第9話 すべての紋章は紋章院総裁のもの

 ガーラントがハッと息を呑む音を聞きながら、ティアナは静かに続けた。


「公爵閣下の婚外子であり、本来なら貴族籍のないわかしが、今、こうして空白の公爵家アンフィライトの籍を得て、王都を自由に歩き回れているのは、すべて国王陛下の采配です」

「まったく、余計なことをしてくれたものだ、国王陛下は」


 ティアナの言葉に返したのは、ガーラントではなかった。


 底冷えを感じる地を這うような低い声、ジョシュと同じくらい高い背丈。漆黒の衣服がよく似合う男は、いつの間に執務室へ侵入したのか。

 できる限り耳にしたくはないその男の声に、ティアナは奥歯を噛みしめ拳を握り、息を止めて耐え忍ぶ。


 そんな異常な反応を見せるティアナに気づいたガーラントが、彼女の代わりに侵入者へ声をかけた。


「ティンジェル公爵閣下、なぜここへ?」

「ガーラント・オルティス上級紋章官。紋章院総裁アール・マーシャルである私が自分の配下を訪ねるのに、なにか問題でも?」

「いえ、問題は……ありません」


「ならば口を閉じて黙っていろ。私はそこの不出来な娘に用がある」

「……ティンジェル公爵閣下、わたしはもう、あなたの娘ではありません」


 か細くもはっきりした発音でティアナはあらがった。

 膝も手も震えているけれど、声が震えなかっただけ自分を褒めたい。ティアナはキリリと吊り上げた眼でティンジェル公爵を睨みつけながら、そう思う。

 けれど公爵は、ティアナの精一杯の抵抗など気にせずに、ふ、と鼻で笑った。


「貴族籍上はな。今はそんな話をしにきたのではない。お前が持っている巻物スクロールを出せ。遊びは終わりだ」

「……ッ、そんな! 大紋章アレはわたしのものです!」


「未登録紋章は誰のものでもない。強いて言うならすべての紋章を管理する紋章院総裁わたしのものだ」


 冷徹な一瞥をティアナへ投げた公爵が、右手の指をパチンと鳴らす。その音には魔力が乗っていて、ある種の魔術を発現させるきっかけトリガーであった。


「あ、ああ……ッ、わたしの大紋章が……!」


 だめ、だめ! いけない、待って!

 ドレスのポケットに押し込めていた巻物スクロールが、公爵の魔術によってするすると顔を覗かせた。


 そんな、行かないで!

 公爵の元へ飛んでゆく巻物を、ティアナが必死になって引き留めようと手を伸ばしても、指の間をすり抜けて浮遊する。


 王国の紋章は、正規、非正規に関わらず、すべて紋章院総裁アール・マーシャルであるエルバート・ティンジェル公爵の管理下に置かれる。

 その事実をまざまざと見せられたティアナは、奥歯をギリリと噛み締めた。


「ティアナ・アンフィライト中級紋章官。貴官に課せられた紋章鑑定の任を解く。お前の中級紋章官としての能力と権限を封じた。しばらく紋章編纂室にでも閉じこもり、大人しくしていろ」


