シャドウ・ライト

maria159357

第1話光と影






シャドウ・ライト

光と影


                       登場人物




                            薗 義景 おんよしかげ


                            星蘭 せいらん


                            廉 恒楊 れんこうよう


                            薗 劉圭 おんりゅうけい


                            燈翔 とうしょう


























 他人を感動させようとするなら、まず自分が感動せねばならない。


そうでなければ、いかに巧みな作品でも決して生命ではない。   ミレー






































   第一章 【 光と影 】
























 かつて、この世には“影武者”というものが、確かに存在した。


 それを証明できる物も、証明できる者も、何一つ、誰一人としていないが。


 歴史にも残らない名もなき英雄を、“シャドウ・ライト”とここに示すことにする。


 影に生きながら、決して灯りを消すことの無い力強いその命は、我々の時代にも受け継がれているのかもしれない。


 自分ではない他の誰かとして生きる。


 それは果たして幸せなことだろうか。








 風の強いある日、断崖絶壁には数人の男たちがいた。


 「もう逃げられないぞ!恒楊!」


 「くッ・・・!お前ら、何者だ!誰に頼まれた!!!」


 「じきに死ぬ貴様には関係あるまい。さあ、その崖から落ちて死ぬか、我々に殺されるか、どちらがいい?」


 ちらっと足下を見れば、波が荒れた海が見える。


 「恒楊!さあ!死ね!!!」


 一人の男が、“恒楊”と呼ばれた男に向かって矢を放つ。


 逃げ場の無い恒楊は、矢を受ける前に、自分の身体を宙に浮かせて激しい波の中へと姿をくらました。


 大きな水しぶきをあげてバシャ―ン、と落ちると、恒楊はまったく見えない。


 男たちは恒楊を探しに行こうとも思ったが、荒れ果てた海に自らいくことは、死にに逝く様なものだと、死を確認せずにその場を立ち去った。


 未だ鎮まることの無い海に、空からは黒い雨が降り出した。






 ―ああ、私は死ぬのか。


 ―もう少しだけ、生きたかった。


 ―兄上、私ももうじき、そちらに逝きます。






 ―十年前


 「よいか。劉圭、義景。二人とも、良く聞きなさい」


 「なんですか、父上」


 「なーに?父上」


 トコトコと音が聞こえてきそうな、可愛らしい姿を見せた二人の男の子。


 兄の劉圭と、弟の義景。


 その二人の前に立って、窓の外から景色を眺めている男は、二人の父親であり、その傍らにいる女は、母親である。


 キョトンとした表情の二人に、父親は優しい口調で話しかける。


 「我々“薗家”は、代々“廉家”の影武者として生きて行かねばならぬ定めだ。廉家で子が宿れば、我々も子を宿し、歳格好を似せる。もしも産まれた子の性別が異なれば、それなりの代償を支払わなければならない。お前達、顔を変えたことを覚えているか?」


 目線を二人に合わせて問いかけると、兄の劉圭がハキハキと答えた。


 「はい。覚えています。だから私も義景も、父上も顔が同じなのでしょう?」


 「えー?僕も兄上のような顔なの?」


 困ったように笑う父親は、ひとつ、大きな息を吐くと劉圭と義景を交互に見やる。


 「そうだ。廉家で産まれた御支族の顔に似せて、な。私達は、産まれながらに“自分”というものが無い。きっとこの先、いつか、廉家を恨むときが来るかもしれん。だがな、決して恨んではならぬぞ。決して、だ」


 最後のほうの言葉は強めに伝えると、劉圭は「はい」と返事をし、義景は首を傾げていた。


 そんな義景を見て、父親は義景の頭に手を置き、ガシガシと大きくかき回す様にして頭を撫でた。


 「ハハハハ。義景にはまだ難しかったか!」


 母親がゆっくり三人に近づいてくると、二つの小さな陰を包み込む。


 「ごめんね。私達の子に産まれなければ、もっと自由に生きられたのに」


 強く抱きしめられた腕は、微かに震えていた。








 夜、劉圭と義景は二人同じ部屋で寝ようとしていた。


 「ねぇねぇ兄上」


 「なんだ」


 「さっき父上の言ってたことって、どういうこと?よくわかんなかった」


 「いいか義景。私は劉圭という名はあるが、その名は捨てなければいけない。お前もだぞ。その代わり、廉家の“尤楼”として生きて行くのだ。義景は尤楼の弟の“恒楊”として生きて行くのだ。わかったな」


