酒肴のもてなし
小田原藩から派遣された官吏が金次郎さんの邪魔をしました。そのことについて『報徳記』は続けて次のように述べています。
金次郎さんは大いにこのことを憂われ、そこであるいは温い言葉をもってこのものを
金次郎さんは日夜に辛苦、艱難して興復の事業をあげようとされました。某は日夜に肝胆をくだいてこの事業をやぶろうとしました。
金次郎さんはすでに某をして善に帰らせようとして力をつくそうとされましたが、いかんともすべからないようになり、大息しておっしゃいました。
「彼は小田原十萬石の力をもってどうすることもできなかった(ものだ)。私に屬したならば必ず善に帰るだろうとしてこの地にいだされたのだ。
もし位・格を去ってその後に私に(彼が)屬したならば、私がこのものを善に導くことは難しいことではない、そうであるのを位・格を私の右(高い位置)に居いてこの地に来らされたために、私を目下にみて事業をさまたげ、下民もまたその言葉にしたがって、ともに(それぞれが)方法をやぶることを謀っている。このものを矯正しようとして歲月を送ったならば、私はこのもののために事業を廃することになるだろう。やむことをえないので、彼の好むところによってこのものを処する(対処する)にまさることはない」
ひそかに婦人(奥さま)に命じておっしゃいました。
「彼は性として大いに酒を好んでいる。朝に起きるのを待って酒・
「あなた様はこの地にいたられるより以来、実に村中のために労されること容易ではございませんでした。せめては一盃を飲まれてその労をお補ないください。金次郎めはわたくしに命じて村中にいたりました」
そう申しあげよ。
酒肴がつきたときは別に備えおきまたこれをお出ししなさい、終日(一日中)酒肴を絶つことがないように、これもまた(私の)方法が事業を成すの一端(一つの部分)である、必ずあやまつことがないように」
婦人(奥さま)はその言葉のようにして美酒・佳肴を出されました。
某は大いによろこんで再三これに感謝して飮食すること終日(一日中)やすむことがありませんでした。それ以来、日々このようであって一日も酒肴をそなえないことはありませんでした。某はいよいよよろこび、その酒肴に飽くことを楽しみとなしてあえて村中にいたりませんでした。奸人のやからが来たるといえども某は沈酔して言語が分明でなく、奸民はこれがために謀りごとを合すことができませんでした。
金次郎さんはこの時にあたってもっぱら村中に力をつくし、困民を慰撫し、荒蕪を開き、およそ旧復の事業を夜もって日に継ぐ丹誠がありました。
数歲ののち、某はついにみずからを省りみて自分を責め、
実に德化のそうさせたことを感じることでした。
ここまで『報徳記』の記述によりました。ここでは金次郎さんが工夫して、官吏を酒肴攻めにしてその気持ちと攻撃をやわらげ、ついには協力者とならせたことになっています。
しかし『報徳記』のこの後の記述によると、金次郎さんのやり方は村のものたちの反発を招いたようです。こののちには小田原藩に、農民や官吏がそれぞれ訴えたことが記されています。これについてはここでは触れていません、省略します。
またそれらの訴えは大久保忠真侯に握り潰されたのです。そのことが『報徳記』にはのこされています。そして金次郎さんもそれらの批判や訴えを乗り越えられたとなっています。
のちに金次郎さんは『二宮翁夜話』巻四、全体の第百六十八「盛衰の運 春秋の譬」にて次のように述べられています。
翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)はおっしゃいました。
「山谷は寒気に閉じて雪降り凍っているけれども、柳の一芽が開きそめるときは、山々の雪も谷々の氷も皆それまでである。また秋になって桐の一葉が落そめるときは、天下の青葉はまたそれまでである。
それ世界は自転してやまず、そのために時に逢うものは育ち、時に逢わないものは枯れるのである。午前は東向きの家は照るけれども、西向きの家は蔭っている、午後は西を向くものは日を受けて、東を向くものは蔭るのである。この理を知らないものがまどって、私は不運であるのだ、といい、世は末になったものだ、などと歎くのはあやまりである。
今ここに幾萬金もの負債があるとも、何萬町の荒蕪地があるとも、賢君があってこの道によられるときは憂うるに足りない、どうして喜ばしいことがないだろうか。
たとえ何百萬金の貯蓄があって、何萬町の領地があるとも、暴君があって道を踏まず、これも不足、かれも不足と驕奢慢心して、増長につぐ増長をしたならば、消滅せんことは秋の葉が風に散乱するがようなものである。恐れないでいられようか。
私の歌にある、「奧山は冬気に閉ぢて雪ふれどほころびにけり前の川柳」と」
ここでは金次郎さんの主君(大久保忠真侯)を信じる熱い心が語られています。
そして金次郎さんはその期待に応えるために奮闘されます。それを『報徳記』にみてみましょう。
金次郎さんが桜町の衰邑をおこし旧復させられた良法は、天地開關の上古を察せられ、金銀を期待せずに、廃蕪の地をひらくに一鍬よりはじめ、水田・一反步を起してその出来が一石なら、その半数は耕作の用にあて、半数をもって次の歲の開田料となし、連年このようにすれば、廃地をあげるに廃地の収入をもってし、年月をかさねて力をつくすときは、幾萬町の荒地が耕田となったのでありました。
諸民を撫育する用財もまたこの中から生じさせる大理を発明し、そのはじまりを小田原の大久保忠真侯へ言上して侯の出財を
民戸を増さんがために来民を招ねかれ、これらを撫育するの道はとても厚いものでした。
ここまで『報徳記』からですが、金次郎さん、必死の努力です。その中には以前からあげられていた移民を迎えいれられたことも語られています。しかしこの移民(流民)の迎えいれは地元民との間に軋轢があったと以前には記述がありました。
金次郎さんはそのことについてどのようにみておられたのでしょうか。
金次郎さんにはこれらの民、流民だけではなく全ての民について心境が変化する瞬間があったようです。村々を復興させるのにそれが転機となります。金次郎さんの心境の変化を次章に入り、より詳しくみてみましょう。
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