第11話 ダンスホールで事情聴取を

 ボレアリス王立アカデミーでの講義の種類は多岐に渡る。

 天文学の授業の様に講堂で講義を聴講するタイプもあれば、貴族として健全な社交を学ぶために、温室や庭園で開かれるお茶会の講義や、舞踏会に向けたダンスの授業もある。

 ダンスの講義は卒業パーティーの会場でもあるダンスホールで開講される。

 講義室や温室、生徒が普段生活する寮と図書館がアカデミーの東西南北の端に設置されているのに対して、ダンスホールはハドリウムがわたしを糾弾しようとした玄関ホールの奥、アカデミーの中央部にある。

 わたしは南の端にある寮の部屋から出て、長い廊下を渡りながらジェダを後ろに従えてダンスホールを目指していた。

 誰かとすれ違う度にいつも以上にやたらと視線を感じるのは、ジェダが気合いを入れてわたしに着せた元々は祖母の物であったエメラルド色が鮮やかなドレスと、金糸も編み込まれたレースのリボンを使って綺麗に結い上げられた赤毛のせいだけではないことは明らかだ。

 もはや声を抑えることも忘れてしまったのか、すれ違った後から声がわたしを追いかけて来る。


「あの方でしょう? カムイ殿下からの求婚を断られた凶つ星まがつほしの……」

「よくこんなところまで出て来られるものですこと。それも、あんなに着飾って」

「厚顔無恥という言葉を着て歩いていらっしゃるのではなくて?」


 さすがは噂と権謀術数で成り立つ貴族社会。数日前の天文学の講義で起きた話は既にアカデミー中に知れ渡っているのだろう。見覚えのない生徒すらもすれ違い様にわたしを指差しては、薄ら笑いを浮かべながら好き放題に言葉を投げてくる。

 中には嫌悪を通り越して、憎悪に満ちた目でこちらを睨みつけてくるご令嬢の多いこと、多いこと。


(たぶん伯爵とか侯爵とか、そこらの家のなんやろなぁ)


 ボレアリス王国の継承権は基本的に男性の方にある。そしてその順位も分かりやすく生まれた順である。

 ボレアリス王国の三人の王子達は、幸いにも全員正妻である王妃様から順番に生まれている。そこには後ろ盾の違いや、異母兄弟にありがちな血の尊さなどの優劣を争うといった気配もなく、おそらく、後継者争いによって血で血を洗うような時風になることはないと予測されている。

 何事も起こらなければ、継承権第一位の第一王子が現国王のゲンマ陛下の跡を継ぎ、継承権が第二位の第二王子は外交面での補佐を期待され、国外から妃殿下となる令嬢を迎え入れるだろう。

 継承権第三位の第三王子のカムイ殿下は、次期ボレアリス王である第一王子を国内で支えることを期待されており。故に彼は国内の貴族令嬢から彼の隣に立つべき妃殿下を選ぶと思われている。王国内でカムイ殿下に近い年頃のご令嬢達は、彼の隣で輝く夫婦星となるべくその地位を虎視眈々と狙っていたわけなのだが。


 王族に合うべき家格は最低でも伯爵、最高ならば侯爵家だ。


 間違っても子爵家、それも王宮内でも閑職と言われる祭事書類編纂部門に勤めている没落寸前貴族のシリウス子爵家の、祖母は元悪役令嬢、母は落ちぶれ令嬢、そして本人は赤毛と赤目が目立つ凶つ星の化身と言われるようなわたし、リーデロッタ・シリウスがそんな第三王子の夫婦星としてその隣に並ぶなど、あってはならない事とすら言える。


 そう、あり得ないことのはずなのだ。王族にとっては。

 そしてその程度のことは誰にだってわかることなのだ。カムイ殿下だって。


 ◯


 ジェダが開けてくれたダンスホールの扉の向こうには既に、何十人という貴族生徒達が集まっていた。

 卒業パーティーが近いこの時期、自らのダンスに自信のない者、まだパートナーが決まりきっていないため探したい者、個人で開くお茶会では話足りずとりあえず集まって話したい者など、様々な理由で年齢も性別も関係なく人が集まるのがこの時期のダンスホールの特徴だ。

