1-5


 午前の授業が終わり昼休みが幕開する。一人勝手に気疲れしていた僕は、机の上に上半身突っ伏し安堵の息を漏らしていた。

 シレネとエーデルは授業中、存外大人しく授業を受けてくれていた。……まぁ、

「――じゃあ、次の問題は誰かに解いてもらおうかな~」「はいっ、はーいっ!」「おっ、転校生の若井菫さん。元気良いね~。じゃあ答えてごらん」「わかりませんっ!」「なんで手挙げたの!?」――みたいな茶番は、一応あったけど。

 ムクリと上体を起こした僕は鞄の中から弁当箱を取り出し、いつも通りのぼっち飯を開始する。さっさと食べて、シレネとエーデルにはっきり言わなくては。

 キミたちの介入は迷惑だ。僕はなるみものことは好きだけど、彼女との恋を成就させる気なんてない。呪いだかなんだか知らないが、さっさと解いて元の日常に戻して欲しい――って。

 授業中ずっと考えつづけて僕はそういう結論をだした。遠くからなるみもを見ているだけで僕は充分なんだ。僕みたいな暗くて何の取り柄もないやつが、彼女とどうこうなろうと考えること自体、おこがましい。

 ふいになるみもの方に視線をやると、普段は体育館に繰り出してバスケかなんかに興じている男子連中が、今日は彼女を取り囲んで談笑に耽っていた。彼らの声が僕の耳を引っ張り、思わず意識が向いてしまう。

「っていうかなるみも、なんで俺らと制服違うの? 冬服まだ暑くない?」

「急な転校だったから、注文が間に合わなくてさ~。それに私、一応日焼けとか気にしてるんだよ」

「おお~、さすがアイドル! ……いいよな~。仕事でおいしいものいっぱい食べれたり、他の芸能人に会えたり、楽しそうでさ~。俺も今からアイドル事務所に履歴書送ってみよっかなー!」

 一人の男子のちゃらけた発言にドッと場が沸いた。なるみもも彼らに合わせてアハハと笑顔を見せており――僕は一人でイライラしていた。

 ……楽しそう? お前、アイドル舐めてるのか? 血のにじむような努力をファンが本当の意味で知ることはできないし、どんなに愛想を振りまいても一定数のアンチからは叩かれつづけ、人気順位という残酷なシステムで精神は常に疲弊する。そもそも芸能界はどの業界よりも上下関係に厳しいだろう。理不尽な目にあったって、生存するためには文句の一つも言えない。アイドルっていうのはきっと、そういう――

「いやいや、芸能人って超大変だろ? 顔やスタイルだけ良くっても通用しないと思うぜ。俺らフツーの高校生なんかより、よっぽどみんな、努力してるって」

 和やかなムードに水を差すのも意に介さず、凛とした声を張ったのは犬塚だった。

 男子連中の笑い声がピタリと止まり、なるみもが少し驚いたような表情を浮かべている。

「あっいや」空気の変化を察知したのか、犬塚が慌てたように両手を振り、

「ゴメンゴメン、空気悪くする気はなかったんだよ。ただ、俺たちって結局、芸能人とかアイドルの華やかな面しか観てないからさ。何も知らない俺たちが、アイドルの活動を軽く見るような真似するのは、違うかなって」

 犬塚は気まずそうに苦笑いを浮かべていた。犬塚の言葉を受けてか、先ほどまでゲラゲラ笑っていた男子連中がこぞって神妙な面持ちに直り、「……確かに、何も知らない俺らみたいのに調子乗ったこと言われたらムカつくよな、ゴメン、なるみも」しおらしく謝罪をこぼす。

「い、いやいいって。全然気にしてないし、私、他の子たちに比べて全然がんばってない方だしさ。……だから万年、後列組なんだよね~。アハハ」

 彼女もまたとりなすような声をあげ、得意の自虐ネタにより場の空気が再び緩和する。

 僕は再び打ちのめされていた。

 犬塚はみんなの前でハッキリと自分の意見を言った。なるみもの気持ちを汲んで、彼女の心の声を代弁したんだ。それに比べて僕はどうだ。心の中で悪態をついていただけじゃないか。彼女のために何も行動していない。

