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ここの灯市はもう数十年分通っていることになるが、今回は格別だ。灯籠の規模も数も、そのバラエティもここ数ヶ月の調査の中でも群を抜いているのは、眼下に広がる光の海ですぐにわかった。
あまりにも乗り出して前を見ていたので、一瞬バランスが崩れる。心臓が冷えた。今は、ある商家の屋根を間借りして(もちろん許可はとっていなかったが)いた。
屋根の上にいるのは、得意ではない。だが俯瞰して眺めるためにはこれしかなかった。
「気をつけろ」
隣の絮飛が、腕に巻かれている機器に目を落としながら短く言った。
先ほどから資料収集用ドローンの位置とその光学迷彩の調整に熱中していると思っていたのに、どこに目がついているのだろう。
滋晨は横を向いて、絮飛を見た。
その横顔を一体もう何回眺めただろう? 眉間に皺がよっている。熱中すると、仏頂面に近くなる。
絮飛は覚えているだろうか、自分たちもかつて灯市で初めて会ったのを。
規模は眼前のものとは全く比べものにならない。
あれは、「小九洲」の観光客向けのものだった。〈九洲〉では失われたかつての伝統文化を復活させようなどと謳って、〈九洲〉からの移民者と現地政府の他民族共生を管理するお役所と観光客誘致の間で始まったノスタルジーと見せものとビジネスの匂いがぷんぷんする、そういう催しだった。
確かに〈九洲〉では、そうした伝統行事はほとんど廃れていたし、消されようとしていた。あの時は、特に、最後の〈箱舟〉でやってきた同胞たちとの文化的交流というお題目も掲げられていて、〈箱舟〉でやってきた当事者の一人として、無下に断ることもできなかったのだ。唇に曖昧な笑みを浮かべてグループの隅にいた。
そこで、絮飛に出会った。
その時の彼は、着古したジーンズによれよれのシャツを身につけていて、上から羽織ったコートは、袖口すら擦り切れていた。時間の無駄だとでも言わんばかりに今と同じような仏頂面をして、腕を組んでいたので、袖口がよく見えたのだ。彼もグループの端にいて、端と端同士、逆に近かった。その時、滋晨はその横顔を眺めて、どこか親近感を覚えた。おそらく数合わせで連れてこられたのだろう。自分は〈箱舟〉で来てしまったので、厳密には、数合わせとは言えないかもしれないが、ただいないと困る「数」なのは確かだった。
目の前の男は、見る限り、両親がどちらも東洋人の東洋人だった。かわいそうに、その外見のおかげで「同胞」を迎えるために便宜的に頭数にされたのだろう。
「同胞」を歓迎する口上は長かった。何かの代表者が何人か口々にひたすら話をした。この「小九洲」の成り立ち、どうして灯市をやるべきか、誰がその後ろ盾なのか、我々はいかに文化的共生を果たして行くべきか……。
そうして、形ばかりの自己紹介を勝手にやられ、こちら側の名前で呼ばれて、滋晨は申し訳程度に会釈した。ささやかな拍手が聞こえたが、誰の目もガラス玉然としていた。
「元宵節はかつて誰もが街に繰り出して、灯籠を見る、出会いの機会でした。我々も、その伝統にのっとって新たな出会いを歓迎しましょう。これからわたしたちは、手を携えて学術的発展を図っていくのです。多くの優秀な〈九洲〉から〈箱舟〉でやってきた若手の皆さんと共に未来を……」
一体何度〈箱舟〉について聞けばいいのだろう。
もう、数百回は耳にした気がした。滋晨にとっては〈箱舟〉はただの功利事業に過ぎなかった。〈九洲〉では随分前から学術を自由にやることができなくなっていた。そんなのは各地の大学で人文学系が「役立たず」の名目で、廃止されて、二つの大学にしか残っていないところのほぼ貴重種の博士生として論文を書いていた滋晨としては明らかだった。だが「役に立つ」理系は随分長く、文系の惨状を笑っていて、政府も彼らには金を出していて、分野によっては〈九洲〉は世界をリードしていた。だが、ついに政府が合理的な科学的理論を否定する段階にきて(それは滋晨からしたら歴史を見れば予見できることだった)、連中はようやく青ざめた。だが、もう後の祭りだった。学術の自由が危機に瀕していると彼らが喚き出して、世界が重い腰を上げた。〈九洲〉において優秀な若手の研究者の卵を「こちら側」へ救い出してやろうというわけだった。そこで〈箱舟〉事業が組織された。
だから人文学の自分は全くもってお呼びでなかったのだが、最後の一つに乗ることになった。皮肉なものだ、と長々としたスピーチを右から左へと流しながらぼんやり考えていた。