 卒業パーティーはボレアリス王国の貴族生徒が十八歳で卒業し、成人として貴族社会へ仲間入りすることを祝う貴族の社交場。その会場として使用されるアカデミーのダンスホールは、ボレアリス王国中の何百という貴族が集まっても問題ない広さをしている。

 だから生徒がたかだか何十人程度集まったところでダンスホールが人で埋まることはないわけだけなのだが、人間というものは大体仲のいいグループで集まって一塊でいるものなのだと、今世の健康な身体になってから知った。


(せっかくこんな広々とした場所におるのに、一塊になってもったいない)


 そんな集団を横目にわたしがダンスホールの奥へと進むと、塊はようやくダンスホールの広さに気が付いたかのようにわたしを避けて塊ごと動く。

 彼ら、彼女たちが避けてできた通路を歩いているわたしは、前世で海を割って歩いたという聖者にでもなったのだろうかとつい思ってしまった。


(そういえば、この世界でそういう聖者の話とか聞かんなぁ)


 星の名前や星座の名前、それに付随する伝奇などは、何故か前世でも聞き覚えのある名称や伝説がほとんどなのに、海を渡る聖者や、神の息子、八百万の神々のような話は聞かない。星が信仰の対象そのものだから神はいらないのだろうか。

 わたしはこれ以上集団がわざわざ散って行かないように、ダンスホールの適当に空いている壁際に落ち着くことにした。もちろんというか、当たり前のようにわたしの周囲は半径何十メートルには人の集まりはもちろん、誰一人として近寄ってこない。けれど人の視線だけはいつも以上に感じる。

 

 遠巻きに、けれど逃がさないと言わんばかりの視線がわたしを包囲している。

 耳を傾けなくとも聞こえる噂話の波が、またわたしの元へ押し寄せる。


 でも今日はそんなものを気にしている場合じゃない。


(元々、そんなに気にしていた訳でもなかったけど)


 わたしは講師のモノケロース伯爵と、現れるかもわからない相手を壁際で静かに待つ。


 〇


 ようやく講師のモノケロース伯爵が現れた頃、ダンスホールはわたしが入ってきた時の何倍もの生徒で溢れかえっていた。


(まさか、アカデミー中の生徒が来とるんじゃなかろうね?!)


 モノケロース伯爵も普段目にすることのない生徒の数に少し困惑しているようだった。


「卒業パーティー目前とは言え、ダンスの講義にこんなにも人が集まるとは。今年の皆様はよっぽどダンスに自信がないのか、それともお相手が見つかっていないのか、もしくはダンスにかこつけて異性と触れ合いたいのか、どれだろうね」


 一言も三言も余計なモノケロース伯爵の言葉に失笑が湧き起こる。いつものわたしも伯爵の言葉に呆れているところだが、今日ばかりはそんな軽口を叩いてくれたことに感謝することになりそうだ。

 何せ、アカデミー中の生徒が集まっている原因の一つは、確実に数日前から噂の中心たるわたしがこのダンスホールへと現れたせいもあるからだ。


 誉れ高きボレアリス王国の王子からの求婚を断ったのにも関わらず、のこのこと華美に着飾って現れた、恥知らずな赤い凶つ星の子爵令嬢。


 文字にするだけでも面白い存在を直接目にできるなら見てみたい。そんな好奇心たちがこのダンスホールに集まっている。

 好奇の目に晒される事に慣れているとは言え、ここまで大量の視線を受けていると、流石のわたしでも嫌にもなる。だからモノケロース伯爵のセクハラ小話で、少しでもその視線が逸れた事に喜びを感じざるを得ない。


「さてさて、こんなにたくさんの人が集まっているのです。せっかくですし、卒業パーティーの予行演習をしましょう。基本の舞踊曲を一曲通しで踊ってください。もちろん、男女ペアでね。さぁ、組んでください! 何も婚約者だけど組まなくても構いませんよ。あくまで予行演習。本番でお相手に無様なところを見せないためにも、別の人と組んで、踊って! 経験を積んでください!」


