Final Lesson. 葛藤は走るのが遅い。
見上げても、赤いリボンの色あせたハローキティのカーテンはすでになかった。カーポートにならぶ自転車のなかには彼女のものだけがなく、いまさらの喪失感に背筋がぞおっとしびれた僕は、いつもどおり鍵のかかっていない玄関を開け、いつものようにではなく急な階段をつんのめるように駆け上がった。
野間は、はだかだった。膝をかかえて、うなだれていて、床には黒みのつよい髪の毛と立派な鋏が落ちていた。ポニーテールをばっさり切ったのだと分かった。脇には見覚えのない巨大なスーツケースが起立しており、磨り硝子から漏れるきんいろの月光にプラスチック樹脂の体を光らせていた。ほかのものは一切なく、少しずつ女子らしさをすり減らしていた彼女の部屋が、かくありさまに至るのは当然の帰結だったのかもしれない。
「……試験、どうだった?」
こんなときなのに心配されたのがこれまでになく嫌だった。
「お前、ふざけんなよ」
肩で息をつきながら、かわいて貼り付いた唇がぷるぷる振動する。
「無理数の証明は互いを素とするpとqの分数を使った背理法でできるって言ってたじゃんよ。解けねえじゃんよ。矛盾しねえんだよ」
怒る資格なんかないのに、の、資格、に代わる言葉をようやく見つける。
「無理なんてねえんだよっ!」
それをもらったとき、すごく大切なことを言われたのだった。
「うざいんだよ、君は。なんでどこにいても君がいるの? 高橋に告っても『新立に悪いから』って手すら握ってもらえないし。甘井っちは『こうしたら新立さん喜ぶよ』みたいに弄ってくるし。福井は福井で言うまでもないし。そのうえ新幹線の駅にいったらJKがいてさ。謝られるかと思ったら、ほお張られたうえに切符破られるし。『東京に逃げるな』って。『彼を振ったことを後悔させてみせなさい』だって。みんな私のまえで君の話しかしないの、うざいんだよ」
ぶわっと泡立つように野間の乳房に鳥肌がたった。
「息がしづらいんだよ。胸がくるしいんだよ。君といると。自分が自分じゃなくなったみたいで、切り離したいのに、切り離せば切り離すほど、なんで私のなかに君がいるの?」
野間はたよりない声を絞り出して僕にひんやりの唇をあずける。歯と歯が当たった。けど、野間のほうが痛い。舌先を不器用にのばして大胆にふれる野間の八重歯は、野間のあじがした。それは想像してたのより酸っぱくて、僕は想像していたのだと知る。オナニーのときも、そうじゃないときも。
「新立、はずかしい」
それ、僕に言わせろよ。野間の髪の毛だけがちらばる六畳を広くつかい、僕は身体をゆすった。どんくさいスピードで、秒速5インチメンタルで。なつかしいそらを、しろがねの自衛隊機がたくさん飛んでいくけれど、彼女は破れたらトラウマになるぐらいうすい一枚のゴムによって自尊心を守っている。やさしい大人になりたい、と頭でいくら考えても、下半身は気持ちよく、おもいだすことに似てる。
甘井ちゃんはティーチャーとエンコーをしてた。高橋くんはかっこよくて、ショートホープとバイクが好きで、高校を中退した。福井さんはAVが好きで、留年してて、給食が食べられない。JKは町を出ていく。野間は僕を好きだった。新立(しんだて)はこの町ではよくある名前。たとえば、またバスケがしたかった。甘井ちゃんがスリーポイントシュートを打つ、がん、とリング上に跳ねたボールを高橋くんが取りにいく、パスを戻し、野間がフェイントをひとつ入れ、だまされた福井さんをかいくぐって、ドリブルで切り込む、わあ、と歓声がきこえ、振り返ると、JKとティーチャーがならんで拍手をしていて、僕は速攻の先頭を走る。ぜんぜん遅い葛藤を置き去りにして。
秒速5インチメンタル にゃんしー @isquaredc
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