第2話太陽と月






シャドウ・ライト

太陽と月




正しい判断力の持ち主は、太陽の持つ輝きはなくとも、星のように不動である。   


フェルナン・カバリェーロ




































   第二章 【 太陽と月 】


























  「母上、僕の弟?」


  「そうよ。見て、とっても可愛いでしょう」


  「ちっちゃいね」


  「劉圭も、こうだったのよ?」


  「僕はこんなにちっちゃくないよ!」


  まだ少し肌寒い満月の夜、ひとつの命が地上に舞い降りた。


  天使にしては未熟だが、お腹を痛めて産んだ母親にとっては、天使と大差ないほど、輝いていた。


  「どれ」


  ひょっこりと顔を出してきたのは、父親だ。


  母親の腕の中にすっぽり収まっている小さな生命に、思わず顔を綻ばす。


  しばらくは、その中心にいる赤子を見て微笑んでいた母親と父親だったが、ふと、父親が真剣な表情に変わる。


  劉圭が、赤子を笑わせようと色々と顔を変えてみると、キャッキャと笑った。


  それも愛おしく、大事に大事に抱きしめていた。


  「そろそろだ」


  「・・・・・・そうね」


  「何が?」


  父親の一言で、母親の顔色が一変した。


  何を言っているのか理解できない劉圭は、首を傾げて二人の顔を交互に見た。


  コンコン、と部屋をノックする音が響き渡ると、母親はより一層悲しげな表情を浮かべる。


  父親が部屋のドアを開けて誰かと少し話をすると、その誰かは部屋の中に入ってきて、母親と劉圭の方に近づいてきた。


  母親の前でピタリと足を止めると、何かを催促するようにじっと見下ろしていた。


  「早くしろ」


  「もう少しだけ」


  「諦めろ」


  「あっ!!」


  腕の中で笑っていた弟も、急に知らない怖い男の腕に移動したからか、ワンワンと泣き出してしまった。


  「まったく。これだから、ガキは嫌いだ」


  僅かな力でも、必死に男から逃れようと抵抗している。


  「止めろよ!離せ!!!」


  「劉圭!」


  男に向かっていき、足下をポカポカ叩いたり蹴ったりしている劉圭を、母親は後ろから抱きしめて止める。


  果敢にも、自分に向かってきた小さい反逆者を見下ろした男は、名前を聞いて「ああ」と声を漏らした。


  「確かに、尤楼様に似てるな。同じだ。この技術には、いつ見ても驚かされる。しかし、お前等も可哀そうな奴らだな。自分の両親の本当の顔を知らない、自分の本当の顔も知らないで、生きてるんだからな。ま、知らないってことは幸せなことかもな」


  「?」


  「止めてください!」


  劉圭は、男が何を言っているのか分からなかったが、母親と父親は分かったようで、男を睨みつけていた。


  男は弟を連れて、部屋を出て行ってしまった。


  「どこに行っちゃったの?戻ってくる?」


  「・・・ええ。すぐに戻ってくるわ。それまで、待ってましょうね」


  数日間、弟は戻って来なかった。


  来る日も来る日も「今日は?今日は?」と聞いてくる劉圭に、ただ「そうね」という曖昧な返事しか出来ない母親。


  弟が男に連れられて戻ってきた日、劉圭はとても喜んだ。


  やっと戻ってきた弟だったが、どこか違和感を覚えてじーっと観察をしてみるが、わからない。


  気のせいかと、劉圭は弟の面倒を良く見て、可愛がった。








  「義景、もっと背筋を伸ばすんだ」


  「嫌だ―!!」


  「じっとするんだ」


  「嫌だー!!」


  「食事にするぞ」


  「嫌・・・食べる食べる!」


  あれから数年後、劉圭は弟の義景と日々を過ごしていた。


  両親は何かしなければいけないことがあるようで、二人を残してどこかへ行ってしまっていた。


  その間、劉圭は義景にしっかりと教えなければと、両親から教えられたことを、今度は自分が教えていた。


  しかし、義景はどうにも遊び足りないようで、なかなか言う事を聞かない。


  よく喧嘩もしているが、仲が良かった。


  「ねえねえ、なんで僕たちは、こんな屋根裏の小さい部屋に住んでるの?」


  ふと、義景が劉圭に聞いてきた。


  「僕ね、見たことあるよ。外の世界はとっても広くて、こんな狭いところで生活してないんだよ?海っていう水が沢山あるとことか、山っていう木が沢山あるとことか、人だって沢山いるんだよ!僕、ここから出てみたい!!!」


  「義景、本を読んだのか?」


  「うん!」


  劉圭の言う本というのは、小さい劉圭や義景が退屈だからと部屋から出ないように、部屋に置いてある幾つもの絵本である。


  どれもこれも作り話の本であって、劉圭はあまり信じていなかった。


  一方の義景は、目を輝かせて絵本を取ってきて、「見て!」とそのページを開いた。


  確かに、そこには海に囲まれた島や山に住んでいる動物、家が沢山建ち並ぶ街という場所が描かれていた。


  「義景、これは本の中の世界だ」


  「違うよ!本当に、こういう世界があるんだよ!!!」


  二人とも、部屋から出たことはなかった。


  両親にも出るなと言われているし、部屋の外には監視している男が数人立っているため、自由に動けない。


  出てみたかったが、出られなかった。


  その日の夜、両親が帰ってきた。


  パタン、と二人を起こさないようにと静かに閉められたドアだったが、劉圭は目をパッと開いた。


  ドアに背を向けるようにして寝ていた身体を反転させ、帰ってきたのであろう両親の方へと顔を向けた。


  すると、そこには怪我をした父親の姿と、父親の怪我の治療を始めようとしている母親がいた。


  父親の身体はお腹あたりから何かが垂れていて、痛そうに手で押さえていた。


  棚の上にあった箱を取り出すと、母親は何かで父親のお腹を巻き始めた。


  ああ、血を止血しているんだと、子供ながらにすぐに理解できた。


  「劉圭も、そろそろ戦に出る機会があるだろう。ちゃんと説明しておかないとな」


  「わかってるわ。けど、まだ子供よ?」


  「そんなこと、俺だって分かってる。でも、それが通る相手じゃないだろう」


  月明かりにちらっと見えた母親の顔は、見たこともないほどに悲しそうだった。


  劉圭は、また身体を反転させて両親に背を向けると、そっと目を閉じた。






  翌日、起きてみると父親も母親もいつも通りだった。


  「劉圭、どうした。そんな顔して」


  「あら、本当」


  クスクス笑う母親と、すでに起きて父親と遊んでいる義景。


  昨日はあれほど痛そうにしていたのに、父親はそこを義景に叩かれても、ニコニコ笑っていた。


  そんな日がしばらく続いて、その夜のことを忘れかけていたころ。


  義景が寝て、劉圭も寝ようかと準備をしていたとき、父親に声をかけられた。


  「劉圭、少しいいか」


  「?はい」


  いつになく真面目な父親に、劉圭は一瞬息を飲んでしまうが、部屋の片隅の椅子に向かい合う様に座った。


  「劉圭、大きくなったな」


  すでにこの世で呼吸を始めてから六年。


  「いずれ義景にも話さねばならないことだが、先に劉圭に話しておく」


  「はい」


  父親の後ろには、目を伏せている母親がいる。


  唇を噛みしめて、じっとしていた。


  「我等一族は、影武者として存在している」


  「影武者?身代り、ということですか」


  「まあそうだ。代々、薗家は廉家の影武者として生きている。俺達も、劉圭も義景も、顔は産まれてすぐに、身代りと成り得る廉家の者の顔に変えられる。義景が産まれて間もないころ、連れていかれたことを覚えているな」


  「はい」


  「詳しいことは分からないが、骨格も顔も声帯も、そのときに変えてしまう技術があるという。産まれてすぐ、自分じゃなくなるんだ」


  「なぜですか?そこまでして、廉家を守らねばならないということですか?そこまで守る価値がある家なのですか?」


  「劉圭、それは言ってはならない。例え守る価値が無いと思っても、命をかけなければならない。それが使命だ」


  「使命なんて言葉で納得できない!それじゃあなんのために産まれてきたのか、分からない!!」


  「劉圭」


  「父上が怪我をする。母上が悲しそうな顔をする。そんなの、もう見たくないよ!!ただ、普通に暮らしたいだけなんだ!影武者なんて、そんなものならない!」


  「劉圭!!!」


  最後は怒鳴る様に大声で名前を呼ばれた劉圭は、顔をボロボロにして父親を見た。


  父親も苦しそうな顔をしていて、劉圭の肩を強くグッと掴んだ。


  「いいか。これから、尤楼様も戦に出ることが決定すれば、劉圭も尤楼として戦に出なければいけない。尤楼様として、生きていかねばならない」


  低く、ゆっくり、劉圭を諭す様に話す父親の声は優しく、目を合わせながら一言一言を伝える。


  今にも泣き出しそうな劉圭は、父親の真っ直ぐな目を見つめる。


  「例え別人としてでも、生きて行く。それが、我々薗家だ。俺達もいつ死ぬか分からない。その時は、義景に話してやってくれ。劉圭、義景、この名前も使うことが無くなる日が来るかもしれないが、忘れるな。俺達二人で考えた名前だ」


