第17話

 夢を見た。

「そうじゃない!昨日も注意しただろう!」

「申し訳ありません!」


 木の模様が綺麗な床の上で、わたしは頭を深く下げていた。

 顔を上げたくても上げられない。竹刀を振り下ろす父上が怖くて。

 真上から降り注ぐ怒号がわたしの耳の中だけでなく、道場全体に響いた。


「振り上げる時の脇の開きが甘い!止める際に腕を曲げるな!疲労が現れる終盤こそ意識しろ!」

「以後気を付けます!」

「昨日も聞いた!しかしできていない!」


 わたしは道場の床に額をつけたまま泣いた。声は押し殺して。

 泣いているのが父上にばれたら「甘ったれるな」って、余計にお説教されてしまう。


「構えと筋肉の動きを忘れるな!もう1セット追加!」

「そんな父上、もう400本はやっております……」

「つべこべ言わずにさっさとやる!」


 馬を躾けるための鞭のように竹刀を振る父上。

 手はマメだらけで竹刀を握るだけで一苦労。連日200回を超える素振りをやっているせいで、振り上げるのも振り下ろすのも辛い。


 でも学生時代を剣道に捧げたという父上が練習を休ませてくれるはずがなく、特に剣道の練習ではことさらに厳しかった。だから腕が悲鳴を上げてもプルプルと震えても、父上が及第点と認めてくれるまでやるしかなかった。

 このセットで終わらせると意気込んで、震える腕を気合で振り続けた。


「よし、いいだろう。明後日の試合に備えて明日は今日までの反省をしておきなさい」

「はい」



 そうして迎えた試合当日。

 個人戦なので団体戦のような責任感はないけれど、ただ勝つだけでは許されないため緊張はする。

 父上は「1本でも取らせるな、3本ストレートで勝ちなさい」と命令された。

 1本でも取られたら敗北と同義で、父上にとっては価値がないということ……。

 できるのか、わたしに。


(はっ、はぁっ、は……)


 先に行われていた試合が終わるごとに呼吸が荒く、短いものになる。

 喉に液体が込み上げ、指が震えて曲げることも叶わない。

 対戦相手に集中しなきゃなのに父上に課せられた文言が、わたしの体内を呪いのように駆け巡る。


「すみません、お手洗いに行きます……」


 スタッフの人に告げて試合会場から飛び出した。


(無理だよぅ……!)


 個室に閉じこもり、両肩を抱いて震えた。

 ガクガクと、冬場に冷たいシャワーを浴びせられたような寒気に襲われる。込み上げた液体は胃液なのか、苦い水を唾液として飲み込む羽目になる。上の歯と下の歯が噛み合わず、カチカチとぶつかり合う音を発する。