 「なんで?僕は義景だよ?恒楊になんてならないよ」


 「それじゃあ、父上も母上も罰則を受けるんだ」


 兄が難しいこと、わけのわからないことを言っている。


 きっと、義景はそう思っていたのだろうが、横目でちらっと見た劉圭の暗く、覚悟を決めた表情を見てしまうと、何も言えなかった。


 父上がいて、母上がいて、兄上がいて、それでいいのに。


 口をへの字に曲げたまま、義景は仕方なく目を瞑って意識を遠くへ持っていく。


 それから数日経ったある日、義景が目を覚ましてみると、兄の劉圭の姿がなかった。


 「父上、母上、兄上がいない」


 まだ眠たい目を擦りながら、両親がいるであろう部屋まで行ってみると、そこには両親の姿だけではなく、知らない男達がいた。


 鎧のようなものを身につけ、手には刀や弓を持っていた。


 父親も母親も床に跪いてただただ項垂れており、母親に至っては急に泣き出してしまった。


 「母上!?どうしたの?」


 顔を覗き込もうとした義景だが、両手で顔を覆っているため、顔を見ることは出来なかった。


 「貴様等は、廉家の大事な御長男である“尤楼様”の楯にならなかったのだ!!無能で役に立たぬ、貴様等の息子のせいでな!!」 


 「尤・・・楼?」


 名前に聞き覚えのあった義景は、確かめるように声に出すと、次の瞬間、目の前にゴロン、と何かが放りだされた。


 尤楼の影武者として、戦争に駆り出された劉圭。


 本来、尤楼は戦争に出ずに物陰に隠れていればよかったのだが、兵士のフリをして勝手に戦争に参加していたようだ。


 その結果、何の力も無い尤楼は殺されてしまったのだ。


 尤楼が戦争に来ていたことさえ知らなかった劉圭は、敵の放った矢が十本近くも身体に刺さり、命を落としたそうだ。


 「尤楼様の御遺体は?」


 父親が丁寧に敬意をこめて聞くと、男たちは言った。


 「尤楼様の御遺体は代々受け継がれている墓に埋葬された。だが、こんな役立たずのゴミは、我々では処分しかねる。そちらで頼む」


 「・・・承知いたしました」


 「あと、今後は尤楼様に代わり、恒楊様が指揮権を持つ。よって、薗義景。貴様を、住み込み継続との御命令だ」


 グイッと腕を引っ張られた義景は、訳が分からず、両親を見る。


 その時、視界にはいつも自分の近くにいて、自分よりも未来を歩いていた兄である劉圭の生首が無造作に転がっていた。


 その時、男たちの話も全て理解出来た義景の目からは、反射的に涙があふれてきた。


 「!!!!兄上――――――!!!!」


 大の男たちの力には敵わず、兄の元にいくことは出来なかった。


 「兄上!!!兄上!!!!ッッッ・・・あぁアァああアァあぁあアアアァッ!!!!」


 「義景!!」


 嗚咽交じりになりながらも、耳に届いた、震える声を殺した父親の声に耳を傾けた。


 「お前は、生きて戻るんだ!!」


 「ッッッ!!!父上・・・母上・・・!!!」


 悔しさ、悲しさ、嘆き、虚しさ、ぽっかりとなくなってしまった感情と記憶を胸に、義景はその日から影武者として命を捧げた。


 兄の劉圭の死後、それほど経たぬうちに、父親と母親も、影武者人生を全う。


 暗殺の身代りと見事に果たしたという。


 「お前が義景か?なんだ、私よりも顔が醜くないか?ハハハハ!!!なあ、お前は私の代わりに殺されてくれるのだろう?こんな便利なものは無いな!私は死なずに済むのだ!」


 「・・・はい」


 薗義景、齢六にして己の名を捨て生きることを決断。


 過酷で残酷な運命に翻弄されながらも、己の名を心に秘めて、己の存在を確認する術を持たぬ途を行く。








 ―十二年後


 「おい、俺は死んだのか?どうなんだ?」


 「は。ただいま生死の確認に向かっているのですが、未だ確認は取れず。しかし、崖から落ちたとなれば、命はないかと・・・・・・」


 「なんだよ。クソだな。これから俺はどうすりゃいい?ああ、代わりをすぐに探して来い。すぐにだ。俺の代わりに死ぬ奴が見つかるまで、俺は部屋に籠るからな」


 「は。すぐに」


 恒楊、つまり自分が崖から落ちて死んだ、という連絡を受けた恒楊本人は、悲しいとか心配とかではなく、多少腹が立っていた。


 それは、これから自分の命の代わりになる人間がいないからだ。


 立派な服に身を包み、周りにも数十人の家来たちを引き連れて、“恒楊”の生存の確認に訪れていた。


 いつもは目立つ場所にはおらず、個室でひっそりと暮らしている。


 ひっそりとはいっても、唯我独尊、自己中心的な我儘ぶりは健在のため、酒が欲しいといえば酒が運ばれてくる。


 他にも、女が欲しいと言えば、遊郭や下町から、好みの女性を連れて込んでいる。


 手に余るものがあれども、誰も何も言う事は出来なかった。


 「チッ。俺が自由に生きられねぇだろうが。ゴミクズども」


 本日、何度目かの舌打ちをすると、女が待っている部屋へと急いだ。








 ―ここは、天国だろうか。それとも、地獄か。


 ―それにしても、良い匂いがする・・・・・・








 「あ。おねぇちゃん!起きたよ!!」


 「こら、燈翔、騒がないの!大人しくしてなさい!」


 ゆっくりと目を開けると、目の前にはボサボサ頭の男の子が一人と、首あたりまでの長さの髪の毛の少女がいた。


 男の子は目をキラキラさせて顔をのぞきこんでくる。


 そんな男の子を片手で軽くこつきながらどかせると、右目の下にホクロがついている少女が、目を合わせてニッコリ微笑んできた。


 「騒がしくてごめんなさい。気分はどうです?」


 「え、ああ。大丈夫です。えっと・・・」


 「私は星蘭。こっちは弟の燈翔。あなたは?」


 「私は・・・・・・あれ?私は・・・」


 自分の名前はおろか、何があったのかさえ思い出せない。


 そんな様子を察知したのか、星蘭は小さく笑って、簡単に説明をした。


 「そこに、川があるでしょう?あなたは、そこに倒れていたの。家も名前もわからないんじゃ、帰りようがないですね」


 額に手を当て、何やら思いだそうと必死になっている男を見て、星蘭たちは良いことを思い付いたといわんばかりに顔を緩ませた。


 「そうだ!私たちの家でよかったら、いてください。名前も、何かないと不便だし、なんて呼べばいいですか?」


 「・・・・・・劉」


 「劉?劉さんでいいんですね?」


 「ええ。それより、見ず知らずの私を・・・」


 「いいんです。姉弟二人暮らしで寂しいと思ってました!」


 どこから来たのかも分からない自分を歓迎してくれている星蘭と燈翔に、劉は自然と笑顔になった。


 「二人って、御両親は?」


 「・・・戦で死にました」


 「すみません」


 「それより、お腹空きません?ご飯の用意しますね」


 明るく振る舞ってはいるが、きっと星蘭も燈翔もずっと寂しい想いをしてきたのだろうと、劉は静かに頷いた。


 腰をあげて辺りを見渡すと、質素な生活をしているのが分かる。


 生活用品も、星蘭と燈翔、二人分の最低限のものしか置かれていないし、家具にしても寝床ひとつに小さなテーブル一つ、それに椅子が二つ。


 もしかしたら、自分がここにいては重荷になるだけなのでは、と劉は感じた。


 台どころに向かった星蘭とは逆に、燈翔は外に元気に飛び出していったため、後を追ってみることにした。


 そこは綺麗な花畑と、野菜が埋まった畑があった。


 空は暗く、すでに夜に向かっていることが理解できた劉は、燈翔に近づいて、そっと聞いてみる。


 「私が来ては、二人の生活が苦しくなるのでは?」


 畑にうまっていた小さい野菜を幾つか適当に掘っていた燈翔は、劉の言葉に口をポカン、と大きくあけた。


 野菜を取り終えると、にっこりと笑った。


 「生活は苦しくないよ!毎日楽しいし、ご飯もおいしいもの食べてるよ!おねえちゃんと二人でちょっと寂しいけど、でも苦しくない!劉兄ちゃんが来てくれて、嬉しいよ!!」


 あまりに嬉しそうに話してくるため、劉はかえって失礼なことを言ってしまったと後悔する。


 「そうか。変なことを申し訳ない」


 「いいよ!それより、ご飯だよ!」


 ダダダ、と走って家に入って行った燈翔の後姿を見て、いつかの自分に戻った様な、懐かしい気持ちになった劉。


 家に戻ればトントン、とリズミカルな音が聞こえてくる。


 燈翔は、今か今かと待ちきれない様子で、自分の椅子に座っては立って星蘭の料理の進み具合を確認していた。


 「もう、燈翔ったら。これ、運んで」


 「はーい」


 「私も何か手伝いましょうか」


 ひょっこりと顔を出すと、星蘭はニッコリ笑って「大丈夫です」と伝えた。


 仕方ないので、劉は大人しく寝ていた寝具に腰掛け、料理が運ばれてくるのをただ待っていた。


 「せーの」


 星蘭の掛け声のあと、燈翔が元気よく叫ぶ。


 「いただきまーす!!!」


 「いただきます」


 劉の茶碗は、きっと星蘭のものだ。ふたつしかなかった茶碗の一つは燈翔の前にあり、もうひとつは劉の前にある。


 星蘭は別の平たい食器で、そこにおかずも一緒に乗っていた。


 パクパクと少ないご飯を次々に食べて行く燈翔を見て、星蘭は嬉しそうに笑う。


 劉もお腹に入る、落ち着いた味のご飯に安心してゆっくり食べていると、星蘭が不安そうに声をかけてきた。


 「あの、お口に合いませんか?」


 「え?」


 なぜそうなるのかと、星蘭の顔をじーっと見てしまった劉に、星蘭は顔を背けた。


 「美味しいですよ。とても」


 「それならよかった!いつも燈翔が食べてる姿しか見ていないので、もしかしたら口に合わなくて、食事が進まないのかと」


 「こんなにゆっくりと食事出来る事があまりなかったもので。安心してしまいました。不安にさせてしまって、すみません」


 劉の言葉に、星蘭はニッコリ笑って「いいえ」とだけ答えた。


 その間に、燈翔はほぼ完食してしまい、劉の皿に残っているおかずを涎を垂らして見つめていた。


 いつもよりも量が少なかったのかと、申し訳なく思ってしまった劉。


 少しだけ分けようかと思って箸でおかずをつまみ、それを燈翔の方へともっていこうとしたが、星蘭によって止められた。


 「こら、燈翔!自分のはもう食べたでしょ!」


 「だってー、まだお腹空いてるんだもん」


 「だーめ」


 そんな様子を、箸におかずを持ったままでまってしまった劉は、困ったように笑い、それを自分の口へと入れた。


 「あの、私の少しなら・・・」


 やはり、育ち盛りの男の子には、少ないご飯だったのではないかと思った劉は、遠慮気味に星蘭に言ってみた。


 すると、星蘭は唇を少し尖らせ、睨みをきかせた。


 「劉さん、顔色あまり良くありません。きっと、しばらく呑まず食わずだったんです。食欲が無くても、食べてください。燈翔になら、私からあげますから、劉さんはきちんと食べてください」


