そうだ、この目を見た。この間の絮飛が見せてくれた写真だ。

 目の前の少年の瞳の中に自分が写っていた。

 通訳機はうまく作動しているようだ。伝えてくる声はどうしても機械を通していて、発話者の音声に似せていても平板になる。

 少年の丸い黒い瞳は、その声音よりも遥かに雄弁に彼が抱いている思いを語りかけてくる。恐ろしさと、悲しさ、行き場のない怒りと、ほのかな希望に、強い使命感までがない混ぜになっていた。

 瀕死の母親のために、神仙に会って、幸運を持ち帰りたいだなんて、こんな役に立たない二人であることをどう伝えたらいいだろう? 

 少年は、彼の世界の端っこにつま先立ちで立っている。その前と後ろにある深淵を見ないようにしているが、もう知っている。それらがもう間もなく彼自身を飲み込もうとしていることを。

 俺たちは役立たずなんだよ。

 少年は話し終えるとぎゅっと滋晨の体にしがみつき、布地に顔を押しつけた。

 滋晨の胸の中をふと、一抹の、忘れ去ったはずの苦い何かが過ぎっていった。

「「箱舟」に乗りなさい」

 母の言葉だった。

 博士論文を提出したら身を固めるようにと相手まで決められて宣言され、ついに自分は同性愛者だと告げた。結婚はできないし、しない。せめて一人で生きる。

 両親は、今の政府を組織する党の関係者だった。模範的なことではない、と静かに激怒された。滋晨は、ただ首を横に振り、学生運動に参加するつもりだ、と告げた。もし、それが周囲に知れれば、両親は、そしてそれに連なる親族に大きな傷がつく。体面のために結婚はなんとか取り下げるだろう、そういう読みだった。

 その代わり、自分も学生運動には参加しない。その後は、ただ静かに本の中に埋もれて何も言わずに生きる。

 数日後、女性団体の一員でもある母が静かにそう言ったのだった。

「あなたはずっと国外で勉強していたいって言ってた、だから乗りなさい。向こうは歓迎してくれると、あなたの指導教授にも聞いた。あなたは向こうでもやっていけるだろう、外に行けるなら外に行ったほうがいいって。もう手配はしてあります」

 母は息子の性的指向については触れなかった。滋晨はぼんやりした。

「そのほうが、母さんたちには楽だね。俺がいなくなったほうが」

「そうね」

 母は何かを言いたげに口を動かしたが、言葉として出たのはそれだけで、それから唇をかみしめて、袖口に目を押しつけた。いつもは大きく見える母がひどく小さくなった。

 滋晨はいきなりやってきた意外すぎるオプションに、ただ、座り心地の悪い沈黙のなか、長く逡巡してから「わかった」とだけ言った。そうして「箱舟」に乗ることになった。

 あの時、母は泣いていたのだ、今の少年のように。

 今から考えれば、母は自分が持てるコネクションと力を使って、息子を「箱舟」に押し込んだのだろう。異性愛者ではない息子を矯正施設に送らず「箱舟」に無理やり乗せるのは、政府関係者としては模範的とは言えない。

 あんなに模範を愛する人たちが、そうしなかった……。

 滋晨は少年の頭を小さな肩を何度も撫でてやった。どんな気持ちで神仙を探したのだろう。あの時、俺は母親を撫でてあげたり抱きしめることができなかった。そうしたらよかったのかもしれなかった。

 横を見た。絮飛があの仏頂面になっていた。何を思い描いているのだろう。少年の小さな手だろうか。お母さんを救おうと必死になっている真っ赤な顔だろうか。

 「子供を救え」って思っているのかな。

 それは絮飛が彼の愛する祖父がよく話した言葉だと教えてくれた。彼の祖父が、何を言わんとしているのか、滋晨はよくわかった。

 「子供を救え」……自分の出身地が、かつて近代という時代に足を踏み入れた時に書かれた小説の一節だ。

 人が人を食っている、兄貴に食われると主張した男が、そういう狂人の言葉だった。すでに時代に食われてしまった自分ではなく、せめて、まだ食われていない子供を救ってほしい……。社会制度は人間を食う。美しい言葉を費やして誰かの人生を食い潰す。

 そういう夢を見た向こう側はもうとっくにどこにもない。それは死ぬほど知っていた。あそこで生まれて育ったのだ。そういう理想が文字通り踏み躙られるのを目の当たりにした。そのありがたくない変化の中にいた。

 だが、絮飛の頭の中にはその理想が依然として存在する。そして滋晨の中にもその残滓は多分ある。

 彼が何をやろうとしているのか、その意志が流れ込んでくるようにわかる。いや、それは自分がしたいことかもしれない。

 自分も随分勝手だし、勝手をしてきた。

「ねえ、お母さんと、あなたのことについて話を少し聞かせてくれる?」

 滋晨は少年の頭を撫でながら、しゃがみ込んで、涙で滲んだ黒い瞳を見た。

「滋晨」

 絮飛が声をかけてきた。タイムリープ中は、現地の人間との接触は最小限にすべき、という原則を一応覚えているのだ。

「通訳機の実地検証だよ」

 子供と話すことができれば、合格と言えるんじゃないかな、と小さくやり返す。

「ここのことを教えてくれる? 君のおうちは今日は灯籠を出してるのかな?」

 少年は涙を止めて、小さく頷いた。訥々と言葉を紡ぎ始めた。

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