1-6


 男子トイレの個室に一人で引きこもっていた。みんなの前で醜態を晒したばかりの僕は、そのまますごすごと教室に戻る神経の太さは持ち合わせておらず、午後の授業の開始まで孤独に時間を潰そうと算段を立てていた。……腹痛がひどかったので丁度いい。

 クラスメート連中から何を思われても構いはしないが、なるみもから軽蔑の目を向けられるかもと思うと――胸が苦しくなった。……はぁっ。何度目かもわからない嘆息が漏れ出る。

 ガチャン。個室の外からドアの開閉音が鳴った。誰かがトイレに入ってきたらしい。

「さっきの藤吉。マジウケたよな~、俺に盾突いてきた時は調子乗ってたクセに……おたおたしちゃって。まさか逃げ出すとはな~」……うわ、この声は柳田だ。

「ハハッ……まぁ、よっぽど入れ込んだファンみたいだし、初めて生で会ったんなら、あんな感じになってもおかしくはないんじゃない?」……このやたら爽やかな声は、犬塚かな。

 今の僕が、なるみもの次に会いたくない二人組だ。僕は息をひそめ、気配を極限まで消す。

「それにしても犬塚、さっきのマジかよ?」嫌らしく語尾を上げた柳田の声に、犬塚が淡々と返す「ああ、うん。たぶんいけると思う」

 本当に、なんでもないように犬塚は言った。

「なるみもを落とすの、チョロいと思うよ」

 なんでもないように言ったその一言に、僕の神経がぐいっと引っ張られた。

「スゲー! さすが犬塚! グループ内の人気底辺とは言っても、向こうはアイドルだぜ?」

「あの子、一見男慣れしてそうだけど、恋愛経験はないんじゃないかな。自虐ネタが多いのは自信の無さの裏返し。だから彼女の自尊心をくすぐってやるようなこと言い続ければ、コロッとオチるタイプだね」

 耳を疑う。透明感のあるハキハキした発声に似つかわしくない、下衆な台詞に。

 ……この声を発しているのは本当にあの、犬塚樹なのだろうか?

「赤倉ん時は二週間だっけ? 俺、冗談で言ったのにマジで二週間で告らせてんだもん。あんだけその気にさせてフるとか、お前ホント鬼だよな~」

「赤倉は元々、俺に惚れてたみたいなとこあるからね。ゲームで言ったらベリーイージーモードだよ。なるみもはさすがにもうちょっとガード固いと思うから、……そうだな、でも三か月あれば充分だね」

「相変わらず大した自信だな~! じゃあ今回も賭け金は一万。三か月以内になるみもがお前に惚れたら犬塚の勝ち。タイムオーバーになったら俺の勝ちな!」

「オッケー。また稼がせてもらうよ」

 アハハハハハッ……。


 なんだ、これ。

 赤倉を……告らせた? なるみもを……落とす? 賭け金……一万?

 コイツら、何言っているんだ?


 バタンッ。大仰なドアの開閉音が鳴って、洗面所の前で髪型のセットに勤しんでいた犬塚と柳田が振り返る。個室扉のドアを引き開けた僕は、能面のような無表情で二人の顔を順繰りと見やった。僕の存在に全く気付いてなかったのだろう。最初は焦った顔を晒していた柳田だったが、すぐに安堵の色を顔に浮かべて、

