第3話

 正直なところ、決定的な証拠が出たらどうするだとかは考えていない。煮え切らないまま、けれど鈍感な妻にだけはなりたくなかった。愛情だとか、そういう問題でもなかった。

 敏夫が浮気をしていたとして、事実を知ってしまったとして、それでどういう行動を起こせばいいのか、千恵子にはさっぱり見当が付かない。


 単純に、この日常が壊れるという想像を避けているだけかも知れない。出来ることなら何も起きずに済めばいいと願っている。

 一日が過ぎれば、もう昨日の一切合切はスルーすべき事柄になる。重大ごとでも流してしまえるから、気付けばずいぶんとヘドロが溜まっている。臭い物には蓋をして、その上で生活を営んでいる。壊してしまうようなことはしたくない。本当に?


 あの目撃談から半年が過ぎた。夫はこれと言った尻尾も出さないまま、ともすれば本当に何もなかったのかも知れないが、今となっては微妙な問題だ。

 夫は初めから何もないかのように過ごしているし、千恵子もそれは同じだ。お互い素知らぬ顔でいれば平穏が続くはずで、けれど、夫は時々地雷を踏んだ。わざとやっているのかと疑うくらいに。


「千恵子。同窓会があるとかいう話だけど、十和田さんも一緒なのか?」

「そんなわけないでしょ、年齢も出身地も違うのに。彼女、徳島の人よ? 私は盛岡で、反対方向じゃない。」

「でも、一泊してくるんだろ?」

「遠いし、向こうの友だちと会う約束してるからね。なんなの?」


 ケンカ腰に、千恵子は首をかしげる。疚しいことをしていると疑い深くなるというのは本当のようだ。質問の意図がまったく解らないし、なんとなくだが厭味ったらしく感じる。最近少しばかり彼女と遊ぶ機会が多過ぎたせいだろう。


 探るような慎重さで、千恵子は夫にカマを掛けた。


「昨日の小遣いの話、まだ根に持ってるの?」

「なんでそんな話になるの?」


 夫は目を丸くして、千恵子を見返した。この様子なら、千恵子の金回りの良さを妬んだわけではないだろう。家計を預かる者がやりくりで融通を利かせる構図に不満でもあるのかと思ったが。余計にさっきの質問の意図が解らなくなった。


「最近、職場の付き合いで外食することが多かったけど、ひと月の出費はいつもと同じに抑えてるし、その分、洋服だとかの買い物を控えてるんだからね。とやかく言われる筋合いないよ。」

「よせよ、そんな言い方したら喧嘩になるって以前に言っただろ。」

「男勝りでごめんね、」


 吐き捨てるようにして会話を無理やり打ち切った。敏夫は苦い顔をして、けれどリビングを出ていく千恵子には何も言わなかった。最近は本当にピリピリしている。二人の共有エリアであるリビングに滞在する時間がどんどん短くなっている。


 元を糺せば、夫が部下と楽しげに歩いていたせいだ。レスのせいだ。最近はとみに交渉が無くなり、一年近くはご無沙汰だというのに、どこでストレスを発散しているというのだ。生理現象である以上、無くても大丈夫などという言葉を信用する気にはなれない。痕跡すら家庭には残さず、どこで処理していると言うのか。内心に吐き捨てる間中、千恵子のはらわたは煮えくりかえっていた。


 二言目には十和田さん、十和田さん。裕美と付き合うことに難色を示すのはどうしてだろう。彼女がバツイチで良からぬ影響を受けるとでも思っているのだろうか。

 ふん、と鼻で笑って千恵子は鏡台の前に座った。口紅をひき、ぬめった色を反射する唇に指を這わせる。引き出しの中の指輪を唐突に思い出した。イミテーションの指輪がご丁寧な化粧箱の中に鎮座している。またぞろ竈に火が入る。


 自分は余所の女と遊んでいるくせに。

 収まりかけていたハラワタがまたぐつぐつと煮えてきた。


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