Lesson25. 僕は野間が好きなんです。

 二次試験は数学のみで、配点は400点。田舎の大学ではあるが、数学界のノーベル賞といわれるものを取った学長がいて、理学部は難問・奇問が多く、八問中一問にQ.E.D.が書ければ及第点だ。ただ僕はセンター試験のビハインドが100点近くあるので、もうふたつ完答するか、のこりをできるだけ半答で埋めないときびしい。

 本来避けたほうがいいとされる整数問題だが、運良く勘が当たり、間違いないと思える回答が書けた。まず一問。積分問題には苦労したけれど、たいていこの種の問題は時間をかければほぼ公式で解けるので、ようなく解を捻りだした。これで二問。

 あとひとつ、とふっと息を抜いたところで、いきなり福井さんのことを思い出した。彼は教えてくれた。それは射精の速度なんだと。なぜかそれを確かめたくなった。それは、福井さんが数学が苦手だったからとか、そういうことじゃなくて。

 秒速5インチ、と回答用紙のはじっこに書く。1インチはおおよそ2.5センチのはずだから、つまり秒速5インチはだいたい秒速12センチ。60を掛ければ分速になって、これが720センチ。いったんメートルになおす。つまり、だいたい分速7メートルだ。さらに60を掛ければ時速にして420メートル。分かりやすくキロメートルに直せば、わずか時速0.4キロメートルだ。

 あの馬鹿、射精の速度より、ぜんぜん遅いじゃねーか!

「すいません」

 あと三十分しかないのに、もう一問解かないといけないのに、僕は手をあげて、そう申し出ていた。思ったより大きな声が出てしまい、受験生の何人かが視線を集めるのを感じた。

「どうしました?」

 試験監督のなかでいちばん年を取った小太りの先生が歩み寄ってきて、濃紺のネクタイをゆらしながら屈み、耳元でたずねた。

「あの。数学は野間が教えてくれたんです。その数学を使って大学に行くのは違うっていうか。だってそこに野間はいないし。野間が僕を厄介払いしたいみたいで、嫌なんです」

 なにを言ってるんだ僕は。試験監督の先生が立ち上がってたっぷりの腰回りに両手を添え、白髪交じりのふとい眉をひそめながら僕を睨んだ。教室のなかがにわかに騒めきだした。どこからか「野間って誰?」という声がした。

「えーつまりその、野間が東京に行くのは、すごい嫌なんです。甘井ちゃんがエンコーしてると知ったときの嫌な気持ちを1より大きい自然数nとしたら、nの100倍、いや、100乗ぐらい嫌です」

 教室の騒めきが大きくなる。わかい女の先生が「静かに!」ときんきんの声を迸らせた。僕に蔑みの目線を与える小太り先生がなにかを決めたように「うん」と重々しく唸り、入試の門番らしい威厳のある声で迫ってきた。

「試験続けるの? 出ていくの? どっち?」

 選べるわけがない。だって、僕は野間がいなければ存在しないし、野間は僕がいなければ存在しない。だから、僕の答えは。

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