第7話 転換点

 2001年5月2日、水曜日。17時55分。


 私は鰐谷わにや君の自宅の前に立っていた。


 鰐谷君の自宅は商店街の裏にある住宅地の一角にあって、家の周囲はなかなかに人通りが多い。


 この商店街は私も何度も来た事があって、私の母親のお気に入りの肉屋があるせいか、少し離れた場所に出来た大型の複合ショッピングモールよりも、この小さな商店街に買い物に来る事が多い。


 商店街のアーケードは昭和の時代から続く古い作りで、私の記憶では、2年後の冬に商店街の蕎麦屋で火事が起こってアーケードの一部に穴が開くという事がある筈だ。


 その後アーケードは一新されて、現代風の綺麗な商店街に変貌するのだが、鰐谷君の家は火災予定の現場からあまり離れていない様に見える。


 前世で何度かその火災現場を見た事があったのだが、この家に被害があったのかどうか、見た事が無いので分からないのよね。


 そんな事を思いながら私は道路に面した壁面にある引き違いの玄関戸の横にあるインターホンのボタンを押した。


 ピンポーン・・・


 聞えるか聞こえないかくらいの小さなチャイム音が鳴り、しばらくすると半透明の玄関引戸の向こうに、エプロン姿のぽっちゃりした女性の姿がぼやけて見えた。


「はーい、はいはい」

 と言いながらガラガラと引き戸を開けて顔を見せた、ふくよかな体系に優しそうな笑顔を向けている女性が、鰐谷君の母親らしい。


「こんにちは、紅羽くればです。今日から、宜しくお願いします」

 と私は丁寧にお辞儀をして、もう一度顔を上げると、


「まあまあ! 本当によく出来た子だこと!」

 と驚いたように目を丸くした鰐谷ママが、「さあさ、どうぞおはいりなさい」

 と言って私を玄関の中に招き入れた。


 玄関はさほど広くは無く、運動靴を脱いで上がりかまちに足を掛けると、鰐谷ママが一歩後ろに身を引かなければ私の身体が入らない程の空間だった。


 畳にすれば半分程度の広さだ。

 玄関を上がると、すぐ左手には3畳程度の広さのキッチンがあり、その奥には洗面所と風呂場がある様だ。

 すぐ右手には6畳程度の和室があり、正面にはすぐに2階へと上がる階段があった。


「母さん?」

 と階段の上から顔を覗かせた鰐谷君が、私の姿を見つけて「あ、紅葉さん! いらっしゃい!」

 と言って手招きをしてくれた。


「おじゃまします」

 と言って両脚を上がり框の上に上げた私は、一旦振り返って身体を伏せ、自分が脱いだ靴を揃えておいた。


 こうしたマナーが出来た子供を演じる事はとても大切なのよね。


 この狭い家で4日間を過ごすのだとすると、鰐谷君の両親が夜寝静まった頃には大きな声で議論など出来ないじゃない?


 夜更かしして議論する為には、両親にはぐっすりと眠っていてもらう必要がある。


 だからこそ、余計な心配をさせない様にするためにも、こうしたところからキチっとしておく必要があるのよね。


 そんな私を、鰐谷ママは笑顔で見ていて、

「ご飯が出来たら呼んだげるから、それまで上でテレビでも見ててね」

 なんて事を言っている。


「ありがとうございます」

 と言いながら軽くお辞儀をした私は、ずいぶんと勾配が急な階段に足をかけ、足を踏み外さない様に注意しながら階段を昇った。


「今日から宜しくね」

 と私は、階段を上がり切るところで手を引いてくれた鰐谷君に向かってそう言い、そんな私に鰐谷君も、

「こちらこそ」

 と応えてくれたのだった。


 2階には畳2枚分くらいの長さの廊下があり、玄関の狭さからは想像出来なかったが、部屋は全部で3つあった。


 鰐谷君の部屋は一番手前の部屋で、一人部屋だった。

 一つとなりの部屋は納戸にしているらしく、タンスや荷物が置かれているらしい。

 一番奥の部屋が両親の寝室らしく、テレビはそこにしか無いそうだ。


 となると、さっき鰐谷ママが言ってた「テレビでも見ながら」というのは、自分の寝室に他所の子供が入る事を許すという意思表示だったのか・・・


 ものすごく開放的な母親なのか、それとも鰐谷君がそれほどまでに母親の信頼を得ているのか・・・、どちらにしても、なかなか出来る事では無い。


 私だったら、他所の子供が自分の寝室に入るなんて許せない気がするもの。


「とりあえず、先に宿題を片付けておかない?」

 と言う私の提案に、鰐谷君は頷き、


「そうだね、そうしよう」

 と言って自分の部屋に私を招き入れ、折畳みの小さなテーブルを準備してくれた。


「ありがとね」

 と言いながら私は鰐谷君の部屋に入り、担いでいたリュックを降ろすと、中から教科書や漢字ドリル等を取り出し、早速宿題を始める事にしたのだった・・・


 △△△△△△△△△△△△△△△△△△


「優子ちゃんは、本当にお利口さんだねぇ!」

 と鰐谷ママが言いながら、私のお皿に肉じゃがを盛り付けてくれた。


「あ、有難うございます」

 と言いながら料理を受け取りながら、「私なんかより、修平しゅうへい君の方がすごいと思いますよ」

 と鰐谷ママの顔を見ながらそう返した。


「あら、有難うね! 修平も真面目ないい子に育ってくれたと思うよ」

 と言う鰐谷ママは、少し誇らしげだ。「PTAの会合で他の奥さんとお話をするじゃない? みんな子供がやんちゃで困ってるって言ってたけど、うちは全然そんな事無かったって言ったら、みんな驚いていたもの!」

