく途中、道端でお腹あたりまでしかない背丈の小さな男の子とぶつかった。


  「坊主、あぶねえぞ。もし俺に汚れでもついたら、殺すところだ」


  恒楊の言葉が聞こえているはずなのだが、男の子は恒楊を見てもニコニコ笑っているだけ。


  相手にしないほうがいいと、恒楊は城に戻る。


  城に戻ると、一人の兵士が慌ただしく恒楊のもとに走ってきて、はあはあ、と息を切らせて立膝をする。


  「なんだ、どうした。騒がしい奴だな」


  「こ、恒楊様・・・!!お知らせしたいことが!!」


  「あ?」


  兵士の口から出てきた言葉に、恒楊は一瞬顔を顰めたが、すぐにニヤリと嗤った。


  「ああ、そうか。わかった」


  手で兵士を払う様にシッシッとすると、兵士は一礼をして足早に去って行った。


  部屋に戻ると、恒楊の帰りを待っていた女たちがすぐに駆け寄っていて、首に巻きついたり、腰に抱きついた。


  いつもなら、少しは邪魔そうにする恒楊だが、今は違った。


  その日の夜、恒楊は出来る限り人を呼び寄せて、城で一番大きな部屋に集めた。


  ここ数年、いや、もっとだろうか、使われていなかった客人用のパーティールームだが、こまめに掃除をしていたからか、思ったよりも綺麗なままだった。


  そこで、御馳走や酒を用意できるだけ用意し、宴を始めた。


  数時間後には、戦から帰ってきた兵士たちも合流すると、恒楊はその中に義景の姿がないことに気付く。


  使用人に義景の様子を見てこいと言うと、しばらくして、義景を連れて戻ってきた。


  「何かありましたか」


  「別に。急に宴会したくなっただけだが」


  「・・・そうですか」


  そもそもなぜ自分が呼ばれたのかを聞こうと思っていた義景だったが、恒楊のペースに丸めこまれ、聞くことが出来なかった。


  強引に席に座らされ、酒が注がれたコップを渡された。


  恒楊は女たちのいる場所にずっといたため、義景と直接話すことはほとんどなかった。


  こんな人混みの中にいても、常に感じてしまう孤独感や疎外感は、義景にとっては安心するものでもある。


  宴会は朝まで続き、昼、また夜、次の朝、と続いた。


  義景は、すぐに退出して部屋に戻っていたが、それに気付いた者はいたのか、不明だ。


  「また戦があるっているのに」


  呑気と言うか、余裕というか、もしくは油断か。


  敵が多い廉家だが、こうも戦が続くとなると、国民達にも被害が及ばないとは限らない。


  あまりにも横暴で自己中心的、暴君と呼ばれ続けることが継承とも言える廉家は、きっと何年後も、年十年後も、戦をしているだろう。


  義景が戻ったあとも宴会をしていた恒楊は、酒のおかわりをする。


  「おい、まだ足りねーぞ。誰か酒持ってこい」


  「保存庫にはもうありません」


  「なら、街の酒場から持ってこい」


  「もう店は閉まっています」


  「起こせ。抵抗するなら殺せ」


  兵士は恒楊の命令を聞くと、すぐに部屋を出て城から出て行き、街の中にある酒屋や酒場から、酒を全部持ってきた。


  途中、起きない国民もいたのか、発砲した音も聞こえた。








  一ヶ月後


  「そろそろ、戦の無い時代になんねーもんかな」


  自ら戦になるようなことをしておきながら、恒楊はのうのうと言っていた。


  テーブルの上に乗っている花柄の皿に、鶏肉を焼き、その上に何かのソースをかけて、周りにもフルーツが添えてあるものがある。


  メインの肉には手をつけず、周りにあるラズベリーやブルーベリーを手でつまんで口に運ぶ。


  「あ、そうだ」


  ふと思い出したように、恒楊は椅子から立ち上がると、どこかに向かおうとする。


  口に食べ物を含んだまま、兵士の声を聞かずに向かった先は、城の一角にある狭い部屋だった。


  ノックもせずに部屋のドアを開けると、中で無防備に欠伸をしていた男は、大きく口を開けた状態で止まってしまった。


  「よお、俺。これからまた戦か」


  「恒楊様でしたか。失礼しました」


  「特に用はねえんだけど。いや、あるんだ」


  要領を得ない恒楊の話を、嫌な顔ひとつせずに聞いている。


  「正直、自分に似た奴が存在してるってのは、嫌なことだ」


  思いがけない恒楊の言葉に、義景は目を大きくして驚きを表現すると、恒楊はゲラゲラと嗤った。


  「お前もそうだろ?何が楽しくて、自分と同じ顔の奴と生活しなくちゃいけねーんだよ。


俺の場合、俺の代わりっていう利点があるが、お前はない。俺達のことを殺したいと思ったこともあるだろ」


  「いえ、そんなことは」


  「今更嘘言うな。双子は本当は互いをライバル視してるっていうが、それはどうだか知らねーけど、少なくとも、俺はお前が嫌いだ。顔も声も身長も体格も髪も瞳も同じなのに、性格が違いすぎる。お前の存在を知ってる奴は、俺達が並んでたらすぐに見分けがつくだろうな。それが鼻につくんだよ」


