二.作戦

2-1


「……おっとと」

 体勢を崩してよろけたアタシは、思わずお間抜けな声をこぼしました。

 両手いっぱいに山積みの本を抱えたアタシの視界は紙の束に阻まれており、少し首を傾けないと前が見えません。皿回しの要領でバランスを保ちながら、アタシはゆっくり、ゆっくりと歩みを進めておりました。

 それにしても……重いですよーっ。ったく、ラブ課長といい、シレネ様といい、天使使いが荒いったらありゃあしない。アタシはこれでもか弱き乙女なんですからねーっ。あの二人、そこんとこわかってるんですかねーっ?

 ――と、心の中でいくら愚痴をこぼしたところでアタシの雑務が消えるワケではありません。さっ、お仕事っ、お仕事っ♪ ――あっ、資料室の入り口の扉が見えてきましたね。もうちょっと……頑張るのよーっ、エーデルーっ。

 両手が塞がっていたアタシは肘を使ってドアのレバーを下に押し込み、なだれこむように室内に入りました。「シレネ様―っ! お待たせしましたーっ!」

 エッホエッホとさらに中を進み、アタシはテーブルの上にドカンと大量の書籍――アタシの秘蔵コレクションである恋愛マンガの束を置きました。ふぅっと一息ついて目下に視線を向けると、「ああ、ご苦労」

 革張りのソファにゴロンと横になっているシレネ様が、以前にアタシが運んでいたマンガ本をペラペラとめくっており、アタシに目をくれることもしません。

 ……おや、そのタイトルは――

「あーっ! 今読んでるの、『ハナコイ』じゃないですかーっ! ……えっ、もう十五巻まで読んだんですかっ!? 早っ! どうでした!? どうでした!? 六巻でヒロインが花札ぶちまけるシーンでキュン死にしませんでしたかーっ!?」

 「キュン死に……?」興奮した面持ちで鼻息を荒くするアタシに対して、シレネ様はなおもこちらに視線をやらぬまま、「感想か。そうだな」二秒ほど考え込んだ後に、

「登場人物の感情の変化を起因として、髪が逆立ったり等身が変化する描写は人体化学の概念を無視していると感じた」

「――いや視点!? そこはマンガだから気にしないであげてーっ!?」

「他にもいくつかわからん点があるんだが」

 ムクリと起き上がったシレネ様が読んでいたマンガ本をパタンと閉じて、代わりにテーブルの上に放られていた『ハナコイ』の一巻を手に取ります。そのままパラパラとページをめくり、ピタリ手を止めたかと思うと本を見開いたままアタシに向けました。

「この女はほとんど話したこともない主人公の男になんでいきなり惚れているんだ? 情緒不安定なのか?」

「違いますよーっ!? このシーン、主人公の男の子がナンパされて困っているヒロインを助けてあげてるじゃないですか! 女の子は誰しも、自分を守ってくれるヒーローに憧れているんですよっ!」

 アタシが金切り声を必死に張り上げたものの、シレネ様はヌカに釘を打つがごとく八の字眉を作っておられます。

「……はぁ。私も女だが、そんな感情に陥ったことはないぞ」

「……シレネ様はきっと、守られる前に自分で倒してしまうタイプの女性なんでしょうね」

 諦めたように、呆れたように、アタシはうなだれながら嘆息しました。

 ……いやはや。

 恋愛の『れ』の字もわからないシレネ様に恋を勉強してもらおうと、とりあえず恋愛マンガをいっぱい読んでもらっておりますが、これは――

 オモッタイジョウニ、ジュウショウカモシレマセンネ。トホホ。


「そ、それにしても玲希さん。やる気になってくれてよかったですねーっ」

 だだ下がったモチベーションを無理やりでもあげたかったアタシは、仕切り直すように口を開きました。

「最初はアタシたちのお手伝いを疎ましく感じていたようですけど……、この前の昼休みの一件のあと、真剣な顔で言ってくれましたもんね。『なるみもへの片思いを絶対に成就させたい、そのためにキミたちにも協力して欲しい』って。彼の中で何か心の変化があったのでしょうか?」