  柔らかく頬を動かして笑う父親の顔を見て、グッと涙を堪えた劉圭は、一度下を見る。


  まだ父親と比べると小さくて弱い自分の手や足。


  視線を戻して父親を見ると、劉圭の肩を掴んでいた腕を離して、今度は脇の下に手を入れて、劉圭を高く抱きあげた。


  その後ゆっくり劉圭を抱っこした。


  「おお、重くなったな。成長してるんだな」


  「父上、恥ずかしい」


  「そう言うな。今度はいつ出来るか分からないんだ」


  そう言う父親は笑っていたが、どこか寂しそうな顔をしていたため、劉圭はしばらくじっとしていた。


  少しして床に足が着くと、母親が近づいてきた。


  「劉圭」


  「なんです」


  「貴方は、私達の大切な宝物。劉圭や義景に恨まれても嫌われても、私達はずっと、二人のことを愛し続けるわ」


  その日、劉圭は自分の産まれてきた意味を知り、生きて行く意味を知った。


  例えそれがどんなに受け入れ難い事実だとしても、決して拭い去ることが出来ない現実であることも。


  そして、劉圭は甘ったれた幼い自己を捨てた。


  ベッドに戻ると、隣ではスヤスヤと無邪気な寝顔の弟がいる。


  身体を覆う布団が半分以上かかっていないのを見て、劉圭はそっと、肩までかかるように布団をかけ直した。








  「よいか。劉圭、義景。二人とも、良く聞きなさい」


  二年後、義景にも話す機会があった。


  一度話を聞いている劉圭はさておき、ぽかーんと口を開けている義景には、まだ早かったようだ。


  夜になると、やはりその話になり、義景は納得いかないようだ。


  「もう寝るぞ、いいな」


  「ねえねえ、恒楊って、どんな奴なの?」


  「“様”をつけるんだ」


  ブ―、と口を尖らせて拗ねたかと思うと、今度は唇をブルルル、と震わせて遊んでいた。


  義景が眉を顰めているのを見て、以前、自分が父親から話を聞いた時と同じ反応だと、小さく笑ってしまった。


  寝ようと思って、仄かに灯っていた蝋燭の火を消すと、義景がまた話してきた。


  「ねえ、兄上」


  「どうした?」


  「どうして影武者になったの?影武者にならなくちゃいけないの?」


  定めと言えば良いのか、はたまた父親のように使命という言葉を使えば良いのか。


  いや、そんな単語一つで片づけられるような問題ではないのかもしれないが、今の劉圭には良い言葉が見つからなかった。


  「とにかく、やるしかないんだ」


  結果、逃げた。


  それから数日経ったころ、父親が意識の無いまま戻ってきた。


  詳しい話はよく聞こえなかったが、どうやら、戦に出たときに後ろから弓で射られたようだ。


  間一髪、弓は心臓ではなく、その近くに当たったようで、その場で命を落とすことはなかったのだが、出血が多く、意識を失くしてしまったという。


  父親が治療している間、当然のことながらも、廉家の者は誰も来なかった。


  数週間に渡って意識の無かった父親を見に来たのは一度で、そのときに言われた一言は、生涯忘れないだろう。


  「死んでもらっては、都合が良くない」


  義景が飛びかかりそうになったのを、劉圭がなんとか止めた。


  その言葉を言い放ったのが、父親の顔にそっくりの男だった。


  やっとのことで目を覚ました父親は、劉圭と義景の頭を撫でながら、力無く笑った。


  「なんだ、泣いてるのか。泣き虫だな、義景は」


  怪我が完治していないのは分かっているはずなのに、廉家は戦をまた始め、父親はまたすぐかり出されることになった。


  母親も、王妃の身代わりとして、何度も命を落としそうになった。


  ある日、義景が言った。


  「影武者なんて、嫌だ」


  血を流して帰ってくる父親や母親を見ていれば、そう思うのも仕方ないと、劉圭は感じていた。


  その日は、両親もいた。


  義景の言葉は、なんともないこととして聞き流しても良かったのだが、母親は義景の座っているベッドの隣に腰掛ける。


  小さな義景の身体を片手で抱きよせ、自分の方に引き寄せる。


  「義景、ごめんね」


  「?なんで謝るの?」


  母親は目を閉じ、義景の頭を撫でる。


  「私達の子に産まれなければ、もっと幸せに暮らせていたのに。後悔する日がきっと来るでしょうけど・・・・・・」


  そこで言葉を飲みこんでしまった母親の顔を見ようと、義景は顔をぐいっと上に向けるが、母親の顔色は窺えない。


  すると、父親も口を開いた。


  「すまないな」


  わけのわからない義景は、首を何度も傾げる。


  我が子に謝り二人の姿に、劉圭は何も言えずにいた。








  八年後、廉家の第一継承者である尤楼も、十八になった。


  「尤楼、出陣する日が決まったぞ」


  「本当!?やったね!これで、敵を撃って切って、殺せるんだ!!!」


  「何を言ってる。お前はまだ未熟だ。遠くから見ているだけにしなさい」


  「えーーー???でも、出陣すんだろ?」


  「それは、薗家の者が代わりに出るんだ」


  「ずりーよ」


  「死んだらどうするんだ。大事な次世代を担っているのだぞ」


  何年経っても戦は絶えず、歳老いてきた王は、長男である尤楼にそろそろ戦というものを勉強させようと思っていた。


  実際に戦に出ることなど、無いに等しいのだが。


  剣や弓、銃を扱うのが好きで、小さいころから駄々をこねて見よう見まねで遊んでいた尤楼だが、それのせいで数人が犠牲になった。


  力の加減や手を抜く、ということもまだ分からないとき、尤楼の面倒を見ていた者たちが、腕を切られたり腹を射抜かれたりと、大騒ぎになった。


  それでも大事に大事に、ガラス細工を扱う様に大切に育てられていた尤楼は、自分が何をしたのかなど分かっていない。


  「こちらが、尤楼様です」


  初めて部屋から出て、連れて行かれた部屋には、一人、同じ歳だと思う男がいた。


  ニヤニヤと笑いながら劉圭に寄っていくと、マジマジと観察して、「ほえー」と感動の声を出した。


  「お前が俺の代わりねー。似てる似てる。ビックらこいたぜ。けど、俺の方がちょっと凛々しいかな?ハハハハハ!!!!」


  「はあ」


  気の抜けるような返事しか出来ずにいると、尤楼は兵に持って来させた何かの菓子を頬張った。


  「まあ、せいぜい沢山敵を殺してくれよ。じゃねーと、俺の名声にもならねーからな。どうせなら、目立つやり方で殺してほしいなー。一発で仕留めるんじゃなくて、意識がある中で痛みだけ与えるんだ。命乞いをするのを、生で見てーけど・・・・・・」


  思考がおかしいのではないかと、劉圭は思わず吐きそうな感覚を覚えるが、耐えて表情を変えないようにする。


  部屋に戻って、何か物にあたったような気がする。


  それから一週間ほど経って、尤楼として出陣する日が来た。


  「行って来い」


  「はい。行って参ります」


  実際に戦に行くときの格好になり、父親に一礼する。


  部屋の奥の方では、母親は劉圭を見れないでいて、そんな母親を不思議そうにみている義景もいた。


  馬に跨るのも一苦労で、ただ揺られて走っているときはよかった。


  戦場に辿りつき、そこには緊迫感と殺気が漂っているだけだった。


  微かに、自分の手が震えていることに気付き、深呼吸を何度もして落ち着こうともしたが、ダメだった。


  「おおーっ」という掛け声とともに、互いの兵士たちが剣や弓を持って走った。


  身体全体に感じる地響きは、大地の怒りと例えられても良いくらいの強さを放ち、劉圭を恐怖に陥れる。


  足がガクガク震え、自分がいつ狙われ、殺されるか分からないこの状況下で、助けを叫ぶことも出来なかった。


  キンッ、と金属が弾かれた音が聞こえたかと思うと、自らの身体をスレスレで通り抜け、地面に弓が刺さった。


  瞬間に、父親が刺された姿を思い出し、急に呼吸が速くなる。


  「あそこに尤楼がいるぞ!!!殺せ!!!」


  自分の劉圭という名前だけでなく、尤楼という名前にも過敏に反応した身体は、ただただ逃げるための準備しかしていない。


  怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて。


  だが、同時に、悲しそうにしている母親の姿も思い浮かんだ。


  ―このまま、死ぬわけにはいかない!