  一方的に話をしに来て、勝手に嫌いだと言われ、義景はどういう顔をすれば良いのか迷っていた。


  太陽を背にしている恒楊の顔は影になってしまい、よく見えない。


  「だがまあ、ここまで来たからには、生涯ずっと俺の代わりになってもらわねーとな」


  声色だけから感じ取った感情は、怒りよりも嫌悪感。


  窓際から腰をあげて立ち上がると、義景の横を通り過ぎて行った。


  「ああ、あとな、お前の分の酒残ってるから、あとで取りに来いよ」


  「わざわざありがとうございます」


  部屋を出て行く恒楊は、いつもとは違う空気を身に纏っていたが、それには気付かないふりをした。


  しばらくして、義景は部屋を出て恒楊の言っていた酒を貰いに行く。


  決して、酒が好きで飲みたいわけでもないのだが、そのままにしておくと、恒楊がまた部屋に来る可能性が高いからだ。


  小さめにノックをして入るが、そこにはもう誰もいなく、酒瓶が幾つかあるだけだった。


  その中でも酒が一番少ない瓶を持って、すぐに部屋を出た。


  廊下を歩いて帰っている途中、兵士たちの会話が聞こえた。


  立ち聞きをする心算など毛頭なかったのだが、兵士たちは大きな声で話をしていたため、ドア越しでも充分に聞こえてしまった。


  「それにしても、健気だねえ」


  「自害って、あの歳で考えることかあ?馬鹿なんじゃねえの?」


  「しかも、涙流して死んでたってよ」


  「マジかよ!?それも全部、あの影武者の為にってか?」


  「泣かせるねー」


  ハハハハ、と卑下た男たちの笑い声が耳に響く中、義景の意識は内容に向いていた。


  “影武者”というキーワードに当てはまるのは、この城には自分しかいなく、まさか、という気持ちとともに、不安が一気に押し寄せた。


  手に酒瓶を持ったまま、義景は走った。


  最初は自分の部屋に戻ろうとしていたが、途中で足を止め、行き先を変更した。


  疲れたために息切れをしているわけではなく、無意識に早まった鼓動によって、それは引き起こされている。


  酒瓶を持っている手に力を入れ、逆の方の手でドアを叩く。


  中からは返事が返って来なかったが、義景はここにいると確信し、「失礼します」と一応断って入った。


  開けると、そこにはやはり、女に囲まれている恒楊がいた。


  「返事を聞かないで入るとは、俺に似てきたか」


  「お聞きしたい事があります」


  「今、取り込み中だ。後にしろ」


  「今聞かなければ、戦に支障をきたす恐れがあります」


  両手に華状態の恒楊は、隣にいる女たちにニコッと笑いかけると、義景には顔を動かして座る様に伝える。


  はあ、とわざと義景にも聞こえるようにため息を吐く。


  女たちは、今自分の肩を抱いている恒楊とは違く、誠実そうな義景を興味深そうに見ている。


  「で、なんだ」


  「兵士たちの話を聞いてしまいました」


  「話?何のだ?」


  持っていた酒を床に置き、手を膝の上に乗せる。


  「その、娘が、死んだと」


  「娘え?」


  はて、何のことか、と首を捻った恒楊だったがその答えはすぐに見つかったようで、首を元に戻した。


  「ああ、あの娘のことか」


  なぜか満面の笑みを浮かべている恒楊に、義景は娘が死んだ経緯を問う。


  「聞いてどうする。生き返るわけじゃああるまいに」


  視線を恒楊から外して床を見ていると、さっさと部屋から追い出したいのか、恒楊は話し出してくれた。


  「自害だ。錆びた刀で腹斬ってた」


  「弟がいたはずですが」


  「いなかったってよ。一回、隣国に行ったらしいから、そこの知り合いのとこにでもいるんじゃねえのか」


  「なぜ自害など」


  「俺が知るか。死んだ本人に聞け」


  その後の恒楊の声など、話など全く耳には入らなかった義景は、気付いたら自分の部屋に戻っていた。


  雨が降り出した。


  空が暗くなってきたと思ったが、突如雨が降り始め、開けっぱなしになっていた窓を閉めると、しばらく外を眺めていた。


  ―星蘭が、死んだ。


  ―燈翔は?生きてる?


