絮飛は、ぼんやりと視界に滋晨の横顔をおさめていた。

 銀色とグレーと白が複雑に混じりあった、肩までの髪が視界を遮っていて、滋晨の東洋人にしては随分高い鼻の先しか見えない。何か小声で露天商と話している。通訳機はうまく作動している。いつも心配がすぎるのだ。

「ねえ、ラボの学生たちにお土産を買うことってできないかな?」

 滋晨が顔を振り向けた。

 絮飛は条件反射で唇の端が緩むのを感じる。いや、視界すら、資料収集のために録画されているんだ、気をつけろ、と自分自身を心の中で蹴っ飛ばした。滋晨の長い指の先に小さな組紐飾りのようなものが下がっている。

「こっちの文物を持って帰るのはまずい。この間だって他の地域のフィールドワークがそれで問題になってただろうが」

 そもそも金を持っていない。万が一のために、複製されたものを携帯しているだけだ。

「やっぱだめかな」

 そりゃだめだろう。

 通訳機のできは気にするくせに、そういうよくわからないことに関しては、抜けている。

「ただの紐で乾いていて、変な病原菌もなさそう。貴重品じゃなくて、二束三文……一つだけ、だめ? 授業で意匠の変化もやるから、こういうの重要なんだよ。組紐の変化は写真じゃなくて現物じゃないとわからない……現物に触れることがどれだけ大事か……」

「3Dプリンターで作れ。今特別に撮影してやる。ほとんど現物だ。それを人数分作ってやれば事は足りる」

 滋晨が心なしか頬を膨らませながら、絮飛の視野のうちでこっそりと摘んだものをゆっくり回転させた。あとで腕の端末から指示を送っておけば、帰った時には、御所望のものがそのまま3Dプリンターの中に収まっているだろう。滋晨は唇を尖らせたあと、店主に一言二言言って、ものを置いた。

 滋晨は道を歩き始めた。絮飛も続く。

 元宵の日の灯籠を見にまち中の人間が全員出てきたかのようなごった返しだ。だが二人の前にはいつも空間があく。人々はこちらを白眼視しているわけでもなく、ただすいすいと二人の前には開いていく。

「変なの、避けられてるのかな? そういう感じでもないけど」

 扮装は他の人間と大して変わらないもはずだ。

 おそらく滋晨の髪の毛の色の問題だろう。若そうなのにこんな色なのはやはり奇異に感じられるに違いない。

 滋晨はいくつか頭の中にメモしてきた、必ず見ておくべき灯籠を求めて歩いていく。絮飛はただ静かに後についた。資料収集モードに入っている滋晨はひどく集中しているので邪魔をしたくない。

 滋晨は今は、灯籠に描かれた絵の変遷を研究していた。その中でも恋物語について描かれたのを集めている。

 理工系や数学系、時間工学系の連中は、滋晨がもっともらしく出してきた研究計画を見て頭の中に「?」を何個も飛ばしたが、最終的にはOKを出した。彼がタイムリープをしてやることぐらい好きなことをすべきだった。俺はさ、人間の感性の歴史的研究をしているんだよ。人間がどう変化してきたか、そしてこれからするか、考えてるの、と灯籠の意匠を見、そこに書かれた文字を読み解きながら、滋晨はよく笑った。

 そもそも滋晨をなくしては、時代考証も通訳も文化的注意事項についても成り立たないのだ。今こちら側で、〈九洲〉の古代言語を向こうの人間並に理解して、翻訳できる人間はほとんど数えるほどしかいなかった。滋晨はそういうものの最先端を担える一番若い貴重な人材で、そしてこちら側が、ほぼ唯一完全に信用できると踏んでいる人間でもあった。その理由は、腹立たしい以外の何者でもなかったが。

 絮飛も灯籠を眺めた。ちらちらした灯りに、龍や鳳凰や、伝説の怪物が色とりどりに描かれている。星の光を集めたような滋晨の後頭部を見ながら、ふと彼が言ったのを思い出した。

「俺は珍獣なんだ」

 それを聞いたのは、確か、俺は同性が好きだが、お前をそういうふうにみてもいいか、と言った時だったと思う。

 あの頃、滋晨の髪の毛はまだ若白髪の目立つ、黒い長髪だった。そして全く似合わない丸縁メガネをかけていた。レンズの向こうの目が大きく丸くなり、固まった。その表情の変化を絮飛は間近で眺めていたが、その口角がわずかに緩んで、頬が紅潮したところまで見てとって、そっと安心した。

