第48話 静かな世界⑤

彼女の心の内に触れる緊張が、戸惑いが、膨らんでいく。

「ずっと変わってなかった。家出をしたあの日から、ずっと」

彼女は、震えた声で言った。

「私、生きるのが怖いよ」

その言葉は、彼女の奥底の嘆きであり、僕らを隔てていた正体だったのだろう。その冷たい切先が僕に突きつけられる。

「ごめん、僕がもっと——」

「違う! 」

初めて聞く彼女の叫んだ声に身がすくむ。

「......全部、全部私のせい。志乃ちゃんや立紀君が私の居場所をつくろうとしてくれてるのに、私はずっとそれに応えられなかった。二人のことは信頼してるのに、どうしても、いつかまたあの日みたいに独りになるんだって思って、不安でいっぱいになっちゃう」

那澄の声がぼやけて、鼻の啜る音が混じる。

「ごめん、ごめんなさい。志乃ちゃんから生きてほしいって言われたときは安心したし、立紀君が好きだって言ってくれたときはとっても嬉しかった。それは本当の気持ち。だから今まで生きてこれたんだと思う。......でも、もうやだよ。二人に負担ばっかりかけて、自分は何も変われないのは。克服できるかと思って、動物園に行ったけど、やっぱり無理だった。私はどうしようもなく人が怖いし、自分の居場所もわからない。私なんかいない方がいい、この世界から消えたいって気持ちは今も変わってない。そんな自分が、嫌い......」

那澄は手を伸ばし、濡れたズボンの裾を握る。

「......死ぬのが怖いのだって、あのときのままだ」

そう言って、那澄は声をあげて泣いた。押し込んでいた全てを吐き出すかのような、悲痛な声だった。

「私から好きって言ったのに......ごめんなさい」

那澄が顔をあげる。透明な頬を涙が絶え間なく流れていた。表情はわからないが、痛みと悲しみに満ちた、初めて見る彼女だった。

僕は言葉にできない感情が溢れ出して、那澄を抱きしめる。

「どうして、今まで生きちゃったんだろう。どうして、好きになっちゃったんだろう。あのとき、死んでればよかった......」

那澄は僕の胸の中に顔を埋めて、子供のように泣き叫ぶ。

そばにいるのに、抱きしめているのに、僕は無力だった。本当の那澄は、手の届かない、もっと深いところにいる。触れようとする手と、助けを求めようとする手。互いに伸ばして、引っ込ませて、すれ違って。指先が触れたときもあったかもしれない。それでも、また離れて。うまくやれば、手は届いたのだろうか。僕たちは未熟で、不器用だった。


だから、心の真ん中にある一番素直な気持ちを、今更になって口にする。

「......僕は、那澄が死んだら悲しいよ」

声が震えていて、自分も泣いているのがわかった。

「那澄がいるから、毎日が楽しくて、大好きな人がそばにいてくれる幸せも知れたんだ。だから、那澄に会えて、那澄が生きていてくれて、本当によかったって思う」

濁りのない気持ちが次から次へと湧き出てくる。考えるよりも先に、口が動いているようだった。

「料理ができるのも絵が上手くなったのも、楽しい思い出も辛い思い出も、全部那澄が頑張ったから。生きようと頑張ったてくれたから、今の那澄があるんだ。僕や藤沢さんにとって、大切な那澄がいるんだ。だから......だから、いない方がいいわけない、死んだ方がよかったなんて、そんなことあるわけない......」

涙で言葉を詰まらせながらだった。

しばらく咽び泣いていた那澄の声は徐々に小さくなり、すすり泣くような声になる。

「......でも、やっぱり怖いよ」

そう言った彼女を、優しく、そして強く抱きしめる。

「どれだけかかるかわからないけど、僕が那澄の居場所になるから」

「私、応えられる自信ない」

「それでも、絶対に那澄を独りにはさせないし、泣いてたら抱きしめるから。僕なんかで安心できないかもしれないけど、だけど......」

次の言葉が出てこなかった。生きて欲しいという真っ直ぐな気持ちは、僕のわがままでもあり、もしかすると那澄を苦しめるかもしれないとわかっているから。もっと何か、那澄が必要としている言葉を探す。

何を言えば、生きようと思ってくれるだろうか。

何を言えば、また僕を抱きしめてくれるだろうか。

「......うん」

言葉に詰まる僕に、那澄は返事をした。僕の気持ちを受け止めてくれたような、そしてどこか安心したような優しい声だった。

だから僕は、そのままの気持ちを口にした。

「これからも、那澄と一緒に生きたいよ」

それは、僕のわがままな願いかもしれない。

それでも、何にも変えられない一番大切な願いだった。

「......うん」

那澄は返事をすると、僕の背中に腕を回した。

誰にも見えない日陰の中で、僕らはそのままずっと抱き合っていた。

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