  その想いだけで、剣を抜いた。


  向かってくる敵は、廉家と同じくらいなのだろうか、それとも多いのか少ないのか、何も分からないが、剣を抜いた。


  相手の血を見る度、浴びる度、泣きそうになった。


  この感触が好きな人など、いるはずがない。


  戦がとりあえず終わり、劉圭は身体に敵の血を纏いながら、城へと帰宅した。


  「おお!!帰ったか!」


  タタタ、と走って劉圭に寄ってきたのは、今まで自分は安全な場所で身を顰めていた尤楼だ。


  劉圭についている血液を見ると、興奮したように瞳孔を開き、鎧を触ったり臭いをかいだりしていた。


  「最高だな!しっかりと殺してくれたんだな!!ハハハハ!!!!」


  パシパシと劉圭の肩を叩き、大いに喜ぶと、尤楼はまた兵に連れられてどこかへ行った。


  鎧を脱いで身体も洗わず、タオルなどで拭くこともしないまま、義景たちが待っている部屋へと戻った。


  帰る時の足取りは重く、自分から臭う鉄臭さがたまらない。


  「劉圭!」


  部屋を開けて真っ先にかけつけてきた母親は、劉圭の顔を見るよりも先に、まず強く抱きしめた。


  後ろから歩いてきた父親は、劉圭の表情を見て、黙っていた。


  「兄上!おかえりなさい!!」


  無垢な笑みを浮かべて寄ってきたのは、劉圭の帰りを今か今かと待っていた義景だ。


  最初はニコニコと笑って劉圭を見ていた義景だったが、まったく顔を変えない、眉一つピクリとも動かさないのを不審に思った。


  死人のような顔色、身体に沁みついた鉄の臭い、心を壊すには十分すぎた事象。


  「兄上?」


  何も言わない劉圭の身体を、母親はそっと離した。


  「・・・・・・身体を、洗って来ます」


  「ええ」


  のそのそと歩いて、シャワーを浴びられる部屋まで行く劉圭の後姿は、力無かった。


  「父上、兄上はなんで元気ないの?」


  「劉圭は、ちょっと疲れてるんだ。しばらくはそっとしておいてやれ」


  「わかった」


  そのころ、劉圭はまだ無表情のまま湯を浴びていた。


  ようやく動かした視線は、自分の手を見ていた。


  ―人を、殺した。この手で。


  自分が抜いた剣で、地面に倒れた者、血を流して涙を流した者、助けてくれと命を乞う者、目を開けたまま死んでいった。


  身体を拭いて部屋に戻ると、義景は母親に寝付かされていた。


  父親が劉圭の傍にいき、背中を数回叩いた。


  「大丈夫、じゃないな」


  「父上も、ああいった経験がありますか」


  「・・・・・・戦というのは、殺さなければ、殺される。殺されたら、もうお前達に会えなくなる。そう思って剣を抜くしかないときもある」


  劉圭の背中に回していた腕に力を入れると、父親は劉圭を両手で包んだ。


  小刻みに震えるまだ幼い身体には、消しても消しきれない傷を幾つも背負わせてしまった。


  この小さな身体を二つ抱きしめ、ここから逃げてしまおうかと、何度も何度も考えた。


  それでも、ここにしか居場所を見つけられず、かつての自分も拒もうとした残酷な意義を、子供にも押しつけてしまっている。


  「逃げるか?」


  「!父上、そんなことしたら!!」


  今までほとんど顔が変わらなかった劉圭だが、目をカッと開いて父親を見ると、眉を下げて笑っていた。


  「みな、死ぬまで追われ続ける。もしくは、見つかって即死刑だ」


  そんな言葉を、笑いながら言うしかなかった。


  「俺達に残された選択肢は、生きるということだ。苦しくても、生きることだ。逃げるのも死ぬのも簡単だが、それは俺が許さん」


  自分が一日だけで感じた色々なことを、父親も母親も、何年も何十年も経験し、耐えてきたのだ。


  劉圭は、いつになく優しく笑った父親を見て、ぐっと顔に力を入れた、


  それからも、劉圭は幾度となく戦に出ることがあり、傷を負う日もあったが、無傷で帰って来られる日もあった。








  いつぞやの敵国が強さを増し、廉家も危機を迎えた。


  廉家が優勢を保っているが、劉圭も早めに戦場へと行かねばならなくなった。


  廉家が滅びれば、必然的に、そこに住んでいる義景たちも捕虜にされるか、殺されるか、売られるか・・・・・・。


  だが、心のどこかでは、廉家など滅んでしまえばいいとも思っていた。


  自分達を、長年にわたって苦しめてきた廉家には、愛着も未練も残ってなどいない。


  それでもなお、廉家に身を留めておくのは、きっと自分以外の存在のお陰だ。


  「それでは母上、行ってきます」


  「劉圭・・・!!」


  重そうな鎧を着て、あとは頭の部分を被るだけのようだ。


  兵士が青年に向かって何かを言っているが、青年の前にいる母親には届いていないだろう。


  スヤスヤと、まだ夢の中にいる弟の顔をそっと覗くと、青年、劉圭は優しく微笑み、父親をじっと見た。


  劉圭は母親と目線を合わせる。


  「母上。母上は以前、私達が自分の子として産まれてきたこと、後悔するかもしれないと仰いましたが、私は後悔などしていません。これからも、変わらない事でしょう」


  「劉圭・・・・・・!!!」


  「私は、お二人の子に産まれて、本当に良かった。とても幸せでした。きっと、義景もそう思うと信じています」


  耐えきれなかった涙が溢れ出してきて、母親は両手で顔を覆った。


  「今日私は、命を落とすかもしれません。それでも、死ぬその瞬間まで、生きるために戦います」


  返事も出来ないでいる母親に、劉圭は囁くように呟いた。


  「父上、母上と義景をお願いします」


  「・・・ああ」


  部屋を出て行った息子の姿を、涙を流して耐えるしかない母親と、母親を支えるしかない父親。


  「死ぬ覚悟は出来てるか」


  後ろにいる兵士に言われ、劉圭は表情を変えないまま答えた。


  「ああ。私は、尤楼だ」


  本当は、死ぬのが怖い。怖くないはずがない。


  それでも、逃げることも出来ないのが、今の劉圭にとっての現実。


  いつ死ぬか、殺されるかも分からない嘘の自分自身を、誰も守ってなどくれないのだ。


  表面上では尤楼として守ってくれているのかもしれないが、いざとなったら、守ってくれるのは自分だけなのだ。


  怖い気持ちと、やらなければいけないという気持ちと、交差して葛藤して、答えが出ないままの日々だった。


  自らが産まれ、その後数年経ってから産まれた小さな芽吹きは、とても力強く育った。


  自分の手でも掴めるほどの幼く弱い光も、今では逞しくなった。


  両親のもとに産まれてきたことを後悔するかもしれないと、あのとき母親は言っていた。


  しかし、そんなことあるはずがない。


  もう何度目になるであろう、馬に跨ると、馬も劉圭が乗って嬉しそうに啼いた。


  味方が死んでいき、敵が死んでいき、次々に人が倒れて行く。


  その中心で剣を抜いているのは、齢十八にして国の未来を担っている若者。


  敵の剣が、若者の腕を掠めると、今度は背後から敵が襲いかかってきて、若者の脇腹を斬った。


  そこから滲み出る血など気にも留めず、若者は剣ひとつだけで敵に突っ込んで行き、一人、また一人と薙ぎ倒していった。


  その戦場の傍らで、別の若者がこそこそ動いていた。


  「劉圭ばっかりずるいんだよ。俺だって、一人くらい殺してやらねーとな」


  兵士の格好をして戦場に紛れ込んでいたのは、尤楼だった。


  見張りの兵士を適当にそそのかして外出をすると、無謀にも一人でこの場まで来てしまったのだ。


  「しっかし、どこにいるんだ?敵も味方もわからねーな」


  うろうろと、戦場の中心から離れた場所をさまよっていると、ガサッと何かの音が聞こえた。


  後ろを見てみるが、そこには何もなくて誰もいなく、尤楼は気のせいだろうかと、また戦場へと視線を戻した。


  一人、負傷した敵を見つけた尤楼は、剣を抜いてそーっと近づいた。


  そして、抵抗もしない敵を一気に斬りつけると、その後、何度も何度も敵を刺し、息の根を止めた。


  「ハハハハハハハッッ・・・・!!!!他愛もねぇ!!!!クズが!」


  一人、高笑いをしている尤楼だったが、ふと、何か痛みを感じた。


  つーっとお腹から流れている何かは、よく見てみると赤く染まったもので、次第にじんじんとした痛みになった。


  後ろを見れば、敵の兵士が立っていて、手には血のついた剣を持っていた。


  ああ、刺されたのか、と気付くまでに時間がかかった尤楼だが、敵が尤楼の顔を見て笑った。


  尤楼はその場にうつ伏せに倒れ、敵はその場から立ち去って行った。


  戦は終盤を迎えつつあり、劉圭もそろそろ疲れが出てくるころだったが、敵の頭の首を取らねば、勝負は着かない。


  「どこにいる?」


  敵の大将を見つけるまでに、そう時間はかからなかった。


  馬に乗っていて、さらには剣を抜かないまでも、周りの兵士に守られている存在を見つければいいのだから。


  敵は徐々に減って行き、降伏をするのもあと少しというところだった。


  それでも敵の大将は白旗を振ろうとせず、目の前に劉圭と数百人の兵士がいても、果敢に立ち向かってきた。


  「首を取った!」


  ワーッと大きく上がった歓声を浴びながら、劉圭は敵の首を持って天高くへと突き出した。


  そして、城へ戻ろうとしたときだった。


  「!!??」


  背中に、激痛を感じた。


  「な、んだ?」


  ビュッビュッ、と飛んできた生き残った敵からの攻撃は、いとも簡単に劉圭の身体を貫いて行った。


  「ゴフッ・・・・・・」


  口から零れる鉄の味は、身体から力を取るばかりではなく、思考までも止めてしまう。


  地面に倒れて行く劉圭を、兵士たちはただ少しだけ驚いたように見ているだけで、助けようとする者はいなかった。


  遠のく意識の中、兵士たちの会話が聞こえた。


  「おい、どうする?」


  「どうするって、城に連れて帰るしかないだろ」


  「このまま連れて帰るのは一苦労だぜ」


  「なら、首だけ持っていこう」


  ―まだ、死ぬつもりはないのに・・・・・・。


  消えゆく視界の中に浮かぶのは、三人の顔。








  「父上、母上、兄上がいない」


  目を覚ますと、いつもいるはずの劉圭の姿が見えず、義景は両親に訊ねる。


  部屋の中を、落ち着きなく歩く母親と、椅子に座っている父親、それに、廉家の兵士と思われる男たちがいた。


  男たちは、義景を一瞥したが、すぐに母親に視線を戻した。


  歩いていた足を止めた母親は、急に足を止めると、両手で顔を覆って泣き出してしまった。


 「母上!?どうしたの?」


  何事かと、義景は母親のもとに駆け寄るが、母親は肩を震わせて泣いていた。


  男達はそんな母親を見てもなんともない顔をしていて、床に項垂れてしまった母親に対して怒声を浴びせる。


  「貴様等は、廉家の大事な御長男である“尤楼様”の楯にならなかったのだ!!無能で役に立たぬ、貴様等の息子のせいでな!!」 


  顔を手で覆ったままの母親のもとに父親も来て、嘆き悲しんでいる母親を見て、眉を下げた。


  聞き覚えのある名前が出てきたため、世の中で何が起こっているのか分かっていない義景でも、反応出来た。


  「尤・・・楼?」


  尤楼とは、義景の兄である劉圭が身代りになっている、廉家の御支族。


  その尤楼は、今回の戦には出ていないはずであって、死んだとすれば、劉圭だと言う方が正しいのでは、と思っていたが、どうやら違うようだ。


  尤楼は勝手に戦に出て、戦場で殺されたという。


  あまりに身勝手な行動だということは、廉家のものたちだってわかっているはずなのだが、いつだって責められるのは薗家だ。


  母親は泣き、父親は頭を下げる。


「尤楼様の御遺体は?」


自分の息子、劉圭のもとへとすぐにでも行きたいであろう父親だが、尤楼を敬う様に腰を低くして兵士に訊ねた。


 そんな父親を、ゴミでもみるような目で見た兵士は、さっさとすませようと話す。


  「尤楼様の御遺体は代々受け継がれている墓に埋葬された。だが、こんな役立たずのゴミは、我々では処分しかねる。そちらで頼む」


  「・・・承知いたしました」


  「あと、今後は尤楼様に代わり、恒楊様が指揮権を持つ。よって、薗義景。貴様を、住み込み継続との御命令だ」


  心に溜まったものを全て吐き出したいところだが、父親は鼻から息を吐いて、静かに返事をした。


  しかし、次の瞬間、床に転がされた塊に、父親の顔もピクッと動く。


  ゴロン、と無造作に投げ出されたそれは、まるで人の頭のようで、そこから出ている血のような赤い液体はまだ乾いていなかった。


  認識出来るまでに時間がかかったが、それは確かに人形などではなく、まぎれもない、人の生首だった。


  付け加えるなら、“自分の兄の”ものだった。


  「兄上―――――――――――――!!!!!!!」


  笑いもしない、怒りもしない、泣きもしない、ただの屍。


  ぴくりとも動かないその首は、冷たい床を転がり、止まった。


  身体に十本もの矢を受け、それでもなお生きようとした劉圭だが、残酷なことに、兵士によって首を刈られた。


  誰一人として、それを止める者はいなかった。


  尤楼として生きてきて、一方では劉圭として生きてきて、蔑まれることもあれば、喜ばれる事もあった人生。


  「兄上!!!兄上!!!!ッッッ・・・あぁアァああアァあぁあアアアァッ!!!!」


  「義景!!」


  嗚咽交じりになりながらも、耳に届いた、震える声を殺した父親の声に耳を傾けた。


  「お前は、生きて戻るんだ!!」


  「ッッッ!!!父上・・・母上・・・!!!」


  悲しんではいけない。感謝をしなさい、と。


  兄とは言い難いその目の前のものに、義景はかけよって拾い上げようとした。


  しかし、父親が義景の手首を掴んだことによってそれは出来なくなり、ぐしゃぐしゃになった義景の顔を見て、父親も苦しそうな顔をする。


  義景はギッと兵士たちを睨みつけると、兵士は義景と父親に近づいて行った。


  「おい。今、俺を睨んだのか」


  さっと義景を自分の身体で隠した父親が、答える。


  「滅相もございません。初めて人の死に対面したので、うろたえているだけです」


  「まあいい。それより、尤楼様の件の処罰だが、懲罰室へ来いとの御命令だ。拒むことは、我々廉家への反逆を見なし、家族全員死刑だ。わかってるな」


  「はい」


  部屋から出て行った兵士に対しての怒りが抑えきれず、義景はドアに向かって枕を投げつけた。


  ドアに当たると、静かに床に落ちて行く枕を拾い上げると、父親は義景にそれを渡した。


  部屋の中に充満する鉄の臭いは、怖いやら愛しいやら、それよりも悔しいのと寂しいのと、感情がぐちゃぐちゃになる。


  嗚咽交じりに泣いていると、一番はじめに泣いていた母親が目元を擦って、義景のことを抱きしめた。


  「行ってくる」


  「ええ。待ってます」


  その両親の会話の意味は、義景には分からなかった。


  泣きじゃくる義景を強く抱きしめる母親は、自らの感情を押し殺すように、強く強く、義景を抱きしめた。


  目をつむれば、また兄が戻ってくるような気がする。


  また笑って、怒って、ずっと隣にいてくれるような気がする。


  しばらくして、母親は静かに立ち上がり、劉圭を布にそっと包むと、義景の手を引いて、部屋を出た。


  城の裏手にある、誰もこないような暗い、じめじめした場所に出ると、母親はそこの土を掘り始めた。


  指先だけではなく、爪の中まで黒くしていく母親を見て、義景も一緒に掘る。


  「ここに、埋めてあげましょう」


  「こんな、寂しいところに?冷たいし、誰も来ないよ」


  「ここはね、昔は、とても綺麗な場所だったのよ。花も咲いていて、鳥たちもよく遊んでいて、まるで桃源郷だっていう人もいたくらいに。今はこんな暗くて寂しい場所だけど、きっと、またいつか、陽のあたる場所になるわ」


