深淵の中で

「ねぇ、あなた東君に告白しなさいよ」

 

 私を虐める少女たちは時々暴走することがあった。

 度を超えた要求や暴力が唐突に私へと向けられる、そんなことが少ない頻度ではあったが、存在した。

 前提として私を痛ぶる彼女たちの行為は正義の制裁である。

 表向きは私と彼女たちは良きクラスメイトであり、彼女たちは秩序を乱した私に対してちょっとお灸を据えているに過ぎなかった。

 だから、私が骨折したり顔に痣を作るような言い訳のできない傷が残ったり、他のクラスメイトを巻き込むという事態はあってはならないことなのだ。

 でも、力を振るうものとは得てしてその全能感と優越感に身を任せがちだ。

 彼女たちは、何度か暴走した。

 そんな暴走、その大半はある人物の不在によって引き起こされていた。

 藍澤恵梨香、魔法少女ピュアアコナイトである彼女はその魔法少女という地位故によく学校を公欠していた。

 そもそも私への虐めの主犯は彼女だ。

 彼女の正義によって私は裁かれ、嬲られている。

 私を嬲る少女たちは、彼女のそのカリスマに魅せられ、従っているに過ぎないのだ。

 そんな正義に酔った少女たちが、藍澤恵梨香という絶対的な正義の指針を失えばどうなるか。

 答えは火を見るより明らかだった。

 彼女たちはいつもと同じように私を虐めた。

 でも、その暴力性や陰湿性が度を超えてしまっても、その舵を取る圧倒的なカリスマはそこにはいないのだ。

 だから、彼女たちは自分たちの行為が制裁としての一線を超えてしまっていることに気が付きさえしない。

 その日、私へ投げかけられたその要求もそんな暴走の一つだった。


「ビッチちゃんは男漁りしてたんだから、彼氏が欲しいんでしょぉ?東君なんてお似合いじゃない」


 何が面白いのか少女たちがせせら笑う。

 私はちっとも面白くなかった。

 彼女たちがお似合いだと私にお勧めしたその少年は、全くもって私と釣り合ってなどいなかった。

 東 吟朗、この学校一と言っていいほどの秀才だった。

 私が目指した勝ち組の人生を体現した人間と言っていい男だ。

 成績優秀、人柄もよく誰にでも優しい王子様、そして……魔法騎士として人々を守る正義のヒーロー、つまるところ彼は完璧超人だった。

 彼と釣り合うとしたら、この学校では魔法少女ピュアアコナイトである藍澤恵梨香ぐらいしかいないと言われているぐらいなのだ。

 そんな物語の主人公のような彼は当然のことながらモテモテであり、今までにも何人もの女子生徒が彼にアタックしては散っていった。

 今私を囲む少女たちは、私にも同じ道を辿って欲しいのだろう。

 そうして惨めに振られる私を見て溜飲を下げたいのだ。


「ほら、何とか言いなさいよ」


 少女のうちの一人が私を蹴飛ばし、私は無様に地面に転がった。


「……………………」


 四つん這いになったまま地面を見つめる。

 どうせ私には選択肢などないのだ。

 誰も助けてくれない。

 私と彼女たちは“友人”であり私以外の人間にとって虐めなど存在していないのだから。

 もう助けを呼ぶなどという選択肢はとうの昔になくなってしまっていた。


「…………わかり、ました」


 自分に言い聞かせるように声を絞り出す。

 屈辱だった。

 好きでもない人間に告白するなんて。

 それも、男に。

 私の精神はいまだに前世を引きずっている。

 男性に興味なんてないというのに…………

 




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「うっ…………」


 頭が痛い。

 嫌な、思い出したくもない夢を見ていた気がする。

 ここは、どこだろう?

 なぜ自分は地面に這いつくばっているのだろうか。

 痛む頭を振ってヨロヨロと立ち上がる。

 顔を上げた私の視界に桃色の空と黒色のビル群が映った。


「……う、ん?」


 どぎついピンクと薄い桃色のグラデーションによって彩られた空にはエメラルドグリーンの星が瞬いている。

 色鮮やかな空と対照的に大地は朽ち、立ち並ぶ黒色のビルたちは廃墟同然だった。

 ここ、どこぉ?

