令和元年藪の中

柿木まめ太

第1話

 主婦、佐久間千恵子42歳。その夫、敏夫。中堅企業の部長職55歳。20年前、共通する知人の紹介で出会った後、一年間の交際期間を経て結婚。子供はいない。

 10年前、夫が課長に昇進した際に思いきってマンションを購入し、以後、夫には片道一時間半の電車通勤をして貰っている。それを機に千恵子自身も職場復帰した。現在は市民病院に勤務している。


 最近の夫は帰りが度々遅くなる。休日も接待ゴルフの為だとかで、打ちっ放しの練習場へ通うためにあまり家に居つかなくなったような気がする。今どき接待だのゴルフだのと、どこまで本当だか解ったものではないが。部長に昇進して始めたゴルフだったが、なにげにカネのかかる趣味だった。


 千恵子は看護師だったので、夫に手が掛からなくなること自体は歓迎したが、すれ違いが多くなったことには危惧を抱いていた。


「ねぇ、あなた。最近、家でご飯食べてないじゃない? お小遣い足りてるの?」

「ん? 上げてくれるの?」

「ローンが終わったら上げてもいいけど。」


 今は無理、と言外に匂わせると夫は拗ねた様子で口元をすぼめる。そしてまたゴルフクラブをせっせと磨きだした。


「足りちゃいないけど……やりくりするしかないでしょ。最近はコンビニ飯をやめて、駅前にうどん食べに行ってるんだ。同じようなサラリーマンが多いから、安いメシ食ってても目立たなくて助かるよ。」


 見栄っ張りなこの夫が、そんな節約術を行っていることにまず千恵子は驚いた。駅前のうどん屋なる店がどんな構えをしているのかは知らないが、安く抑えるために行っていると言うのだから一杯300円そこそこの低価格な店には違いない。通常ならばそんな店、格好悪いからと視界にも入れないようにと努めるのが夫だった。


 リビングのソファは二人掛けだが、ど真ん中に座るものだから独占されているようなものだ。千恵子はダイニングの方で忙しく立ち働いている。夕食前はバタバタしてしまうが、敏夫に手伝ってもらおうという気はおきない。邪魔しかしないから。


「そういう千恵子はどうなんだよ。なんかネイルとか始めたんじゃないの? カネ掛かるって噂だけど、小遣い大丈夫?」


 なんで知っているのか、問い詰める言葉を寸で呑み込んだ。プライバシー云々を夫婦間で言うのは奇妙だろうか、それとも、これは別の話だろうか。どちらが正解なのか解らない時はとりあえず保留だ。ドレッサーの中身をチェックでもしなければ解らないような話だったが、涌き出た苛立ちはもみ消すこととした。


 千恵子は仕事柄、爪は飾ったりしない。少なくとも普段遣いでネイルなどしない。顔を合わせている時にしていたことなどあっただろうかと首をひねりつつ、あまり深く考えることは止めにしておいた。藪をつついて蛇を出す必要もないだろう。整理整頓を心掛けるようになってからこのかた、ドレッサーの上も例に漏れずで、夫の目に触れる場所には何一つ置いていないはずだ。アクセサリーの類いも余さず、すべて隠すことに決めている。


 努めて平静を装い、勘付かれないように言葉を選んだ。


「看護師って案外、お給料はいいのよ? 思いきって復帰して正解だった。人間関係も悪くないし、今度また呑み会があるんだって。断ってばかりだから参加してみようかな。」

「いいんじゃないか。たまには新しい化粧品くらい買えばいい。ローンの返済も大事だけど、それで息が詰まってしまうんじゃ本末転倒だよ。」

「そう? じゃあ、明日さっそく買い物ついでに買ってこようかな。」


 夫からの話題は簡単に脇道へと逸れ、戻ってくることはなかった。何か含みありげに聞こえたが、気のせいだったらしい。


 他愛ない会話が途切れると、二人同時にリビングを離れた。どこか機械のような動きに思えて、オルゴールの中の人形を思い出した。中央でキスをして、くるりと回転して遠ざかり、端と端でまたくるりと回って戻ってくる男の子と女の子の人形だったか。出掛けた先で気に入って買ったものだが、どこへ片付けてしまったのだろう。


 


 


 

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