少年の丸っこい目を見て、この目を最近見たな、と滋晨は思った。

 だが、子供と通訳機を介して喋らなければならない事態に陥ったことが軽いパニックを連れてきて思考が霧散した。外国語……いや、時空を経た古代言語による子供との会話ほど難しいものはない。だがその前に、今この子どもはなんて言った? 自分達が神仙だって?

 うーん、と絮飛が腕組みした。

「神仙? どういうことだ? それは神様とか仙人とかそういうあれだろうな?」

「そうだろうね」

 いや、それはあっているはずだ。それでいいのだ。

「そもそもこのフィールドワークの場所を選ぶときに、光学迷彩装置が使えないとかで、目撃されても大丈夫なところ、という想定だったよね?」

「そうだ、軍が、人ほどの大きさの光学迷彩技術を学術目的でも使うのを認めないんだからな。俺たちが何しようっていうんだ。開発してるのはこっちだぞ。別にあいつらに楯突くのに光学迷彩を使うわけないだろう。だからフィールドワークは目撃者の出ない、田舎にしようと言ったのに、こんな都会を提案したのはお前だ。いや、もしかしたら、その髪の毛の色のせいか?」

「違う、あのね、今の研究は都市部じゃないとだめなの。灯籠の数が集まらないから。灯市の灯籠の変遷がテーマなんだから。どんな風にいわゆる「恋愛」の図柄が灯籠に描かれてるのかずーっと追ってるんだから」

「知ってる」

「だから見られても問題がないために、神仙が出るっていう伝説のある土地を選んでるんだよ。ちゃんとその辺はプレゼンしたと思う。だから「軽功」も試せるって話になったんじゃないか、武侠オタクのためにない知恵絞ったのに」

「それは礼をいう……飛ぶのは人類の夢だろ……」

「俺たちはこっちには数十年きちゃってることになってる。俺たちには数十時間か、数十日でもさ。姿形が変わらないし……そうなるだろうねえ……いや待て、今ちょっと頭がこんがらがってきた。嫌な予感がする。これ帰って文献を確認しないと……」

 何やらべちゃべちゃ話している。
少年は神仙たちのお話を目をまん丸にして聞いていた。

「俺たちが神仙なんて、世の中の本物の神仙に言わせれば罰当たりもいいところだろうな、いればだが」

「まあねえ……」


 二人はそのままずっと喋っていそうだったが、少年は息を吸い込むと、思い切った。

「あの、頭を撫でてくれませんか?」


 神仙にそんな願いごとをするなど、もしかしたら自分は何かの術をかけられてしまうかもしれない。でも、それでもよかった。ただ頭を撫でてくれさえすれば。

 神仙二人が、今度は目を丸くする番だった。四つのきれいな目が少年を射抜いた。そしてまた顔を見合わせるとくすくす笑い出した。


「そんな決死の覚悟で言わなくてもいいのに。かわいいねえ。」

「……どうした、なんでそんなこと言い出すんだ。撫でてはやるぞ」


 少年は浅く何度も頷いた。

「元宵の夜に神仙さまにあえたらその年いいことがあるって、お母さまに聞いたんです」

「うん」


 少年はまた拳をぎゅっと握った。


 出かけに触れた、母の乾いた、いつもより少し冷たいような手のひらを思い出した。「楽しんでくるのよ」せいいっぱいの笑顔だったが、顔は青白くやつれていた。

「ぼくがもし神仙さまに会えたら頭を撫でてもらって、今度はその頭をお母さまに撫でさせてあげようと思って。そうしたら、何か良いことがあるかもしれないでしょう」

 銀髪の神仙がまなじりを柔らかくした。


「そんなことならいくらでも撫でてあげようね」

 大きな掌がぽんと頭の上に置かれた。何度か撫でられてから、黒髪に代わった。

 少年の胸の中がじんわり温かくなった。

 ああ、これでいいことがあるかもしれない。

 目の縁からぽろぽろ涙が溢れ出した。

「泣くほど怖かったか?」

 少年は懸命にかぶりを振った。

「ありがとうございます」

「お前、帰れるんだろうな? おつきはどうした?」

「お母さんはどこ?」

 少年はまた首を振った。

「お母さまとは一緒に来ていません。ふせっているから……」

 銀髪の神仙がまた頭を撫でてくれた。

「お母さんの具合は悪いの?」

 少年は、ほんのわずかだが首を縦に振った。

「この間子供を産んで……弟だったのだけど……死産でした……」

 なんてこと、男の子なのに死産だなんて、と誰かが言ったのを覚えていた。血が沢山出て、紙のような顔色の少年の母を誰も心配しなかった。その時怖くてたまらなかった。手が震えて止まらなかった。母親のそばに行きたかった。手を握っていてあげたかった。だが、産婦の部屋に入ることは許されなかった。どんなに人手が少なくても手伝うことはできなかった。寄り添うことすら無理なのだった。少年はただ戸の少しばかりの隙間から様子を見ていた。心臓がうるさいぐらいに跳ねていた。足元がふわふわした。踏みしめているところがなくなっていくような気がした。


 視界が緑色になる。銀髪の神仙が少年の体を抱いていた。


「血がたくさん出て……お母さまもあんまり良くないって……」

 もう長くはないよ、と医者が言ったのを聞いていた。この春を越せるかわからないねえ。

 言葉になっていたかどうかはわからない。涙が言葉の邪魔をした。大声で泣き出すのを我慢しながら話すのは難しかった。

「お前、どこの子だ?」

「今は川向こうにいます」

 神仙二人は、同時に顔を顰めた。

まち外れじゃないか、あんなところにお前が住むような家はないだろう」


「産婦の血がお屋敷を汚すから、その血を川で遮るって……」

 家長である祖父が呼んだ占い師がそんなことを言い出し、父親はそれにしたがった。少年の身重の母を川向こうのあばらやに数人の使用人といかせた。不吉なものは家にはおいておけないし、家長に逆らうことはできなかった。少年は、本来は一緒に行くことは叶わなかったが、あばらやの柱に取り縋って抵抗した。流石に柱を壊すわけにはいかないので、少年は母親とそのあばらやに残された。それに少年は、家に五人いる妻たちのうち四人が産んだ三人の男の子のうちの三番目、そう重要でもない。

 暖かくもなく、清潔でもないところで、どうやって体力を回復せよ、と言うのだろう。そこは棺のような場所だった。

「くだらん」

 頭上で神仙のどちらかが、それか両方かが吐き出すように呟くのが聞こえた。

 ああ、怒ってもいいことなんだ。少年は思った。

 神仙さまたちは怒ってくださる。自分の頭がおかしいのではないのだ。

 少年はぎゅっと銀髪の神仙の体にしがみついた。

 ああ、神仙さまも人と同じように温かい……。

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