服部家の立て直しについて

 さていよいよ服部家の立て直しにたどりつきます。まず小田原藩における服部家の立ち位置をみておきます。


 加藤仁平先生が論文で詳細な注を付けられていますので、それを引用します。現代文にいくらか直しています。


「服部家は千二百石の家老である。小田原藩には家老職格の大禄八百石以上が十二ある中で、杉浦平太夫が千五石、山本源太兵衛が千四百五十石、次は服部十郎兵衛である。


 たか千二百石として文政の頃には渡米四百三俵余りであるが、これを四段に分つて月々渡されるのである。少い月は食料と小使こづかいにあて多い月の分で重要なる支払いにてるといふことともなるのが一般士分の俸禄支給方法であった。」


 小田原藩の武士には「知行取り」のものはいなかったとされます。つまり領地を与えられた家臣はいなかったということです。ですので「蔵米取り」といわれるお米の現物支給をうけ、それが四回にわたったうえに量にも差があったことがここでは述べられています。


 それにしても千二百石の石高が、実質四百三俵だったというのは四分の一ですからかなりの減額になります。


 さらにです。これらのお米は手数料を取られてお金にかえられたとのことですし、収入は年によってことなり、増減があったとされます。その説明が続きます。


「千二百石には千二百俵といふ四公六民の制の通り渡されたのではなく、領土をあたえられたのではなく稟米くらまいを交附せられるのであるから、領土の作徳さくとく状況と領主の䑓所だいどころの状況とによって減額せられることはむを得ない。寶暦の頃には大久保家の収入少く失費多く、一列に祿米を減額せられ千二百俵が四百三俵となつてたことは小田原藩老中格の渡邊十郎左衛門の「物成相渡通」の文化六年分に千石のところ三百三十六石餘となってゐるので肯定し得る。」


 ここでは小田原藩の武士たちが、苦しい財政のなかで懸命に生きていた姿が浮かびあがってきています。


 そしてこれらを救うために金次郎さんが『五常講』というものをもうけられます。


 服部家の財政状況については並松信久先生が「二宮尊徳における農業思想の形成」(農林業問題研究19(1)、1983年)で述べられているのでそれをまとめます。


 並松信久先生のご研究によると、金次郎さんがはじめて服部家の立て直しにとりくもうとしたときに、すでに三百六十両の借金があったとあります。


 この借金の返済のために金次郎さんは二つの手段をとったとされます。一つが米の投機で、これは失敗に終わります。1820年(文政三年)から1821年(文政四年)にかけて千六百三十七俵の米を買いつけましたが、百三両の損が出たとあります。


 米の投機が失敗に終わったので取られたのが緊縮財政でした。先に述べたようにご飯と汁のみの食事や綿の服などの取り組みが行われました。


 しかし1818年(文政元年)以降、服部家のご当主が江戸詰になっていたことで借金が重なり、借金はなかなか減らなかったのです。


 そこで取られたのが、低利の融資への借りかえでした。


 はじめに藩から四百六十両のお金を借り、金次郎さんは服部家の借金をみな返済してしまいます。


 ただ藩もただでお金を貸してくれたわけではなく、この融資には利子がついていました。実際の借入が服部家の収入四百三俵のうち九十俵を十五年間のあいだ藩に差し出すことで行われ、そしてその利子が複利にすると年で二分五厘となるとされます。


 高利の借金を低利に借りかえることで、生活を楽にしようとした金次郎さんのねらいが指摘されています。


 そして金次郎さんはさらにこの借りかえだけで満足しません。どのような交渉があったのかはわかりませんが、藩からお金を借り、藩士へそのお金を貸しだしてみんなに融通することを考えられます。


 それが「五常講」と呼ばれるものだったのです。


 小田原藩士が困窮していたのは、服部家に与えられた米が千二百石であったのに四百三俵であったことや、先にあげられた渡邊家の記録でもわかります。


 これらの困窮している小田原藩士のために藩からお金が藩士救済の目的で貸しつけられます。金次郎さんは相談の結果、そのお金を小田原藩士に貸して、生活の助けにすることにしたのです。その金利については五分から一割としたうえで、さらに借入者の生活状況によって、利子はさまざまであったと論文には注記されています。


 記録や貸し出しの冊子を実際に私はみていませんので、各先生方の研究の成果にそって話をつづけます。


 この貸しだしのために、金次郎さんは組合をつくります。もともと服部家では「五常講」というものが家僕・召使のあいだですでに行われていたのですが、金次郎さんはその応用として連帯保証をしての貸し出しを小田原藩士の人たちにおこなったのです。


 みんなで責任をわけあって信頼を保証し、お金を貸しだすことにその意図はあったように感じます。


 服部家の借金は一時は千両を実際に超えたと述べられています。金次郎さんはそれに対し、十二年間で三百両の余りが出る計画を立てられたとされています。


 しかし実際はそんな簡単にはことが運びませんでした。


 結局服部家の立て直しはなります。ただその達成には時間がかかり、嘉永二年(1849年)、金次郎さん六十三歳の時にようやく安定をみたことが手紙などからわかるようです。


 しかし高金利から低金利への借りかえや、善意(でしょう)での藩士への貸しだしが効果をあげたことは確かなようです。

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