  義景は、自分よりも寂しそうにそう言う母親に、頷くことしか出来なかった。


  「また、お花、咲くと良いね」


  ―父上、母上、それに義景。


  ―今まで、ありがとう。


  ―そして、さよなら。








  「義景、お前も戦に出る時が来た」


  「はい」


  「廉家のこと、恨んでいるか」


  「はい。恨むなという方が無理です」


  劉圭の死後、最初は受け止められずにいた義景だったが、良い意味でも悪い意味でも成長した。


  今まではある程度の我儘を言っても、世間知らずなことを言っても許された。


  しかし、恨みや悲しみは思った以上に義景の心に深く突き刺さり、癒えることのない傷となってしまった。


  感情はそれほど表に出すことも無くなり、父親と母親に対しても敬語を使う様になった。


  「しかし、恨んでもしょうがないことだと分かっています。それでも、兄上が生きて、影武者として死んだこと、忘れてはいけないと思っています」


  「そうだな。義景が出陣後、俺達は別の城と戦に行くことになっている」


  「はい。武運を祈っています」


  「互いにな」


  父親の背後、静かに座っているだけの母親に視線を移すと、母親はゆっくりと立ちあがった。


  王妃の格好をしている母親は、いつもよりも上品に見て、それでいてとても寂しそうにも見える。


  「義景」


  「はい、母上」


  この母親の顔は、以前にも見たことがある。


  どこでだったかは忘れたが、劉圭を失ってからと言うもの、変わってしまったのは義景だけではない。


  何も言わない母親だが、察した義景は目を細めて口に弧を描く。


  「私は、きっと生きて帰ってきます。ですから、母上と父上も、どうか無事に帰ってきてください」


  声を殺して泣き出してしまった母親を、父親がそっと抱きしめた。


  父親に頭を下げると、丁度部屋のドアを叩く音が聞こえてきたため、義景は戦に出る支度をし、出て行った。


  劉圭と同じように、戦に出ると決まった際、一度恒楊と顔を合わせた。


  自分の顔さえ良く見たことなどなかったが、自分と同じ顔から発せられる言葉、表情がとても嫌だった。


  きっと、自分の兄も同じような気持だったのだろうかと、義景は胸を痛めた。


  馬に跨って風を身体に受けていると、まるで風に身体を斬られているような感覚になる。


  冷たく、痛い。


  十日ほど経った頃に戦が一段落し、義景たちは城へと戻ることが出来た。


  数週間睨みあうだけの戦の時もあれば、三日ほどで決着が着いてしまうときもあるからか、身体も心もついていかない。


  それでも、やるしかなかった。


  部屋に戻ろうとしたとき、ワイワイと賑やかな部屋が一つだけあり、そこからひょこっと顔を出してきた人物がいた。


  「よっ。お前も祝い酒、飲むか?」


  自分と顔がそっくりの、恒楊だった。


  頬を赤く染めて、手には酒瓶をぶら下げており、恒楊の両腕には女性が腕を絡ませて身体をくっつけている。


  「いえ。私は結構です」


  「んだよ。つれねーこと言うなよ。なあ?」


  隣にいる女性たちに声をかければ、女性たちは恒楊の言葉に、真っ赤な唇を揺らすだけ。


  「それによ、お前らがこの戦争ばっかの御時世に、飢え死にもせず、奴隷にもならず、乞食にも路頭に迷う事もなく、平凡な生活を送れてるのは、俺達のお陰なんだぜ?たまには、酒くらい注いだって、バチはあたんねーだろ?」


  一瞬、自分でも驚くほどの殺意が芽生えた。


  だが、すぐに困ったような笑みを浮かべて、「そうですね、また今度」と誤魔化し、部屋まで戻って行った。


  パタン、と静かに閉まった部屋のドア。


  重たい服をすぐに脱ぎ捨て、ベッドに仰向けになった。


  戦の後、雨が降る様子を、戦の悲惨さを見て神様が泣いているんだと、教わったことがある。


  あまりにもむごく、時代や歴史が変わる背景では起こっている戦だが、どうして自分がそこに参加してしまっているのか。


  義景はただ、目を瞑って両親が帰ってくるのを待っていた。


  ドンドン、と強めにドアを叩く音が聞こえ、義景は閉じていた瞼を勢いよくパッと開けると、兵士が不機嫌そうに立っていた。


  何事かと、義景は眉間にシワを寄せる。


  「どうかしましたか」


  ぶっきらぼうに口を開けば、兵士は舌打ちをして義景を見る。


  「         」


  「え?」


  聞こえなかったわけではなく、単に耳も脳も身体も、兵士の言葉を受け入れられずにいるのだ。


  確かに、兵士は言った。


  ―お前の親は死亡した、と。


  それだけを言って去って行った兵士の後姿を見ながら、義景はのそのそとベッドに戻り、腰をかけた。


  頭の中を駆け巡り、耳の奥にこびりついて離れない、先程の兵士の言葉。


  少し経つと、また誰かがやってきた。


  「よう」


  「・・・・・・何か御用でしょうか」


  「つれねーこと言うなって。な?」


  部屋にのこのこ現れたのは、自分によく似ていて、それでいて口から出る言葉は全く別人のもので、好きにはならないだろう相手。


  手には相変わらず酒を持っていて、両手に華、はいなかったものの、口角をグッと上げてニヤリをする笑みは、義景は苦手だ。


  恒楊は部屋の中にズカズカ入ると、小さなテーブルの上にドカッと座った。


  見れば見るほど同じ顔な相手に、少なからず吐き気さえ覚えるが、決して悟られるようなことはない。


  「死んだんだってな。お前の親。ま、影武者を全うしたってとこだな」


  あっけねーな、とぼやいた恒楊を心の中で睨みつけるが、当の本人は鼻で笑いながら酒を飲む。


  「そこで、お前がメソメソ泣いてるんじゃねーかと、俺は慰めにきてやったわけだ。な?酒でも飲んで、パーっと忘れようぜ!!お前の家族なんかクソだって、一緒に叫んで盛りあがろーぜ!!!」


  ピキッ、と何かが切れる様な音が聞こえたような、気のせいなような。


  義景は思わず自分の拳に力を込め、そこに全身から出る黒い何かを握りつぶした。


  「恒楊様、ここにおられたんですか」


  「なんだよ。うっせーな」


  「今後についての会議を行うそうなので、お集まりくださいとのことです」


  「なんで急に出て行っちゃったの~?」


  恒楊を探しに来た兵士の後ろから、一緒にいたのであろう、女性が数人来ていた。


  「ちぇ。じゃあな、また来るわ」


  あのままずっと居座られていたら、きっと恒楊を一発乃至二発ほど殴っていただろうと、義景はホッと胸を撫で下ろした。


  しかし、恒楊の言葉を思い出すと、殺しても殺し足らない。


  ―パーッと忘れようぜ!