 わらわらと話仲間で固まっていた集団が蜘蛛の子を散らすように別れていき、二人一組のペアをどんどん作っていく。ここで本当に婚約者以外を誘うプレイボーイもいれば、そんなことはしないときちんと婚約者と組む人もいる。

 とはいえ、皆見知った相手と組むし、わたしとは興味本位でも組んではくれない。

 大体の生徒が組めたのを見計らって、壁際にいるわたしの元へ歩いてくるのは、そんな溢れものに付き合ってくれる講師のモノケロース伯爵だけだ。


「レディ・シリウス。本日も私と一曲いかがかな?」


 いつもならここで差し出された、若干の下心があるモノケロース伯爵の手を取るのだが。


「伯爵、いつもお誘いありがとうございます。ですが、本日はわたくし踊りたいお相手がおりますので、失礼いたしますわ」


 まさかわたしに断られるとは思っていなかった伯爵があんぐりと口を開けている目の前を通って、わたしはわたしの誘いたい相手の元へと堂々と真っ直ぐに歩いていく。


「冠の星々の一つ。カムイ殿下。どうかわたくしと踊っていただけますでしょうか?」


 我ながら見事なカーテシーと笑顔で彼を誘えたと思う。

 彼は濃紺の目を丸くして少し驚いた顔をしたけれど、すぐにそんな表情を消し去って彼の周囲で警戒する護衛たちを抑えると、わたしへ向かって手を差し出す。


「是非とも、シリウス子爵令嬢」


 彼の手にわたしの手を重ねると、彼は本当に流れるようにわたしをエスコートして、気がつけばわたしたち二人はダンスホールの中央で向かい合って立っていた。

 呆気に取られたモノケロース伯爵が楽団に指示を出すまでの間、わたしたちは一言も交わさなかった。何せ皆が驚いて静まり返っているのだ。何か話せば確実にこの場にいる全員に筒抜けになる。

 ようやく伯爵が楽団に指示を出して音楽が鳴り出す。わたしと彼は作法に則って互いに一礼してから、型通りのポーズを取る。

 ボレアリスの貴族ならば誰でも踊れる基本の舞踊曲。わたしは不幸中の幸いというべきか、わたしと組みたがる男性が居なかったため、常に講師のモノケロース伯爵と組んでいたこともあり基本の舞踊曲は型通りにきちんと踊ることができる。

 だから楽団の音楽を聴きながら、周囲にぶつからないようにステップを踏み、笑顔を作って相手と話をすることくらいは多少余裕を持ってこなせる。


「……貴女はやはり素晴らしいな。これ程の人の視線を浴びているというのに、動揺もなく、流れるように踊れるとは」

「お褒めいただく程の事ではございませんわ。人の視線に晒される事には幼い頃より慣れておりますので」

「貴女のお祖母様の影響かな」

「母の事も関係があるでしょう。ただここ最近はわたくし自身に興味があるようで、どこにいても視線を感じますわ」

「そんな中、何故ダンスホールへ?」

「殿下と直接お話しする機会が欲しいと思ったので」

「それならば図書館で待っていてくれてもよかったのだが?」


 もちろん、わたしとて図書館で彼を待つ事を考えなかった訳ではない。彼と一番よく会っていたのは図書館だし、時間を選べばこんな風にたくさんの人間の視線に囲まれてダンスをしながら内緒話をしなくても良いのだから。

 けれどわたしがそれを良しとしなかった事にも一つ理由はある。

 基本の舞踊の一回目のターンを難なくこなして、わたしは彼の濃紺の瞳を真っ直ぐに見据えて、わざわざダンスホールへやって来た理由を伝える。


「わたくしが図書館でお会いして、交流を深めていた方のお名前はキャリバン・テンペスト様と言うのです。カムイ・ボレアリス様ではありません」


 まさかそんな答えが返ってくると思わなかったのか、彼の足取りが少し揺らいだ。


「……なるほど、それはたしかに」

「殿下。わたくしはこのボレアリス王国の冠の星々を戴いている、カムイ殿下にお伺いしたいのです。何故、わたくしのような下級の子爵家の娘などに求婚を? 現シリウス家当主はたしかに王宮に勤めておりますが、重要なお役目は頂いていません。それに我が家では王家の方に見合う持参品を用意できるとも思いません」