 こっちでは、同性愛は御法度でもなんでもなく、普通に結婚もできれば家庭も作れた。絮飛は両性愛者で、それを隠すこともしていなかった。滋晨を初めて見た時にそういう興味を覚えた。長い髪の毛をただ後で緩くまとめて、瓜実顔に丸縁メガネをかけ、背は高く痩せ気味で、自分の体の大きさに戸惑いを感じているように猫背気味だった。最初はそのメガネが目を引いたのだが、それを想像の中で取り去ってみると、普通に好みの顔だな、と思った。

 すぐに気が合うことがわかって友人関係になったものの、絮飛は最初からその先に行けるかどうかを探っていた。滋晨は全くそういう気を見せなかった。彼は多分同性が好きなのではないか、という予感があった。どうやるかがわからないのだろう。向こう側では、異性愛者でない場合に、矯正施設に送られると読んだことがあった。生殖の可能性を後世にまで伝えるために、医療的・政治的・道徳的教育が施されるらしい。実情がどういうものかは知りたくもないし、もし自分が向こう側にいれば確実に送られていただろう、考えただけで吐きそうになった。そういう状況なら絶対に隠すはずだ。

「こっちでは普通だ、珍獣でもなんでもない」

「セクシュアリティはね……。うん、まあちょっと慣れないんだ。向こうではまず口に出せなかったから。そっちはいいとしても……俺が〈箱船〉に乗ってきてやってきた救われるべき知識階級であることは変わらないよ」

 その時、滋晨はひどく長く息を吐き出して、いつになく皮肉げに唇を歪めた。それは完全な間違いというわけではなかった。バーチャルにしろ、実際にしろ、国境を高くして排外化していく〈九洲〉からはもう長く学者が交流に来ることもなくなっていた。特に人文学では、皆、言質をとられるのを嫌がった。そんな中で、国を捨てるも同然でやってきたのが向こうの人文学の最高峰の生き残りの一人、滋晨だった。密かにこちら側の大学では引っ張りだこになったらしい。当の本人はそれを知らないのだ。

 本当の価値を本人は知らない。滋晨はいつもそうだ。

 自分に何か珍しさめいたものを求めるのをやめてくれ、と彼は言いたいのだろうけど見当違いもいいところだった。絮飛は、彼の何かその拗れたところが可愛いなあと思いつつ、唇の端に笑みを忍ばせた。

 珍獣なのは自分だって同じだった。

 絮飛の脳裏に、丸縁メガネをかけた祖父の顔が浮かんだ。

 〈九洲〉生まれの両親から生まれた自分は、向こうの土地を踏んだことがなかった。両親はどちらも学生の間にこちらに渡り、大学を卒業して、ホワイトカラーとして就職をし、出会い、結婚して、永住権を得るために死ぬほど仕事をしていた。各地を飛び回っていて、ほとんど家にはいなかった。

 そばにいたのは祖父だった。両親の永住権が取れたのと同時に、ただ一人存命だった父の父を呼び寄せた。両親が各地を飛び回っている間、祖父が彼と一緒にいた。祖父は本が生えた部屋に暮らしていた。かつて向こうの大学で文学を教えていたらしい。とにかく書痴で、独り住まいのアパートメントは長めの廊下の両端は床から天井まで、時代遅れのメディアの書籍でみっしりと埋められていた。

 絮飛は幼い頃から何度となく、その本たちがどういうものか、そしてどんな思い入れがあってこちらに運んできたかを聞いた。まだ知識輸出にうるさくない時だったからできたことなのだろう。

 祖父はこちらの言葉も話せた。だが、祖父は絮飛にひたすら母語で話しかけた。首都の出身の祖父は、喉の奥の方から丸まった音を出して、軽やかに歌うように喋った。

 祖父はまるで話の匣で、一度開いたらなかなかしまらない。

 口からは滔々と古代から今に至るまでの向こう側の面白おかしい話が、時には悲しい話もその口から流れ出した。それは、絮飛専用の話の匣だった。幼い頃は、祖父の隣でずっとその話をせがんだ。料理を作ってくれるときも、眠りに落ちる最後の瞬間まで、祖父のお話をきいた。それから祖父の持っていた本に書かれていた不思議な文字に魅了された。

 それは祖父の作戦だったのかもしれない。祖父は出来の悪い学生を相手にするように、それも仕方がない、最年少の学生だったのは確かだ、辛抱強く、言葉と大学で教えていた文学について教えた。そうして絮飛は向こう側には一歩も踏み入れたこともないのに、向こう側の言葉を頭いっぱいに詰め込んで、その言葉を操るようになったのだった。

 祖父は絮飛が高校に通っているうちに亡くなった。本が生えた部屋は主人を失い、一時期空き家になった。両親があの部屋をどうしようか、と言うのを耳にした。祖父の向こうの財産で買った家だった。父は売るのを渋った。それは、あの家の中の本をどう処分すべきかわからないのか、それともあの本に埋もれた家に父親の影を見ていたからなのかはわからない。良好な親子関係だった。誰も入らなければあの本たちもだめになってしまうだろう、と父がため息をつくのを聞いた。絮飛は反射的にこう言っていた。「俺が住んでもいいかな」幸い、志望の大学は近くだった。父は意外そうだったが、賛成してくれた。