 あまりに真剣な表情で言われた為、劉ははにかむ。


 「わかりました。ありがたく、全部いただきます」


 にこりと笑う劉に、星蘭も笑って返すと、自分の皿に盛ってあったおかずを燈翔に渡した。


 それを燈翔はものの数秒で食べ終えた。


 食事を終えると、燈翔は家の外へと出て行く。


 「燈翔くんは?」


 「お風呂の準備に行っています。準備が出来たら呼ぶので、それまで休んでいてください」


 何から何まで、と思いつつも、劉は休ませてもらう事にした。とりあえず一旦外に出てみると、空は真っ暗、星が輝いていた。


 あまりに綺麗な空で、劉はしばらくそこに立って眺めていた。


 時間の流れさえも分からず、ただ見ていたいと思う自己の思いのままにずっと見ていた。


 「劉さん!」


 はあはあ、と息を切らせてきた星蘭に驚いた劉は顔をしかめ、肩を上下に激しく揺らしている星蘭の傍に歩み寄った。


 「どうかしましたか?」


 何かあったのかと思っていた劉だが、星蘭から返ってきたのは、困ったような笑顔だった。


 「戻って来ないから、どこかに行っちゃったのかと思いました。お風呂、準備できましたよ。はいってください」


 「・・・・・・戻って来ないから、来たんですか?」


 「ええ」


 笑いながら言う星蘭の言葉に、劉は異和感を覚え首を捻る。


 「両親も、行ったきり戻って来なかったから」


 真っ直ぐな星蘭の瞳を、劉は見つめた。


 「すみません」


 「謝らないでください。さ、今夜も冷えると思いますから、温まってきてください」


 「ありがとうございます」


 部屋に戻ると、燈翔が自慢気に「僕がやった」と連呼していたため、劉は燈翔の頭を撫でて御礼を言った。


 照れ臭そうに笑う燈翔の笑顔が、さっきの星蘭と似ている。


 ゆっくりと湯船に浸かっていると、こんなにのんびりと生活していること自体が久しぶりな気がしてきた。


 自分がどこからきたのか、なぜあんなところにいたのか、わからない。


 考え事をしていたら、少し逆上せてしまった。


 厚手の寝巻に着替えて部屋に戻ると、すでに燈翔は星蘭の膝の上に頭を乗せてうたたねをしてしまっていた。


 「すみません、一番に入ってしまって」


 「いいえ。気にしないでください。燈翔はお風呂嫌いで、あまり入らないんですよ。何度言っても駄目で」


 「そうですか。では、私が燈翔くんを寝かせますから、星蘭さんもどうぞ」


 「はい。じゃあ、お言葉に甘えて」


 そっと燈翔を抱き上げると、隅にある小さなベッドに横にさせた。


 その小さな吐息と幼い寝顔、まだ汚れたものなどしらないその姿に、劉はどこか懐かしさすら感じていた。


 ベッドの端に座って燈翔の頭を撫でると、燈翔はくすぐったそうに身をよじった。


 身体が温かいからか、劉もうとうとと目が重くなってきた。








 「兄上、なぜ僕たちはこんな顔なの?」


 「・・・義景、それは、他の人の前では言ってはいけないよ。もし言ったら、義景や私だけでなく、父上も母上にまで迷惑をかけてしまうからね」


 「・・・わかった」


 「人と言うのは、一人では無力なものだから。私は父上や母上、それに義景がいるから生きていけるんだ。だから、義景も誰かのために生きられるように生きるんだ。いいね」


 「はーい」


 その時は、何を言われているのかが良く分からなかった。


 自分がやっていることがどうして非難されているのか、なぜ他人のフリをして生きなければいけないのか、分からなかった。


 兄も父も母も、もっと一緒にいられると思っていたし、それが当然だと思っていた。


 小さいころに焼きついた残酷な世の中は、小さな心臓では受け止められず、清らかな瞳では映しきれなかった。


 けれども、洗脳しようと言われ続けてた言葉は、大切な人の死によって、受け入れざるを得なかった。


 「お前は俺の影武者だ。俺の役に立って、俺のために死ねばいい」


 悔しくはなかった。


 運命だと嘆いたって、諦めたって、何も事実は変わらないのだ。


 “誰かのために生きろ”という兄の言葉通り、その“誰か”が“敵”であったとしても、自分以外の誰かであることには変わりない。


 「私は廉恒楊だ」








 「劉さん・・・?寝ちゃったのかな」


 聞こえてきた声に頭が起き、重たい瞼をゆっくり開ければ、暗い部屋の中にぽつりと灯る蝋燭の灯と、その横で本を読む星蘭の姿があった。


 「何を読んでいるんですか?」


 「わっ!!!」


 急に声がしたため驚いた星蘭は、読んでいた本を床に落としてしまった。


 目を見開いて、燈翔が寝ている方を見てきた星蘭の顔は、無理して大人びた顔ではなく、子供のままの顔だった。


 年齢としてはさほど変わらない星蘭だが、初めて見る表情に、劉は思わず笑ってしまう。


 「な、なんで笑うんですか!!」


 「す、すみません・・・!!可愛くてつい」


 「!??!」


 あまり言われ慣れていない言葉に、星蘭は顔を真っ赤にし、それを隠す様に床に落ちた本を拾う。


 少しついてしまった埃を払うと、読んでいたページまで戻す。


 口を尖らせて読み続ける星蘭を見て、劉は何か怒らせてしまったかと思い首を傾げ、星蘭に近づいた。


 「怒らせるようなことを言ってしまいましたか?」


 「・・・・・・」


 拗ねた子供そのものの星蘭は、頬を膨らませて劉を睨みつけるが、怖さはない。


 その顔がまた可愛らしく、劉はまた笑ってしまうと、星蘭はさらに拗ねてしまった。


 微かに揺れる蝋燭の火を頼りに、星蘭が座っている椅子の隣にある椅子に腰かけると、目を細めて星蘭に話しかける。


 「本、好きなんですか?」


 「・・・・・・はい。この辺は、見ての通り何もありませんし、本もこれと数冊しかないんですけど」


 星蘭が読んでいる本の表紙に書かれている題を見ると、どこかで読んだことがあるような、見たことがあるような気がした。


 「確か、戦争の話ですよね」


 「ええ。とても悲しい話です。戦争なんて、なくなればいいのに」


 そう言った星蘭の表情は、さきほどまでとは打って変わり、大人の顔になっていた。


 「きっと、いつの時代にか、なくなりますよ」


 それからしばらく、二人は話をしていた。






 「おい、まだ見つからね―のか。ったく、お前等も役に立たねーな。さっさと俺の身代りを見つけて来いっていってんだろ!!!いつまで経ってもここから出られねーじゃねーか」


 今の今まで、廉家は薗家の影武者によって支えられてきたため、他の家系のこともなにも考えてこなかった。


 顔も内面までもそっくりにしてきた薗家と比べてしまうと、そんじょそこらの家の子らが、今から恒楊の代わりになろうというのが無理なのだ。


 そんな文句を言いながらも、恒楊は化粧ばっちり、出るとこは出ている身体を持つ女性たちに囲まれている。


 食事にもなに不自由していない。


 「酷いじゃない。私達と一緒にいるのが嫌なの?」


 「そうじゃないよ。ただ、ちょっとイライラしてるだけ」


 口ではそう言いながらも、心の中では舌打ちをしている恒楊。


 「だがよお、そろそろ連れてきてもいいんじゃねー?じゃないと、お前らのうち誰か、俺、殺しちゃうぜ?」


 笑顔を作りながらも、口元をひくつかせている恒楊に、廉家の者たちは一様に唾を飲んだ。


 花よ蝶よと育てられたからか、それとも兄の死によって変わってしまったものなのかは不明だが、きっと生まれつきだ。


 この性格は親でも手がつけられないもので、駄々をこねて癇癪をおこし、言う事を聞いてもらえないと、ひたすら暴れる。


 最も驚いたのは、齢わずか十にして、飼っていた猫を殺していたことだ。


 理由を聞けばただ一言。


 「毛が服についたから」


 泣きもせず、乞うこともせず、その場を去っていったという。


 恒楊の両親も、そういった行動に対して咎めなかったため、恒楊は自分の感情や思考の赴くままに動く。


 「あーあ。てかあいつ、なんてったっけ?まあいいか。あいつ、さっさと死んじまいやがって、何考えてんだよ。薗家は結局、子孫を残さないまま全滅かよ。役に立たない一族だったな」


