第47話 静かな世界④

「那澄」

呟いた僕は、川上へ向かって駆け出す。

力が抜けておぼつかない足を無理やり動かす。

もう、何も考えられなくて、那澄を見つけるまでただ走ることしかできなかった。

遠くで健二の声がしたが、上手く聞こえない。

ぐちゃぐちゃの感情を処理できないまま、僕はひたすらに河原を走った。


「好きなんです」

あの雨の日、彼女は僕に言ってくれた。

震えた声で。熱のこもった手で。


――嫌だ。

那澄が死ぬなんて、嫌だ。


初めて繋いだ手のぬくもり。

一緒に作ったドリアの味。

ふざけ合ったときの笑い声。

初めてのキスの感触。

それらを握りしめながら、僕は走った。


いつの間にか雨は止み、青く澄んだ空がだけが広がっていた。僕はそれを睨みつける。那澄がいてもいなくても、この世界は何事もなく動いていく。当たり前のことなのに、悔しくて悲しくて仕方がなかった。


もっと那澄と話したい。

那澄の匂いを感じたい。

那澄に触れたい。

那澄の笑った声を聞きたい。


走りながら、彼女の名前を叫ぶ。

僕を好きになってくれた人。

僕が好きになった人。

一番愛おしくて、大切な人。

彼女の他に何もいらないから。

どうか、どうか、お願いします。

那澄に会わせてください。

そう強く願って目を閉じた。

溜まっていた涙が頬を伝って落ちる。


その時、ひときわ強い風が吹いた。

僕は、目を見開く。

風になびく草の隙間から、橋の下に人影が見えた。

時間が止まったような一瞬の後、僕は足を速めながら草をかき分けていく。茂みを抜けると、その人影がいた。

日陰の中で、まるで捨てられた子犬みたいに彼女は小さく座っていた。

僕は息を整えながら、ゆっくりと近づく。

パーカーのフードを被った彼女は、こちらに顔を向ける。

僕に気づいているようだが、逃げることも寄ってくることもせず、ただ僕を待っていた。

やはり靴は履いておらず、ズボンの裾が濡れていた。

「那澄」

彼女の前に立ち、名前を呼ぶ。

「立紀君......」

彼女は膝を抱えた状態で、顔を上げないまま、小さな声で僕の名前を口にした。安心するでもなく、恐怖するでもない、ただぽつりと呟いたような声だった。

「どうして」

まだ息が上がっているせいだろうか、そんなつもりはないのに、つい責めているような口調になってしまう。

那澄はただ黙っていた。

「......でも、よかった、本当に心配したよ」

呼吸が落ち着いた僕は安堵の表情でそう言うが、やはり那澄は置物みたいに何の反応も示さなかった。

「那澄......」

懇願するように、彼女の名前を呼んだ。

サラサラとした風の音と川の流れる音が響く。

静かな世界に、那澄が口を開いた。

「もう、疲れたよ」

消えいりそうな、寂しい声だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る