 全く見覚えのない景色に頭が混乱する。

 でも、ふと自分の身体を見下ろして、私は我に返った。

 漆黒の生地に紅い花の装飾が施された和服。

 私、魔法少女になってる。

 そうだ…………私は魔法少女として戦って、深淵に取り込まれた魔法騎士たちを助けるために、ここに入ったんだった。

 後ろを振りかえる。

 私の背後にも、桃色の空と朽ちたビル群が続いていた。

 私は深淵に入ったのだから、私の後ろには深淵と現実との境界線がなければおかしい。

 でも、そのような境目は全く見つからなかった。

 試しに後方に10歩ほど歩いてみたけど、現実へ戻ることはできなかった。


『深淵はあらゆるルールのねじ曲がった未知の空間』


 魔法騎士の青年の説明を思い出す。

 どうやら、思ったより厄介な場所に足を踏み入れてしまったらしい。

 そもそも私が足を踏み入れた深淵はせいぜい小さなビル一つ分くらいの大きさだったはずだ。

 それなのに、目の前には広大な空間が広がっている。

 明らかに外観と中の空間サイズが噛み合わない。

 それに広い空間に私一人、深獣も見当たらない。

 うーむ…………突入してすぐにでも深獣との戦闘が始まると思っていたから、何だか肩透かしをくらった気分だ。

 深獣に連れ去られたという魔法騎士の二人はどこにいるんだろう?


「ぉ、おーい」


 私の出した声はこの不思議な空間に虚しくこだました。

 開けた空間なのに何でこだまするのだろう?本当に訳の分からない空間だな。

 声を上げながら前方に足を進める。

 しかしこれだけ広大な空間だ、私一人では無理がある。


「お願い、人か深獣を探して」


 金魚を大量に放ち、捜索を命令する。

 私の召喚した金魚は戦闘以外で使えるかよく分からなかったけど……魔力を込めると分かったという風に頷いて辺りに散らばっていってくれた。

 金魚たちなら何か見つけてくれるかもしれない。

 少なくとも私一人であてもなく探すよりはマシなはずだろう…………



……………………………



…………………



……



 この不気味な桃色の空の下で探索すること数十分。

 この場所のルールがだんだん分かってきた。

 まず、この場所は魔力で構成されているということ。

 桃色の空も、ビルたちも、リアルに見えるが全部魔力による創造物だ。

 その証拠に金魚たちでこの空間の一部を削ることができた。

 といっても魔障壁とは違い、削った端から瞬時に復元してしまった。

 おそらく、さらった人の魂とやらを喰らって空間自体が今も成長しているのだろう。

 この空間全てを吸収するのは途方もない時間がかかりそうだ。

 地道に吸収していくのは現実的じゃない、大本である深獣を叩かないとダメだろう。

 

 そしてもう一つ、これはこの空間というか私についてなのだが…………私の吸魔の力についての発見があった。

 私、この空間内では無限に魔力を回復できる、実質無限に力を使える状態だ。

 吸魔の力によって深淵を吸収することによって私の魔力は際限なく補填できてしまった。

 なんともずるいというか、チートな能力だ。

 ただ、できるのは魔力の回復だけだった。

 深淵を吸収していると、ある地点から満腹のような感触がして魔力が身体から霧散していってしまった。

 コップに注ぎ過ぎた液体のように溢れ出てしまう魔力、どうやら魔力もそれぞれ個人によってキャパシティがあるらしい。

 つまり使った分を回復することはできるけど、総量は増やせない。

 そもそもよく考えると平時の魔力量ですら使い切ったことはないのだ、チートと言ってももしかしてそれほどではない、かも。

 金魚は魔力を込めれば強くなるというわけでもなく、伸びるのは持続時間だけ。

 これが魔力を込めれば込めるだけ強くなるのなら最強の能力だったのに。

 吸魔の属性でも不得意なことはあると言っていたハイドランシアの言葉の意味が分かった。

 この力、魔力を吸収すること以外何にもできない……

 無尽蔵に魔力があったって、できることが少ないのだ。

 そりゃぁ金魚は無限に召喚できるけど、多過ぎてもコントロールしきれないしなぁ……

 

 あと、金魚たちの探索によって判明したこの空間のもう一つのルール。

 この空間、出れない。

 ひたすら真っ直ぐ前に直進させていた一匹の金魚、その気配が前方から後方にいきなり飛んだ。

 おそらくその金魚はこの空間の端にたどり着いたのだろう。

 でも、端の先に進んでも外には出ることはできなかった。

 前方にいた金魚が後方に……真っ直ぐ進み続けても元の位置に戻ってきてしまう。

 この空間、もしかしてループするようになっている?