 ……やっぱり、僕みたいな奴より、犬塚みたいに勇気と優しさを持ち合わせた男の方が、なるみもの隣にはふさわしいんだ。

 一人勝手に気落ちしている僕だったが、「……チッ」露骨な舌打ちに気が取られる。

 遠慮がちに横目を向けると、教室の端に固まっている女子グループがなるみもを取り囲う犬塚軍団を苛々し気に眺めていた。皆一様に制服を着崩す彼女たちはいわゆるイケ女集団で、赤倉という女子を中心に同じメンツで固まって行動することが多い。

 彼女たちの態度に僕は嫌な予感を覚える。嫌な未来を一人勝手に想像してしまう。

 もしかしたら、また、なるみもは――

「おいっ」

 急な声掛けに僕の思考は停止を余儀なくされた。慌てて顔をあげると、シレネが腕組みをしながら僕を見下ろしていた。

 何事か。僕が無言のまま彼女の顔を眺めていると、

「何をボヤボヤしている。行くぞ」

 何がなんだかわからない。「えっ」と僕がこぼしたと同時、シレネは僕の腕を強引に掴んだ。僕の身体が引き上げられる。そのまま腕をひっぱられ、僕は彼女に連れ出される格好になった。

 ズンズンとシレネが教室内を闊歩する。彼女が向かう先は――僕がさきほどまで目を向けていたなるみもを取り囲む男子連中の一団。……ちょっ。

 僕らの接近に気づいたのか、談笑をピタリと止めた彼らの視線がこちらに向けられる。なるみもの目の前までやってきたシレネが足を止め、ようやく僕の腕から手を離した。幾多の視線に四方から刺された僕の全身に緊張が走る。

 シレネはというと、体温のない目つきでなるみもを見下ろしていた。なるみもが不思議そうに頬をポリポリと掻いて、

「……えと、同じ転校生の、羽黒さん……だよね。私に何か用かな?」

「私ではない。この男がお前に用がある」

 シレネがくいっと顎の先を僕に向け――はっ?

 一団の視線が僕に一点集中する。

 なるみもが僕を見る。僕の存在を認識している――その事実に、僕の全身は爆発しそうになっていた。非日常が極まったようなリアルに、脳が速やかに思考停止してしまう。

 僕は思わずなるみもから目を逸らし、シレネに目をやった。――お前、いきなりこんなことして、一体何のつもりだ?――視線で訴えかけるも、シレネは僕を一瞥するばかり。

 やがてシレネがなるみもに視線を戻し、さも当然の如く、

「この男はお前に好意を抱いている。だから、お前と交流を持ちたいそうだ」

 ……はぁっ!?

 なるみもは相変わらずキョトンとした顔を見せていた、周囲の男子連中も口を挟まず、困惑した顔つきで僕やシレネの顔を順繰りに見やっている。

 僕の全身から血の気が引いていた。口内の水分が一気に枯れ、足裏に滲んだ汗が靴下にベットリと張り付く。自律神経が壊れてしまったのかもしれない。

 胸の内に秘め隠し、頑丈な鉄格子の中で後生大事にしていた僕の恋心。

 突如現れたどこぞの死神がソレを乱暴に掴み上げ、大衆の前に放り投げやがった。

 それって、僕の心臓が体外に飛び出してしまったのと同義だ。心臓を持たない人間は生命活動を維持できない。つまり、

 僕の人生はもう、コレデオシマイ。

 視界が暗転し、意識が遠く彼方に飛んでいきかけたところで――

「……そう、そうなんだよ!」

 舞台袖から第三者の声が飛び込んだ。この声は……須王?