 絮飛は、祖父の家に移り住んだ。本の合間に入るとどこか安心した。

 祖父と使った言葉は、祖父以外とはほとんど使うことがなかった。時に、移民たちが開いたレストランや商店で使うだけだった。

 両親はおそらく絮飛にとってあの言葉がどういう意味を持つかを知らない。両親は絮飛にこちらの言葉で話しかけ、絮飛もそうした。だが、絮飛の頭の半分は、向こう側の言葉でできていた。

 どうして祖父は自分にあの言葉を教えたのだろう。

 おそらく、祖父は人生の最後の時間に、一人でいたくなかった。自らの言語を喋りたかったのだ。彼の思いを、考えを、話を自由自在にできる相手が欲しかったのだろう。

 それに祖父はあの言葉の美しさを、精神をよく知っていた。

 特に、祖父はある時代に「目覚めた」若者たちの話をするのが好きだった。彼らがどうやって時代を変えようとしたか。この丸縁眼鏡は、当時の作家たちがかけていたのと同じデザインなのだよ。彼らの精神はまだ生きているんだ。祖父は変わりきった〈九洲〉のニュースを聞くたびに繰り返した。若者たちが自分達は目覚めたのだと主張し、通りを練り歩いたその世界はもう存在しなかったのだが、祖父は何かを信じたがり、信じていた。自分はできの悪い学生で、全てを理解することはできなかったが、祖父の熱っぽい語り口も、その若者たちの話を聞くのも好きだった。

 祖父の家に移り住んで、時に本を開いた。現代語に近いもので書かれているものは読めたが、より古いものは歯が立たなかった。祖父はそういうものも、わかりやすいお話にしてくれていたのだ。その本たちは絮飛には語りかけては来なかった。自分は書斎の主人には相応しくないし、本たちも喜ばない。

 アパートメントの祖父の書斎はそのままにしておいて、その隣の部屋を自分の部屋とした。

 滋晨は自らが珍獣であると告白してから数日して、髪の毛を今のように真っ白に染めた。

 目を丸くすると、向こう側では、異界と接触した人間は白い髪になるんだよ、と告げた。どこかさっぱりとした笑顔を浮かべていた。その時、ふと祖父に聞いたことのある、白髪の女性の不思議な話が記憶の淵から蘇った。それを話すと、今度は滋晨が目を丸くした。そんな話、よく知っているね。そこで自分も珍獣であることを見せるために、滋晨を部屋に招いた。アパートメントに足を踏み入れた瞬間に、壁一面の本に、滋晨がそわそわし始めた。そして祖父の書斎のドアを開けた時、その目が輝いた。

「来たかったら、自由に来ていいから」

 滋晨は必要最低限の本しか持って来れなかった、といつもぼやいていた。滋晨は呆然としたまま、置きっぱなしになっている本に触れた。長い指が表紙を撫でる。祖父が亡くなって以来、放って置かれていた本たちが、触ってくれと、読んでくれと喜んでいるようにすら思えた。

 絮飛は実に自分勝手に思った。思ったというよりは、その時、ある考えが胸にすとんと落ちてきて、住み着いた。

 この部屋に、新しい主が見つかったのだ。彼はここにいなければならない。祖父は同じ言語を話す誰かが欲しかった。多分、自分もその人物を見つけたのだ。

 それから紆余曲折を経て、滋晨はその部屋を本は一冊も捨てずに整理して、自分の部屋とすることになった。

 いろんなことがあった、と絮飛は星色の小さな頭を見ながら色々と回想した。今や滋晨は珍獣だろうがなんだろうが、絮飛にとってかけがえがない人間だし、プロジェクトにとっても必要不可欠だった……絮飛の同性の配偶者であるという事実によって、皮肉なことに彼は〈九洲〉からやってきた最も信頼できる人間になってしまっているのだった。

「きれいだね、ねえ、あれ見て」

 滋晨が上を指差した。

「あのあたりは刺繍で模様が入っている。すごいな」

 一際大きい灯籠がいくつか頭の上にかかっていた。それを見て一瞬ぎょっとした。大きな丸々とした赤ん坊が刺繍されていた。その他は男女の出会いと鴛鴦が飛んでいる……どうやらひとつの話になっているらしい。

「割とあけすけだな、すごいな」

 多分字を読んでいるのだろう。滋晨の声は自分に呼びかけているのではない、完全に研究モードの独り言だった。滋晨は多分自分達がこの間何について話し合ったかは多分全く考えていない。

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