  ―クソだって


  怒りは徐々に鎮まり、虚無感や疲労感に襲われる。


  沈黙が耳にこびりつき、ドアの外から聞こえてくる騒音が、やけに懐かしい様な、耳障りだと思うほどの感情も無かった。


  部屋の中を見れば、父親が使っていたテーブルや、母親が好きだった小物、みなで使っていたベッドがあるが、どれも冷たい。


  どこにも残っていない温もりを求め、義景はベッドに寝て身体を丸めた。








  「母上!義景がまた壁に落書きをしています!!」


  「あらあら、義景、ダメじゃない」


  「ママ上とパパ上―!」


  無邪気な笑みを全身から醸し出す、幼い義景少年。


  部屋の質素なイメージを脱却しようとしたのか、それとも単なる気まぐれなのか、白い壁に何か黒い線を描いていた。


  それを見つけた兄、劉圭が半ば叫びながら両親に告げる。


  ニコニコと笑っている様子から、悪気があって描いたわけではないことは分かるが、ここは他人の城の一室。


  「これ、消さないとまずいんじゃありませんか」


  一人冷静に落書きを見ながら考え込む劉圭の頭を、後ろから近づいてきた父親が撫で、落書きを覗き込む。


  「おーおー。立派なもんだ。こりゃ、消すのも一苦労だな」


  「父上、そんな悠長なことを言っている場合ではありません」


  筆いっぱいに墨をつけたのか、折角描いた絵からは、真っ黒いものがつーっと垂れてしまっている。


  それは壁だけに留まらず、床にまで進出してしまっており、黒い水たまりを作っている。


  「義景、ちゃんと拭くんだぞ」


  「えー、嫌だ」


  雑巾を持ってきた劉圭は、それを義景に手渡すが、義景はプーッと頬を膨らませて、雑巾を床に落とす。


  劉圭が軽くゴツン、と頭を叩けば、大袈裟に騒いで母親の許に行く。


  「義景!」


  少し強めに義景を怒る劉圭だが、母親の後ろに隠れて、ちらっと劉圭の顔を見ているだけ。


  最終的に、義景と劉圭の二人で落書きを落としたのだが、巻き込まれた劉圭よりも、当事者である義景の方が不機嫌そうだ。


  ごしごしと消しながら、横にいる劉圭の顔を盗み見た義景。


  真っ直ぐなその視線は、戦に行く前や、義景たちを見る時の父親と似ていて、とても頼りになるものだった。


  「消えたか?」


  「はい。やっと」


  父親が近づいてきて、二人は顔を動かした。


  壁が大方綺麗になったのを見ると、満足気に笑い、膝を曲げて二人と目線を合わせた。


  「いいか。どんなことがあっても、お前達二人ならなんとかなる。なんせ、俺の息子だからな」


  義景と劉圭は、二人してポカンと口を開けていたが、父親は気にせず笑って次の戦に出る準備を始めた。


  床にペタン、と座った義景は、父親の姿をじーっと見ていた。


  その義景の視線の威力を背中に感じ取ったのか、父親が着替えをしながら身体を動かしている合間に、義景の方を見てきた。


  「どうした?」


  「パパ上、格好いい!!」


  いつもとは違う服装に敏感に反応して、目を輝かせている義景と、隣で義景を見てため息を吐いている劉圭。


  「そうだろ?」


  ニカッと笑う父親は、心なしか嬉しそうだ。


  何度も何度も戦に行っては怪我をして、その度に泣きそうな母親を見て、そんな母親を勇気づける兄がいた。


  恒楊の言葉は全てを否定し、義景の全てを罵倒し、見下し、同じ人間と思っていないものだ。


  口から空気とともに出てきただけの言葉は、心臓よりもより深くのところを抉り、貪っていく。


  兄が死に、両親が死んでからというもの、恒楊は頻繁に義景に会おうとし、それを拒み続けてきた。


  恒楊の兄、尤楼が死んだ際、何もかもを劉圭のせいにされ、父親が懲罰室に連れて行かれたことも知っている。


  帰ってきた父親は笑ってはいたが、傷だらけの身体は、見ているだけで痛かった。


  勝手に戦に出向き、勝手に殺されたのだ、と言いたかったこともあるが、それを言えばきっともっと酷いことをされるだろうと、小さいながらに分かっていた。


  ずっと、ここにいなければいけないことも。


  ずっと、自分でいてはいけないことも。


  ずっと、他人でいなければいけないことも。








  「・・・・・・」


  誰も帰って来ない部屋の中、義景は寒さで目を覚ました。


  夜も更けて、鳥の囀りにはまだ早く、太陽もまだ地表に顔を出す前で、月が空に浮かんでいる。


  部屋に唯一ある小窓を開け、腰かけて夜の城から街を見下ろす。


  小さな家が幾つも建ち並び、まるでおもちゃの世界のような街だが、裏道へと入るとその世界とは遠のく。


  決して、情勢が良いわけではなく、税金も低くはないし、だからといって保障されるものなどほとんどない。


  それでも、城を攻撃しようという人々が産まれないのは、きっと分かっているのだ。


  権力に刃向かえば、命は無いと。


  この寒空、暗い街の中を、狭い世界をかけ走る人影が一つ見えた。


  その人影は小さいもので、きっと義景よりも小さい齢の者であろうという検討はついた。


  暗い裏道から表通りへと出てきた人影は、はあはあ、と荒く息を荒げているのも確認出来、さらには男の子であることも分かった。


  ボサボサの黒い髪の毛に、短いズボンを穿き、裸足で道を突っ切ってきたのだろう。


  手には、その男の子の手にも収まるくらいの小さなナイフと、もう片方の手には何かを持っていた。


  それを口に含んだことから、食べ物だったことが分かる。


  この城から追い出されれば、きっと自分達もああいったことをしたのかもしれないと、義景は眉を顰めた。


  やがて男の子は、義景の位置からは見えない場所へと行ってしまった。


  それからその男の子がどうなったのか知らないが、見つからずに家へと帰れたと、信じるしかない。


  廉家自体、それほど情勢が悪いわけでは無く、どちらかというと良い方だ。


  それでも、ああいった子供や、大人や老人などがいるということは、この街全体としては、決して幸せではないのだろう。


  さきほどの男の子に、家族はいるのか。いたとしても、親はなにをしているのか。いなかったとしたら、住むところはあるのか。


  疑問を抱けば、聞きたいことは沢山あるが、聞くことはできない。


  もしかしたら、あの男の子から見れば、自分は贅沢で幸せだと言われるのかもしれない。


  家もあり、食事も取れ、家族もいる。


  幸せの定義は人それぞれとは言え、最低限の生活が出来ていることだけを考えると、自分は本当は“幸せ”なのかどうか。






 ―誰にも聴かれない歌がある


   それは小さな小さな物語


   受け継がれないその歌は


   いつかの世へと羽ばたいた




   何処にも届かない歌がある


   それは儚い儚い物語


   消えゆくままにその歌は


   遠くの世へと歩みゆく




  全ての言の葉たちが ひとつの線に跨り


   夕暮れを奏でる 生が輝いた




   誰かに聴かせたい歌がある


   それは愛しい愛しい物語


   刹那を生きたその歌は


   いつかの世にも愛された




   何処かに届けない歌がある


   それは大事な大事な物語


   君にも届くその歌は


   遠くの世にも遺された




 全ての言の葉たちも ひとつの刻に紡がれ


   朝焼けを彩る 生が降り積もる―




  身体を冷やす風の中、消えゆく歌声は、誰にも届いてはいない。


  聞こえていないのは、幸いだろう。


  「・・・寒い」


  小窓を閉めると、義景はまたベッドに戻って身体を丸め、布団を頭からかぶった。


  さっきまで自分が寝ていたはずのそこは、もうすでに冷たくなってしまっていて、また体温で温めるしかなかった。


  次に太陽が昇るまで、起きることはなかった。








  数日後、義景はまた外出することになった。


  戦というわけではないのだが、他国との同盟を組むとか組まないとかの会議に、恒楊の代わりに出ろとのことだった。


  何を言えば良いのかも分からないまま出席した義景。


  「して、恒楊様はいかがお考えかな?」


  「私は・・・」


  そんなつまらない話をして城へ戻ると、なぜか恒楊がいきなり義景を殴ってきた。


  尻から床に倒れてしまった義景を恒楊は見下ろし、倒れている義景に跨ってさらに数発殴ってきた。


  「恒楊様、そのくらいにしませんと」


  「チッ」


  義景が口を切って血が少し出てきたのを見た兵士が、ようやく恒楊を止めに入った。


  何が起こったのかわからない義景は、唖然と恒楊の後ろ姿に視線を送っていると、兵士の一人がこう言った。


  「あやうく、恒楊様の影武者だとバレるところだったのだ」


  「?!どうして・・・・・・」


  何も失敗はしていないはずだと、義景は自分の今日一日の行動を振り返ってみるが、思い当たることはない。


  「相手国の奴ら、俺のことすげー細かく調査してたんだよ。仕草とか口調とかな。お前が丁っ寧に話すもんだから、疑われたんだよ!!!あいつら、馬鹿にしてんのか!?」


  ドカッと、近くにあった高級そうな銅像を蹴飛ばすと、床に大きな音を立てて倒れた。


  「お前もそんくらいなんとかしろ!クソが!」


  どうしようもないことに、義景はただ謝るしかなかった。


  恒楊は怒ったままどこかの部屋へと入って行き、それを見届けてから、義景はスッと立ち上がって部屋へと戻って行った。


  口の中に溜まった血を紙に出すと、ゴミ箱に捨てた。


  唾液が傷口に沁みる。水を口に含んで数回うがいをしてみたが、それでも血は少しずつだが出てくる。


  諦めて顔を洗いだした。


  ため息を吐いてシャワーを浴びようとしたとき、部屋をノックする音が鳴った。


  はじめ、聞こえないフリ、もしくは、今聞こえていませんという状況を作ろうかとも思った義景だが、返事も待たずに相手は入ってきた。


  土足で他人の領域を侵すなど、この男しかいないだろう。


  「何か御用ですか。恒楊様」


  ついさっき自分を殴ったとは思えないほど、ニコニコとした笑みを見せつけ、恒楊が入ってきた。


  「朗報だ。また戦に出てもらうぜ」


  「朗報なのかはさておき、明日にでも準備すればいいのでしょうか」


  「ああ。まあ、それはそっちに任せるよ。俺はなーんもわかんねーし」


  城主とは思えない、知らないという言葉を豪語する態度に、義景は、廉家の将来を案じた。


  「・・・それをわざわざ、恒楊様から報告にしに来たんですか?」


  「いや、それに関することでな」


  まだ堅苦しい服装をしている義景は、とりあえず背中に靡いている邪魔なマントを取ると、ベッドの上に置いた。


  恒楊は無遠慮に、その辺にある椅子に腰かけると、足を組んだ。


  「今度の戦、俺の兄貴が殺された相手だ。決着がついたと思ってたんだけどな、あっちの国で暴動が起きたんだと。廉家の良いなりになるな、的な?ま、あんときは別に細かい条約とかは作ってなかったみてーだからな。てわけで、俺を徹底的に狙いにくるかもしれねー」


  確かに、恒楊の兄の尤楼は殺されはしたが、戦に参加したために殺されたというには、多少語弊があるだろう。


  あの戦では、義景の兄、劉圭が無残に殺されたのだ。


  許せないのは、仲間であるはずの廉家が劉圭の首を斬ったことであり、誰も治療をしよう、助けようとしなかったことだ。


  今廉家を潰そうと思うなら、現城主である恒楊を狙ってくるのは仕方ないことだ。


  それも、正確に言うのであれば、恒楊の姿をした義景が狙われるのだ。


  「まだまだ俺として、生きてもらわねーと困るぜ?」


  「・・・・・・はい」


  義景の顔色を見るように、顔を斜め下から目線だけを動かし、ゆっくりと口角をあげて笑った。


  「ま、いーや。じゃ、俺は戻るぜ」


  椅子から飛ぶように下りると、恒楊は大股で部屋を出て行った。


  自分が今まだ着ている、重そうな鎧を見ているだけで、戦の事を思い出す。


  恒楊の代わりに戦に出るようになって、もう何回目かは数えたこともないが、戦馬鹿なのかと思いたくなるほどの数出ている。


  廉家は喧嘩っ早いのか、それとも単に何も考えていないのか、頻繁に戦をする。他のどんな国よりも多いだろう。


  「はあ」


  重たい身体と心が重力に逆らえず、腰を曲げて下を向く。


  今日はゆっくり寝ようかと思っていたが、どうもそれは叶わないようだ。


  次に太陽が昇ったとき、義景は上を向いていた身体を横に動かし、九十度違う部屋の中を眺めていた。


  「早く起きろ」


  ノックもせずに入ってきた兵士は、まだベッドで横になってる義景を見て、小さく舌打ちをしたようだが、聞こえないことにする。


  すぐ戦に出られるように着替えると、義景は部屋を出る。


  城を出て馬に乗ろうとしたとき、ふと、自分がいつもいる部屋を見上げるつもりで顔をあげてみた。


  すると、ある一室から、こちらを覗いている顔に気付く。


  自分と瓜二つのその顔は、馬に乗っている本当の自分とは裏腹に、何かを楽しんでいるように笑みを浮かべていた。


  手綱を引いて出発すると、街人はまた戦争か、と言いたげな表情をしているのも見えた。


  大地がひどく震えていた。


  義景たち廉家の兵士たちが着いたころには、すでに敵国が近くまで来ていて、先に行っていた兵士が何十人も死んでいた。


  剣を抜いて戦っていた義景だが、ヒュッ、と何かが顔をスレスレで横切って行ったのが見えた。


  何だろうと、視線をちらっと動かして、その何かを確認しようとしたところ、それは矢だったことが分かった。


  地面に突き刺さったその矢に、義景はひやりと感じた。


  それをきっかけに、次々に義景を狙って飛んでくる矢を必死に避けて、矢から懸命に逃げていた。


  地面に突き刺さる矢ばかりではなく、近くにいる廉家の兵士や、敵国の兵士に刺さる矢も当然あった。


  「はあはあ」


  逃げて逃げて、でも恒楊の顔である義景が逃げ切れるはずがない。


  兵士たちを戦場に置き去りにしてでも、義景は生きたかった。


  何度も経験している戦であって、命を落としても仕方の無いことだと割り切っていた、と自分でも思っていた。


  ―ダメだ!!!怖い!怖い!