 だとするなら脱出は困難だ。

 どんなに進もうが出口なんてないのだから。

 やはりこの空間を脱出するには主である深獣を見つけるしかないだろう。

 目を閉じ、辺りに散らばる金魚たちに意識を集中させる。


「……ん?」


 何か動くものを見つけた。

 少し離れた位置にあるビルの内部、何かいる。

 目を開き、見つけた何かの下へ向かう。


「うわぁぁああ!な、何だよこの金魚!?シッシッあっちいけ」


 近づいてみると何だか情けない声が聞こえてきた。

 そっとビルの中を伺うと、ボロボロの衣服を纏った中年の男性が金魚に向かって手を振り回しているのが見えた。

 あの……それ、敵じゃないです。

 探していた魔法騎士の内の一人かな?うーん、声を掛け辛いなぁ……

 

「ぁ、ぁ、あの〜……」


「うびゃぁい!!」


 私が声を掛けると男は飛び上がった。

 私に向かってファイティングポーズをとった男だが、私の姿を見て敵ではないと気づいたのか一拍してから恥ずかしそうに構えを解いた。

 男性に群がっていた金魚を彼から離し、私の周りを漂わせる。

 こうすれば私の召喚物だとわかるだろう。


「ぁ、とぉ……た、助けに、きまし……た」


 男性とは目を合わせず、用件を告げる。

 見つけたのは男性一人だけ、あともう一人若い女性がいるはずだ、この男は何か知っているのだろうか?

 私の言葉に男はあからさまにホッとした表情を見せた。


「魔法少女……か?助かった。さっさと撤退しよう。出口はどこだ」

 

 あぅ…………出口……ないですね。

 私が探した限りこのループした空間に出口はなかった。

 でもその事実を告げるのは酷なので、一旦話をそらす。


「あ、もう一人、魔法騎士が……いたはずだけど。どこ?」


 そう言うと男性は苦い顔になった。

 何か知っているな。

 聞いた話だと二人同時に深淵に引き摺り込まれたって話だったんだ、一人だけこんな所にいるのはそもそもおかしい。


「あいつは……無理だ。救援は増援に任せて俺たちだけでも脱出しよう」


 男は焦ったように汗をかきながら私へそう提案する。

 私は視線を地面に向けたまま口をへの字に曲げた。

 後輩の女性を見捨てて、自分だけ脱出する気だろうか。

 それが正義の魔法騎士のやることか?

 この感じからして彼はもう一人の行方を知っている。

 その詳細を聞くまで私は動かないぞ。


「…………どこ?」


 男性の主張を無視して一歩詰め寄る。

 彼が息を呑む音が聞こえた。

 焦ったように男の手が宙をさまよう。


「ど・こ?」


 少し語気を強めて同じ言葉を発する。

 さまよっていた男の手が止まる。

 男はため息を吐くと、観念したように腕を組んだ。


「あいつは深淵の中心部まで連れて行かれちまったよ。二人して抗ったんだが……逃げれたのは俺だけだった」


 中心部?どこだろう?

 首を傾げる私に男はビルの床を指差した。

 全然気付けなかったけど、その床には下へと続く階段があった。

 地下か。

 どおりで、地上部分を探しても深獣を見つけられなかったわけだ。

 私は階段から下を覗き込む。

 結構深いな、底が見えない。


「あの〜。魔法少女さん、もしかして行くつもりです?」


 男の言葉に私は頷く。

 当たり前だろ、私は魔法騎士を助けに来たんだ。

 一人は無事なのが分かった、ならばもう一人も助けるだけだ。

 そう意気込み、やる気満々な私の背後で男がため息を吐くのが聞こえた。


「意気込んでいるところ悪いけど、離脱が現実的だろ。俺は逃げる途中で武具を失ってしまった。これじゃ無力な一般人と同じだ。それで、あんたはなんでか知らないが一人、これじゃ魔障壁を破れない。助ける以前に深獣と勝負にすらならないんだぞ。俺たちにできることは早々に離脱して後続の足を引っ張らないこと。それがあいつを助ける最善なはずだ」


 うん?