儀礼が完全に終わるのを今か今かと待っていると、仏頂面をしていた男が小声で名前を訊いてきたのだった。
流暢なこちらの言葉だった。外見は「同胞」でも生まれと育ちはこちら、つまり、同じ外殻のコンピューターに、異なるOSをのっけているタイプというわけだ。
先ほどまでこちらに見向きもしなかった男が、一体なんの用だろう。
「David……」
目の当たりにかかる黒髪を揺らして、男がかぶりを振った。
「違う、そっちじゃない」
とんだ変わりものもいるのだ。
〈箱舟〉で一緒にやってきた便宜的な仲間たちですら、周りに溶け込むために、向こう側で二十数年は使っていた名前を口にすることも無くなっていた。第一覚えてもらいにくいし、向こう側にまだこだわりがある人間とも思われたくない。たとえ「伝統行事」を見にきていたとしてもだ。これは
何もかもが政治的だった。名前すら。
うんざりだった。
どちらにしろ、向こう側での名前はもう使えない。こちら側へ来たことは、向こう側からしたら、ただの裏切り行為でしかないらしい。〈箱舟〉者には無条件にこちら側の永住権を取得できる、希望があれば国籍も与える、そういう話だった。それに乗ったものたちは国を捨てたものとして扱われた。
そういうわけで、向こう側のパスポート上の名前はゴミ同然だった。そんなものを知りたいという。目の前の男は、この数年で〈九洲〉がどう変貌したか、周辺国とどういう軋轢を生んだか知らないわけではあるまい。
滋晨の脳裏に、学生が大学の中でものも言わずにただ立っているだけの光景が不意に蘇った。いうべき言葉も書くべき言葉も存在しなかった。抗議したいものはただ、何も言わずに道に立った。だがそれが〈九洲〉にどんな打撃を与えるというのだろう? 結局は皆薙ぎ倒されたか、立つのをやめた。滋晨はぼんやりそこに突っ立っていた。不意に随分前に友人の隣に立っていた自分の足の、頼りなさを思い出した。初めて、教室でもなく図書館でもなく、だだっ広い運動場で何百人という学生と一緒に、その隅に、一番逃げやすい場所に立った。膝が笑っていた。
目の前の男の視線が急かすようにこちらに投げられた。はっとした。
滋晨は、口を開きかけて逡巡した。自分の名前があまり得意ではなかった。両親はどうして、普通に他の人間が聞いた時に性別がわかりやすい名前にしてくれなかったのだろう。二言目には女だと思ったと言われるのはもう慣れっこだったが、その度に居心地は悪くなる。特に向こう側では、そういう名前は、どんどん据わりが悪くなっていった。だが、それは両親のせいではない。
「滋晨」
「Zichen……」
目の前の男は、口の中で転がすように、ためつすがめつ、その名前を何回か反芻した。
「字は?」
「ええと……」
こちら側の言葉で話すのは手間だった。字の説明は特に。目の前の男は確かRyanとか言っただろうか、見た目通りに〈九洲〉の言葉を解するわけではないだろう。
特にこっちでは、移民の二代目以降で元の言語を操る人間はほとんどいない。特に〈九洲〉からの移民は昨今の趨勢でさっさと言葉を捨てている。皆こちらの言葉を流暢に話すことばかりに集中する。万が一、話せても、話さない。言葉がわからない人間に、字を解説するのは少々手間だ。口を開きかけると、男は、するすると滋晨の母語を話した。
一瞬耳がその音を掴み損ねた。もう一度、少し速度を落として繰り返された。随分久しぶりに、耳がその音をつかんで、喜んでいるような感じがした。
「俺が話せたらおかしいか? 発音がおかしい? 意味がわからなかったら教えてくれ」
滋晨は小刻みにまずは首を左右に動かしてから頷いた。久方ぶりに、母語で自分の名前の字の説明をする。最初の数語は不恰好な発音になった。だが目の前の男は何も言わなかった。ただ字の説明を聞いてからこう言った。
「いい名前だな。きれいな字だ」
「ありがとう」
「俺は、絮飛っていう」
「絮飛……柳絮の「絮」に「飛」ぶ?」
「そうだ」
「いい名前だね」
悪くない、柳絮はどこにでも飛んでいける、自由の象徴だ。
故郷でも、「自由」という二文字が皮肉めいていくのに比例するかのように、柳絮自体もめっきりめずらしくなってしまったが、滋晨は古典文献の中でそれが舞う光景を何回も頭の中で見ていた。
「Davidっていうよりは、滋晨っていう方がらしいな」
どきりとした。どういう意味だろう?
