第4話
「5月に入った1年生の子、知ってる?」
「尾神晴香って子だよね?」
「後輩が噂してたなぁ。1000m走で3分台だったんでしょ?」
「3分30秒くらいらしい……もうアスリートじゃん」
晴香が入学して1週間程度、早くも我が妹は話題の人物になっていた。
休み時間に廊下に出れば、教室に戻れば、とにかく尾神とか晴香とかいう単語が行き交う場面に遭遇する。
まったく、噂話が好きな暇人が多いことだ。
「えー、つまりこの円の中心の座標を置き換えて――」
晴香が噂になっているせいでアタシの気分は最悪だ。
先生が説明している間も貧乏ゆすりしていないと気が狂いそうなくらい。シャーペンをカチカチとノックしては戻す、またノックし続けてという負のループ。
当たり散らすのは野蛮だろうけど当たれるなら辺り散らかしたい。
「――よって座標は以上のようになります。ここまで大丈夫ですか?」
イライラしているうちに解説が終わり、次の問題に取り掛かるところだった。
自分の記述が正しいか、板書と照らし合わせて丸を付けた。説明は耳に入ってすら来なかったけど、記述の要素は過不足なく書けていたのでオーケー。
円の方程式を使う応用問題で有名難関校にも出題されるレベルらしい。問題文を読み終わった時点で解法が浮かんだけど。
このテキストそのものを予習したわけじゃないが、解けるのだ。この分野はかなり昔に叩き込まれたから復習の側面の方が強い。
そんな調子で、ぼんやりと授業を受けていても正解できてしまう講義がようやく終了した。
起立、礼をして眠気覚ましにトイレへと向かう。
「1年の尾神さん?今月入ってきた子でしょ?」
「うん。体育が凄くていろんな部活から勧誘されてるらしいわ」
「てか尾神ってさ――」
トイレに行ってまで妹の噂が流れているとは。トイレで流すのなんて、水だけでいいのに。
「えー、連絡が遅くなりましたが英語の先生が病欠で、本日は自習となります。私が代理でここにいますので――」
チャイムが鳴ると同時に教室に入ってきたのは、英語の担任ではなく代理の先生だった。
鳴り終わるのと同時に授業がなくなったことを告げて、教壇にある先生用の椅子に腰かけた。
(自習なら……寝てもいいか。通算の成績は悪くないし)
先生の説明も板書もないなら私が寝たところで影響はないはずだ。
中学3年間と去年の1年。毎回トップ10に入っているのだし大目に見てもらいたい。授業態度があまりに悪いと注意を受けるし、下手したら親にまで連絡が良くケースもあるそう。親にまで知らされるなんて、滅多にない大体のケースでも寮の規則を破ったとか補導されたとか、そんなものばかりだけど。
曲りなりにも進学校なだけあっておよそ皆の授業態度は真面目だ。それでも1人や2人は寝ていることがあって、しかし起こしはするものの厳しく叱責することはなかった。
睡眠による成績不良は自己責任と考えているのだろうが、とりあえずイライラが絶好調のアタシにはありがたい。
(おやすみ)
テキストを広げることもせず、大胆に眠ることにした。
◇
ろくに説明が頭に入らないまま学校が終了した。
課題も手付かずのアタシは寮に帰って着替えた後、気分転換を図り出かけることにした。
学校の鞄ではなく私用バッグを取り、寮母さんに規定の外出届を提出すれば街へ出かけることができる。
コンビニで売っている程度のものなら寮内の売店でも買えるけど、そんなんじゃ気分転換にはならない。
「落ち着け、落ち着くんだアタシ……」
街を歩き、店の商品を眺めながら頭に浮いてくるのは晴香と、彼女のことを噂しているミーハー共のこと。
あいつらが噂しているのは、控えめに言って不快なことこの上ない。
(――アタシの方がずっと晴香のことを分かっている)
冷静でいようと脳みそは指令を出すけど、心では連中と張り合うように呟いた。
たった1ヶ月ばかりでふざけたことを言わないで欲しい。晴香が凄いなどと連中が評するのは百年早い。
「あ~ダメだ!なんなんだよ、もう……!!」
晴香のことを嫉妬するアタシと、自分こそが晴香の理解者であると主張するアタシ。
相容れないはずの感情が全身を支配する。
(まったく気分転換にならないし)
店の看板や壁のポスターとか、街は不必要なほどたくさんの情報で溢れ返っているのに、脳も眼球も素通りして働かない。
早歩きしてもついて回ってくる想いがある限り、何をしても無駄なようだ。
気分を変えるには晴香というワードが邪魔で、そこさえクリアできれば存分に転換できるのか?
では気分転換とは何なのか?思考が延々とグルグルするだけで解決しない。
「どうすっかな」
時刻は17時前。帰宅予定は門限の19時ということになっているが、予定より早すぎて帰るかどうかも悩ましい。一応、寮や学校としては帰ってくるのが早い分には望ましいとのことだけど。
出歩いていても寮の部屋に帰っても恐らく結果は変わらない。
寮母さんに外出届を書いて出した分だけ労力はマイナスだ。
「姉上!!」
帰るか外に居続けるかの二択を迫られるアタシに、つい先日も聞かされた声がかけられる。
独特の呼び方に呼吸が詰まった。
こんな人の多い往来でも構わず呼んでくる声の主は1人だけだ。
「……晴香」
「奇遇ですね、姉上!」
振り向いた先には、憎くて愛しい妹の姿があった。
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