 昨日までは、今朝までは健康そのものだったのに。

 トイレの個室で動けなくなったアタシはブリキのおもちゃにも満たない存在だった。


「おーい君!もしかして尾神凛さん!?」


 何時間そこで過ごしたか定かじゃないけど、長らく戻らなかったわたしを心配したスタッフさんが扉を叩いた。



「凛。先の試合は棄権ということで、相手の子の不戦勝だそうだ。相手にも礼節を欠ける行為であり、お前の弱さが露呈してしまったと受け止めている」

「申し訳ございません……」


 帰宅してすぐわたしは正座させられていた。

 父上の声に抑揚はなく、冷静でいるからこそ逆に恐怖心を抱かされた。

 わたしの横では晴香がわたしと父上を交互に見て、何を言えば場が和むのか思案しているようだった。

 しかし口出しできるはずもなく、ただただ俯いていた。


「晴香は3本、完璧に決めたな。自信を持ちなさい」

「ありがとう、ございます……」


 怒りの矛先が向いていないはずの晴香も戸惑い気味にお礼を述べていた。

 横に怒っている人と怒られている人がいたら、褒められても手放しでは喜べまい。


「今後も試合を放棄するようなことがあれば、剣道は辞めさせるしかないか……」


 去り際に父上が置いていった独り言。

 それは現実になった。


「もうお前は剣道を辞めなさい」


 試合はおろか練習中ですら体が硬直してしまったわたしに、父上は無感動に命じた。

 優しさの配分は皆無で、幼心に見限られたのだと悟った。

 じっとりと背中にかいた汗がアタシを起こした。

 ……なんだ、まだ午前2時か。汗を拭いたら寝よう。

「母上、過去問の採点をお願いします」

「いいでしょう。座りなさい」


 わたしは進学予定の中学校の過去問を解き、母上に採点をお願いした。

 書類を机の端に追いやり、わたしの解答用紙に赤ペンを走らせる。丸を一筆書きした爽快な音に紛れて、ちらほらバツを書く音が聞こえてきて落胆した。


(晴香、頑張ってるんだなぁ)


 母上が書類作業をしている傍ら、部屋の隅で机に向き合う妹がいた。

 解いているのは過去問じゃなくて塾のテキストだった。晴香のことだから何か言えば返してくれると思うけど、調子どう?なんて軽く声かけできる気がしなかった。

 横顔から晴香の本気度が伝わるから。国語の問題集を解いていたら「鬼気迫る」っていう表現があったけど、今の晴香は正しく鬼気迫る勢いで勉強していた。眼前の問題しか映していない瞳が本気度を物語っている。


「採点、終わりましたよ」

「は、はい!」


 現実に呼び戻されて目線を母上に戻した。

 果たして母上が及第点をくれるのか。ハラハラしてしょうがない。


「4教科合わせてもミスは5問程度でした。私の下で全年度これだけ解けたなら本番もまず間違いなく受かるでしょう」


 父上より温もりがある声色で所感を語る母上。

 まずまずの正答率に安堵した。母上には怒られずに済むかもしれない。


「ですがここで油断してはなりません。必ずしも満点でなければならないとは考えていませんが、真の目的を忘れず1歩でも2歩でも上を行く心意気で頑張りなさい」

「はい。ありがとうございました」


 褒めてはくれなかったけど、怒られなかっただけマシなのだ。

 採点してもらった過去問を解き直す前に、外の空気を吸おうと思い縁側に座った。

 庭で育てている木々の香りが鼻を通り抜けて、夏の暑さが微かに和らいだ。


「あねうえ」

「晴香?」


 爽やかな風を堪能していると、たどたどしい呼び声が。

 両手にジュースを持ってわたしの真横に腰を下ろした。


「どうぞ、あねうえ」

「ありがと」


 姉妹仲良く庭の風景を眺める。

 植物に囲まれた庭はアスファルトの道路よりは暑くなくて、けれども夏の暑さは健在で。

 ジュースを飲みながら熱気を撃退する。


「わたしもあねうえを追いかけて、中学では同じ部活に入ったり学校行事で思い出を作ったりしたいです!」

「中学からは文化祭もあるもんね。全学年が合同でやるような行事なら、晴香と回る機会もあるかもね」


 小学校から中学校でどんな変化が訪れるだろう。

 小学校でも運動会や学芸会、縦割りの行事なんかがあったけど、中学では文化祭という学校全体での大規模な行事があるとか。部活の発表、食べ物を提供する屋台、クラス毎にテーマを決める出し物。

 入試本番まではまだ2年くらいあるけど、中学への期待値は高まるばかりだった。

 惜しむらくは晴香と1年擦れ違ってしまうこと。


「あねうえと被らない1年は辛抱ですね……」


 想いが通じたのか落胆の色を見せる晴香。


「晴香、わたしのことを慕ってくれてありがとう。1年間なんてあっという間だよ」


 晴香を元気づけるためにエールを送った。

 この家族で唯一わたしが心を開ける大切な人で、姉としての枠を超えた感情すら芽生えていた。

 この気持ちの正体はわたしには分からないけど、とにかく晴香が落ち込んでいるのを放ってはおけなかった。


「学校であねうえと離れても変わらずお慕いします!そして再会できた日には、あねうえと結婚したいです!」

「そうだね。わたしも晴香となら……だから先に中学で待ってるからね」


 妹は無邪気な約束をしたのかもしれない。わたしはそれを本気で約束させてもらいたいと思った。

 晴香となら苦境にだって負けないはずだから。

 だからわたしは晴香と――。

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