もうここでは誤魔化さなくていいと自分に何百回も言い聞かせてきたはずだが、習い性で、心臓が縮こまった。
「どういう意味? 女っぽいって?」
違う、と絮飛は意外そうに目を見開いて、そして大きな口を開けて笑った。それがどういう意味なのか、その時は、教えてくれなかった。
ただ、彼はこう続けた。「滋晨」って呼んでもいいか。じゃあ俺は、「絮飛」って呼んでもいいの、と訊ねると、くすくす笑って、いいよ、と言った。
そうして知り合ってから、だいぶ経つ。二人の関係はただの知り合いから、友人関係へ、親友になって、それからちょっと行き過ぎて、学術的な仲間で同僚ともなり、そしてまたより親密なものへとだいぶ変わった。
「ドローンの調整は終わった。光学迷彩も前回よりも随分よく働いている」
絮飛の声が、滋晨を現実に引き戻した。
現在、大きさによって鳥や昆虫に似せたさまざまな大きさのドローンが、この灯市の中に潜り込んでいた。光学迷彩を纏って、人目につかず、また触れないように自走モードで、ありとあらゆる資料を収集していた。音声や動画、写真などをプログラム通りに収集できるか、そういうテストを何度となく繰り返していた。
「下りようか」
「「軽功」は試さなくていいの?」
絮飛がちらりとこちらを見て、決して覚えられない(正確には滋晨は覚える気がない)装置の名前を口にする。
背中から腰、そして足の先までにまるで蜘蛛でも生やしたように、透明なしなやかな骨のようなものが衣服の下を走り体を覆っていた。それは、空を飛ぶ移動手段だった。タイムリープした場では、現地で移動手段を調達するか、もしくは自分の足に頼るしかない。
不測の事態にある程度高速になりうる移動手段として、絮飛が開発に携わっているのがこの装置なのだった。有体に言えば空を飛ぶ。だから滋晨はそれを古代の想像力にあやかって「軽功」と呼んでいた。
この装置もすでにテストを重ねて最終段階にあった。
「それはまあもう少し人がひけてから試してもいい。下りる時にはどちらにしろ使うし。今日は、通訳機を試さないとまずいだろう」
絮飛が布ばかりが多いずろずろした衣服の袂から(もちろん時代考証はちゃんとしていた)イヤモニターを取り出して、一組渡してきた。
滋晨の研究のメインフィールドは今や言語学にうつりかけていた。
そもそも、「ちょっと変わったフィールドワーク」をやって「〈九洲〉の古代言語の復元」なんてやってみたくないか、と随分前に誘われたのだった。
向こうでほぼ書き上げていた博士論文を全部こちらの言葉に訳して、足りないところを付け足して提出した頃だ。
滋晨は、言語学というよりは、ほとんど化石といってもいい、古代の文献から文化を考察するタイプの研究をしていたので、まともに専門ではないが、面白そうだったから軽い気持ちで話だけ聞くよ、と言った。まさかそのプロジェクトが、「タイムリープをフィールドワークに実践する」プロジェクトだなんて思わない。
タイムリープは、こちら側ではすでにかなり安全で安定した技術になっていたが、まだラボの外に出る段階ではなかった。技術はあるものの、いかに活用していいかわからないところで、まずは研究者たちがフィールドワークに用いようと考えたのだ。タイムリープには、それ相応の現地に順応するための技術と知識の専門家が必要だというわけで、生き残った人文学の専門家たちに白羽の矢が立てられた。産学協同で、未来の産業的可能性を探るために、こちら側の総力を上げてプロジェクトが計画されていて、二人の所属する大学はその基地だった。
プロジェクトに入ってそろそろ十年は過ぎようとしていて、今や、頻繁にフィールドワークを行うようになっていた。
滋晨の担当は、もちろんそのフィールドワークが、天文学的な速度で研究を推進するという証拠となる業績を積み上げるだけでなく、言語的な側面が押しつけられた。言語学をさらい直し、文献資料だけでなく、大量の録音されてきた音声資料に溺れながら古代言語を復元し、それを同時通訳し、使える通訳機までを作ることが求められた。一人ではなく、何人かの学者と学生とでやっているが、それでも荷が重かった。
「緊張してるのか」
「そりゃあね」
イヤーモニターを装着しながら頷く。この中に、通訳機も組み込まれてる。
理論上は、そして集めた資料から考えればうまくいくはずだが、言語の時間的・地域的差異は時に予想を越える。ほぼ問題ないだろうとは思っていても、不安は残る。
滋晨にはいつも自分という存在に対して不穏さを感じている。俺は、いつでもどこでもよそものだ。今のチームでは〈九洲〉出身の〈箱舟〉者として、過分な期待をかけられているのは知っていた。だが、その出身のせいで、うまくいかなくなり続ければ、どういう処遇になるのかも明らかだった。
「うまくいかなかったら改良すればいい」
「そりゃそうだけど」
不意に、絮飛がこちらをじっと見つめた。どこか見透かしているような感じのする眼差しだ。そんなふうに見られるのは数えきれないほど、経験しているはずなのに、滋晨は、初めて会った時と同じように、心の奥底まで触れられるような錯覚に陥るのだった。
「俺は心配してない」
自信満々に言う。
まったくいつも通り、絮飛は調子が良い。しかも割と、勝手だ。この前だってそれでちょっと軽く仲違いみたいなものしたのに。誰がそんなことわかるんだか。
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