 と言いながら鰐谷君の皿にも肉じゃがを盛り付けている。


「お父さんもお母さんも、こんなにも僕に良くしてくれるんだから、当然だよ」

 とそういう鰐谷君の頭を、鰐谷ママがワシャワシャと撫でて、


「ほんっと、自慢の息子なのよ!」

 と隠す事なく自慢気なその姿に、私は微笑ましい気持ちになっていた。


 1階の和室のテーブルに並べられた料理は、肉じゃがの他にも卵焼き、味噌汁と、炊き立てのご飯があった。


「でも、前の学校ではあまりいい友達が作れなくてねぇ・・・」

 と突然、少し暗い表情で話す鰐谷ママ。


「嫌がらせとかですか?」

 と私は、鰐谷君の表情に気を配りながらそう訊いた。


「そうなのよねぇ・・・」

 と言いながら自分の料理を皿に盛りつつ、「修平が真面目で優秀なのをねたんでたんだと思うんだけど、ちょっと嫌がらせがひどくなってきたから、お父さんの人事異動をきっかけにして、引っ越しちゃったのよね」

 と言って、再び笑顔を作った。


 当事者である息子の目の前でそんな話ができる鰐谷ママも凄いけど、それを受け流せる鰐谷君も凄いわね。


 そんな事を思いながら、私は鰐谷君の方を見て、

「さすが鰐谷君だね」

 と言っていた。


 鰐谷君は私の方をチラリと見て、

「僕はそれほど気にしてなかったんだけど・・・」

 と言いながらコップに麦茶を注ぎ、「でも、引っ越したおかげで紅羽くればさんに会えたから、とても良かったと思うよ」

 とはにかむ様な笑顔で続けた。


 私も笑顔を作って

「そう言ってもらえて光栄だわ」

 と返しながら、鰐谷君の笑顔に少し胸の高鳴りを感じていた。


「さ、じゃあ食べましょうね!」

 と鰐谷ママが両手を合わせるのに合わせ、私たちも両手を合わせた。


「「「いただきます!」」」


 声を合わせてそう言うと、みんなで箸をとって料理を口に運びだしたのだった。


 そんな中、私はまだ少し高鳴っている胸の鼓動を感じながら、心の中で首をかしげていた。


 今の話の流れの中のどこに、胸が高鳴る要素があったというの?


 鰐谷君は確かに美少年だけど、だけどまだ子供よ?


 確かに精神年齢は何度も大人を繰り返してきたけど、今回も胸がトキメく様な事なんて何もなかった筈。


 そういえば、今日の放課後も少し変だった。


 職員室に向かう鰐谷君を見た時も、何だか胸の奥がチクリとしたのよね。


 何だろうこれ・・・


 何か、不安を感じている時の感じに近い気さえするんだけど・・・


 不安を感じる要素こそ、今の私たちに似つかわしく無い様な気もするし・・・


 分らない。


 分らないけど、分からない事があるという事が、何だか嬉しくもある。


 鰐谷君が居なかったこれまでの人生では感じた事のない感覚・・・


 この初めての感覚を心のどこかで楽しみながら、私はもくもくと鰐谷ママが作った肉じゃがを頬張るのだった。


 △△△△△△△△△△△△△△△△△△


「ただいま~」

 という野太い声が聞こえ、玄関の方を見ると、鰐谷パパが帰って来たところだった。


「おかえりなさい!」

 という鰐谷ママの声に乗せて、私も「お邪魔してます」と声をかけると、鰐谷パパは1階の和室に入って来て、私の顔を見つけると、


「お! いらっしゃい!」

 と笑顔を作って挨拶してくれた。


 鰐谷パパは商社の事務をしているらしい。


 この春に、千葉県にある物流センターの事務から東京本社に異動になったそうだ。


 事務職の割に人当たりの良さそうな鰐谷パパは、一旦2階へ上って荷物を置くと、直ぐに降りてきて洗面所で手を洗い、


「俺にも飯を頼む」

 と言いながら鰐谷君の隣に座り、「修平も隅に置けないなぁ」

 と表情を緩ませていた。


 鰐谷君は一つ頷くと、

「紅羽さんは友達だよ」

 と言いながら一口麦茶をゴクリと飲んだ。


 そうだよね。


 私と鰐谷君は友達同士。


 少なくとも周りにはそう思わせておかなければならない。


 これから世界の未来を変えようとしている事は誰にも知られない方がいい。


 お互いの両親も例外じゃない。


 今日はいわば転換点。


 このゴールデンウィークを機に、これからは私の知らない未来が始まるのだ。


 しかし、何か想定を超える事が起きた時に、彼らを守る力は今の私には無い。


 だから隠密に、誰にも知られない様に、私が力を身に着けるまでは、そうしなければならない。


「そうかそうか! 友達か!」

 ガハハと笑いながら「頂きます」

 と言って茶碗を手にした鰐谷パパは、私達の思いなど知る由もなく、肉じゃがを掴んでパクリと口に運んだ。


 そんな何気ない日常の風景を過ごす鰐谷君の姿は、何故か私には「かけがえのない時間」を噛み締めている様にも見えたのだった・・・

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