  自分ではない誰かが怯えている感覚に、手足は震えて力が入らない。


  最初に戦に出て時よりも大きな不安や恐怖に襲われ、義景は泣きながら走っていると、急に吐き気を覚えた。


  両膝をついて地面に嘔吐し、背後から聞こえてくる叫び声を聞いていた。


  ―俺の代わりだ


  生きるのも死ぬのも、恒楊の代わり。


  それならば、死ぬよりも生きることを選ばなければいけない。


  「おい、あいつはどこにいった!?探せ!!」


  「まさか、逃げたんじゃないだろうな!!!」


  「捕まえろ!逃げたとあれば、多少痛い目に合わせろ!!!」


  敵国にも、廉家の兵士たちにも追われることとなった義景は、どこまでも走って逃げて行った。


  気付くと、戦場からは随分と離れた、崖の上にまで逃げていた。


  ぼーっとそこに立っていると、後ろから、敵とも味方とも分からない男たちが迫ってきており、義景は一気に身体中の血の気が引くのを感じた。


  風の強いその日、断崖絶壁にいた数人の男達。


  「もう逃げられないぞ!恒楊!」


  「くッ・・・!お前ら、何者だ!誰に頼まれた!!!」


  「じきに死ぬ貴様には関係あるまい。さあ、その崖から落ちて死ぬか、我々に殺されるか、どちらがいい?」


  ちらっと足下を見れば、波が荒れた海が見える。


  「恒楊!さあ!死ね!!!」


  一人の男が、恒楊に向かって矢を放った。


  逃げ場の無い恒楊は、矢を受ける前に、自分の身体を宙に浮かせて激しい波の中へと姿をくらました。


  大きな水しぶきをあげてバシャ―ン、と落ちると、恒楊はまったく見えない。


  男たちは恒楊を探しに行こうとも思ったが、荒れ果てた海に自らいくことは、死にに逝く様なものだと、死を確認せずにその場を立ち去った。


  未だ鎮まることの無い海に、空からは黒い雨が降り出した。


  ザーザー、と強くなるだけの雨は、海の中を漂う魚たちには届かない。


  凍ってしまうのではないかというくらいに冷たい海の中に落ちた身体は、浮かぶことを知らない泡のように沈む。


  ―僕は、死ぬのか。








  「義景。私に何かあったときは、父上と母上のこと、お前が守るんだ」


  「何かって?」


  「わからない。だから何かって言ったんだ」


  「なにそれ」


  両親が城から出てどこかに行っている間、義景と兄の劉圭は正座をして互いを見ていた。


  劉圭は背筋を伸ばしているが、義景は疲れてきたのか、徐々に猫背になってきている。


  それを見た劉圭は、目を細めてパシッと軽く義景の頭を叩き、義景は頬を膨らませて劉圭を睨む。


  「正義を振りかざすだけなら、馬鹿にも悪にも子供にも出来るんだ。そんな人間にはなるな。人の痛みも悲しみも分かる、父上や母上のような大人になれねばいけない」


  「んー」


  眠たいのか、うとうとと、劉圭の話など柳に風だった。


  まだ難しい話など分からない義景を見て、幸せ者だな、と思ってしまった劉圭は、義景を起こしてベッドまで歩くように言う。


  義景とさほど歳の違わない劉圭だが、その瞳はしっかりと“自分”を受け入れていた。


  そして、横になった義景の隣で、あの唄を歌った・・・・・・。


  「ねえ兄上」


  「なんだ?」


  「その唄は、誰が作ったの?」


  「わからない。遠い昔の誰かが作ったんだ」


  誰がいつ、どこで、何の為に、どうやって作り、歌い、また、その唄は誰が聴き、受け継がれてきたのか、誰にも分からない。


  それでも確かに存在しているこの唄は、弱き者には励みと成り、強き者には娯楽と成る。


  貧しい街の老人がつくったという人もいれば、名も無き旅人がつくったという人、あるいは娼婦がつくっただの、どこかの国に仕える詩人がつくったのだという人まで、様々な推測が飛び交う。


  小さな息吹を歌うその唄は、いつしか子守唄となった。


  「昔の誰かって誰?」


  「わからない。誰かだ」


  「変なのー」


  小さい頃から、枕元で母親の歌声を聞いていた。


  優しく頭をなでられ、透き通るような、それでいて少し掠れたような声は、聴いていてとても温かかった。


  「兄上」


  「なんだ?」


  「兄上は、その唄好き?」


  「ああ。好きだ」


  「じゃあ、父上も母上も好きかな?」


  「きっと好きだと思う」


  劉圭の言葉を聞くと、義景は嬉しそうにニッコリ笑って、「よかった」と言った。


  義景は瞼を閉じ、劉圭は唄の続きを歌った。








  ―ここは?


  死んだと思っていたが、流れ流されてどこかの岸に流れ着いたようだ。


  肌に感じる砂はきめ細やかで、多少顔を動かしても痛いとは感じない。


  ゆっくり上半身だけを起こして、あたりを見渡して見ると、砂漠のように砂だらけで何もない。


  力が入らない足を踏ん張らせてみるが、やはり動かない。


  「・・・だめだ」


  パタン、とまた砂の地面に顔から落ちると、義景はまたスースーと目を瞑って眠りに入ろうとした。


  「こんなところで死ぬとは、悲しい奴だな」


  「?」


  今まで、太陽の温かさを感じていた背中には、陽が届かなくなり、うっすら目を開けてみると、誰かの影が自分に重なっていた。


  顔をあげてみたが、首が痛くなったため、また上半身だけを起こした。


  仁王立ちで義景に日蔭を作っていたのは、初めて見る男だった。


  誰だろう、会ったことがあったか。いや、“奴”という言い方をしたところからして、きっと知らないだろう。


  「ここは天国と思うか、地獄と思うかは、ここに来た奴次第だ」


  「じゃあ、私は死んだってことですか」


  「さあな。どう思う?」


  天国か地獄しか選択肢がないのなら、誰もが死んだと思うだろうと、言葉を飲みこんだせいか、義景の表情は険しくなってしまった。


  「俺の名は、まあ、バロンにでもしておくか。お前を殺すも生かすも俺次第だが、なにやらお前、わけありだな。同情をするわけじゃねーけど、人生これからだからな」


  バロンと名乗った男は、靡くような綺麗な金髪を太陽に浴びせ、瞳は吸い込まれるようなアイスブルー。


  「私は、生きて行く意味があるのでしょうか」


  身体を動かして胡坐をかき、心地良く吹いている風を受けた。


  ふと口にした言葉は、男に言ったつもりなのか、そうでないのか、それは義景自身にも分からなかった。


  だが、口にしないと確かめようがないことなのも確かだ。


  義景のそんな台詞を聞いたバロンは、まだそれほど歳ではないにも関わらず、哀愁を感じさせる義景の背を見て、笑った。


  「ハハハハハ!!!!面白えガキだな。生きてる意味なんて、故人でさえ知らないだろうよ。そもそも、意味だの価値だの考えてる時間はもったいない。んな時間あるなら、精一杯楽しめばいい。そうすりゃ、もしかしたら、死ぬ時に、そういうのは分かるかもな」


  バロンは、義景の隣に佇んだ。


  「生きてる意味がわかんねーのなんて、人間だけじゃねえ。動物も獣も蟲もそうだろ。生きるために殺す、殺さないと死ぬ。自然界ってのは、生死の巡り合わせによって生命が成り立つ。それにしても、お前は此処に来るのがちと早かったな。さっさとここから出て行けよ」


  「・・・・・・ここから出て行け?」


  「ああ」


  出て行けと言われても、どこからどこへ出て行けばよいのかと、義景はバロンを見てキョトンとする。


  「世界は平等?笑わせてくれる。俺は平等にしたつもりなんて無い。信じた者だけ救おうなんてことも考えちゃいない。人も動物も一つの個体として存在した以上、何もかも違うんだ。同じなんて有り得ない。それでも同一であることを望むのは、エゴだ。孤独が怖くて泣いてりゃ、せわねえな」


  「産まれたときから、家もあってお金もあって食べ物もあって、何一つ不自由したことのない人間が権力を持つ。産まれた時から、家がなくお金もなく食べ物もなく、不自由な中で懸命に生きてる人間は、その権力によって縛られ、蔑まれ、最悪、命を落とします。それはあまりに可哀そうだとは思いませんか」


  饒舌にベラベラと話すバロンと、静かに淡々と話す義景。


  「不憫だ可哀そうだ。そう思ってる奴の方が、寂しい奴だな。他人の不幸を見て可哀そうだなんて、相手に失礼だ。そうやって、相手を可哀そうだと思って、自分はまだマシだって思ってるんだよ」


  「違う!」


  まるで自分が全部言われていると思った義景は、バロンの言葉を遮るために叫んだ。


  「いいか。この世は不公平だ。どんなにもがいても足掻いても、抵抗しても反論しても、それは変わらない事実だ。目を逸らした奴の負けだ。それでも顔を背けずに生きてる奴らを、お前は知ってるはずだ」


  続けざまに、バロンは語る。


  「人間はいつも馬鹿だ。いつの時代もいつの歴史もな。同じ過ちを繰り返しても、欲に溺れて私利私欲、至福を肥やす豚同様の人間を生かしてるのには、それなりのわけがある。それはな、人間には可能性があるからだ。思考、知恵、探究心、本能の赴くままに動く動物とは違う、能力がある。プラス、動物同様に、目には見えない愛ってやつを持ってて、それがまた理解出来ない力を持ってる。だから、馬鹿でしょうもない、どっちかってーと邪魔でいない方がいい人間を生かしてる。わかるな?」


  時代の節目には、そういう奴が必要なのだと。


  吸い込まれるような瞳を見ていると、バロンはまた「じゃあ帰れ」と言ってきた。


  色々と聞きたいことがあった義景だが、バロンは話終えるとさっさとどこかへ行ってしまった。


  しばらく、そこでの景色を眺めていた義景だったが、急に眠気に襲われた。


  義景の姿が、すうっと消えていったころ、そこに二つの影が現れた。


  「バロン、お前もお人好しだな。さっさとあの世に連れて行ってやればよかったものを」


  「そうはいかない。お前と一緒にするな。俺は一応“神様”っていう部類なんだ。助けてやるのも、一つの仕事だ」


  「ここで死なせてやった方が、精神的に助けてやったことになんじゃねーの?」


  「簡単に死を望むような人間、こっちから願い下げなんでな」


  バロンともう一つの影は、同じような背格好をしているが、もう一人の男は真っ黒な髪の毛をしていた。


  烏のような真っ黒な羽根をバサバサと動かすと、一枚、二枚と、羽根が宙を舞う。


  「お前がどんなに人間に期待しても、人間は変わらねーよ」


  「だろうな」


  「知っていながら、あいつを生かした?」


  男に投げかけられた質問に、バロンは平然としていた。


  太陽の光とはまた違う、何かの明るい光に反射されたバロンの髪の毛は輝きを放ち、風によって揺られた。


  バロンは軽く髪の毛を梳き、欠伸をする。


  「どの時代にも英雄と呼ばれる存在がいる。英雄の影になる存在もいる。光と影はふたつでひとつ。あいつは光には成り得ないが、影として存在しなければならない。神も仏もない。あいつらには、それ以上に信じないといけない存在があるんだ」