 隣にいる女たちも、恒楊の言葉を聞いてクスクス聞いている。


 女の腰に手を回し、自分の方に近づけてると、顔も鼻がくっつくくらいにまで寄った。


 「俺はな、馬鹿な奴と役立たずな奴が嫌いなんだ」


 「まあ。じゃあ、私のことも嫌いなのかしら?」


 真っ赤なルージュをつけた女の唇は炎のように燃え、透き通るような肌は白く艶めかしい。


 女を、目から順に、鼻、口、首、鎖骨、胸、と下に視線を送って見て行く恒楊は、一通り見た後、また女の顔を見る。


 ニヤリと笑ったかと思うと、急に瞳の奥に感情が見えなくなり、女は刹那、息を止めた。


 その顔は、今まで自分が恒楊の近くで見てきて分かっている、狩りをするときの目だ。


 女は瞬間忘れていた呼吸を再開すると、なんとか頬を動かして笑顔を保ち、その場から立ち去ろうとする。


 だが、恒楊に腕を強く掴まれていて、逃げられない。


 「安心しろ。今日のところはまだ生かしといてやるから」


 ドクン、ドクンと心臓が異常に波打つ。


 女が部屋から立ち去っていくのを見届けると、恒楊は他の女の肩に手を回して、話を続けていた。








 「あれ?」


 劉が目を覚ますと、そこに星蘭も燈翔もいなかった。


 二人はどこかへ行ってしまったのかと思っていると、小さなテーブルの上に、劉のために用意しておいた朝食があった。


 ゆっくり身体を起こしてドアを開けてみる。


  窓から感じた朝日ではなく、直接身体全体に感じる太陽の光に、劉は思わず目を瞑ってしまう。


 温かくてぽかぽかした温度を感じていると、声をかけられた。


 「おはようございます」


 「おはよー!」


 傍にある畑から何か取ってきたのか、両手で持たないと落ちてしまいそうな大きなカゴを、星蘭と燈翔で一つずつ持っていた。


 「おはようございます。持ちますよ」


 「平気です。それより、ご飯食べました?」


 「あ、まだです」


 「お腹空いてるでしょ?食べてください。私達は先に食べちゃいましたので」


 そういって劉の横を通り、家の中に入っていく二人。


 カゴを持って台所まで行くと、カゴをおろして中に入っていた、大根やら人参やらカブやらを取り出した。


 燈翔もそれを手伝っていた。


 そんな二人の様子を眺めながら、劉は静かに食事をしていた。


 燈翔が持ってきてくれた水を時折飲み、三十分ほどで食事を終えた。


 「いつも、何をしているんですか?」


 「私達ですか?ええと、畑仕事の他には、少し街の方に出ていって、ちょっとでもお金になるような仕事をもらって来ます」


 「と、いうと?」


 「例えば、子守とか、縫い物とか、洗濯もしますし、時には畑の野菜を売ってお金にしたりもします」


 「・・・・・・言い方が悪いかもしれませんが、大変ですね。私にも何か出来ることがあれば、言ってください。なんでも手伝いますから」


 「ありがとうございます」


 互いの顔を見て笑っていると、燈翔が面白く無さそうに間に入ってきた。


 しかし、すぐにニカッと笑った。


 「兄ちゃん!外でボール蹴りしよ!」


 「いいですよ」


 「あんまり遠くまで行かないようにね。劉さん、燈翔のこと、お願いします」


 ボロボロの黒くなっているボールを持って、燈翔は一目散に外へ出て行ってしまったため、劉も後を追って行った。


 一人で残った星蘭は、野菜を洗ったり、土につけたまま保存しておけるようにしていた。


 燈翔を追っていった劉は、軽く息があがっていた。


 一方の燈翔はニコニコと笑って余裕そうで、片手でボンボンとボールを弾ませると、劉に向かってボールを投げてきた。


 いきなりの事で驚いた劉だが、両手でパシッと受け止めた。


 投げては受け、投げては受けを繰り返していると、急に燈翔がボールを蹴ってきた。


 そういえば、“ボール蹴りをしよう”と言われていたのだと、劉はそのボールをお腹で受け止めることとなってしまった。


 「ぐえッ」


 「ワッ!兄ちゃん、大丈夫!?」


 多少の痛みはあったものの、それほど痛くはなかった。


 だが、劉の中で小さな悪戯心が芽生え、お腹を抱えてその場にうずくまり、痛いようなフリをしてみた。


 すると、燈翔は慌てた様子で劉に近づき、今にも泣きそうになってしまった。


 「ごめん!ごめん兄ちゃん!!今、おねえちゃん呼んでくるから、待ってて!!」


 思った以上に燈翔がパニックになってたため、劉の方も慌ててしまい、燈翔の腕を掴んだ


 「平気です。すみません、ちょっとからかってみたんです」


 口を開けて目には涙を溜めている燈翔は、その言葉を聞いて安心したのか、劉のお腹をぽかぽか叩いた。


 「すっごく心配したんだからな!!もうそういうこと、しちゃダメだからな!!」


 「わかりました。すみません。じゃあ、約束です」


 小指を燈翔の前に差し出すと、燈翔も小さな小指を出した。


 二つを絡めて上下に数回動かすと、ボール遊びが再開された。


 しばらく二人で遊んでいると、少し離れた岡の向こう側から、馬に乗った兵のような人達が数人やってきたのが見えた。


 何だろうと、ボールを持ったまま眺めていると、そのうちの一人と目があった。


 きっと、互いの顔をよく見えてはいないのだろうが、劉は目を細めて人物の顔を確認しようとした。


 「兄ちゃん、ボール、ボール!!!」


 「ああ、はい」


 兵には気付いていないのか、燈翔に声をかけられ、劉は視線を戻した。


 陽が真上に来た頃、星蘭に呼ばれたため家へと帰ると、そこには複数の料理が並べられていた。


 二人が遊んでいる間に、洗濯物も掃除も終わらせたようで、部屋の中が綺麗になっていた。


 「ありがとうございます」


 「?何がですか?」


 「いえ、まあ、色々と」


 首を傾げた星蘭は、笑って採りたての野菜を口に運んだ。








 「安いよ安いよー」


 「お譲さん、これなんか似合うんじゃない?安くしとくよ!」


 「このランプは魔法のランプでね、擦ると中から魔人が現れるんだ!いや、本当に!」


 「そこのお兄さん、ちょっと寄っていかない?私と遊びましょう?」


 村から数十キロ、もしかしたらそれ以上かもしれない距離の場所に密かに存在する街は、賑わっていた。


 そこに、みすぼらしい格好で現れた一人の男。


 コツコツと、市場を抜けてさらに奥へと進んでいくと、身体を大きな布のようなもので覆い、さらにフードになっているためか顔も見えない男の許へと行く。


 下を向いている男の前には、市場には似つかわしくなく、何も置いていない。


 茶色の布に包まれている男の前に立つと、男は陽気に話してきた。


 「よう」


 「・・・・・・」


 「黒市場、ってのは、ここでいいのか?来るの初めてなんだ」


 「・・・・・・」


 「おいおい、客に対して無反応は無ぇーだろ。俺は客であると同時に“廉恒楊”だぜ?名前くらいは聞いたことあんだろ?」


 口角をあげてニヤッと笑う恒楊だが、男は相変わらず何も言わない。


 しかし、目だけをちらっとのぞかせてきて、その時に確かに見えた。


 男の不気味なほどに輝く赤い瞳をー


 ゴクリ、と唾を飲み込むと、恒楊は喉を鳴らして笑いだした。


 「こりゃあ面白ぇ。でよ、ちと、欲しいもんがあんだけどよ。ここに来れば、なんでも手に入れられるって聞いたぜ」


 男はまた下を向き、鼻で笑った。


 それに気付いた恒楊は一気に機嫌を悪くし、隠し持っていた短剣を男の首に突きつけた。


 「てめえ、俺を笑うたぁ、良い度胸してんじゃねえか。ここで殺してやってもいいんだぜ?どうせ、お前なんか死んだって誰にも気付かれないんだ。だが、俺の言うもんを用意できるなら、命だけは勘弁してやるが、どうする?」


 多少息を荒げて興奮気味に言う恒楊にも、男はピクリとも反応せず、ただ、静かに顔をあげた。


 目が赤いことは分かったが、フードから見え隠れする髪の毛は紫色をしており、年齢は恒楊と同じくらいだ。


 あまりにも余裕そうなその表情に、恒楊はもう一度念を押した。


 「いいか、言う事さえ聞けば・・・・・・」


 脅迫とも言えるその言葉を言い終える前に、男の言葉に寄って遮られた。


 「記憶が正しければ、廉恒楊という人物は、すでに亡くなっておられるはず。この世には存在いたしません」


 恒楊のことを信じていないのか、それとも本人だと分かっているのかを確認できない恒楊は、剣を突きつけたまま一歩下がる。


 ギラリと光る赤い瞳が、男の余裕さを倍増させているのか。


 言い終えると、男はまた下を向いてしまったので、恒楊は短剣をしまって身を屈めた。


 他の誰にも聞こえないように、小声で話し始めた。


 「ここだけの話だ。死んだことになってんのは、俺の影武者だ。だが、そのせいで俺は今身動きが自由に取れない。分かるだろ?だから、さっさと次の影武者が欲しいわけだ。用意できるか?」


 「・・・・・・出来ないことはないが、代償は高くつく」


 「金なら幾らでも払うぜ。そこは問題無ぇ」


 「金じゃない」


 「金じゃない?」


 街や他の市場を見る限り、極普通の様子で、お金で物が買えていて、それで街も潤っているように見える。


 当然金が必要だと考えていた恒楊は、懐に分厚い束を抱えてきたのだ。


 だが、男は金はいらないと言いだしたため、恒楊は眉を顰めてしまう。


 「じゃあなんだ?女?酒?まさか、命だの手足だの言うんじゃねぇだろうな」


 「単純だ。ただの物々交換だ」


 あまり聞き慣れない言葉だが、物々交換の意味を知っていた恒楊は、思いがけない内容に腹を抱えて笑ってしまう。


 「ハハハハハハハッ!!!!!まじかよ!?そんなことで影武者が手にはいんのか!?なら話は簡単だ。何が欲しい?金目のものなら、幾らでも用意できるぜ」


 口元だけを緩めて笑う男は、恒楊を憐れむように見る。


 「交換対象は、廉恒楊の心臓とする。どうだ?」


 「・・・・・・は?」


 高笑いを止めて男に顔を向けると、男は至って普通にしており、それどころか笑っていた。


 その表情、もしくは交換対象にいらついたのか、恒楊は先程しまったばかりの短剣をまた取り出して男に向けた。


 それでも男は表情を変えず、声色もそのままで続ける。


 「それなりの代用品でなければ、ここでは交換の対象とは成り得ない。本当は、お前のような奴の心臓など、それだけの価値も無い。だが、お前は自分のことしか考えていない男だ。それくらいしか、対象には出来ない。もしも自分の心臓を差し出すのが嫌なのであれば、他をあたるんだな」