  星蘭が自害した理由を自分なりに考えてみた義景だが、ふと、一つの仮説が浮かぶ。


  もしかしたら、自分が二人を傷つけまいと城に来たのと同じように、弱点とも言える自分をどうにかしようとしたのでは、と。


  星蘭の性格からすると、きっと燈翔まで道連れにするとは考えにくい。


  誰かに燈翔を頼み、自分は・・・・・・。


  「ああ・・・・・・」


  顔を下に向けて、掌で顔を覆うと、隠そうとも思っていなかった涙が流れてきた。


  自分は一体何のためにここに戻ってきて、何のためにここを守っているのかと、義景の手は悔しさからか、震えた。


  少しの間、鳴き声は部屋だけに響き、降っている雨によって掻き消されていた。


  だが、ギィ、というドアの開く音とともに、今は見たくない、見たくなくても嫌でも見えてしまう顔が現れた。


  その顔には、まるで何かの勝負に勝ったときのような笑みがあった。


  「これで、本当に逃げ場はなくなったな」


  「もとから、逃げる心算はありません」


  「お前は、あいつらを自分から遠ざけるために、あいつらは、お前を自由にするために。なんとも美しい人間関係を構築してきたもんだ」


  目を瞑り、怒りを覚える恒楊の言葉を聞き流そうとする。


  「だが、もしこれでお前が馬鹿な真似すれば、あの娘の死は無駄になる。だろ?なら、お前は一生、ここで俺の身代りになるしかねーんだよ」


  嘲笑し、部屋を後にした恒楊には手が出せず、義景は窓際の壁に思いっきり拳をぶつけた。


  ビリビリとした痺れる感覚がしたが、それでも心の中の黒いものは消えることはなく、何度も何度もぶつけた。


  ついには血が出てきてしまったが、それにさえ気付いていない。


  崩れ落ち、膝をついて泣こうとしたが、頭の中は次第に冷静さを取り戻していて、涙は枯れていた。


  その半月後、戦の連絡があった。


  義景は、戦に行く前日に、何一つ変わってはいない街を眺める。


  部屋に籠ってベッドの横になってボーッとしていると、またあの唄が頭の中を流れる。


  ただ、天井を眺めて、歌った。


  誰が作ったのかも分からないような唄が、こうして何世代にも渡って伝わっているということは、とても不思議だ。


  だが、この唄を作った者は、きっと、自分の生きた時代を嘆き、一方で、誇っていたことだろう。


  忠誠心など、とうの昔に捨てたと思っていたが、ここに留まっている理由は決してそれだけではなかったのだ。


  少しの孤独感から逃れるため。


  「月が、綺麗だ」








  翌日、戦に出発する。


  「あいつの様子はどうだ?」


  「至って普通かと。逃げる様子もありません」


  「逃げねぇとは思うが、万が一のこともある。ちゃんと見張っておけよ」


  「承知しました」


  未だ、義景が逃亡しないかと疑っている恒楊は、数人の兵士に見張りをさせ、監視させていた。


  馬に跨ると、義景はちらっと恒楊を見た。


  珍しく自分を見てきたと、恒楊は一瞬ごくっと唾を飲むが、すぐに義景が視線を外したため、気のせいだったかと息を吐く。


  馬を走らせて出陣したのを見届けると、兵士が恒楊にワインを運んできた。


  いつもであれば、そのワインを満足そうに口を歪ませて飲み干す恒楊だが、今日はワインを床に落とした。


  ガシャン、と音を立てて割れた破片を踏みつけ、部屋に戻る。


  戦場に着くと、いつも通りの作戦を立て、兵士たちは分かれる。


