第3話 ひとりの海

 ふっと水面から顔を出すように意識が覚醒する。


 ――寒い。

 

 目の前には海が広がっている。

 またしても胸くらいまで海に浸かっていた。濃密な潮の香り。厚い雲の立ち込める灰色の空。雨は辛うじて降っていないけれど、この空では海の色と混ざることはない。


 海の青と空の青が混ざっているのを見るのがヨウは好きだった。でも、今はそれとは程遠かった。


 どんよりとした空に、気分まで曇りそうだった。そうではなくても何だか気分が落ちているというのに。でも、気分が落ちているという原因は解らなかった。


 どうして自分はここにいるんだろう。

 またしても記憶を失っている。


 でも、今回は何もわからなかった。どこを探しても妹のアオはいない。

 広い海に独り佇む。

 前のように、砂浜まで引っ張ってくれるアオはいないのだ。まあそれが普通だ。海にまで探してきてくれる妹なんて、普通はいない。


 海にいると人間とはなんてちっぽけな生き物なんだろうと思う。このまま波に呑まれてしまいそうだった。

 その方が幸せなのかもしれない。


 ふと自分の手を見遣る。何やら油性ペンか何かで字が書かれていた。


 もう半分ほど消えかかっていたけれど、辛うじて読むことができる。自分が書いたのか、誰かに書かれたのかもわからない。でも、消えかけの字を読むことができたのだから自分が書いたのかもしれない。肝心の書いた記憶がないのだけれど。


 ――プレゼントを喜べ。


 プレゼント? 全く記憶になかった。最近プレゼントなんて貰った記憶もなければ、喜んだ記憶もない。


 贈り物は贈る側の自己満足という考えもあるが、それにしても随分と傲慢な言葉だ。プレゼントされた事実に喜ぶのであって、その物自体は関係ないことが多いのだ。


 思い当たる節がない代わりに、溢れるほどの喪失感に襲われる。


 波が手の字を攫ってゆく。もうきれいさっぱり読めなくなってしまった。何でも憶えられる頭脳を持っているからいいけれど。だからこそ、この記憶喪失は異常だ。


 そう、自分は記憶を失っている。何か大事な記憶を。

 記憶は大事である。欠けてはならない。

 だから、その記憶を探さなければならない。



 寒さで手が震える。記憶云々より、今は一刻も早く海から上がらなければならない。人間は海で生きてゆける生き物ではないのだから。記憶を探す前に海で溺死なんて笑えない。

 

 海を歩くというのは存外大変なことである。胸まで浸かっているのだから、歩くの一つにも難儀する。

 ああ、アオが恋しい。

 

 一歩一歩砂を踏みしめるようにして歩く。波が砂浜の方に押してくれたり、また海の方へ引き戻したり。段々とそのリズムに楽しくなってくる。


 でも、今ここにアオがいない。それが一番哀しかった。以前、アオがヨウの手を引いてくれたという記憶がヨウを哀しくする。そんな記憶がなければ哀しくなんてならなかったのに。


 記憶というものは時に残酷だ。記憶が心を温めてくれることもあれば、心を冷え冷えとさせることもある。今は後者だった。


 でも、アオがいるから前に歩けるのかもしれない。可愛い妹のために帰らなければならない。なんだか母親みたいだな。

 

 砂浜に上がる。水を吸った服が重い。バスタオルもなかった。



 ――さて、家に帰らないと。

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