 「・・・!!くそが!」


 恒楊は舌打ちをして男の喉かどこかをかっきろうとするが、男がニヤッと笑うと、スッと立ち上がった。


 瞬間、見えなくなった男に戸惑っていると、背中に気配を感じた。


 後ろを振り返ってみるとそこに男がいて、恒楊が身体を反転させる前に、すごい力で近くの壁に押しつけられた。


 片手で首を押さえつけられた形となり、恒楊は思う様に息が出来ない。


 「ッ・・・!!!てめ・・・」


 ゆっくりと視線をあげる男の目は、ただ赤いというよりも光を帯びている。


 それほど力は入れていないようだが、喉を押さえつけられているためか、まともに酸素が肺へと送られない。


 わずかな隙間から送りこんでいるが、それもそろそろ限界だ。


 なんとか脱出を試みるが、手足にも力が入らなくなってきて、本当にこのままでは死んでしまう。


 そう思ったとたん、自分に迫ってきていた力がいきなり抜けた。


 ストン、と地面にお尻から落ちると、喉を押さえて苦しそうに何度も咳込んでいると、男は元の場所に座った。


 恒楊を見もせず、地を這う低い声で言った。


 「去れ」


 「いつか殺してやるから、覚悟してろよ」


 短剣を腰に収めると、恒楊は身を覆っている布で隠した。


 来た道を戻っていく途中、また同じように声をかけられる。


 そのどれもが嫌悪感を漂わせていて、恒楊は聞こえないように、ただただ足早に通り過ぎて行く。


 「あの野郎、絶対ぇ殺す!!!」


 恒楊が去っていったあと、また、ほぼゼロになった人通りの中、ぽつんと座っている男。


 しばらくは何もせずに目を瞑っていると、ちょんちょん、と膝をつつかれた。


 顔をあげて目を開けると、小さな女の子が一人立っていた。


 「ここ、何でも屋さん?」


 「・・・・・・まあ、そんな感じですね」


 「あのね、お薬、欲しいの」


 「薬なら、お医者さんのとこの方が確実だと思いますよ」


 「お金、無いの」


 黒壇の髪の毛を持ったその女の子は、男の顔をじっと見つめている。


 大人相手であっても子供相手であっても、出来ることと出来ないことをはっきり言うとは決めていた。


 それに、交換対象はあるのか、と女の子を見ていると、女の子も負けじと見つめてくる。


 肩を下に動かすと、男は女の子と目線の高さを合わせた。


 「じゃあ、交換しましょうか」






 「ここの家の者か?」


 「ええ、そうですが」


 午後のひと時、のんびりと過ごそうとしていたとき、ドアを叩く音がした。


 劉は奥の部屋で寝ており、燈翔は部屋の中で駆け回っていたため、星蘭がドアを開けて出てみると、三人の兵士がいた。


 一人が星蘭の前にいて、あとの二人は馬に乗ったままだった。


 男を見上げながら答えると、男は家の中の様子を窺う。


 「弟一人だけか?両親は?」


 「両親は、他界しました。今は弟と二人です」


 「そうか。このあたりで、怪しい男は見かけなかったか?歳はお前と同じくらいで、背は高めだ」


 「怪しい・・・?いいえ、見かけません。その人、何かしたんですか?」


 「いや。わかった」


 男は馬に跨り、また何処かへと行った。


 ドアをしめて中に入ると、すぐ後ろには、心配そうな顔で星蘭を見ている燈翔がいた。


 「おねえちゃん?さっきの人、だれ?」


 「わからないけど、きっとお城の人ね。大丈夫よ。もう来ないと思うから」


 「どうかしましたか?」


 「兄ちゃん!やっと起きた!!」


 奥の部屋で寝ていた劉が起きてきて、まだ眠そうに目を擦りながら、二人の前に現れた。


 燈翔は満面の笑みになって劉にダイブし、それを寝起きの劉はなんとか受け止める。


 「なんだか、このあたりで怪しい人を見かけなかったかって。劉さん、誰か見かけましたか?」


 「私も見てません」


 「燈翔、知らない人には着いて行っちゃダメよ」


 「わかってるよ!」


 そう言うと、燈翔はまた劉を連れて外に出て行って、ボール蹴りを始めようとする。


 結局、劉は陽が落ちるまでずっと燈翔の相手をすることとなったが、嫌ではなく、それどころか自分を慕ってくれる燈翔が可愛かった。


 夜になり、燈翔を寝かしつけようとした星蘭だったが、今日は燈翔がなかなか寝てくれなかった。


 本を読んでほしいとせがまれているが、星蘭にはまだ片づけなどすることがあった。


 「私が読みましょうか?」


 「でも、燈翔って本読んでもすぐ寝ませんよ?」


 「私は昼寝しましたし、平気ですよ」


 「じゃあ、お願いします」


 とりあえず燈翔をベッドに横にさせると、数冊しかない本のうち、ある一つの本を差し出された。


 「この本、好きなんだ!」


 目の前に出された本は、劉もどこかで読んだことのあるような本。


 内容までは覚えていないものの、表紙なんかは、なんとなく程度で覚えている。


 劉もベッドの端に座ると、燈翔には見えないように本を開くと、燈翔は待ちきれないのか、足をバタバタ動かした。


 目をキラキラさせると、劉が口を開くのを待っている。


 「“ママの子”。あるところに、男の子がいました」




 ―ママの子  作者不明


 あるところに、男の子がいました。男の子にはママがいました。けれどママは病気でした。


 男の子はいつも一人でした。友達もいません。他に家族もいません。


 「なんで僕にはパパがいないの?」


 男の子がききました。男の子のママは言いました。


 「パパはね、遠いお国に行ってるのよ」


 男の子はママに抱きつきました。そして、いつものように、子守唄を歌ってもらいました。


 次の日、男の子の家にお医者の先生が来ました。ママは苦しそうにしていました。


 男の子は何も分からず、いつものようにママとお話をしようとしました。


 しかし、それは出来ませんでした。お医者の先生にダメ、と言われてしまったのです。


 「ママ、ママ」


 男の子は何度もママを呼びました。ママはニコッと笑いました。


 「あなたは、ママの子よ。何があっても、ママの子よ。ありがとう。ママの子に産まれてきてくれて、本当にありがとう」


 ママは、ゆっくり目を閉じました。男の子は、ママが寝てしまったと思い、また名前を呼びました。でも、またお医者の先生にダメ、と言われてしまいました。


 それからも、ママは起きることはありませんでした。男の子はまた一人になってしまいました。


 けれど、ずっと心に残っている言葉がありました。


 「あなたはママの子」




 「燈翔くんは、どうしてこのお話が好きなんですか?とても悲しいお話ですよ?」


 少し眠いのか、燈翔は目を半分閉じたまま、んー、と答える。


 劉は質問をしなかったことにしようと、布団を肩まで上げて冷えないようにすると、本を横に置いて部屋を出て行こうとした。


 そのとき、燈翔がぽつりぽつりと答え出した。


 「僕の母さん、もう、いないから。ああいうことも、言われたことないから」


 「?ああいうこと?」


 「産まれ、くれ、りがと・・・って」


 スースーと規則正しい寝息を始めてしまった燈翔。


 燈翔の言いたかったことも分かり、劉は思わず顔を綻ばせてしまう。


 部屋を出てみると、星蘭が一人で編みものをしていた。


 「それ、何を編んでるんですか?」


 また急に声が聞こえたからか、星蘭はビクッと肩を動かし、顔を劉に向けると、ゆっくり微笑んだ。


 「これは、街から貰った仕事です。一人息子さんに送りたいって。丁度背丈も燈翔と同じくらいで」


 「そうですか。大変ですね。私も今度街に行って何か出来ないか探してみましょうか」


 「劉さんはここにいてください。燈翔もすっかりなついちゃってるし。面倒も見てくださって、とても助かってます」


 話ながらも編み物をしている星蘭の横顔は、劉よりもずっと年上のようだ。


 隣に座ってぼーっとしていると、クスクス、という星蘭の笑い声が聞こえてきた。


 そっちの方を見てみると、編み物は続行中の星蘭がいた。


 「お疲れですね。劉さんもお休みになってください」


 「まだ平気ですよ」


 「目、閉じかけてますよ」


 星蘭に指摘され、劉は自分の目元を手で触ってみるが、それを見て星蘭がさらに笑う。


 苦しそうに笑っていたのをようやく終えると、編み物をしていた手を止めて、劉の方を見る。


 「いつか、思い出すといいですね。本当の劉さん」


 「・・・・・・そうですね」


 静かに劉は席を立ち、星蘭に挨拶をすると寝床に着いた。








 「なにか成果はあったのか」


 「いえ、これといっては」


 「チッ。てめぇらも、自分が可愛いならちゃんと見つけてこいよ」


 「ハッ」


 城に戻った恒楊は、とても不機嫌だった。


 それは、昼間に行った黒市場での出来事に他ならない。


 その話をまわりの兵士たちにも言ってみたが、あそこには皆恐怖を持っているようで、まともに聞こうともしなかった。


 噂では聞いたことのある市場だが、恒楊にしてみれば、ただの役に立たない市場だった。


 足を小刻みに動かせば、兵士たちは互いに顔を見合わせてゴクリと唾を飲む。


 月が天に昇ってしばらく経ったとき、ある兵士がこんなことを言った。


 「あの村で羊飼ってる奴が、似てるって言ってたんだ」


 聞き流してもよかったのだが、今の恒楊には聞き流すだけの余裕もなく、その兵士の胸倉を掴みあげた。


 「なんの話をしてる」


 今にも襲いかかりそうな恒楊に、兵士はおどおどしながらも話を始めた。


 「今日行った村に羊飼いがいまして、そいつが言っていたんです。恒楊様に似た男を、最近見掛けるって」


 「どの村だ。調べてこい」


 「その村でも調べましたが、どの家にも見つかりませんでした。姉妹だけの家や、老人だけの家などで、若い男自体がいませんでした」


 「明日にでもまた調べてこい」


 掴んでいた腕に力を入れ押し返すと、恒楊は微かに口角をあげた。


 「俺は寝る」


 さっさと自室へと戻って上着を放り投げると、二人は余裕で横になれるほど大きな真っ白い豪華なベッドに横になる。


 天井を見つめているその瞳には、さきほどまでとは違う、ギラギラしたものがあった。


 「生きてた・・・?いや、まさかな。あんな崖から落ちて、助かる奴なんかいるわけねぇ。でも、万が一ってこともあるな。あいつ以上に、俺に似た奴なんていねーからな」


 口を開けて笑っている恒楊は、誰が見ても不気味だった。