 国内での後ろ盾を得たいのであれば、首都に程近い領地を治める伯爵家の方が、下手をすればドルフィネ辺境伯の後ろ盾よりも強い。

 持参品の用意も、結婚する際のドレスも宝飾品も、王家に納めて良い物をシリウス家では絶対に用意出来ない。本当に用意する事になるならば、ドルフィネ辺境伯領に用立ててもらわなければならないし、そうやってドルフィネとの繋がりが強くなれば、王家の人間がドルフィネ辺境伯領地だけに肩入れするのかと勘繰られかねない。

 辺境伯領はこのボレアリス王国の一部ではあるし、辺境伯はボレアリス国王の冠の下にいるけれど、自治権を認められている自治領という扱いに近い。そして辺境伯領はドルフィネ以外にも四つ、全部で五つの辺境伯領地がある。

 他にも辺境伯領があるのに、一つの領地だけを重用するのではないかと思わせれば、王国内での争いを生みかねない。


「わたくしと婚姻し、お側に置いて頂いても、殿下の利にはならないと思うのです」

「では愛妾にでもなるか?」

「あっ、あいっ?!」

「愛妾ならば、利が無くともよかろう。それに辺境伯夫人にならなくてもよくなるし、望むならばシリウス子爵家の跡継ぎを第三王子の権限で用意しよう」


 張り付いたよそ行きの笑顔の奥で、濃紺の瞳が図書館で会う時の様に悪戯っぽく光っている。


「……殿下、わたくしをからかっていらっしゃるでしょう」

「ははは、バレたか。しかしその反応。ますます貴女を側に置きたくなった」

「ですから、その理由を聞かせていただきたいのですが?」


 もう三回目のターンだ。基本舞踊曲は五回目のターンで曲が終わって、互いにまた一礼して終わりになってしまう。

 ダンスの講義はボレアリス王国の社交界のルール通り、一度組んだ相手とは一曲しか踊らない。つまりこの曲が終われば、カムイ殿下との内緒話は終わりになる。

 なんとかして五回目のターンまでに理由を聞き出さなければ。

 わたしは焦る心が足取りに反映されないように、しっかりと教わった通りにステップを踏む。


「殿下。わたくしが納得できる理由をお話しください。でなければ先日の件について、お答えできませんわ」

「従兄弟と婚姻せずに、辺境伯夫人にもならずに、なんならシリウス子爵家存続のために手を打つ約束もしようと思っているのだが、それでも私との婚約は納得できないと?」

「……たしかに以前そのような事を申し上げたこともございますが、それを満たすからと言って何でも良しとするのは愚かな事だと思いませんか?」

「それもそうだな。では、私の話す理由に納得したら、私の求める答えをくれると?」

「わたくしの守護星に誓って、お約束しましょう。ただし、わたくしがその理由に対してきちんと納得が出来たらば、ですが」


 あくまで彼の話す理由に納得したらの話だ。聞いてすぐに納得して答えを出すとは約束しない。

 彼はそれを聞くと仕方なさそうに少し笑ってから、何故か少し顔を曇らせてため息を吐くと、ゆっくりとなるステップに合わせて話を始めた。


「最初は父上からの命令だった。リーデロッタ・シリウスがアカデミーで何をするのか、誰と付き合うのか、常に見ていろと」


 父上、ということはボレアリス国王から彼はアカデミーに入学したわたしの監視を命じられたらしい。

 理由は明白だ。


「わたくしの祖母のことがあったから。ですわね?」

「……我々にとっては過去の出来事だが、父上やお祖父様にとっては恐ろしい事件として、今も記憶に強く残っているのだ。許してくれ」


 彼は本当にすまなさそうに思っている様で、表情がまたさらに曇る。


「殿下が許しを乞うべきことではございません。起きてしまったことは取り返しがつきませんから。次に同じことが起きないように、と気を配られている国王陛下のご判断は正しいとわたしは思います」