 …………なんだ。

 思ったより冷静じゃないか。

 逃げる事ばかり主張するから、自分の安全しか考えられない自己中男かと思ったが、そうでもないのか。

 怯えたように見えて、その実自分のとれる最善の行動を選んでいただけだったのか。

 最初からそう言ってよ。

 私の中で男の評価を上方修正する。

 まぁ、でも……出口はないから離脱は無理だし、私は一人で魔障壁を破れるんだけどね。

 

「ぁ、出口はない……それに障壁は、私が破る」


「は?」


 惚ける男を置いて私は地下へ続く階段へと足を踏み出した。


「ま、まてよ」

 

 深淵の中心部に向かう私を見て慌ててついてくる足音が聞こえる。


「行くなら俺も連れて行け、囮くらいにはなるだろ」


 男の言葉に私は頷く。

 武具を失い戦う術がないのに、ここで一人で逃げず付いてくるあたり、彼も魔法騎士としての譲れぬ正義を持っているようだ。

 そのことに何だかホッとした。

 これ以上正義に失望したくはなかったから。



……………………………



…………………



……



 階段を下っていった先でたどり着いたのは薄暗いオフィスだった。

 地上と同じようにどこか色彩がおかしい。

 黒い壁に桃色の照明、オフィスに並ぶ数十台のパソコンの画面にはなぜか森が映されている。

 黒と桃色の色彩の中でその森の毒々しい緑は嫌に目についた。

 おまけに地下に降りてきたというのに窓の外には空が見える、無茶苦茶だ。

 人影は…………ない。

 無人のオフィスは不気味なほど静かだった。

 深獣も見当たらないけど、地上と違いなにかまとわりつくような視線を感じる。

 間違いない、この空間の主が近くにいる。

 私は男と目を合わせると捜索を開始した。

 広いオフィス、会議室、給湯室、パーテーションで区切られたデスク一つ一つを覗いていく。

 視線は感じる、でも姿が見えない。


「お、おい!」


 私があたりに目を走らせていると、背後で男が怯えたような声を発した。

 何事かと、男の向く方向を注視する。

 独特の駆動音、オフィスの入り口その先にあるエレベーター、それが動いている。

 私も男もエレベーターのボタンなんて押していない。

 嫌な感じがする。

 私たちはエレベーターの入り口から死角となるデスクに身を潜ませた。

 エレベーター上部の明かりが灯る。

 軽快な音とともにエレベーターの扉が開いた。

 

 …………?

 

 扉が開いたその先は見ることができなかった。

 扉の開いた先の空間は虹彩を放つ黒い膜で覆われ、エレベーター内が見えない。

 深獣はあの中だろうか?

 そう思い私が身を乗り出した時、黒い膜が波打った。

 息を呑み、身構える。


 来るか……?


 粘着質な音、黒い膜が歪み中から何かが出てくる。

 黒い粘液に塗れた、あれは…………手?

 それは力なくオフィスの床を掻き、黒い膜から脱出しようとしているように見えた。

 黒い膜がさらに歪み、苦悶に歪む女性の顔が浮かび上がる。

 

「ッ!!!」


 私よりも男の方が速かった。

 デスクから飛び出すと、もがく女性、自分の仲間が弱々しく伸ばす手を掴みに走る。

 男に続こうとした私はとんでもない悪寒に足を止める。

 罠だ、私の直感がそう告げていた。

 背後から、大きな気配がくる。

 私は身体を反転させると同時に金魚たちを背後の空間に向かって突進させる。


「ぅ!あ?…………あ、れ」


 私の放った金魚たちは何もない空間を泳ぎ、止まった。

 無人のオフィス、私の背後には誰もいない。

 おかしい、背後に気配を確かに感じたのに……今も感じるのに。

 後退りしながら背後を探る、どこだ?どこだ……!?


「……あ!」


 目が、合った。

 黒い目。

 デスクに置かれたパソコン。

 その画面に広がる森の中に獣が―


 バリンッッ!!