  剣を抜き、先陣を切って走り出した義景の後に続く兵士たちは、弓を持って、銃を持って。


  「廉家を潰せー!!!」


  「歴史に終止符を打つんだ!!!!」


  「殺せー!!!!」


  「廉恒楊を殺せ――――――――!!!!!!」


  ダダダダ、と馬が走る度に地響きが鳴り、その揺れにももう慣れた。


  キン、キン、と金属が重なる音があちらこちらで聞こえてきて、また、銃声も空に響き渡る。


  その音に驚いた鳥たちは、バサバサと翼を動かして逃げて行き、流れ弾に当たった動物は倒れて行く。


  慣れとは怖いもので、昔はそういった場面に遭遇すると、そちらに気を取られてしまっていたが、今はあまりない。


  敵を斬って行き、殺し、敵の陣地に入ると、さすがに慌て始めたようだ。


  頭でもある男を掴み、作業のように首を斬ると、敵に見せて敗北を認めさせる。


  毎回同じ行動をするため、義景は馬から下りて男に近づいて行き、首を斬る為に兵士に男を押さえさせる。


  男はもはや諦めたようで、目を瞑って口を噤んでいる。


  「何か、言い残すことはあるか」


  そう訊ねてみても、男は義景を睨みつけ、何も言わずにまた目を瞑ってしまった。


  「家族や知り合いに、何か伝えることがあるか」


  「無い」


  「無いのか」


  「戦場に来る以上、命は保証出来ん。毎回、最後の言葉を交わしてくる」


  「何て言うんだ」


  「早く斬れ」


  「何て言うんだ」


  肩膝を地面につけて、男と目線を合わせ、強引に聞くというよりは、興味から聞きたいという様子だ。


  そんな義景を見て、男は不思議そうな顔をする。


  「変わった奴だな」


  「正直、私にはそういう言葉を交わす相手もいない。どういう言葉を交わすのか、知りたいんだ」


  目をキラキラさせていう義景に、男は観念した。


  「『行ってくる』、それだけだ」


  「それだけか。それが最後の言葉なのか」


  「行ってくると言った以上、帰らねばならない。それが、戦いに出て、生きて帰る男の役目だ」


  「そうか」


  男と話しをしていると、途中、兵士に早く首を斬る様に急かされた。


  義景は腰をあげて男の首に剣を当てると、少しも動かず、震えることもない男の姿に、父親の背中を重ねた。


  「すまない」


  言い終えるかまだ言い終えないかくらいで、男の首を斬った。


  分かってはいたが、人間の身体から出てくる血液の量は半端じゃ無く、あっという間に義景の身体を赤で染めた。


  男の首を兵士に託すと、義景は自分の身体に着いた臭いを嗅いだ。


  敵の兵士たちは、首だけになった男を見て膝から崩れていき、地面に拳を叩きつけている者もいた。


  そしてそのまままた馬に跨って帰ろうとしたとき、背中に違和感を覚える。


  何だろうと、義景はゆっくり後ろを振り返ると、そこには自分の背中に抱きつくくらい近くにいる、少年がいた。


  きっと、戦場の近くに住んでいる少年なのだろう。


  少年が背中から離れたあと、自分の身体から力がぬけていく感覚に気付き、同時に、激痛を感じた。


  背中に手を当ててみると、手にはどろりとした感触がある。


  ゆっくり少年を見てみると、手には家で使っているのであろう包丁が握られていた。


  そして、その包丁には真っ赤に染まった何かがついていて、それが自分の血だと気付くのに、そう時間はかからなかった。


  「くっ・・・!!!!」