 公爵はそう告げて、再度指を鳴らしてみせた。

 すると、今度はティアナの身体を縛るように魔術式があらわる。魔術式は光を放ちながらティアナの体内へと吸収されてゆく。


 痛みはない。けれど、喪失感がティアナを襲った。

 中級紋章官としての権能である血縁鑑定を行うための回路と、紋章をおやつとして吸収するための回路が封じられたのがわかる。

 そんなもの、わかりたくなどないのに理解してしまう。


 もう、紋章は食べられない——。


「そ、んな……」


 今度こそ本当に、ティアナの顔から表情が抜け落ちた。

 絶望するティアナを見た公爵は満足したように目を細め、革靴の硬いヒールを鳴り響かせながら執務室から出ていった。



 ◇◆◇◆◇



「ティアナ、起きているか? 仕事は鑑定以外もある。わかっているだろう?」


 翌朝。

 ジョシュが、ティアナを訪ねて尋問塔の最上階の部屋ティアナの部屋の扉を叩いていた。


 名ばかり公爵アンフィライト。

 空白の公爵家にふさわしく、領地もなければ屋敷もない。ティアナは紋章院の北の塔、尋問塔の最上階で寝起きしている。


 普段ならノック三回で扉を開けるティアナだけれど、一向に応答がない。仕方なくジョシュは、無表情のまま扉を叩き続ける。


「ティアナ、起きろ。公爵閣下の命令通り、編纂室に直行したいのか?」

「あら、まだティアナ様は起きて来られないのですか?」


 するとそこへ、朝食らしきものとお茶のセットを乗せたティーワゴンを押すマリアがあらわれた。

 白く清潔な布巾をかけられた籠の下から、小麦が焼けた香ばしい匂いが立っている。


 マリアは豊かで包容力のある穏やかな笑みを浮かべながらも、その緑眼を心配そうに揺らして扉を見つめていた。


「ティアナ様、昨日は意気消沈して夕食も召し上がらずに部屋にこもってしまいましたから……ここは、焼きたてパンの香りで空腹に訴えかける作戦はいかがでしょうか?」

「素晴らしい作戦だ、マリア嬢。早速頼む」


 ジョシュの言葉に快く頷いて、マリアはティーワゴンにかけられていた清潔な白い布巾を取り去った。


 途端に香るパンの匂い。

 朝食をしっかりと腹に収めてきたジョシュでさえ、空腹を感じて手を伸ばしてしまいそうになる匂い。


 口の中が唾液で満ち溢れ、ジョシュは思わず、じゅるりと唾を呑み込んだ。

 これならきっと、上手くいく。

 ジョシュが確信に満ちた金眼で扉を見つめること数十秒。


「……おはよう、ジョシュ。それにマリア。今朝も変わらず元気なようで、なによりです」


 香ばしく焼けたパンの香り作戦は見事、功を奏し、ティアナの部屋の扉がガチャリと開く。

 ティアナはぼんやりとした眼を擦り、ボサついて乱れた髪を手櫛で整えながらジョシュを見ていた。


「おはよう、ティアナ。そう言うお前は萎れているが」

「仕方がないでしょう。公爵閣下に紋章食事を取るな、と言われたも同然なのよ。……食べられないと思うと、お腹が空いて仕方がないの」

「ティアナ様、やはり紋章魔力を摂取しなければなりませんか?」


 マリアの不安はジョシュにもよくわかる。普通、人は紋章魔力を食べることはない。


 人の手により造られた妖精姫。紛い物の公爵令嬢。

 ティアナが紋章魔力を食べることになったのも、空白の公爵家アンフィライトの令嬢となったのも、すべて国王陛下の手によるものだ。


 国王は、その身に妖精女王の魔力を宿すティアナに目をつけた。妖精女王の魔力は強大だ。

 その強大な魔力を持って、王国全土に張り巡らされた大規模な魔術回路を制御する——人的制御盤コントローラーとしてティアナを据えた。


 ラステサリア王国を守護する魔術回路の源は、紋章だ。紋章に封じられた貴族血に宿る魔力である。

 紋章は国内全土、ありとあらゆる場所、物、儀式に用いられ、さりげなくそっと使われている。それを、三百年前の王、リバルド改革王が利用した。

 紋章院を設立し、紋章の登録を義務化し、紋章官を国に縛りつけたのは、すべて王国を守る大規模魔術回路のため。


 王国守護のためにティアナは紋章魔力を食べる。いや、食べなければならなくなった。

 それをティアナは誰のせいにするでもなく、自分の欲求として軽く扱ってしまうのだ。


「これは肉体の欲ではないの、魂が求める渇望だから。でも、それはそれとして、マリアが焼いてくれたパンはいただきます。バタールはある? オイルとサラダもお願い」


 いくらか余裕を取り戻したティアナが、いつものように微笑んだ。可憐で守りたくなるような、それでいて芯のある心強い微笑み。

 マリアがホッとしたように頬を綻ばせた。


「はいっ! 今すぐ準備いたしますね。ジョシュ様、ティアナ様をテーブルにご案内してください」


 嬉々としてティーワゴンを押してティアナの部屋へと入ってゆくマリアに続き、ジョシュも部屋へと足を踏み入れた。


 最上階をワンフロア使い切ったティアナの部屋は、いくつか部屋がある。ジョシュが知っているのは、入ってすぐに見える応接間と、その奥にある食事室ダイニングだけ。

 見たことはないけれど、塔の最上階であるにも関わらず、浴槽とシャワーを備えた浴室バスルームや、寝室ベッドルームに書斎まであるらしい。


 そうしてジョシュは、ティアナとともに部屋の奥にある小さな食事室ダイニングへ向かい、席に着く。


「それで、ジョシュ。紋章編纂以外の仕事があるような口振りだったけれど?」


 席に着いた途端、ティアナが前のめりでそう言った。


「ああ。殿下がもたらした紋章特需のお陰で、人手が足りない。特に、王室典礼を担当する紋章官がな。気分転換にどうだ?」

「それって……」


 紋章官の仕事は、なにも紋章に関することだけじゃない。

 国に縛られた紋章官は、王室の冠婚葬祭や典礼、式次第などの公的儀式をも担うのだ。


 そして今、ラステサリア王国にはシェバイ海洋連合王国へ嫁ぐ予定の王女殿下がひとりいる。

 ジョシュはティアナの紫色に輝く双眸を見つめながら、ニヤリと笑った。


「ベアトリス殿下の婚約式を主催する担当官だ」






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