 虚ろな目で視線を移ろわせると、興奮した面持ちの須王が僕たちに近づいてきて、

「何で羽黒さんが知っているのかは謎だけど……コイツ――あ、藤吉っていうんだけど。『ドメタ』の大ファンで、しかもなるみも推しなんだよ!」

 須王が鼻息荒くまくし立てている。

 静止していた血流が徐々に、活動を再開していく感覚がああった。僕の全身に体温が戻ってくる。

 須王は勘違いをしている。シレネはまごうことなく、『好意』という言葉を『恋』という意味で使ったはずだ。しかし須王の中でその言葉が『推し』に変換されたらしい。そして、

 そのミスリードは、シレネが作った混沌の空間に平静をもたらす大いなる一手と為りえた。

 なるみもが「ああっ」納得したように顔を綻ばせて、

「好意ってそういう意味ねー。ハハッ、びっくりしたわ。……ってか私推しってホント?」

 目下のなるみもが挑発的な猫目をたゆませ、首をゆらりと傾けた。

 その所作がまるでスローモーション映像のように、僕の視界にひどくゆっくりと映る。

 未だに声をあげることのできない僕が遠慮がちに頷くと、なるみもがおどけたような声で、

「ありがとっ! うれしいな~っ、ってか万年後列組の私推しってかなり珍しいね。藤吉くん……だっけ? 見る目あるじゃーん」

 なるみもが八重歯を見せて笑う。彼女の軽口が僕の両耳を撫でる。

 コロコロと転がる彼女の表情が、全て僕に向けられている。

 なんだコレ、なんだコレ、なんだコレ、なんだこの、状況は?

 ――コレ、本当に現実なのか?

「コイツ、なるみもが出てるドメタの生配信は欠かさず見てるし、たまにしか更新しないブログも速攻チェックしてるし、マイナー雑誌のインタビュー記事だって――」

 須王が意気揚々となるみもに喋りつづけていた。僕たちの乱入にクラスの男子連中は不愉快そうな顔を浮かべていたが、犬塚だけは「へぇ~っ、好きなアイドルが同じクラスメートになるとか、スゲーな~」と会話に参加している。シレネは何を考えているのか読めない表情で、状況をただ看過していた。僕とて、どうすればいいかわからず押し黙るばかりだ。でも、

「藤吉くんはさ。なんで私を好きになってくれたの?」

 逃れられないなるみもの一言が、僕の眼前に突き付けられた。

「なんで……」なんとか声を絞り上げるも、その先がつづかない。

 脳内をグルグル巡るは幾多の回答例。そのどれもが不正解な気がしてならなかった。

 なるみもの言う『好き』はこの文脈では、『推し』という意味しか持たない。それでも僕ははぐらかすようなことはしたくなかった。僕がなるみもを好きになった理由をおいそれと口外したくなかった。

 幾多の視線が僕の五体を拘束する。沈黙が鉛のように重く、僕の背中を押しつぶそうとしていた。僕が何かを言わなければこの世界は止まったままだ。それをわかっていながら僕は、適当な返しで茶を濁すような器量を持ち合わせていなかった。秒針が進むごとに、気まずい空気が色濃くたちこめていく。……まずい。何でもいい。何か、言わなきゃ――

「……何をバカみたいに黙っているんだお前は? 早く答えろ」

 この重苦しい空気と唯一無縁であろうシレネが僕に目を向け、苛々し気な声を漏らす。僕は睨むような顔を彼女に向けた。

 ――誰のせいで、こんなことに……ッ!