  「と、父ちゃんのかたきだ!」


  もう一度義景に包丁の切っ先を向け、今度は顔目掛けて振りかぶってきたが、それは兵士によって遮られた。


  少年はすぐに捕まったが、傷は奥深くまで刺さってしまっているようだ。


  「はあ・・・はあ・・・」


  足にも力が入らず、徐々に視界もちらついてくる。


  ―これが、死ぬと言う事か。


  いつか死ぬと覚悟はしていたし、それが近づいていることもなんとなく分かっていたのだが、そう簡単には受け入れられない。


  「おい、早く城に連れて行くぞ」


  「もしこれで死んだりしたら、また恒楊様の機嫌が悪くなるぞ」


  「早く運べ」


  兵士数人によって城まで運ばれる事になった義景だが、城に着くまえに、意識が無くなった。


  「逃げたことにしないか?」


  「そうだな。また勝手に逃げたことにしよう」


  「俺達にとばっちりは来ないことを願って」


  「そうとなれば、早く処分だ」


  兵士たちの言葉など、今の義景には聞こえるはずはなく、義景の身体から流れ出る血は、地面を黒く染めて行った。


  兵士たちは、義景の身体を、町はずれの誰も来ないような場所に置いた。


  「顔、ばれたらまずいぞ」


  「平気だ。この辺はハゲタカが多い。すぐに喰ってくれるさ」


  そんな会話のあと、兵士たちは敵の男の首だけを土産に、城へと戻って行った。


  「何?また逃げただと?」


  「はい。気付いたときにはすでに姿がなく」


  「てめえら、俺に嘘ついて良いと思ってんのか」


  「え?」


  思い切りグーで殴られ、しかも、恒楊には珍しく本気で殴ったようで、ガタイのいい兵士でさえも壁まで飛ばされた。


  「あいつはもう逃げねぇ。なんでいねえんだ?」


  今にも噛みつきそうな猛犬に、兵士たちは声が出なくなった。








  「・・・・・・」


  義景の身体に近寄ってきたのは、死者を喰らうハゲタカではなく、一人の男だった。


  肩膝をつけて義景を見、身体から血が流れていることなどから状況を理解し、義景の身体をかついでいく。


  土のある場所まで来ると、そこに大きな穴を掘った。


  赤い目の男は、義景の身体を抱えると、その穴の中に入れ、上から丁寧に土を盛っていった。


  そこら辺に咲いていた花を摘んでくると、その土の上に花を添え、両手を合わせた。


  「なんとも、神は冷酷だな」


  立ち上がってその場から去っていく。


  とある場所では、こんなことがあった。


  「ねえおじちゃん、おねえちゃんは?」


  「ちょっと、お出かけしてるんだよ。もう少ししたら、きっとまた会えるよ。それまで、ここで良い子しててくれるかい?」


  「うん!おねえちゃん、帰ってくるんだよね?」


  「ああ」


  現実を知っている者、現実を知らない者、事実を隠すもの、事実を知ろうとする者。


  歴史の裏の真実は決して表に出ることはなく、それを知ろうとすれば、さらに闇は深まるばかり。


  赤い目の男がいつもの場所に座っていると、道を歩いてきた少年が、唄を歌っていた。


  その少年が過ぎ去ってからすぐ、別の男が来た。


  「おい、てめえ」


  「・・・・・・」


  三度目の男に、目を瞑って見ないようにする。


  「てめえ、あいつの居場所知ってるか?知ってるから吐け」


  「なんのことだか、わかりませんが」


  寝ているようにも見える男の姿に、大きく舌打ちをし、持っている苛立ちを全部近くの壁にぶつけた。