「しかし……」

「今はそれより理由をお聞かせください。もうすぐ曲が終わってしまいますから」


 過去ばかりを見ていても仕方がない。わたしは転生者だが、都合良く過去へ戻ったりする能力は持ち合わせていない。


 そんなわたしにできることは、前を向いて、未来へ進むことだけだ。


 できればその未来が平凡で、目立つこともなく、長生きのできる人生であれば最高なのだが、それは今わたしと踊っている彼の返答によっては、全く別の方向へと進むことになるかもしれない。

 だから聞きたい。彼はどうしてわたしの人生を大きく変えてしまうような分岐点を作ったのかを。

 四回目のターンを決めて、わたしたちは再び向き合う。


「私は父上から過去の事件を聞き、リーデロッタ・シリウスが何かするのではないかと、必要以上に恐れて見ていた。まるで今、踊っている私たちを見ている無数の人の様に。だが貴女はそんな他者の感情も、視線も、言葉など気にも留めずに、ただ真っ直ぐに生きていた。貴女はただ長生きをしたいだけなのかもしれないがね」


 相手が王族と知らずに、本音をうっかりと溢していた事を思い出したわたしは恥ずかしくなって、つい彼から視線を逸らした。

 彼はそんなわたしをクスリと笑いながらも、優しくリードを続ける。


「とにかく貴女の生き方は、わたしには強い輝きを放つ一番星に値すると思えたのだ。せっかく見つけた輝く一番星を側に置きたくないと思う男は、ボレアリス王国にはいないと思わないか?」

「……買い被りすぎですわ。わたしは殿下が思っている強い人間ではありません。強く見せかけているだけなのです」


 他者が向けてくる感情だって、視線だって、言葉だって、気にしていないわけじゃない。ただリーデロッタという人間の人生を送るには、一々気にしていられないだけ。

 本当にそれだけなのだ。

 一番星だなんて褒め言葉をもらうようなことではない。

 けれどそんなわたしを彼は力強く引き寄せる。


「強く見せかけるということは、思っている以上に難しいのだよ。リーデロッタ嬢。強く見せかけるための強さはまた別物だ。貴女は本当に強いからこそ、見せかけることも出来る。まるで赤き星の与えた試練を乗り越え続けた、英雄テセウス王のようだ」

「……その例えはわたしを褒めていらっしゃるのですか? それとも、男勝りと仰りたいのですか?」

「まさか、心の底からの褒め言葉だとも。……貴女こそ、今は私を王族として見ているかもしれないが、私も王族という身分に見えるように見せかけているのだよ。ただ時折、それに疲れてしまう時がある」

「……だから、キャリバン・テンペストとして図書館へ?」

「あぁ。それに、貴女ともっと話して見たいと思ったのだ。だが、貴女は王族の姿だとしても、相手にしてくれないことは、初めて出会った時によく思い知ったからな」

「初めて……?」

「キャリバンになる前、『舞台衣装と化粧の文化史』を読んでいた貴女に話しかけた事があったのだが、覚えていないか?」


 そういえば、アカデミーへ入学したばかりの頃、シリウス邸の近所の貸本屋にも、ドルフィネ城の図書館にもないタイトルを見つけて、はしゃいで勢いで読んだ本がそれだった。

 見知らぬ本にテンションが上がっているわたしに話しかけてくる酔狂な男子生徒がいるものだと、適当にあしらった記憶が蘇ってきたわたしは、動揺のあまり最後のターンへの足運びを間違えてしまった。


「あっ!」


 無様にターンを失敗させて転ぶかと思ったわたしを彼は掬い上げ、元の軌道に戻すどころか、前世の金曜日にやっていた映画で観たお姫様のように、わたしを抱き上げられてくるりと回した。


「最後のターンが終わってしまったか。本当は先日の図書館のように、貴女を離してしまいたくないのだが、ここはダンスホールだ。社交界のルールに従わなくては、な」


 カムイ殿下はまるで割れ物を扱うかのようにそっとわたしをダンスホールの床に下ろすと、慣例通りに一礼する。

 わたしも慌ててそれに返すために腰を落とす。目線を逸らした瞬間に、耳元で低い声が響く。


「貴女の答えは週末まで待とう。だが私は、十四の小僧に私の一番星を渡すつもりはない。それだけは覚えておいてくれ」


 彼が歩いて去っていく音をわたしはダンスホールの床を見つめながら聞くことしかできなった。

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