桜町陣屋

 桜町に到着した金次郎さんの様子について、次のように『報徳記』にはあります。


 文政五(壬午)年(1822年)、金次郎さんははじめて桜町にいたられました。(桜町には)陣屋がありました。この地は元来、小田原侯の領地でありました。往年、この三つの村を四千石としてわかって、そして宇津家の釆邑(領地)となされたのです。


 桜町陣屋は小田原領分(領土)であったときの陣屋でありました。屋根はやぶれ、柱は腐朽し、四つの壁はみなくずれており、軒下からは草木がおいしげって、狐、狸、猪、鹿らがここを棲家すみかとしていました。


 村中もこれに準じて田圃の三分の二は茫々たる荒野となっており、わずかに民家の近くのかたわらのみに耕田があるといえども、それぞれの戸が惰農であって、百草がその上にはびこっていて、諸作物はその下に伏せっていました。


(桜町陣屋からは)元祿の年度にあたって石高・四千石、民家・四百四十戸、租稅・三千百俵余りを納めていました。そうであったのが衰廃がきわまり、方今(最近)の年貢はわずかに八百俵、戸数は百四十軒余りに減少していました。


 家々は極貧にして衣食がたらないで、身にやぶれた衣をまとい、口は糟糠そうこう米糠こめぬかか?)をくらい、耕耘こううんの力はなく、いたずらに小利をあらそって公事や訴訟がやむときはなく、男女は酒をむさぼり、博奕ばくちにながれ、私欲のほかの他念があることはなく、人の善事をにくんで人の悪事・災難はよろこび、他をくるしめて己を利せんことをはかりました。


 名主は役の威をかりて細民をしいたげ、細民はこれをいきどおりてたがいに仇讐きゅうしゅう(仇・敵)の思いをなして、しだいに損益をあらそうようになっていて、たちまちそれぞれが闘うにいたりました。


『報徳記』にはこのように当時の悲しい状態が記されています。


『二宮翁夜話』巻四、全体の第百三十五「同翁の勉勵 竝 政道の本意」には、当時の苦労が記されています。


 翁(二宮翁、金次郎さん)はおっしゃいました。


「惰風がきわまり、汚俗が深くしみた村里を新たにするのはとても難しい業である。どうしてかといえば、法が戒めることができず、令が行われることができず、教えを施すことができず、これらの民をして精励におもむかさせ、これらの民をして義に向かわさせる、どうして難しいことがないだろうか(反語で、これは難しいのだ、ということ)。私は昔に桜町陣屋に来たった。配下の村々は至惰、至汚で、いかんともするべき方法がなかった。


 このために私は深夜あるいは朝の未明に、村里を巡行した。惰を戒めるにあらず、朝寢を戒めるにあらず、可・否をとわず、勤・惰をいわず、ただ私みずからの勤めとして、寒暑や風雨といえどもおこたらなかった。


 一、二月たって、はじめて足音をきいて驚くものがあり、また足あとをみて怪しむものがあり、また現にあうものがあり、これよりそれぞれ共に戒心を生じて畏心(畏敬の念)をいだき、数月にして、夜遊びや博奕、闘争などのようなものはもちろん、夫妻のあいだのことや、奴僕の交りのこと、叱咤の声などもないようになった。


 ことわざに「権平ごんべえが種を蒔けば鳥がこれを掘る、三度に一度は追わずばなるまい」といっている。これは田舎じみていやしい戲言ざれごとといえども、有職の人(職についている人)は知っておかなければいけない。そもそも鳥が田圃をあらすのは鳥の罪ではない、田圃を守るものが追わないためのあやまちである。政道をおかすものがいるのも官がこれを追わないがためのあやまちである。政道をおかすものを「追う」ような道も、また権兵衛が「追う」のをもって勤めとし、「捕える」をもって本意としないようなもので、そうありたいものである。


 この戯言は政事まつりごとの本意にかなっている。鄙俚ひり(田舎のいやしい)の言葉といっても、心得なければいけないものである。


 含蓄のある言葉と、金次郎さんの夜を徹した努力がみられます。


『報徳記』は金次郎さんの努力をさらにつづります。


 これよりさきに、小田原侯は群臣からえらんだものにこの地の再復の命をくだされ、来たって代官となるものが四、五輩に及んでいました。手をくだすところがなく、あるいは奸民のためにおとしいれられ、または衆民におわれ、数月もこの地にとどまることができませんでした。土地の衰廃や人気の汚悪、民家の貧窮は実にきわまっていたというべきでした。


 金次郎さんは断然としてこのような難地にのぞまれ、まず民屋にすまれて陣屋の草萊そうらい(草など)をのぞかれ、大破を補修・修理してここに移住し、三つの村の旧への復帰の規則と計画をたてられ、鷄が鳴いてから初夜にいたるまで毎日廻り歩いて、一戸ごとにのぞんで人民の艱難と善悪を察し、農事の勤・惰を判断して田圃の経界(境界)を察(推定)し、荒蕪の広い狭いをはかり、土地の肥・こう(痩せ)、流水の便利をかんがえ、大雨・暴風・炎暑・厳寒といえども一日も廻り歩かれることを止められませんでした。


 四千石の地の一戸、尺地といえども胸中に了然りょうぜん(はっきり)としないことはなく、そののちに善人を賞し、悪人をさとしてこれを善にみちびき、貧窮を撫育して、用水を掘り、冷水をぬき、勧農の道を教え、荒蕪を開き、諸民が安堵する良法をおこなわれました。


(金次郎さんは)みずから艱苦におられて衣は綿で(つくり)身をおおうにたればいいとされ、用いなければならない以外は別の衣をつくられませんでした。食は一汁のほかを食されず、村の中にいでて食されるには冷飯に水をそそいで味噌をなめるような食事をされるだけでした。村民のすすめる食事は一つのものも食されませんでした。


 金次郎さんはおっしゃいました。


「あなた達は惰農のためにこのように困窮におよんだのだ。私は千辛萬苦をつくしてあなた達をやすんじる、あなた達の衣食がたりるときに至らなければ、私もまた衣食をやすんじないことにする」


 そうおっしゃいました。


 終日(一日中)いささかも休まず、夜にいたって陣屋にかえって寝ることわずかに二時(二つの刻か、二時間かわからず)にすぎないで起き、前日には明日になすべきことを考え、萬事の処置がすこしも遅留することはなく、流れる水がひくきにくだるがようでした。その神速なることに衆はみな常に驚歎していました。


 このように金次郎さんの当時の姿を『報徳記』はえがいています。


 金次郎さんの言葉はときに厳しいものがあります。しかし「あなたがやらなければ誰がやるのだ」と。荒地を開くのは荒地に住んでいるもの以外にない、という金次郎さんの激励の言葉、そしてみずからを厳しく律していくすがたには身がひきしまるものはあります。


 現代に通じるものはないのでしょうか、考えさせられるところです

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