 「星蘭ちゃん、おはよう」


 「おばあさん、おはようございます。こんな朝早くからどうかしましたか?」


 太陽が昇ってしばらくしたころ、ドアを叩く音が聞こえた。


 まだ寝ていたかった星蘭だが、朝食を作る為に起きて準備をしている途中だった。


それでもまだ眠いのか、目を擦りながらドアを開けてみると、そこには数キロ離れた村の老婆がいた。


 馬車に乗ってきたのか、星蘭の家の前には馬もいた。


 老婆は手土産とばかりに、自分の庭の木で採れたリンゴやみかんを持ってきてくれて、星蘭は御礼を言う。


 「これを届けにわざわざ?」


 「そうじゃよ。星蘭ちゃんも燈翔くんも、好きじゃろ?」


 「ええ。ありがとうございます」


 「相変わらず、家も綺麗にしてあるの」


 そう言いながら家の中を見て微笑んだ。


 テーブルの上には、準備中のためにまだ何も乗っていないコップとお皿が三枚。


 「じゃあ、わしも爺さんの飯の準備をせねばならないから、これで失礼するよ」


 「お気を付けて。果物、ありがとうございます」


 馬に乗ってゆっくりと隣村まで帰っていく老婆に手を振ると、星蘭はもらったリンゴとみかんを持ってドアをしめた。


 鼻歌を歌いながら準備をしていると、劉と燈翔も起きてきた。


 もぐもぐと美味しそうに頬に料理を詰め込み、一気に食べ終えてしまうと、燈翔は今日も劉を連れて遊びに行く。


 「今日は私、ちょっと街に行ってきますね。燈翔のこと、お願いします」


 「一人で大丈夫ですか?」


 「ええ。夕方には帰ってこられると思うので」


 「わかりました。気をつけて」


 星蘭は荷物を簡単にまとめると、外出用の良い服を着て出かけて行った。


 街の方に行く途中では、色々な大人に声をかけられる。


 そのため、良い服を着て、さらにそのうえには顔を隠れるほどの大きな洋服を着て行くのだ。


 声をかけてくるのは必ずしも良い大人ではなく、良い大人では無いことのほうがほとんどである。


 人身売買のための声かけ、売春のための声かけ、金をせびるための声かけ、食べ物を乞うための声かけなど。


 一度、何も知らずに街に行って歩いていると、人攫いに急に連れ去られそうになったことがある。


 だが、そのときは見知らぬ男に助けてもらった。


 全身を茶色の布で身に纏った、赤い目の男だった。


 「この街を歩くときは、まず顔を隠すことだ。この街の者でないなら、特にな」


 これだけを言って、颯爽と歩いて行ってしまったのだ。


 顔を隠しながらも目的の場所に到達すると、星蘭はドアの隣にある、彫ってある名前を確認する。


 コンコン、と数回叩くと、中から四十代くらいのおばさんが顔を出した。


 「おや、あんたかい。出来たってことだね」


 「はい。こちらになります。確認してください」


 精一杯作った編み物をおばさんに手渡すと、まじまじと星蘭が作ったものをチェックした。


 「まあまあだね。ま、いいや。ほら、これ」


 「ありがとうございました。また、機会がありましたら、お願いします」


 金貨を数枚受け取ると、星蘭はペコペコと頭を下げた。


 それから、少しだけ街中を歩いていると、大人たちが何やら話をしているのが聞こえて、耳を傾けてみた。


 「恒楊様が生きてるかもしれないっていう噂、本当かしら?」


 「そんなわけないじゃない」


 「でも、さいきん見た人がいるって」


 「生きてるならよかったじゃない。後継人がいなくて困ってたんだから」


 星蘭の村を支配しているのも廉家だが、直接王と会ったり見たりしたことはないため、星蘭は恒楊の顔を知らなかった。


 あまり街も情報も入らないので、星蘭の村とは時代が違うように進んでいる。


 家にしても髪型にしても、洋服にしても、だ。


 女の子は特にお洒落で、星蘭がいつも着ているような布一枚を来ているわけではなく、上下が異なる素材、模様のものなどをきていた。


 それを横目でちらっと見ながら、星蘭はフードを目深に被る。


 足元を見ながら、どこかで何か仕事がもらえないかと歩いているうちに、どこかの細い裏道に入ってしまった。


 暗くて、近くにある市場とは雰囲気がまったく違う為、星蘭は道を戻ろうとした。


 「これはこれはお譲ちゃん。こんなとこで一人、何してるんだい?」


 薄汚い男の笑い声が頭上から聞こえてきた。


 あまりのことに星蘭は足をピタリと止めて、声も出さずにただじっと、男たちが立ち去っていくことだけを祈った。


 「俺達に買われに来たか?それとも、城に仕えて娶ってもらおうとでも思ったか?」


 何を言われても尚何も言わないのは、声を出せば年齢も性別もバレ、反論でもしようものなら、さらに押しにくるからだ。


 グッと堪えていると、顔をのぞかれそうになった。


 反射的に顔を逸らして身体を後ろに動かすと、ドン、と誰かにぶつかってしまった。


 謝ろうとも思ったが、男たちの前なのでどうしようかと迷っていた。


 「なんだあ?お前は」


 「・・・・・・」


 自分の後ろの人が誰だか分からない星蘭は、ただ不安を抱えたまま下を向いていた。


 「おい、こいつ」


 「!!!やべぇ!!逃げろ!!」


 街の警察か、もしくは裏社会の人間あたりだろうかと思っていると、その人物は星蘭を気にもせず横を通り過ぎていった。


 足だけが見えるが、人物は止まる様子もなく、歩いて行ってしまう。


 「あ、あの」


 思い切って声をかけてみると、顔をあげた瞬間、見覚えのある風貌に思わずホッとする。


 それは男で、以前何も知らない星蘭に忠告をしてくれた。


 「ありがとうございました!」


 「・・・特に何もしてない」


 そう言って、男は星蘭から遠ざかって行ってしまった。


 街をブラブラしていると、可愛い小物も洋服も燈翔が好きそうな絵本も沢山あって、欲しいと思うものばかりだった。


 時間が経っていることに気付き、星蘭は急いで家へと帰る。


 僅かな金貨でさえも、嗜好品に費やすことは出来ず、今日を行き抜くために食料品の一部となるのだ。


 やっと家が見えてくると、外では劉と燈翔がまだ遊んでいるのが見えた。


 星蘭は走って行き、途中で転びもしたが、無事に家に到着出来た。


 「私も久しぶりに遊ぶ!」


 一旦家に入っていつもの格好に着替えてくると、星蘭も劉たちと一緒に、思い切り駆け回った。


 遊び疲れて家に入ると、劉が星蘭の頭をポンと叩く。


 「お疲れ様でした。疲れてませんか?」


 「これくらい、平気です。私、けっこう体力あるんですよ?」


 お昼は前もって作っていったため、それを食べたのだろう、食器がきちんと洗ってあった。


 野菜を切って鍋に入れ、金貨で買ってきた少量の白い米を炊くと、なんとも言えない良い匂いが部屋中を漂う。


 「わーい!!!今日は白いご飯だ!」


 燈翔も、久々のご飯に喜んだ。


 夕飯を食べて、寝床について、燈翔に本を読んで、寝る。


 その日の夜、星蘭はふと劉に聞いてみた。


 「劉さんは、街に行ったことありますか?」


 「街へ・・・ですか?んん・・・あるようなないような」


 「街はとても立派です。綺麗だし、文明も進んでます。でも、私はここの方が好きです」


 ニコッと笑う星蘭は、可愛らしくもあり、大人っぽくもあった。


 「私もです」


 夕飯を食べ終えると、劉は一人外に出て、星を眺めていた。


 暗い空にぽつぽつと浮かんでいる星は小さいが、確かに光っていて、寄り添うようにある月は足下を照らすほど明るい。


 肌寒さを感じる空気も気持ち良いが、知らず知らずため息が出た。








 数日後、廉家でのこと。


 「恒楊様、今から兵を連れて、男を連れてまいります」


 「ああ。さっさと連れてこい。もし抵抗するようなら、多少乱暴はしてもかまわねえ。殺しはするなよ?元も子もねぇからな」


 至極機嫌の良い恒楊は、用意されたワインを口につけた。


 日頃とは異なる恒楊の態度に、兵士たちは逆に恐怖を覚え、そそくさと数百人の兵を引き連れて城を出て行った。


 つい、先日の出来事である。


 「あの家には、姉と弟のほかに、もう一人おる」


 「やっぱりな。これは褒美だ。受け取れ」


 どこかでみたことのある老婆は、恒楊から金銭を受け取ると、馬車で立ち去って行った。


 他人は所詮他人。身内でさえも金に代えてしまう時代に、他人を売らないなど、慈善事業でしかない。


 老婆もその一人であった、というだけの話だ。


 「しかし、お前、数年間に渡って、自分の孫のように可愛がってきた奴を裏切るたぁ、大した根性してんじゃねえか」


 「この歳になると、信じられるものなんて金だけなんじゃよ」


 「・・・言えてるな。倫理的にはどうだかしらねえが、間違えてはいねえ」


 老婆が去って行ったあと、恒楊は高笑いが止まらなかった。


 こうも簡単に人間を買える、簡単に人間を裏切れる、それが現状であって過去の事実であって未来でもある。


 いつの時代も変わらない現実。


 「ああ、人は簡単に操作できる」


 歓びを忘れまいと喉を潤すワインの味は、より一層美味しく感じる。


 小さな小窓から外を見れば、さきほど出発した自分の兵たちが、蟻の行列のように並んでいる。


 その先に続いているのは、きっと天国と地獄。


 「やっと会えるな、義景」








 劉は、燈翔とちゃんばらをしていた。


 人参と大根で遊んでいたからか、それを見つけた星蘭に酷く怒られてしまったが、燈翔は懲りずにゴボウでまた遊んだ。


 一人でも楽しそうに庭を駆けまわっている燈翔を見て、劉は呟く。


 「燈翔くんがあんなに素直なのは、星蘭さんが素直だからですね」


 「へ?私?」


 いきなり何を言い出すのだと、星蘭はむせてしまった。


 しかし、隣にいる劉は特に変なことを言った覚えはないようで、ニコリと笑うと、燈翔へと視線を戻した。


 「劉さんは、嘘をついたことがありますか?」


 「嘘、ですか。そうですね、あると思います」


 「あるんですか!?」


 この短い期間、劉を見てきて感じたことは、「この人は嘘をついたことがない」だった星蘭にとって、劉の返事は意外なものであった。


 あんぐりと口を開けていると、劉は歯を見せて笑った。


 「嘘を吐くこと自体が、明らかに悪いことだと言い切ることは出来ません。嘘というのは、善悪の区別が難しい。それが嘘だと気付けば“嘘”になるのであって、嘘だと気付かなければ嘘にはなりませんし。受け取る人によっても見解は異なります」