  「神以上に信じる存在ねぇ。信者が聞いたらぶったまげるな」


  「あいつには、辿るべき運命がある。それに従ってもらうだけだ」


  その横顔が、先程までここにいた義景のように、切ない様な何かを押し殺しているような、そんな顔だった。


  そんなバロンの横顔を見ていた男は、ゆっくりと笑う。


  「それに、俺達と状況が似てるしな」


  「・・・似てねーよ。あっちは他人、こっちは双子だ」


  「ああ、そうだった」


  黒い髪の男は、舌を出してバロンをおちょくるが、バロンは男を相手にしない。


  そして、義景がいるときには気付かなかったが、奥の方にある、御殿のような建物に入って行った。


  義景はフワフワとして空間を泳ぎ、気付くと、どこかのベッドに寝ていた。


  


  ―ここは、天国だろうか。それとも、地獄か。


  ―それにしても、良い匂いがする・・・・・・


  「あ。おねぇちゃん!起きたよ!!」


  「こら、燈翔、騒がないの!大人しくしてなさい!」


  ゆっくりと目を開けると、目の前にはボサボサ頭の男の子が一人と、首あたりまでの長さの髪の毛の少女がいた。


  男の子は目をキラキラさせて顔をのぞきこんでくる。


  そんな男の子を片手で軽くこつきながらどかせると、右目の下にホクロがついている少女が、目を合わせてニッコリ微笑んできた。


  「騒がしくてごめんなさい。気分はどうです?」


  「え、ああ。大丈夫です。えっと・・・」


  「私は星蘭。こっちは弟の燈翔。あなたは?」


  「私は・・・・・・あれ?私は・・・」


  自分のことを聞かれ答えようとしたが、何も思い出せなかった。


  ところどころ、覚えているところがあるわけでもなく、自分が産まれてからここに至るまでの十数年もの間の記憶が、ぽっかりない。


  ぽっかりどころか、何もない。


  ただ、胸の奥のほうに響いているのは、“劉・・・”。


  それさえも思い出せないでいたが、その一文字には今までの全てが詰まっているような気もし、その名を二人に告げることにした。








  月が、綺麗だった。


  夢から覚めたと思ったら、まだ真夜中だった。


  鉄格子越しに見える月は、劉のいる部屋まで届き、顔を照らした。


  太陽ほど眩しくは無いその灯りは、やる気をみなぎらせる、というよりは、心を静めるためのものだろう。


  自然の鎮痛剤といってもいいだろうか。


  「長い夢を見ていたような気がする」


  起きた瞬間、見ていた夢など忘れてしまったが、懐かしい様な、そんな夢だった。


  ゆっくり息を吐くと、再び目を瞑った。


  次に劉が目を覚ましたのは、太陽が昇ったときだった。


  今日もまた、兵士たちによって拷問を受けることになるのかと、思い出せない過去を思い出そうとした。


  ただ、何かの旋律は思い出した。


  何の歌か、いつ覚えたのか、いつ歌ったのか、誰が綴ったものか、それは分からない。


  夢の中で何度も流れ、全身を震えさせるほどの鮮やかな旋律は、いつの時代のものだろうか。


  身体がまだ傷むが、部屋に近づいてくる兵士の足音が聞こえる距離になると、義景は無意識に歯を食いしばってしまう。


  言われる前に準備をしておこうと、ベッドから下りて着替え始める。


  少しして兵士が来ると、劉のいる部屋の中に、朝食を放り込んだ。


  そして、劉が食べているところを観察し、食べ終えるまでずっと見下ろしながら待っているのだった。


  それが居心地の悪いこと悪いこと。


  それほど量としては多くないため、ものの五分ほどで食べ終えると、次は兵士の後をついていく。


  暗くジメジメした部屋に入り、また両手を縛られる。


  天井まで伸びるロープに括りつけられると、兵士たちは劉の身体を叩き始める。


  最初は二人だけだったが、なぜかさらに三人が部屋に入ってきて、みなで劉を叩きつけ、殴った。


  腕から、足から、身体中の至るところから出てくる血は、痛みという感情さえも奪っていくようだ。


  「まだ思い出さないのか?ハッ、嘘吐き続けてれば、解放されるとでも思ってるのか?」


  「恒楊様は、例えお前が思い出さなくても、最終的に戦に出せと言っている。こんなところで耐えていても、無意味なんだよ」


  「私は、本当に、何も」


  途中、兵士は劉の腹を殴った。


  胃が押し出されたような感覚は、気持ち悪いとは別の気持ち悪さで、臓器そのものが出てきてしまいそうだ。


  ―私は、何をしているのだろう。


  兵士たちのいうとおり、自分は本当に影武者として生きていたのか、それさえも疑問に思ってしまう。


  しかし、恒楊を見た時、身体がぶるっと震えた。


  記憶には残っていないはずなのだが、記憶よりも奥深いところで反応を示した。


  身体中に突き刺さる痛みを耐えながら、義景は頭をフル回転させて思いだそうと努力した。


  ―あの男は、なんで私を見て笑う?


  ―あの男を見て、足が竦んでしまったのはなぜ?


  ―あの男を見て、一瞬、殺意が沸いたのはなぜ?


  兵士たちの加減の知らない痛めつけは、朝陽が昇ってから沈むまで、ひたすら続いた。


  何時頃なのだろうか。きっとあたりは暗くなってきたころに、劉は部屋に戻ることを、ようやく許された。


  歩くのもままならない劉だが、兵士は手を貸そうともしない。


  「さっさと歩け」


  「俺達も暇じゃぁないんだ」


  よろよろと歩いている劉の足を、わざと引っかけて転ばせたり、歩くのが遅いため、背中を蹴って傷を広げる。


  やっとのことで着いた部屋に入ると、力無くベッドに横になる。


  兵士たちが何やら厭味を言っているようだが、今の劉にとって、何を言われているのかは全く問題にはならなかった。


  早く一人にしてほしくて、劉は何も言わずに目を瞑った。


  ―いつまで、ここにいればいいんだろう。








  ある小さな村にてー


  「ねえおねえちゃん」


  「なあに?」


  「お兄ちゃん、帰って来ないの?」


  城から離れた小さな村に、二人の姉弟が住んでいる。


  「おねえちゃん?」


  「・・・燈翔、もう遅いから、寝ましょう」


  「また、お兄ちゃんとボール遊び出来るかな?」


  川で見つけた、一人の青年がいた。


  青年は自分のことさえ覚えていなくて、迷っているような感じではあったが、青年は「劉」と名乗った。


  弟の燈翔もすぐに懐き、姉の星蘭にとっても頼れる存在となった。


  親が死んでからというもの、ずっと二人で生きてきた。


  毎日が退屈だったわけでもないが、ふと、これから先、どうなるのだろうという不安はあった。


  輝きを失いかけていた日常が、青年の登場によって再び輝き出し、明日が来るのを待ち遠しく思えた。


  時折見せる横顔は、どこか悲しげで、こんな表現はおかしいかもしれないが、綺麗だった。


  何があったのかは分からないまま、劉は城の兵士に連れて行かれてしまった。


  あの日から、燈翔は毎日のように外に出てはいるが、何もせずに、ただひたすら、ずっと、待っているのだ。


  「おねえちゃん、なんでお兄ちゃん、連れて行かれちゃったの?」


  「おねえちゃん、お兄ちゃんは、悪いことしたの?」


  「おねえちゃん、ねえ、おねえちゃん」


  自分だって聞きたいのに、誰にも聞けない、何も分からない状態で、燈翔に質問されることは、とても苦痛だった。


  劉が連れて行かれてから、星蘭は考えていたことがある。


  どうして、劉が自分たちの家にいることが分かってしまったのか。そして、それを城に告げたのは誰なのか。


  あの人しかいないと、星蘭は検討をつけてはいたものの、昔からお世話になっているあの人が、まさか自分達を裏切るような真似、しないと信じたかった。


  数日経って、星蘭は意を決して、その人物の家まで歩いて行った。


  遠くて遠くて、握っている燈翔の腕さえも何度も離しそうになったが、燈翔が頑張って歩いている姿を見て、強く握りしめた。


  足がもげたのではないかと思うほど、歩き続けて、ようやく辿りついた家。


  家の近くまで行ってみると、馬小屋を見つけた。


  「燈翔、ここで待ってて」


  「やだ!一緒に行く!」


  自分よりも幼いはずの燈翔の顔は、いつの間に成長したのだろうか、キリッとした顔だった。


  コンコン、とドアをノックすると、すぐに中から声が聞こえてきて、星蘭は名前を告げると中に案内された。


  ニッコリと笑って案内された部屋は、立派な内装になっていて、まるで最近新しくしたようだ。


  「今日はどうしたんだい?燈翔君も一緒かい」


  「ええ。ちょっと、お聞きしたい事がありまして」


  「何だい?答えられることなら、なんでも答えるよ」


  ごくり、と唾を飲み込むと、星蘭は拳を作った手を強く握った。


  「私の家にあの男の人がいたことをお城に言ったのは、貴方ですか?」


  星蘭の言葉が聞こえているのかいないのか、老婆は星蘭と燈翔ようにと、温かいミルクを用意していた。


  コップにそれを注ぐと、老婆は二人の前に声を出して下ろした。


  「そうじゃよ」


  悪そびれた様子が全くない老婆に、星蘭は唇を噛みしめる。


  何も分かっていない燈翔は、自分の前に用意されたホットミルクを嬉しそうに見て、フーフーしながら少しずつ飲んだ。


  「何の罪もない人を!貴方は!!」


  ガタンッ、と強くテーブルを叩いた星蘭に驚いたのは、老婆だけではなく、ホットミルクを飲んでいた燈翔もだった。


  「あの男は、廉家に刃向かった逆属だそうじゃよ。何も知らなかったんじゃろ?さ、これでも飲んで、落ち着くといい」


  「そんな人じゃありません!!」


  溢れてくる悔しさは止めどなく、今にも老婆に飛びかかりそうになる気持ちを抑え、星蘭は肩で息をする。


  しばらくは、優しい表情で二人を迎えていた老婆だが、急に態度が変わった。


  「良い顔してりゃあ、勝手なこと言ってんじゃあないよ。小さいころから面倒見てやったって、こうだ。お前たちの世話だって、タダじゃあないんだよ!!金はかかるし、泣き喚いて、手がかかるったりゃありゃしない!!!」


