第10話 それって、紋章を食べているのと同じなの

「ベアトリス殿下の婚約式……!」


 それまで暗闇にいたような気持ちが、ひと息に晴れたような思いをティアナは感じていた。


 紋章官の仕事は、紋章管理業務だけじゃない。王室典礼を取り仕切る仕事も担っている。

 秘密と陰謀の倉庫である宮殿に上がることができるのだ。


「いいわね、やりましょう。殿下には最高の晴れ舞台をご用意しなければ!」

「ティアナは殿下のことが好きだよな」


「好きというか……ファンなのよ。それに殿下なら、きっとわたしを上手く使えると思っていたのだけれど……嫁がれてしまうなんて残念だわ」


 ティアナは白金色の長い睫毛を伏せ、ひとつ短く息を吐く。


「それに、婚約式の担当官になれば……宮殿に上がれば、あの大紋章の謎を解くようなヒントが見つかるかもしれないもの。あの大紋章があらわす爵位は公爵位だったから」


 ラステサリア王国には公爵家が四つある。

 その内ひとつは、空白の公爵家であるアンフィライト家。

 もうひとつは、ティアナの父にして紋章院総裁アール・マーシャルであるエルバートを当主に据えるティンジェル家。

 残るふたつが、グレバドス家とヒューレット家である。


「アンフィライトはわたししかいないのだし、紋章院総裁を専任しているティンジェルなら紋章を未登録のままにしておくわけがないわ」


 ティアナの父であるエルバート・ティンジェルは、ティアナには辛く当たるが紋章にだけは真摯に尽くす。

 冷静に思い返すと、大紋章の鑑定審査は中止ではなく、中断だった。公爵はあの大紋章を登録したくないわけじゃない。

 きっと、なにかあったのだ。


「ファラー家から抗議が入ったから中断させられたとは思っていないの」

「確かに、子爵家が抗議したにしてはタイミングがよすぎたな」

「あんなタイミングで鑑定審査を中断させられるのは、高位貴族……中でも公爵位以上の権威がなければできないことよ」


 ティアナは、マリアがテーブルに美しく並べてゆくパン籠やグラス、サラダやスープを眺めながら、頬を緩めた。


「だから、どうやったら他の公爵家の情報を得られるか、一晩中、ずっと考えてい」

「一晩中!? ティアナ様、一晩中って言いました!?」


 突然、マリアが緑眼をカッと見開きティアナに詰め寄った。


「いけません、ティアナ様。夜は寝るものです! 大丈夫、今からでも遅くはありません。さあ、こちらをお飲みください。私の膝もお貸しします。取り戻しましょう、睡眠時間を!」


 言うが早いかマリアは収納魔術を使って毛布を亜空間から取り出して、次にティーワゴンから牛乳差しミルクピッチャーを取り出して、加熱魔術を使って温めだした。


「マリア、やめて。ホットミルクを出そうとしないで。暖かい毛布もいらないわ!」

「その毛布は俺が預かろう、マリア。ティアナがいつ寝落ちてもいいように、俺が持つ」

「わかりました。それでは、くれぐれもよろしくお願いいたします、ジョシュ様」

「……ゴホン。話を続けても?」


 腰を直角九十度に折り曲げ丁寧にお辞儀をするマリアと、毛布を受け取り大業に頷くジョシュを冷めた目で見ながら、ティアナは続けた。


「大紋章のことだけれど。あの大紋章には、事前刻印がされていたわ。血縁鑑定は肯定だったから、あの紋章の持ち主は、セイリオス卿の縁者で間違いない」

「事前刻印を施した紋章官なり高位神官がいるわけか。それを探すのか」


 阿利襪オリーブから絞ったオイルに浸したバタールを齧りながら、ジョシュが言う。

 ティアナはドレッシングをかけた生野菜サラダをナイフとフォークで上品に食べながら、ジョシュに答えた。


「もう探した、探しました。総裁には、血縁鑑定と紋章吸収の魔術を扱う回路は塞がれたけれど、逆に言えば、それしか塞がれていないから。だから紋章院で保管している刻印記録に接続アクセスして調べたの」

「それでは刻印を施した紋章官さまが判明したのですね」


 新鮮な果実水フルーツジュースをグラスに注ぎながら、マリアが期待に満ちた眼差しをティアナに向ける。

 けれどティアナはため息をひとつ。首を横へとふるりと振った。


「それがね、記録がなかったの。紋章に血縁刻印を行えるのは上級紋章官だけ。記録が改竄されたとか、消失したとか、そういう形跡はなかったから……」

「刻印をしたのは紋章官ではない、ということか」


「そういうこと。刻印したのは高位神官。彼らに接触した上で刻印まで依頼できるのは高位貴族の中でも公爵家だけ」

「公爵家……。あっ、繋がりました! だからティアナ様は公爵家の情報を得る機会を探っていたのですね」


 ティアナはニコリと笑って「そうよ」と頷く。そうしてサラダを完食すると、ナプキンの端で口を拭きながらジョシュを見る。

 待ち構えていたかのように金色の視線と目が合って、ティアナの頬が思わず緩んだ。


「ジョシュ、わたしが典礼業務で宮殿へ行っているあいだ、ファラー子爵家を調べて欲しいの。特にお金の流れを。それから……子爵がセイリオス卿を手酷く扱っているようなら、彼をここに連れてきて」

