第2話

 夕食が終わり、夫が風呂に入っている隙に、千恵子はスマホを手に取りパスワードを入力した。ずっと変えていないようでデフォルトの待ち受け画面が映し出された。

 以前、予想よりもずいぶん早くに風呂場を出てきて、慌ててスマホを置いたことがある。怪しまれたかと思ったが、気付かなかったらしい。


 ラインには部下の一人との頻繁なやり取りの記録が残っていた。他の部下より何倍も多い。仕事でのミスをフォローするための会話らしく、石田という人物はしきりに「すいません、」を繰り返していた。気安い仲なのだろう、別の人物の時は「申し訳ありません、」だった。こちらが普通のはずだ。


『例の件ですが、ダメになりました。すいません。』

『了解。明日、先方へ謝罪に行く。』

『八時頃には帰宅されているそうです、よろしくお願いします。』

『就業中はダメなの?』

『困るそうです、けんもほろろです。すいません。』

『―――――――』

『―――――――』


 夫が上がってくる前に千恵子はスマホを閉じ、元の位置へと置き直した。素知らぬ顔でダイニングに向かい、夕食の後片付けに戻る。ずっとそこに居たように振る舞っているところへ夫が姿を見せた。スマホを見下ろしたものだから、少し焦った。


「なぁ、千恵子。このテーブルクロスだけどさ、花柄のヤツじゃなくてチェック柄のヤツがなかったか?」

「洗濯したけど? 何か問題でもあるの?」

「いや……。うん、別にいいや、うん。」


 ギクリとしたが、スマホではなくテーブルクロスを見ただけのようだ。夫はひょいとスマホを掴むと、

「明日はまた残業で遅くなりそうなんだ。石田ってのがやらかしてくれて、後始末が大変だよ。」珍しく会社の愚痴をこぼしてからリビングを出ていった。


 千恵子も片付けのフリを終えると風呂に入り、そのまま自分の部屋へ戻る。夫婦別室にしたのは五年ほど前か。ついぞ子供を授からず、諦めを付けるため別にした。レスというほどではないし、もともと淡泊なタチだから別段気にしたこともなかったが、偶然に見てしまったあの現場から以後は受け止め方が変わった。


「ねぇ、千恵子さん。あれって、旦那さんじゃない?」


 裕美が指した先に居たのは確かに夫だった。千恵子は慌てて裕美を押し込むように二人で物陰に隠れた。偶然の邂逅だ。平日の昼頃で、夫の職場が近いとなればそんな偶然も想定できることだったが、直感が夫の横にいる女を警戒させた。


 単に隣を歩いているだけの赤の他人かも知れない、裕美は繕うようにそう言ったが千恵子は返事をしなかった。

 雑踏と言っても人は少なく、いつこちらに気付かれるか解らない。再び、そっと通りを伺ったそのタイミングで、夫の隣りにいる若い女はフザケるように夫の腕に触れた。ツレであることは間違いなさそうだった。


「どういうこと? ねぇ、千恵子さん、あれってもしかして、ええっ?」


 裕美はまるで我がことのように狼狽えて、千恵子の腕を鷲掴んだ。まだ遠くに見える夫と千恵子とを交互に見比べて、泣きそうな顔になってしまった。感受性が強くて喜怒哀楽の忙しい女なのは承知だが、こうなると千恵子の方が落ち着いてきてしまう。僅かに浮かんでいた動揺は萎んでしまった。


「あなたが狼狽えてどうすんのよ。」

「そ、それはそうなんだけど……、でも、だって、」


 裕美の両目は見る間に潤んできて、勝手に決めつけた結論で感情を決壊させようとしていた。十歳も年下だと、こんなに感性が違うものなのだろうかと思ったものだった。なぜ泣くのか。むしろ好都合だろうに。

 裕美は自分がバツイチのフリーだからと、すぐに離婚をお薦めしてくる。気軽で楽しい独身生活よ、とばかりに。セックスレスを相談した時など目を輝かせていたし、内心喜んでいたに違いないのに。


 ともあれ、目の前を歩いている二人は仕事回りの途中とは思えなかった。共にスーツ姿だったが何やら親しげに笑っていた。後で知ったことだが、彼女が石田だ。それ以来、千恵子は夫のスマホを時々チェックしている。

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