 「約束を守らないのは、嘘になりますか?」


 「守れない状況というのもありますし、一様に嘘とはいえないと思いますが」


 「私の両親は、約束してくれました。必ず、生きて帰ってくるって。でも、帰って来なかった」


 星蘭が本当に聞きたかったことが分かると、劉は少しだけ下を向き、すぐに燈翔の方を向く。


 無邪気に走っている燈翔でも、心の中は悲しみや憎しみがあるのだろうか、それを表に出さないだけなのか。


 「お二人に、命を託したんです。きっと」


 そう言いながら星蘭の方を見ると、目には光るものを溜めていたため、劉はまた前を見る。


 「だからこそ、貴方方は生きなければいけない。生きて行かなければいけない」


 燈翔が笑ってこっちに来ると、星蘭は涙を拭って笑顔で答える。


 また燈翔は一人で走って行って、通りかかった仔犬と戯れていた。


 そんな光景を、微笑みながら見ていた劉と星蘭だったが、岡の向こう側から何やら騒がしい声が聞こえてきたことに気付く。


 ダダダダ、と地響きと共に聞こえてくる声に、仔犬はどこかへ逃げてしまった。


 燈翔でさえも何かを感じ取ったようで、すぐに劉達のもとへと走ってきて、劉の腰にしがみついた。


 そんな燈翔の頭を撫でて、落ち着かせようとする。


 見えてきたのは、馬に乗った兵士たちで、こちらに向かってくる。


 「劉さん、家の中に入っていてください。燈翔も」


 「いえ、私も」


 「一人で平気です。お願いします」


 真剣な眼差しの星蘭に、それ以上のことは何も言えず、劉は大人しく燈翔を連れて家の中へと入って行った。


 家の中に入った劉と燈翔だったが、劉は燈翔だけを奥の部屋に行かせると、ドアの近くで聞き耳を立てていた。


 一方、一人で兵たちを迎えた星蘭は、いつになく満面の笑みだ。


 「どうかなさいましたか?」


 何も知らない田舎娘だと、兵は馬から下りもせずに、星蘭を見下しながら問いかけた。


 「小娘、ここに男をかくまっているだろう」


 「何のことですか?弟ならいますけど」


 「弟を呼べ」


 「・・・・・・燈翔―」


 外から、少し大きめ声で呼んでみれば、燈翔は恐る恐る出ていて、星蘭の後ろに隠れた。


 「よし、家に火を放て!」


 「!なんてこと!?」


 「もう家には誰もいないのだろう?なら、問題ないだろう」


 「私達姉弟の大切な家です!止めてください!」


 「ならば、家の中を徹底的に調べるぞ」


 「何もありません!誰もいません!帰ってください!!!」


 兵士の一人が馬から下りて、星蘭を押し切って無理矢理家に入ろうとしたため、星蘭が後ろから男に飛びかかる。


 それを見ていた燈翔も、男に向かってぽかぽか鉄拳をくらわす。


 「反逆罪として、貴様等を拷問にかけても良いのだぞ!!」


 「!!」


 星蘭は思わず動きを止めてしまったが、言葉の意味を理解出来ない燈翔は、未だに襲いかかっている。


 どうしようかと考えているうちにも、兵士は家のドアに手をかけ、今にも開けようとしている。


 その時、男が開ける前にドアが静かに開く。


 中から出てきたのは、兵士たちが本物と区別が出来ないほどに彼に似ている、劉の姿であった。


 「おお・・・恒楊様そのものだ」


 「恒楊、様?」


 聞いたことのある名前に、星蘭もキョトンとしてしまう。


 そういえば、街やこの村を支配している城の王の名前が、確かそんな名前だったような気が、と思っていると、兵士が劉の両手を拘束してしまった。


 「ちょ、ちょっと待ってください!何かの間違いです!この人は劉さんです!恒楊なんて人じゃありません!」


 「そうだよ!兄ちゃんは兄ちゃんだ!返せ!!!」


 次々に兵士が馬から下りてくると、さすがに劉も驚いてしまって、一歩後ずさる。


 星蘭と燈翔はそれぞれはがいじめされ、身動きが取れなくなってしまう。


 「早く恒楊様のところに帰るぞ。お前には、今後も恒楊様の身代りとして生きてもらわねばならないんだ」


 「・・・正直、貴方方が何を仰っているのか分かりませんが、この二人に危害が及ぶのであれば、言う事を聞きましょう」


 「なんだと?・・・まあいい。嘘をついているかは、後で聞きだす。連れて行け!」


 「劉さん!」


 「兄ちゃん!」


 二人に呼ばれ、思わず足を止めてしまった劉に、兵士の男が耳打ちをする。


 「小娘たちが心配なら、尚更足を止めるな」


 その言葉に、劉は何も言わずに、二人の方を見ずに、足を進めた。


 「劉さん!なんで行っちゃうんですか!!?っく・・・なんでえ?」


 馬に跨り、ちらっと二人を見ると、星蘭は泣き崩れていて、燈翔もこちらを見て泣きそうな顔をしている。


 この場にいてはいけないことはなんとなくわかっている劉は、顔を背けて、表情を変えないように顔に力を入れた。


 ポカポカと馬の蹄の音が耳に響く。


 どこに向かっているのか、きっと城だのだろうが、そこで自分が何をしていたのか、なんてわからない。


 それでも抵抗する気力も無く、劉は馬に乗ってゆられるのだ。


 街を抜けて城に着くと、すぐにある部屋に連れて行かれた。


 そこには、息を飲むほどに驚くほど自分に似た、いや、自分が似ているといったほうがいいだろう。とにかく、自分がいるのだ。


 服装や雰囲気は別として、顔はまったく一緒、同一。


 劉が驚いて無言でいると、恒楊は嬉しそうに、妖しく笑った。


 「生きてたとはな。ま、これからも俺の為に生きて、俺の為に死んでくれよ」


 「あの、なぜ私は貴方に顔がそっくりなんですか?」


 「ああ?」


 「あ、あの、恒楊様、実は・・・・・・」


 一通りのことを聞いた恒楊は、怪しげに劉を下から上まで観察していた。


 「それから・・・」


 村では自分の事を劉と名乗っていたことを告げると、途端に恒楊は楽しそうに笑いだし、お腹を抱えた。


 不愉快ささえ感じる恒楊の笑いに、劉はぐっと堪えていた。


 「劉って、まさか、兄の劉圭の劉ってことか?ククク・・・・自分の名前も忘れたのに、兄の名前だけは覚えてたってか。笑えるな」


 「兄?劉圭?」


 「まあいい。過去のことを覚えていようといまいと、影武者であることに違いはないんだ。こいつをしばらく部屋に閉じ込めておけ」


 満足気な恒楊は、窓に顔を向けて劉からは顔を背けた。


 劉は兵士に連れられて地下室へ行き、そこにある部屋に入れられ、外から鍵をかけられた。


 「少しの間、ここで生活してもらう」


 有無を答える暇もなく、兵士はさっさと元来た道を行ってしまった。


 部屋には、生活できるだけの家具や洋服、洗面台なども用意されており、確かに一つの部屋にはなっている。


 だが、部屋にある窓は一つで、そことドアには鉄格子がつけられている。


 まるで、牢屋のようだ。


 まだ自分のことを思い出せていない劉は、部屋の中央にドーン、と置いてあるベッドに腰掛けると、足を投げ出して寝転がった。


 目を閉じて少し経った時、コツコツ、と足音が聞こえた。


 身体を起こしてドアの鉄格子の方へと顔を向けると、さっき会ったばかりの恒楊という男がいた。


 「よお。俺とお前の仲だ。俺にだけは嘘つくなよ?」


 「ついていません」


 「本当に何も覚えてないって言う心算か?まあ、あの崖から落ちたんだから、それもしょうがねぇか」


 「崖から?」


 「まあいい。それはいい。俺は、お前にまた会えて嬉しいんだ。こうして、また俺の一番の役に立ってくれる奴が現れたことに、感謝しなくちゃいけねえな。それに、お前が記憶を失くしたことが、都合が良いっちゃあ都合が良い。恨みも憎しみも全部、忘れてくれてるんだからな」