  「俺の城の兵士が、あいつをこの近くに捨てたと言った。だが、どこにも見当たらねえ。まさか、死んだふりして逃げたか?そう思ったが、あいつはそんなことはしねえ。本当に死んだならそれでいい。死体はどこだ?」


  「仮に、その場所を知っていたとして、どうするつもりですか」


  男は、不気味に嗤った。


  「噂でよ、どっかの国の研究者が、死体を動かす薬を作ったんだってよ。それ手に入れて、あいつをまた俺の影武者として生き返らせるんだ」


  男の発言に、呆れたようにため息をつけば、また機嫌を悪くする男。


  「もう、楽にしてやれ」


  「ああ?」


  「あの男は、お前の影武者として生きてきた。もう、それを終わりにしてやってもいいはずだ」


  「いいわけねえだろ。俺の影武者は、あいつにしか出来ねえんだよ」


  「死んでからくらい、あいつのままにしれやれ。お前もそんなくだらない噂で、あいつをいたぶるな」


  「ちっ。どいつもこいつも俺に刃向かいやがって」


  苛立たしげに足を小刻みに動かした男は、立ち去り際、こう言った。


  「お前が場所を吐かねーなら、ここらへんを、いや、国中ひっくり返してでも見つけ出してやるぜ」


  背中を向けて立ち去っていく男の姿は、確かにあの男と同じものなのだが、完全に何かが違う。


  背負っているものか、持っているものか、何もかもが違うのだろう。


  「おねえちゃんは、いつ帰ってくるのかなー」


  少年は、嘘とも知らない大人の優しい嘘で、見ることも出来ない未来を想像し、


  「大きくなったら、兵隊さんになって、悪い奴をやっつける!」


  少年は、汚れを知らない瞳で現実を見て、明るく平和な世界を創造するだろう。


  時には感情に流されて間違いを犯すこともあるだろうが、真っ直ぐに育った少年の心は、汚い世界を知っている大人たちには眩しい。


  「てめーら、何が何でもあいつの身体をみつけろ。死んだなんて許さねえ。死んでもコキ使ってやる」


  男は私利私欲に勤しみ、ただ命を弄ぶ。


  命の駆け引きさえ出来ないのは、無垢なのか、それとも無能なのか。


  路地裏で一人、佇んでいる男は、そこに座っていながらも、国全体の未来を見据え、黙る。


  黙したまま、男は何も語らないが、それでも月日は流れて行く。








  ―どうして私が産まれてきたのか、その理由が分かった気がする。


   私は、貴方に会う為に産まれてきて、生きてきたのでしょう。


   信じられないかもしれませんが、きっと、それが私の意味。


   全部が嘘で固められた私を愛してくれて、ありがとう。


   何も幸せじゃなかったなんて、そんなのは嘘です。


   産まれてきたこと、家族に出会えたこと、貴方に出会えたこと。


   話せること、聞けること、見えること、走れること、物をつかめること。


   空が青く、海が広く、雲は白く、雨は冷たいこと。


   当たり前に感じてきたこと、全てが幸せなことだった。


   産まれてきた環境を何度恨んだかなど、覚えていません。


   それでも、最期、浮かんだのが貴方の顔で良かった。


   私は、幸せだ・・・・・・―








  誰にも聴かれない小さな唄は、紡がれ続ける。


  それが例え、どんな時代であっても。






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