「さぁな」、『ハナコイ』の十五巻を再び手にとったシレネ様が(この人……意外とハマってる?)、パラパラとページをめくりながらボソボソと返事をこぼします。

「前にも言ったが、恋愛なんぞ当人がその気になってくれなければ我々の補佐も限界がある。理由はわからんが、藤吉玲希が前向きになってくれたのは朗報だ」

 ウンウンと頷きながらアタシは、沸き上がるテンションと共に白装束の袖をまくり上げて、

「このエーデル……立派な恋の神になるためにも、これからも全力で玲希さんとシレネ様のサポートしますよーっ!」

 アタシが高らかに宣言すると、体温のない目つきでジトリ、シレネ様がアタシに視線を向けました。

「……お前、なんで恋の神になりたいんだ? なんで恋愛課を希望したんだ?」

「えっ?」突飛な質問に、アタシはキョトンと阿呆面を晒しております。

「ラブ課長は『恋愛のすばらしさをみんなに伝えたい』と言ってたが、お前にもそういう、使命感みたいなものがあるのか?」

 シレネ様の灰色の瞳がアタシの顔面に刺し込まれております。気まぐれなのか何なのか、シレネ様は珍しくアタシに興味を持ってくれているようです。

 ……ここは真剣にお答えしなければっ。

「アタシは、課長のような立派な志は持っていないんですけど。そうですね……恩返し、かな?」

「どういう意味だ?」

 シレネ様がお人形のように首を傾げます。アタシはそっと目を伏せて、

「アタシは二十歳という若さで命を失いました。でも、前世に未練はありません。アタシは、『恋愛』に人生を救われたんです」

 ポツリポツリと、拙い声を紡ぎます。

「病のせいで長くは生きられないだろう――幼い頃からそう宣告を受けていたアタシは、人生にずっと生きがいを感じることができませんでした。何をやっても虚しくて、生きる理由を見つけることができませんでした。……でも」

 自然と口元が綻びました。我ながら中々に不幸な人生だったなと、何故だかおかしくって。

「恋愛マンガに出会って、フィクションだけど、たくさんの人たちの素敵な恋に触れることで、いい人生だったって思えることができたんです。……だから、地上界がそんな素敵な恋で溢れればいいなって。そう願って恋愛課の配属を希望したんです」

 ……いやはや、自分の想いを吐露するのは少し気恥ずかしいですねーっ。アタシは顔をあげることができません。「ふぅん」納得したのかしていないのか、シレネ様がよくわからない調子の声を返しました。この方は相変わらず何を考えているのやら。

 ふと、アタシの脳裏に好奇心が発芽します。

「シレネ様こそ、何故『死神課』を希望したんですか? ……死神なんて物騒な仕事、自ら希望する人ほとんどいないじゃないですか。アタシの代では一人もいませんでしたよ」

 死神課――他人に害悪しかもたらさないと『不要認定』された人間の命を奪い、地上界の善悪を調整する冷酷なお仕事――いくら神とはいえ、人の生命に介入するのはやりすぎなんじゃないかと……実はアタシは業務の必要性自体に疑問を覚えております。

「そうだな」何かを思い返すような所作で、視線を斜めに移ろわせたシレネ様が、

「前世の仕事でもよく人の死に触れていたから。性に合っていると感じたんだ」

 あまりにも淡々と、衝撃の台詞を放ちました。

「えっ……」耳を疑ったアタシは声を詰まらせてしまい――でも、溢れる好奇心が歯止めを利かせてくれません。

「シレネ様……前世で一体、な、何のお仕事をされていたんですか?」

 おずおずとアタシが訊ねると、シレネ様が無表情のままユラリとアタシにお顔を向けて、

「殺し屋だ」

 いよいよアタシは言葉を失ってしまいました。

「あ、ああ、ええと、こ、殺し屋って、その、いわゆる――」

「……冗談だよ」

 シレネ様が薄っすらと口元を綻ばせましたが、そのトーンはおよそ冗談には聞こえません。アタシの動揺など知らぬシレネ様が思い出したような声を重ねます。

「そうだエーデル。お前に頼みたいことがある」

「はっ、はいっ!?」生命の危機を感じたアタシの背筋がピンと張りました。

 シレネ様が、手に持っていたマンガ本をテーブルの上に置いて、

「鳴海美百紗の過去を洗って欲しい。編入前の高校、小学生や中学生だった時、周囲の人間からどういう目で見られ、どういう評判だったのかを調べてくれ」

「いい、ですけど……」シレネ様の意図を掴みあぐねたアタシは、思わず首を傾げます。

「美百紗さんの過去をどうして知りたいんです? 好きな男性のタイプとか、好きな食べ物とか、玲希さんとの恋を進展に役立ちそうな情報ならわかるんですけど」

「ちょっとな」意味ありげに視線を逸らしたシレネ様の回答が、「彼女が長袖で素肌を隠しているのが、気になって」アタシの混乱に拍車をかける結果にしかならなかったもんで、

「……へっ?」アタシの頭上を数多の疑問符が舞うのは必然でありました。

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