 鉄格子のドアの前に胡坐をかいて座ると、恒楊はどこからか持ってきた上等な酒を劉に見せた。


 「酒は飲むか?」


 「いいえ」


 「つれねえな」


 酒の蓋をあけると、そのままラッパ飲みをした。


 一気に全部飲んでしまうのではないかという勢いで飲み、やっと口から離れた時には、液体は半分以下を指していた。


 「お前が思い出すまで、待っててやるよ」


 ニッと笑うと、恒楊は立ち上がってまた酒を飲み、そのまま劉の前から消えた。


 上の方についている小さな鉄格子付きの窓を見ると、月があった。


 あの村でも、何日も何日も同じように月を見てきたのだが、ここで見る月は同じものなのかと疑問に思ってしまう。


 綺麗だ。確かに月はいつ見ても同じで綺麗に輝いている。


 だが、何かが違う。


 ここから見える空は小さくて狭い。そしてなぜか寂しそうにも見える。


 「・・・・・・おやすみなさい」


 誰かに言うでもなく、ただ自分だけに言った言葉は、ずっと遠くて小さくて、脆くて虚しいものに感じた。


 自室へと戻ろうとしていた恒楊は、飲み干した酒瓶を廊下に投げ捨てた。


 ガッシャン、と大きな音を立てて割れてしまった瓶は、足下に破片だけを残して、形を失くした。


 恒楊の背後に現れた兵士に、舌打ちをした。


 「一週間くらい拷問にかけろ。そんでも覚えてねえって言い張るなら、仕方ね―からそのまま俺の代わりをさせろ」


 「はっ」


 短く返事をすると、兵士はまたすうっと消えて行った。


 「相変わらず、俺に似ねー野郎だ」


 瞼を閉じていても眩しいほどの太陽を浴び、劉は目を覚ました。


 「早く起きろ」


 静かな朝を迎えるはずだったが、とてつもなく重たい身体と共に、耳に届いた聞き慣れない男の声に、全身が凍る。


 身体を起こしてしばらく、自分が何処にいるのか、何があったのかを思い出した劉。


 顔を横に動かせば、鉄の向こうにはガタイの良い男の兵士が二人立っており、劉に早く動くよう催促した。


 鍵を開けられて、まだ働かない頭でのろのろと動く。


 部屋から出た途端、両腕を後ろで縛られ、まるで罪人のような状態で、劉は兵士たちに連れられていった。


 「入れ」


 そう言われ、この城の何処にあったのだろうと思うほどの暗くてジミジミとした、そんな部屋へと足を進める。


 パッと電気が点いて明るくなると、その部屋は何も無いのだと分かった。


 そのまま足を進めると、真ん中あたりで止まるよう言われ、後ろで縛られていた腕が今度は上へと移動した。


 ロープが上に伸び、そこに劉nの両腕が絡まっている。


 「貴様は本当に、記憶が無いのか?確かめたいのは、そこだけだ」


 「だから、私には何も・・・」


 瞬間、頭が裂けるような痛みを感じた。


 兵士の一人が、手に持っている木製の柱のようなもので、劉の頭を後ろから思い切り殴ったのだ。


 確認は出来ないが、どろっとした感触があることから、頭のどこかを切ったのかもしれない。


 「顔には傷はつけない。なぜだか分かるな。貴様は大切な恒楊様の影武者だからだ」


 そう言って、別の兵士が今度は背中を叩いた。


 次々に身体に浴びせられ苦痛にも、劉は黙した。


 いつの間にか、来ていた服は破けてしまい、自分の身体には無数の傷跡がついていることにも気付く。


 「嘘を吐くなよ。影武者として生きるのが怖くなったか?だから嘘ついてんだろ?」


 「違う。私は、何も知らない」


 「まだ言うか。クズの残りが」








 「はぁ、はぁ。よし、今日はこの辺にしておくか」


 「そうだな。おい、行くぞ。さっさとしろ!!」


 すでに、自分の力では立っていなかった。


 腕を縛りあげているロープがあって、やっと床に足がついている、そんな状態だった。


 兵士たちの方も疲れているようで、肩で呼吸をしながら、劉の両腕のロープを解放すると、床に倒れた劉を見下ろした。


 顔は全く腫れてもいないし傷もついていないが、身体中がボロボロだ。


 皮が剥がれて血が滲み出ており、床を赤く染めて行く。


 かろうじて息をしている劉だが、兵士にはそんなこと全く関係がなく、苦しそうに呼吸をする劉の髪の毛をつかんだ。


 「おいおい、まるで俺にしてるみてーだな」


 「こ、恒楊様!!!」


 掴んでいた劉の髪の毛をパッと離し、入口に立っていた恒楊本人に向かって立ち膝をし、頭を下げた。


 ゆっくりと部屋の中に入ってくる恒楊は、床に転がっている劉の背中を靴のつま先で蹴飛ばした。


 一回だけでは反応がなく、二、三回蹴ってみた。


 目だけを恒楊に向けた劉に、恒楊は歯を見せてニヤリと笑った。


 「こんなんで死ぬんじゃねーぞ。お前が死ぬのは、ここでじゃねえ。ここで死なれても、俺も困るからな」


 それだけを言うと、また歯を見せて、楽しそうに笑った恒楊。


 くるっと踵を返して帰っていく途中、恒楊は若干ではあるが、殺気を放ちながら、跪いている兵士たちに告げた。


 「てめえらも、調子に乗ってやりすぎんなよ。幾ら俺に日頃の恨みがあってもだ。そいつがもし、ここで死んだりしたら、てめえらは俺が殺してやる」


 そういう恒楊の瞳は澱み、兵士たちは顔を下に向けていてそれが見えていないにも関わらず、恐怖心からゴクリと生唾を飲み込んだ。


 恒楊がいなくなってからもしばらくの間、動けずにいた。


 劉もようやく足を動かせるようになると、連れて来る時よりは丁寧に、兵士二人に挟まれながら戻った。


 地下室の部屋へと戻されても、自力でベッドまで行くことも出来ず、鉄格子に背を預けてそのまま目を瞑った。


 もしかしたら、このまま死んだ方がいいのだろうかとも思った劉だが、目を瞑るとふと思い浮かぶ二つの影。


 真正面に見える空は、やはり小さい。


 何も出来ずにいる劉は、ただそのあまり好きではない空を眺めていた。


 「誰にも聴かれない歌がある・・・・・・。それは小さな小さな物語。受け継がれないその歌は、いつかの世へと羽ばたいた」


 昔、誰かに歌ってもらったことのある詩だ。


 子守唄のように、毎夜毎夜歌ってもらい、耳に焼き付いている愛しい歌。


 「うッ・・・・・・」


 痛み軋む身体に鞭を打ち、なんとかベッドに腰掛けることが出来た劉は、月を眺めて微笑んだ。


 手当もしていないからか、止血している個所があれば、まだ微かに血が出てくるところもある。


 ベッドにも赤いシミがついていくが、そんなことは気にならない。


 ふと、冷たい何かが流れたものがある。


 今にも骨が折れそうな腕を動かして見ると、自分の頬を伝う水があった。


 痛いからではない、苦しいからでもない、悔しいとか、怖いとか、そういった感情からではない。


 強いて言うなら、“寂しいから”だろうか。


 力無くベッドに身体を沈めると、何も無い空虚な天井が見えるだけで、劉は滲む視界を閉じた。


 ―誰にも聴かれない歌がある


   それは小さな小さな物語


   受け継がれないその歌は


   いつかの世へと羽ばたいた




   何処にも届かない歌がある


   それは儚い儚い物語


   消えゆくままにその歌は


   遠くの世へと歩みゆく




  全ての言の葉たちが ひとつの線に跨り


   夕暮れを奏でる 生が輝いた―




 目をそっと開けると、天井がこちらを見ている。


 幾つもあるシミのようなものがあるのだと、今気付いた。


 何時ごろかなど分からないが、兵士が一人食事を運んできて、鉄格子を少しだけ開けると、スス、と床に置いた。


 すぐに閉められたドアは、どう足掻いても開かないだろう。


 「早く食えよ。今日だけでそんな調子じゃ、明日まで体力もたないな。自白すれば楽になれるんだ。そこは考えとけよ」


 「・・・・・・」


 視線だけを泳がせて返事をすると、言う事を聞いてくれるようになった身体を起き上がらせる。


 ゆっくりと視線を食事に向けるが、パンひとつにオートミールだけ。


 深く息を吐くと、重そうに身体を動かして鉄格子にまで近づき、そこに胡坐をかいて座った。


 指先がヒリヒリとするが、パンに手を伸ばしてそのままかぶりついた。


 少しパサついているが、オートミールと一緒に喉に流し込んだ。


 食べ終えてまたベッドに横になると、今日一日で蓄積された疲労に、身体が悲鳴をあげたようだ。


 目をつむればすぐに眠りにつけた。


 「せいーぎーのーヒーローはーああー、だーれえのーたあーめえーにいー♪」


 何の歌かは分からないが、恒楊が大浴場で一人、呑気に歌っていた。


 ゆうに五十人は入れるだろうほどの大きな浴場で、約三mの滝までついており、その滝よりも大きいドラゴンの置物の口から、お湯が出ている。


 大きな欠伸をしていると、浴場の入り口から音がした。


 そこから、一人の女性が身体にタオルを巻いたまま入ってきて、少し恥ずかしそうに、お湯に入ろうかどうか迷っていた。


 「ソレは外せよ?俺だって、この通り無防備なんだぜ?」


 「・・・そうね」


 女性はハラリ、とタオルを外して自分の身体を露わにする。


 あまり弾力がありそうには見えない胸、ただ細いだけではなく、筋肉質の足、くびれたお腹。


 湯に浸かって、そのまま恒楊のところにまで進むと、恒楊は妖しく笑って女性に向かって腕を広げた。


 その腕の中に入ると、女性は上目遣いに恒楊を見て頬を染めた。


 女性の腰に手を回すと、恒楊はぐっと顔を近づけて、耳に口をつけた。


 くすぐったそうに身をよじる女性は、身体をくっつけるように距離を縮めると、恒楊も満足そうに笑う。


 「俺は、気の長い男じゃねえからな」


 「あら、それは初耳ね」


 クスッと笑いながら、女性は恒楊の首に腕を巻きつけた。


 「今日は御機嫌ね。何か良いことがあったの?」


 女性に聞かれ、恒楊は女性の首に唇をつけながら答えた。


 「ああ。極上のトリュフに出会った気分だ」


 「その例え、よく分からないわ」


 「いいんだよ。俺はとにかく今、楽しくて仕方ねえんだ」


 恒楊の笑みは、見る人によっては妖艶であり、見る人によっては不気味である。


 「あたし、貴方のその、何を考えてるのか分からない顔、好きよ」


 「そりゃ光栄だな」








 夢を見た。


 それは、本当に夢だ。そのはずだ。


 しかいながら、どこかで見たことのあるような、聴いたことのあるような、知っているような気がする。


 ここが夢であるという意識もあるし、痛みも感じない。


 フワフワと宙を浮いている感覚もあり、目を開けようと思えば開くのかもしれない。


 それでも、このまま目を瞑っていた方がいいのでは、と思っている自分もどこかにいる。


 「ここは、どこだろう?」


 一人で歩いている道は、ただただ真っ直ぐにどこまでも続いていて、どこに行くのかは分からない。


 裸足で歩いているにも関わらず、冷たくもないし痛くもない。


 やはり夢なのか、と納得して歩き続けた。


 ドアが急に目の前に現れ、手をかけて開けてみる。


 一瞬、眩しくて目を閉じるも、目を細めて少しずつ開けてみると、そこには誰かに似た人物がいた。


 そして、その横には、幸せそうに微笑んでいる男女。


 「あれは・・・母上に、父上?」


 立ち止まり、楽しそうにしているその人達を見て、眉を顰める。


 自分の前にいるはずがない。それは自分自身が一番良くわかっている。


 それでも、今はこうしているのだから、それは夢の中のこととして起こっていることなのだから、受け止めるしかない。


 「ほら、母上。あそこで義景がまた走りまわっている」


 「あら、本当ね。まったく、誰に似てあんなに活発なのかしら」


 「父上しかいませんね」


 三人の見ている方向を見てみると、そこには、やはり自分にそっくりな、瓜二つの顔を持った小さな男の子がいた。


 拙い足を必死に動かして、不器用に地面を蹴っている。


 ニコニコと笑いながら、トタトタとおぼつかない足取りで三人の許に向かうと、転んだ。


 顔をがばっとあげると、またニパーッと笑って父親の足の間に入った。


 足をバタバタと動かして顔をあげ、父親の顔を見てニタ―っと笑うと、顔を戻して今度は母親の顔を見て笑う。


 とても幸せそうな、そんな家族の姿。


 「やっぱり、これは夢だ」



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