畢生の覚悟

『二宮翁夜話』巻一、全体の第十の金次郎さんのお話は続きます。


「それ釋氏(釈迦牟尼仏)は「生者必滅のことわり」を悟り、この理を拡充してみずから家をすて、妻子をすて、今日のような道をひろめたのである、ただこの一理を悟っただけなのである。


 それ人は生れいでたる以上は死することがあるのは必定ひつじょうである。長生きといえども百年をこえるのはまれである、限りのしれていることである、わかじに(夭)といっても実は毛・弗の(わずかな間の)論である。


 たとえば蝋燭ろうそくに大・中・小があるのと同じである。大きな蝋燭といえども火が付いた以上は四時間か五時間のものであるだろう、そうであるならば「人と生れいでたるうえは必ず死ぬものである」と覚悟するときは、一日いきれば一日のもうけ、一年活れば一年の益である。そのために本来わが身もないもの、わが家もないものと覚悟すれば、あとは百事・百般皆もうけである。


 私の歌に「かり(仮り)の身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」というものがある。


 それについては、この世は私も人もともにわずかな間を生きる仮の世であるので、この身は仮の身であることは明らかである、元のあるじとは天をいう、この仮の身を自分の身(体)と思わず、生涯一途に世のため人のためのみを思い、国のため天下のために益あることだけを勤め、一人たりとも、一家たりとも、一村たりとも困窮をまぬがれ富有になり、土地はひらけ、道・橋はととのい、安穏に渡世ができるようにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕願い祈りておこたらない私のこの身である、という心にてよんだのである。これは私の畢世(一生涯)の覚悟である、私の道を行なおうと思うものはしらないようなことがないように」


 ここでは死を覚悟して、みずからが仮の身を預かっているとして、その人生を人のために勤めることが述べられています。これだけの考えをもった金次郎さんですから、相当の覚悟で移住されたであろうことは推測されます。


 さて『報徳記』は続けてお役人さんのお話をされます。


 小田原侯はこの地の再興の事業を先生に任せられたといえども、一人の力にはかぎりがあって、旧復のこと(事務)はかぎりないであろうと、吏の二、三輩に命じて野州(下野国)にいたり、その力を合せさせられました。


 宇津家よりも橫山周平という方をいだされて協力させられました。橫山周平さんは性は廉直にして文・学があられた。先生の道を信ずることあつく、ともに一身をなげうち力をあわせて旧復の道をおこなわれました。そうではありましたが常に多病であって性来虛弱であり、数年ならずして没せられました。金次郎さんは終身(一生涯)この橫山さんを惜しまれて、話がこの人に及んだときは必ずなみだを流されました。


 ここに『報徳記』では小田原藩から手伝いの役人が来ていたこと、宇津家からも横山さんというお役人がやってこられていたこと、そして亡くなられたことが話されています。


 金次郎さんは情に厚い人だったのでしょう、ここでも思い出を泣きながら話された様子が語られます。


 涙といえば『二宮翁夜話』巻二、全体の第五十一の「秋の田の御歌を說て物井村廻村の事に及ぶ」というお話で次のように述べられています。


 翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)がおっしゃった。


「百人一首に「秋の田のかりほのいほのとまをあらみ、我衣手は露にぬれつヽ」とある。この御歌(御製)を歌人が講じるのを聞けば、ただ言葉だけであって深き想いもないようである、なにごとも己が心だけでは理解できないものなればであるだろう。


 それ春・夏は百種・百草が芽をだし生いそだち、枝葉がしげり栄えて百花が咲きみち、秋・冬にいたれば葉は落ち実は熟して百種・百草みな枯れてしまう。すなわち(秋は)積みかさなったものごとの終りである。およそ事の終りにはおごる者は亡び、悪人は災に逢い、ぬすびとは刑せられる。一生の業果の応報を、草木の熟する秋の田に寄せて(喩えて)の御製であるだろう。「とま(苫)をあらみ(苫の目が荒い)」とは、政事が荒いために行きとどかないのを歎かれなさったのである。御慈悲・御憐みの深きことは言外にあらわれている。


 このものは何々によって獄門をおこなうものである、我が衣手は(涙で?)露にぬれている。このものは火炙ひあぶりをおこなうものである、我が衣手は(涙で?)露にぬれている。誰は家事の不取締りにつき蟄居ちっきょ申しつける、我が衣手は(涙で?)露にぬれている。


 悪事をして刑せられるものも、政事の届かぬためおごりを長じさせて滅亡するものも、私の教えの届かぬためと御憐みの御涙であって、御袖をしぼらせなさるという歌である、感銘すべきである。


 私がはじめて野州(下野国)・物井にいたり村落を巡回したとき、人民は離散してただ家のみが残り、あるいは立腐れとなっており、石据のみが残っていたり、屋敷のみが残っていたり、井戶のみが残っていたり、実に哀れではかなく、形をみれば、あはれこの家に老人もあったはずであろう、婦女・児孫もあったであろうはずだろうに、今はこのように萱やむぐらが生い茂り、狐や狸のすみかと変じてしまったと思えば、実に「我衣手は露にぬれつヽ」の、御歌も思ひあわせて、私も袖をしぼったものである。


 京極黃門(藤原定家卿か)が百首(百人一首)の巻頭にこの御製を載せられて、今の諸人の知るところとなっているのはよろこばしい事である、感拜すべきである」


 ここでは天智天皇の御製(御歌)に感じて、君が民を想われることを考え、また季節と一生が似ていることを述べ、いずれは悪事を働いていると罰を受けるものであることを憐れまれています。


 秋になると罪を裁かれる、それを憐んでおられる、とは極端な解釈といえば極端なのかもしれませんが、感じさせられることが多いのは確かです。


 さてそんな気持ちをもった金次郎さんの前に別のお役人さんがあらわれます。『報徳記』からです。


 小田原の吏のなにがしなるもの性ははなはだ剛奸でありまして、金次郎さんの徳行をみその事業をさまたげました。金次郎さんの処置するところはことごとく僻論へきろん(自分の説)をもってこれをやぶり、村中にいずれば「これらの件々を二宮が命じたといえども私はこれを許していない、すみやかにこれをやめよ、もし私の言葉に從わないのであれば、必ずおまえ等を罸しよう」というのでした。村民は恐れて金次郎さんの指揮にしたがいませんでした。


 某は常に金次郎さんの功業をやぶるのをもって心としました。そのために奸民はこれにへつらい、ともに良法の成らないのをもって愉快としました。それだけでなく良民をしりぞけ、侫人を賞し、三村に横行して大酒を飮み、口をきわめて先生をあざけりました。


『報徳記』では小田原藩から送られてきた官吏が、金次郎さんの邪魔をするようになった様子が描かれています。さて金次郎さんはどうされたでしょう。


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