 しかし僕の態度など意に介さぬよう、彼女は、

「……なんだその顔は。先の質問を答えることなど容易だろう。何故ならお前は、鳴海美百紗のことを――」

 須王のミスリードによって一度は不発に終わった爆弾を、再び投下しようとしていた。

「……ッ!」

 キャパシティオーバー。僕の脳は現実の直視を明確に拒否した。

 くるりと背を向けて、僕はその場から離れる。焦ったように足を動かし、教室の外へと飛び出した。

 ありていに言うと、僕は逃げたんだ。

「お……オイッ! 藤吉ッ!?」背後ろから僕を呼び止める須王の声を無視して、僕は廊下を駆けた。駆けて、駆けて――

 別棟と繋がる渡り廊下までたどり着いたところで停止し、壁に手をついて前屈みになった。ぷはぁっ。百年振りに息を吐き出し、吸い込む。定まらなかった視界が徐々にクリアになっていく。好奇の目で僕を見る周囲の生徒を無視して、僕はハァハァと肩で息をしていた。

 ……最悪だ。冷静を取り戻した僕の心の中で渦巻いていたのは、後悔の念だった。

 なんでもないような質問に狼狽して、あげく逃亡する体たらく。なるみもは僕のことを、『挙動不審な気持ち悪いファンの一人』と認定したことだろう。

 顔がタイプとか、踊りがカッコイイから、何でもいいから一言あげれば済む話だったんだ。それを、僕は――

「お前、本当に何やってるんだ? さっきの行動はなんだ?」

 身体を起こして振り返ると、呆れたように目を細めるシレネの姿を視界が捉える。彼女は僕のことを追ってきたらしい。神経を逆なでするような彼女の口調に全身がカッと熱くなる。

「それはこっちのセリフだよ。あんな真似して……須王の勘違いがなかったら僕の気持ちが彼女にバレるところだったぞ」

「……それが何か問題になるのか?」

「――大問題だよ! いきなり告白しても成功するわけないってさっき教えたばっかりだろう!」僕は思わず怒鳴ったが、シレネは素知らぬ態度で片眉をひそめて、

「……すぐに告白しろなんて言っていない。自分に好意があると知っていた方が、向こうも目的がはっきりしていいだろう。その上で交流を持ち、互いを知っていけばいい。鳴海美百紗もその気になったタイミングで告白すれば、段取りとして不自然ではないはずだ」

「……それはッ――」存外、道理の通ったシレネの返しに僕は一瞬窮してしまい、

「……そうかもしれないけど、僕は自分の気持ちを簡単に彼女に知ってほしくない。それに何より――」

 僕はグッと目に力を込めた。氷のような死神の視線に決して負けまいと。

「僕はなるみもに想いを伝える気はない。彼女とどうこうなる気もない。……呪いを、さっさと解いて、僕の日常を返してくれ」

 一音一音、シレネの耳にねじこむように発声した。でも、

 僕の声は彼女に届かなかったようだ。シレネが深い深い嘆息を吐いて、地面に視線を落とす。「……お前は、前に言った私の言葉の意味を正しく理解していないようだな」そうこぼしたのちに、再びゆらりと顔をあげた。

 無遠慮に近づいてきた彼女が、トンッ、水平にした掌で僕の喉元を軽くたたく。

 恐ろしく低く、でも輪郭のある声で、

「『鳴海美百紗との恋を成就させて生きる』か、『恋に失敗して死ぬ』か。……お前に与えられたのはその二択だけだ。一度かかった呪いはもう、解くことはできん」

 こめかみに銃口をつきつけられたような心地がした。シレネの気迫に、僕は返事を返すことができなかった。

 やもするとシレネが僕から距離を離し、ゆっくりと腕を下ろす。

「……藤吉玲希。自覚しろ。自分が何もしなければお前は『死ぬ』んだぞ? 『接点がない』という障害は私が取り除いてやった。あとはお前自身が行動するんだ。さっきみたいにチャンスをふいにするような真似、二度とするなよ」

 言い終わりしばらく僕をジッと見つめていたシレネだったが、やがて背を向けて、閑散とした廊下を一人歩き去る。次第に小さくなる彼女の背中を、僕はバカみたいな顔で眺めていた。

 死神の声が脳内で反響する。このまま何もしなければ、僕は死ぬ。

「どうしろ……ってんだよ――」

 思わず独り言がこぼれたが、拾ってくれる奴なんて無論、誰もいない。

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