 次の瞬間、私の身体は宙を舞っていた。

 パソコンの画面を突き破って出現した長い腕が私の身体に強かに打ち付けられたのだ。

 デスクを、パソコンを、パーテーションをなぎ倒しながら私は吹っ飛び、冷たい床に無様に着地する。

 いっ……たぁ……

 衝撃に朦朧とする頭を振りながらなんとか顔を起こし現状を確認する。

 前方に猿型の深獣、深淵の外で対峙したやつより大きい。


「うぁああぁあああぁっ!」


 は?

 男の絶叫。

 エレベーターの中から長い腕が伸び男を掴み上げている。

 引きずられるように黒い膜へと引き摺り込まれていく。

 なんで?深獣は私の目の前にいるのに。

 もう一体いる……?

 衝撃音。

 エレベーターの方を注視していた私の目の前に深獣が着地する。


「ぁぅ、くそ!」


 上等だ!助けるのは後でいい。

 どのみちお前を倒せれば、この空間は消滅するんだろ。


「いけ!」


 金魚の群れを召喚して突撃させる。

 出し惜しみはしない。

 私は深淵内では魔力を無限に回復できるのだから、深獣が消滅するまで無尽蔵に召喚しまくってやる。

 どんな深獣だろうと障壁を破れば脅威じゃない、私一人でもやれる。

 そう私が勝利を半ば確信した次の瞬間。

 敵の拳が私のお腹にめり込んでいた。


「ぁぐぇえっ!!?」


 また私の身体が吹っ飛ばされる。

 今度は、デスクの上を舞い窓ガラスを突き破って外まで放り出された。

 浮遊感の後に地面に転がる。


「あ゛ぅう゛……な゛、なんで?」


 敵の挙動が読めなかった。

 いくら敵の腕が長くとも、あの位置から私の腹までは届かないはずなのに。

 それに私の目の前には金魚の群れ、それを突破してどうやって攻撃してきたのだろう。

 震える身体を叱咤し、お腹を押さえながら立ち上がる。

 追撃が来る前に態勢を整えないと……


「…………は?」


 顔を上げると目の前に敵の顔があった。

 猿の顔が獰猛に歪む。

 いつ、目の前に来た?音なんてしなかった。

 疑問が頭を駆け巡るが、そんな疑問を吟味するより早く私の身体は無意識に動いた。

 金魚たちを自分の身体にぶつけ、身体を吹っ飛ばすことで左の空間にとっさに回避する。

 深獣の拳が一瞬前に私のいた空間を殴りつける。

 デスクが吹っ飛びパソコンが粉々になる。

 私はバックステップをし、深獣からさらに距離をとった。


 …………うん?


 デスク?パソコン???

 ハッとしてあたりを見渡すと、そこはオフィスだった。

 私の背後の窓には大穴が開き、そこから冷たい風が入ってきている。

 おかしい。

 私はあの窓の大穴から外に放り出されたはずだ。

 いつ、戻ってきた?

 深獣を見る。

 無傷だ、魔障壁も傷ついた形跡がない。

 最初に放った金魚たちはどこいった?

 心を落ち着かせ、金魚たちの位置を探る。


「私の…………後ろ!?」


 はぁ!?訳が分かんない。

 最初に放った金魚たちは私の背後で目標を見失い、ふらふらと泳いでいた。

 窓から外に出たはずの私はオフィスに戻り、深獣に放ったはずの金魚たちは私の背後にいる。

 何かが、何かがおかしい。

 息を整え、敵に意識を集中する。

 攻撃は後回しだ、まずはこの謎をとかないと。

 深獣が腕を振りかぶる、でもその位置からでは届かない、はず。

 殺気。

 前方ではなく、背後から。

 私はとっさに地面に伏せた。

 頭上を黒い毛に覆われた太い腕が通過する。

 背後、から。

 深獣は前方にいる…………いや、深獣の腕がない!