  目尻を下げて笑っていた顔は、一瞬にして鬼のような形相へと変化した。


  それには、大人しくミルクを飲んでいた燈翔も驚いてしまい、手に持っていたコップをガチャン、と落としてしまった。


  「そんなこと言いに来たなら、さっさと出て行きな!!!」


  星蘭と老婆を交互に見て、落としてしまったコップを片づけようとした燈翔。


  屈んで、散らばった破片を拾おうとしたが、鋭く尖ったそれらは、燈翔の幼い指に食い込み、血が流れた。


  自分の口に含んで消毒をした燈翔を、汚いものを見る様な目で見ている老婆は、自分のホットコーヒーを飲む。


  燈翔の腕を掴み、老婆の家から出て行こうとした星蘭に、老婆が言った。


  「恩を仇で返すってのは、このことだね」


  わざと聞こえるようにいったのか、それとも、単に独り事なのかは分からなかったが、とにかくその場から遠ざかりたかった。


  走って、走って、息が切れるまでずっとずっと走った。


  「おねえちゃん!おねえちゃん!」


  足がもつれて、転んでしまうかもしれないし、握っている燈翔も苦しそうに息をしているのもわかっている。


  でも、止められなかった。


  視界は濁り、真っ直ぐに前を見て走ることもままならない状況で、星蘭は走れるところまで必死に走った。


  「おねえちゃん!」


  燈翔の叫び声が聞こえ、次の瞬間、握っていた小さな手が離れた。


  勢いだけで動いていた足を止めて振り返ると、燈翔が躓いて転んでしまっていた。


  「燈翔、ごめんね。大丈夫?痛い?」


  燈翔に駆け寄って傷口を見てみようとするが、差し出した手を払われてしまった。


  行き場を失った手はしばらくそのまま宙を漂っていたが、少しすると、静かに身体の横に移動した。


  顔をあげて星蘭を見る燈翔の顔は、怒っているように見える。


  「疲れちゃったよ」


  「うん。ゆっくり帰ろうね」


  膝を擦りむいてはしまったようだが、幸い、掠り傷だった。


  燈翔の手をもう一度しっかり握ると、星蘭は家までの長い道のりを歩きだした。


  「おねえちゃん、どこか痛いの?」


  「え?」


  「だって、泣きそうなんだもん」


  自分を見上げるようにして見ている燈翔は、まるで今の自分の顔を見ているかのように、悲しそうな顔をしている。


  星蘭は顔に力を入れて笑った。


  「平気よ」








  「どうだ?思い出したか?」


  「いえ、まだです。まだ何も知らないと言い張っています」


  「へー。そりゃあ残念」


  この日は珍しく、女性たちが周りにいない恒楊は、一人でのんびりと部屋の奥で何かに勤しんでいた。


  「恒楊様、何をなさっておいでで?」


  「んー?親父が持ってたファイル探してる」


  「ファイル?ですか」


  「そ。なんかよ、俺よく知らねーんだけど、黒市場にいるある男のことについて、なんか書いてあるんじゃねーかと思ったんだけどな」


  探している、というよりは漁っている、と言った方が的確なような恒楊の探し方。


  だが、どうにも見つからないようで、恒楊は諦めて椅子に腰かけた。


  テーブルの上に用意してあったワインを持つと、酒でも飲むかのように一気に呑み干し、プハー、と声を漏らす。


  一人の兵士が、もしや、と思い、恒楊に聞いてみる。


  「恒楊様、黒市場にお出かけになど、行かれていませんよね?」


  恐る恐る聞いてみると、恒楊は兵士の顔をじーっと見て、いたずらっ子のようにニタ―っと笑った。


  「行ったって言ったら?」


  「先祖代々、あの市場には行かぬようとの、強い御命令があります。もしもそのようなことがありましたら、ご警告させていただかねば」


  「心配すんな。行ってね―から」


  自分を取り囲むように立っている兵士が気に食わない恒楊は、椅子から立ち上がって部屋を一周する。


  窓から夕陽が次第に落ちて行くのを眺め、目を細める。


  「あの野郎、覚えてろ」


  ボソッと言った恒楊の言葉は、兵士には聞こえなかった。


  くるりと身体を反転させると、恒楊は部屋を出て行き、そのまま女性達がいる部屋へと向かって行く。


  女性達は、皆、街に住むどこかの家の娘だ。


  先日、黒市場であった男に屈辱を味わわされた恒楊は、女性達の間に座って肩を抱くと、両脇の女性の耳にキスをする。


  恒楊の行為に頬を染める女性は、自ら恒楊の首に腕を絡め、唇に求めた。


  触れるか触れないかのところで止めると、女性は恒楊の動きに首を傾げる。


  「黒市場について、なにか知ってるか?」


  「黒市場って、あの黒市場?」


  甘ったるい声で恒楊の質問に答える女性は、じれったいのか、恒楊の唇に吸い付こうとしたが、避けられてしまった。


  「いじわる」


  「話してくれりゃあ、たっぷりしてやるぜ」


  真っ赤なルージュを塗った唇が妖艶に弧を描き、女性の魅力をより一層引き立たせている。


  「黒市場についてってことは、イオについてでしょ?」


  「イオ?」


  聞き慣れない名前に、恒楊は眉間にシワを寄せた。


  その顔を見て、女性は楽しそうにクスクスと笑い、一旦は離れた顔をもう一度引き寄せ、囁くように言う。


  「あの男はね、イオって呼ばれてるの。本当の名前は誰も知らないわ。家族についても、生活についても、どこで産まれたのかも、何も分からない。ただ、一つだけみんなが知ってることはね、イオは、残酷な商売人ってことだけ」


  「残酷ねえ。どんな風に?」


  「フフフ。知りたい?」


  小さくため息を吐き、女性の口に自分の唇を軽く落とすと、恒楊はもう一度聞く。


  「で?」


  「噂だけどね」


  そう言って女性が話したことは、やはり、恒楊の身にも起こったようなことだった。


  市場というだけあって、何でも揃っているのか、イオはどうやってそれを揃えているのかは分からないが、とにかく何でもあるようだ。


  ただ、他の市場と異なる点は、支払うのはお金ではないということ。


  相手が子供であろうと、今にも死にそうな老人であろうと、それに見合った代償を払わせると言う。


  腕を払え、遺伝子を払え、実の息子を払え、など。


  詳しいことは何も分かっておらず、その代償を手に入れてどうしているのかも分かってはいない。


  「私が小さいころは、一人であの裏道に入ると、魂取られるとまで言われてたわよ。ああ、そうそう。それから、イオは歳を取らないっていう噂もあるわ」


  「私も聞いたことあるわ」


  反対側にいた女性も、話に入ってくる。


  「歳を取らないって、不老不死みてーだな」


  「案外、そうなのかもね」


  冗談交じりに言った恒楊の言葉だが、自分で言ったにも関わらず、本当にそうかもしれないと、恒楊はまた夜にでも行ってみようかと考えていた。


  だが、女性はそれを見破ったようで、恒楊の腕を力強く掴んだ。


  「行っちゃダメ。本当に、魂取られちゃうかもしれないわ」


  「ああ。似たようなことは言われた」


  「え?」


  「いや、こっちの話だ」


  ついつい口が滑ってしまい、男のもとに行ったことがバレテしまうと、恒楊は女性の口を塞いだ。


  とろん、と目が恒楊だけを捉えるようになると、もうこっちのものだと、恒楊はさらに深く口づけた。


  「ずるい」


  もう一方にいた女性も、負けじと恒楊に絡みつき、表面上だけの愛を求めた。


  女性達と熱い口づけを交わしている間も、恒楊は男についてどうやって調べさせようか、それとも城に無理矢理連れて来ようかなどを考えていた。


  「もっと」


  「欲深い奴だ」


  潤んだ瞳で恒楊を見つめている女性だが、そんなもの、恒楊にとってはただの暇つぶしでしかないことなど、知らないだろう。


  夕暮れの街を見ると、まるで街全体が燃えているようだ。


  炎に包まれた小さな街の中、消えることの無い景色だけがのうのうと生き残る。


  「おっと。忘れるところだった」


  女性に覆いかぶさろうとした恒楊だったが、兵士に言うべきことがあったことを思い出し、身体を起こした。


  残念そうな顔をしている女性は、頬杖をついて恒楊をじいっと見つめる。


  「もしも、あいつがいつまでもシラを切り通すなら・・・・・・」


  コソコソと何かを兵士に言った恒楊は、言い終えると満足そうに女性のもとに戻った。








  その頃、部屋に一人、軋む身体がやっと休まろうとしていた劉は、目を閉じて、あとは意識が無くなるのを待つだけだった。


  だが、頭は眠いと言っているのに、身体はまだ眠くないと言っている。


  瞑っていた目を開け、開けてはしばらくしてまた閉じ、そんなことを繰り返していると、足音が聞こえてきた。


  また兵士が来たのかと、寝た振りを決め込んだ劉だが、足音は部屋の前で止まったまま。


  それから少し時間が経過しても、足音は動く気配もなかった。


  顔は扉とは逆の壁側を向いていたため、身体を動かそうと思うが、その気配が先に揺れた。


  「なんとも、居心地悪そうな場所ですね」


  「?」


  初めて聞いたその声に、誰だろうと身体を起こしてねじると、そこにいたのは、見覚えの無い男と思われる人物だった。


  男かもしれないという言い回しなのは、その人物の髪の毛が長かったからだ。


  だが、よくよく見てみると、鮮やかな紫色のグラデーションの髪の毛を掲げている男は、顔と首に何かの形の痣らしきものがあった。


  パッと見では中性的な顔立ちかと思ったが、目は少し細めであってキリッとしており、鼻筋も通っていた。


  「誰、です?」


  「これは、失礼いたしました。私、遠くの国でサーカスという見世物をしている者でございます。名を、ジョーカー、と申します」


  「変わった名ですね」


  「そうでしょうね」


  「なぜここに?」


  「仕事と言うべきでしょうか、個人的な興味と言いましょうか。貴方様をサーカスに是非ご招待しようかと思ったのですが、何分、状況が状況ですので」


  状況というのは、きっと劉が半ば捉えられているということだろうか。


  ジョーカーと名乗った男は、劉を見てニコニコと笑っているだけでなく、鉄格子をすうっと通り抜けて中に入ってくると、劉の傍に来た。


  その行動に驚いていると、男はドアとは反対側にある鉄格子から見える月を眺める。


  男につられて劉も月を見ていると、急に冷たい風が吹いた。


  「では、そろそろ戻らないと、また小言を言われるので」


  「もう、行ってしまうんですか」


  「ええ。きっと何れ、また会う事になるでしょう。そのときは、またゆっくりお茶でも飲みながら話しましょう」


  すると、ダダダダ、というまた誰かの足音が聞こえてきて、劉はそちらに目を向ける。


  息を切らせながら走ってきた兵士たちが部屋の前に着くと、あたりをキョロキョロとしていた。


  「おい、ここに不審な奴が来なかったか」


  きっとジョーカーのことだろうとも思った劉だが、それならば今ここにいるはず、と月灯りが見える鉄格子の方へ目を向けた。


  しかし、そこに男の姿はなく、劉は目を見開いた。


  「ここにはいない。おい、戻るぞ」


  「さっきの人は、一体?」


  急に、瞼が重くなった。


  身体もベッドに体当たりし、そのまま眠りに落ちた。






  「ジョーカー、何処へ行っていた」


  「そんなに怖い顔しないでよ。招待客を探しに行ってたんだよ」


  「じゃあ、何をそんなにニヤニヤしてるんだ」


  「んー?不幸な人を探すのは、いつの時代も簡単だなーと思ってね。そういえば、ちょっとだけジャックに似てたかも」


  「誰がだ」


  「誰だっけ。えーっとね・・・・・・」






  名もなき英雄がいた時代があった。


  彼らは決して表舞台に立つことは無いが、確かに存在した。


  そして、光を産みだす影として生きた。







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