「ああ、わかった」

「マリア、外出の用意を。ベアトリス殿下の元へ参ります。でも、準備はバタールを食べてからね」


 ティアナは籠に盛られたバタールパンをひとつ手に取り、可憐に微笑みながら齧ってみせた。



 ◇◆◇◆◇



「……あの紋章、他にも気になる部分があるのよね」


 食卓は終盤に差し掛かり、マリアが剥いた林檎リンゴをフォークに突き刺し食べながら、ティアナはボソリと呟いた。


 口の中でじゅわりと広がる甘酸っぱい果汁を堪能し、はぁ、と短く息を吐く。

 なんとはなしに吐かれた小さなため息と呟きを拾ったのはジョシュだ。ジョシュは林檎を指で摘んで口へと運びながら、ティアナに聞き返した。


「気になる部分? 爵位を示すクラウンだけじゃないのか?」

クラウンだけじゃないの。傷ひとつない外套マントルと、使われている色。外側が紫色パーピュアだったでしょう? あの色は、滅多に使われない色なのよ。王国では高貴な色に定められているから、使う人が限られているの」


 紋章に使われる色ティンクチャーは、何色を使ってもいいわけじゃない。


 銀色アルジャンと、金色オール金属色メタルズ

 赤色グール青色アズュール黒色サーブル緑色ヴァート紫色パーピュア真紅サングウィン橙色テニー原色カラーズ

 そして、シロテン皮アーミンリス皮ヴェアなどの毛皮模様ファー


 中でも紫色パーピュアは例外扱いされた色で、紫色が使われた紋章は滅多にお目にかかれない。


「色だけでなく、外套マントルに、傷がひとつもない、というのも言われてみればおかしいな」

「そう、そうなのよ。貴族は国防のための騎士団を持つか、騎士団を支える資金を出す義務がある。どのような形であれ、王国の剣であり盾を担っている」


 ティアナはそこで一度言葉を区切り、林檎を食べていたフォークを置いた。

 紋章は個人の識別を行うほかに、地位と来歴ルーツ、ときには功績までもが刻まれる。


「だから外套マントルは、戦場で勇敢に戦った証として基本的にはリボン状に裂けているものなの。でも、あの大紋章に使われていた外套は、裂けていなかった」

「ティアナ様の見立てだと、その問題の大紋章の持ち主像はどのようになるのですか?」

「そうね……飾りのモチーフ天狼や紫色を使えるほど高貴で高潔な方で、戦場に立つことはない公爵位の方……」


 ティアナが並べた条件を聞いて、ジョシュが首を振る。縦ではなく、横へと。


「無理があるな。ラステサリア王国の公爵家はすべて騎士団を持つ武勇に優れた家門だ。神官以外で無傷の外套マントルを使う家門はいない」


「そもそも、あの大紋章と既存紋章とで、一致する箇所があるのはエスカッシャンに描かれたいしゆみ……ファラー子爵家の図案チャージだけ。それ以外の装飾は、見たことがないわ。アンフィライトのような、伝説の中にしか存在しない公爵家かしら。まるで、幻の紋章みたい……」


 ティアナは白い陶器の皿の上にお行儀よく並べられた林檎を、行儀悪くフォークでつつきながら、うっとりと息を漏らした。


「どんな思惑で、そんな紋章にしたのか……。はー……考えるだけで頭がとろけそう」

「快復したようだな、ティアナ。そんなに好きか?」


「当たり前でしょう? わたしの中に溜め込んだ知識を総動員して紋章の謎を探る……。それは紋章をただ舌で魔力として食べるよりも、もっと、もっと……美味しい時間なのよ」


 ふふ、と可憐に微笑んで、ティアナは林檎をひとつフォークに刺した。

 すでにティアナの頭は大紋章がもたらした謎で満ちて、溶けている。咀嚼すればするほど、じゅわりと広がる果汁のように愉悦が染み渡る。


 これ以上の快楽は、きっと、ない。


 頭を、頭蓋の中の脳みそをフル回転させて発生する熱に浮かされ、ティアナは恍惚とした表情かおで微笑んだ。


「それって、紋章を食べているのと同じなの」


 そう言って、ティアナは林檎知恵の実をシャクリと齧り咀嚼し呑み込んだ。





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