 飛びのきながら背後に目を向けると何もない空間から腕が生えていた。


『深淵はあらゆるルールのねじ曲がった未知の空間』


 そういうことか。

 その意味が、この空間のルールが、だんだん分かってきた。


「いけ」


 大量の金魚たちを放つ。

 深獣ではなく、この空間全方位に向けて。

 私の周りの空間が金魚たちによって赤く染まっていく。

 でも、その赤い群れは深獣の前でまるで透明な壁があるかのようにぴったり遮られてしまう。

 前方に向かった金魚はいつの間にか私の背後にいた。

 そして背後に向かった金魚は、前方にいた。

 やっぱり、そうだ。

 前方の金魚が消える境界線と後方の窓の外の境界線とで繋がっている。

 深獣に攻撃を当てようとしても届かない、後ろに下がろうとしても前方に戻される。

 私はループする空間に閉じ込められているんだ。

 地上のビル群の空間と同じだ。

 そのさらに小さなループの中に私はいる。

 そして、深獣だけが空間を繋げてこちらに攻撃できる。

 それがこの深淵のルールだ。

 ズルイにも程がある。

 こちらは一方的に攻撃されるだけじゃないか。


 普通だったら。

 そう、普通だったらね。

 流石に今回は相手が悪い。

 右斜後方。

 そこに空間の穴が開いた。

 私には手にとるようにそれが分かった。

 ループする空間を用意するのはいいけど、流石に狭すぎだよ。

 この空間全てを金魚で埋め尽くしてしまえば、穴が開けばすぐに分かってしまう。

 水でパンパンになった風船に穴が開いたように、深獣が開けた空間から私の金魚の群れが深獣の方へ吹き出した。

 攻撃するなら、攻撃される可能性に注意しなきゃダメだよ。


「ゴギャアアァァッッ!!」


 深獣が慌てて空間の穴を閉じる。

 でももう遅い、何十匹もの金魚はそちらの空間に出れた。

 これだけの数なら、戦える。


「勝負はこれからだよ!」


 そう言って私は胸を張る。

 まぁ、金魚にまみれて姿は見えないだろうけど。

 よし、後は金魚を操って……


「ううん、もう終わり。アコ、そこ」


「え?」


 知らない声。

 その声と共に深獣の身体に謎の円が張り付く。

 あれは…………的?


「フレア!」


 凛とした声と共にあたりが光に包まれる。

 眩しい光の光線は獣に張り付いた的の中心を過たず穿ち、深い獣の胴体に大穴を開けた。

 一瞬だった。

 魔障壁などものとしない一撃必殺。

 深獣は魔障壁を破り攻撃する、そんな常識が私の目の前で破られた。

 深獣がその身体を揺らめかせ、霧散する。


「…………あ」


 惚ける私の前に一人の魔法少女が飛び込んでくる。


「カメリアちゃん!!!大丈夫!?怪我してない!?」


 う……この熱苦しさ、リリィだ。

 リリィは私を金魚の群れから引きずり出すと私の身体をさすった。

 心配してくれるのは嬉しいけど、くすぐったいよ。

 少し離れた場所にハイドランシアの姿も見える。

 私を、助けに来てくれたんだ。

 そして…………ハイドランシアの背後に知らない人影が二つ。

 いや、知っている。

 知っている顔だ。

 その顔はひどく見覚えがあった。


「む、君大丈夫かね?」


 そう心配そうにこちらを見る小柄な少女。

 紫色のチャイナドレスに身を包んだ知的そうな顔。

 知っている、テレビでよく見る顔。

 魔法少女バイオレットクレス、かつて10歳にして大学レベルの学問を修め、深獣に関する数々の論文で学会を揺るがした魔法少女。

 昔、私の自信を粉砕した少女だ。

 そして、そして……その相棒といえば…………

 私は震える身体を抱きしめながら、彼女を見た。


「あら、久しぶりね」


 彼女はそう言ってなんでもないように微笑んだ。

 いつものように優雅に、気品に溢れた顔で。


「どうしたの?そんな怖い顔して……もしかして彼のことまだ怒っているの?日向」


 魔法少女ピュアアコナイト。

 魔法少女の中でも最強と名高い少女が、私の前に立っていた。





―――――――――――――――――――――





大紫羅欄花 Chinese violet cress

大紫羅欄花の花言葉は聡明、優秀、知恵の泉。

大紫羅欄花は三国志に登場する諸葛孔明が広めたとされる花。

そのため花言葉は知的な彼にちなんだものが多い。


ちなみに英名のChinese violet cressですがChineseをとってviolet cressにしてしまうと別の花になってしまいます。

でも、魔法少女名に国名入るのはなんか違うし……ということでChineseはとっています。

魔法少女衣装をチャイナドレスにしたから許して!!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る