「なんだ藤吉かよ。……お前、今の俺らの会話聞いてた?」

 僕がコクンと大袈裟にうなづくと柳田は、「めんどくせーから他の奴に喋るんじゃねーぞ? っつても、アイドルヲタのお前を相手にするの、同じヲタ仲間の須王くらい――」

「さっきの、どういうこと?」

 柳田のしゃがれたダミ声を一切無視して、僕は犬塚一人にまっすぐ目を向けていた。

 犬塚はいつも通り綺麗な顔で、いつも通りさわやかに目をたゆませていて、いつもどおり薄い微笑を浮かべていて、「どういうことって、何が?」

 僕の登場を全く意に介さぬ調子で、ひょうひょうと返す。

「……犬塚、僕はキミを、立派な奴だと思っていたんだ。人の気持ちをきちんと想像できて、人のために勇気をもって行動できて……そういう奴だと思っていたんだ」

 プッ。僕の言葉に柳田が噴き出した。犬塚は表情一つ変えずに僕の声にただ耳を傾けている。

「だけど……それって全部、演技だったの? みんなの前ではいい奴を演じて、裏では人の気持ちを弄ぶような真似をして……それがキミの本性なの?」

「本性?」犬塚が茶化す様に肩をすくめた。

「別に俺は、聖人君子を宣言したことはないし、裏の顔を持っているつもりもないよ。藤吉が俺のことどう思ってたか知らないけど、お前に俺の知らない部分があったって、それだけのことだろ? 勝手に裏切られたような気持ちになってるのは、そっちだろ?」

 犬塚は終始余裕の態度で、さも当然のようにそう言った。

 背筋が凍るような悪寒と共に、僕は犬塚の見せる笑顔の意味がわからなくなる。

 なんだコイツ、何を言っている? というかコイツには――

 人の感情って奴が、存在しているのだろうか?

「なるみもを……」僕は全身を震わせていた。呼応するように、声も震えている。

「三か月以内に、なるみもを……落とすって――」

「ああ」犬塚が思い出したようなのん気な声を、

「最近、柳田とハマッてた遊びなんだよ。期間設定して、クラスの女子をいつまでにオトせるかを賭けるんだ。まっ……今んとこ俺の全勝でさ、ぶっちゃけみんな簡単すぎて飽きてたところだから、なるみもはちょうどいいタイミングで転校して来てくれたよ。何せ相手はアイドルだからなー、それくらいじゃないと張り合い出ないしね」

 犬塚の発声が空間の外側から鳴っているように感じた。奴の口だけが動いていて、音声は別のところから聴こえてくるみたいに。

 ……ああ、そうか。そういう、ことか。

 犬塚樹は違うんだ。

 わかりあうとか、共感するとか――そういう感覚が存在しないタイプの人間なんだ。人の気持ちを好き勝手することに、一切の抵抗を感じないタイプの人間なんだ。コイツは何を考えているんだろうとか、僕が想像するだけ無駄なんだ。……だとしたら――

「渡すものか」

 僕がボソリと声をこぼすと、犬塚がピタリと口を閉じる。

「お前みたいな奴に、なるみもを渡すものか」

 僕はゆっくりと腕をあげて、人差し指を犬塚の顔に突き付ける。その所作の意味が分からないのか、犬塚はキョトンと子どものような顔を晒していた。

「犬塚、僕はキミに宣戦布告する。お前みたいな奴に、なるみもは絶対に渡さない。お前みたいな奴に渡すくらいなら、なるみもは……僕が、もらう」

 シンッ――三人だけの閉鎖空間に沈黙が広がる。

 やがて「……プッ」こらえきれんとばかりに、柳田が下品な笑い声をまき散らした。

「――ギャハハハハッ! 藤吉ごときが……何、言ってんだよ!? 『僕が、もらう』って――お前みたいな奴、なるみもが相手にするワケねーだろ!?」

 耳障りな音が不愉快ではあったが、僕は柳田の声を一切無視していた。それよりも、

 犬塚が興奮したように目を見開き、「……へぇ?」キラキラした笑顔を浮かべた事実が気になっている。僕の挑発をバカにすることはせず、むしろ――

「藤吉……お前、サイコーだよ! アハハハッ! マジ、サイコー……。俺、こんなに興奮したの久しぶりだよ!」

 身体をのけぞらせながら高らかに笑う犬塚はまるで、対戦ゲームに夢中になる子どものよう。

 ――ゾッとした。

 犬塚が気安く僕の肩に手を置く。異物が身体の中に混入されたような不快感を覚えた。

「触るな」条件反射で犬塚の手を振り払うと、奴は僕をコケにするように両手をあげて、降参のポーズをとる。そしてニンマリ。不敵な笑顔を再び浮かべて。

「この勝負、乗った。どっちが先になるみもを落とせるか――お手柔らかに頼むぜ、藤吉?」

 ギリッ――僕は奥歯を強く噛みしめて、心の中に何度も、何度も何度も刻む。

 ……こんな、こんな頭のおかしな奴に、なるみもは指一本触れさせない。

 なるみもは僕が、守るんだ。

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