Lesson20. 秒速5インチは何の速度でしょう?

 僕は福井さんの家が好きだった。雇用促進の三階にある2DKで、乳毛みたいに草花がのびきったプランターだらけのベランダを通ればとなりの家と行き来できたから、広いといえば広い。しかし、子どもが十数人いた(正確な数は覚えてない。増えたり減ったりしてた気もする)ので、居場所にはだいぶ困る。福井さんの部屋はとうぜんなかったが、きょうだいのなかでは確か三番目に年上だったはずで、押入の下の段が彼個人のスペースとして当てがわれていた。そのスペースもなかなかに好きだった。福井さんがやたら薄いカルピスをやたらでかいビールジョッキに入れてくれて、それを携えて押入のしたに潜りこむわけだ。そこは黴臭い敷布団一枚の万年床で、ほこりだらけのデスクライトとブラウン管のちいさなテレビデオがあり、壁際は色あざやかなAVで埋まった、福井さんの王国だった。

 布団のうえに腰をおろし、カルピスの入ったジョッキをふすまの傍にわずかある床に置いた。木の床が重さでたわみ、ぎし、と音がゆれる。外からはちいさな子のさわぐ声と、石油ストーブのうえでやかんの鳴くしゅんしゅんという音がする。押入のなかもあったかい、というか、熱いぐらいで、次第に汗ばんできた。福井さんの汗のすっぱい匂いだとか、男子にだけ分かるあの匂いも満ちていた。

「おー、あった、あった」

 福井さんがビデオを出してきた。じいいと唸るデスクライトのよわい明滅に綿ほこりが踊るなかそのパッケージが浮かびあがるが、どうみてもAVである。

「……これ、やっぱり違うくない?」

 ずいぶん間抜けな反応だと思ったが、とにかくそう尋ねた。というかどう考えても、福井さんがAV以外の映画を持ってるはずがないのだ。分かっていながらのこのこやってきた僕はやはりとんだ間抜けでしかなかった。

 ビデオのパッケージには「秒速5インチメンタル」と書いてある。映画のタイトルと似てはいる。AVにはそういう、実在の映画をもじってタイトルを付けることがあって、「パイパニック」や「前戯なき戦い」なんかは有名だが、これもきっとそうなんだろう。映画を受けて急造されたのか、新しそうではあった。

「ん? ちがう?」

「ちがうよ」

「こんなタイトルじゃなかった?」

「似てるけど、たぶんぜんぜん違う」

 苛立たしげに反発するが、福井さんはとにかく要領を得ない。結局、そのビデオを一緒に観てたしかめることになった。

 AV特有の安っぽいロゴがすぐ画面に現れた。画質はだいぶ悪い、というか緑がかっており、AVというよりはひと昔前のエイリアン映画を観ているような気分になる。こんなので抜ける福井さんはすごいな、と率直に彼の想像力に舌を巻く。だいぶ粗悪なAVで、脱ぐまで長時間がかかったくせ実際の行為は数分しかなく、女優も美人じゃないし、年増だし、甲高い喘ぎ声があざとく、福井さんとイヤホンではんぶんこした左耳に痛かった。

「……つーか、やっぱAVじゃん」

 画面が砂嵐に変わったのち、ぐずっと絡まったイヤホンを外し、溜息とともに感想を述べた。言っておきながらしっかり勃起していて、情けなかった。

「一本抜いとく?」

 福井さんがボックスティッシュを手渡してきたので、叩き落した。思ったより力が入っていたので、もとからベコベコだったティッシュ箱はいっそうひしゃげた。

「なんか、わかったわ。この秒速5インチメンタルて。つまり、そういうことじゃん」

 福井さんは共産系の市会議員がやってる薬屋のへんな鯨のロゴが印刷されたティッシュ箱を拾うと、テレビのわきに戻し、剃り跡がゆがんだ毬栗頭のうしろに両手を添えて、寝転びながら言った。

「いや、5インチメンタルじゃなくて5センチメートルだっていってんじゃん」

 僕が声を荒げると、福井さんは胸を張って言った。

「5インチは、12.7センチなんだよ」

 それは知らなかった。が、だからなんだというんだろう。

「で、秒速12.7センチっていうのは、時速でいえば、45キロぐらいなんだよ。新立、これ、なんの速度か分かる?」

 考えたが、わからなかった。というか、福井さんは数学も苦手だっただろうに、こんなにすぐ暗算できることにじーんときた。福井さんはたしか地元の建設系の会社に就職が決まっていたはずで、ときどきお手伝いだとかバイトだとかで出社していることもあるらしく、だいぶ大変そうではあったが、今まで見たことがないぐらい真剣に勉強していた。インチだとかセンチだとかの計算もそこで覚えたことなのだろう。僕は福井さんに勉強を教えることはしょっちゅうあったが、教えられるのは初めてで、そのことがうれしかった。

「その時速45キロっていうのはな、射精の速度なんだよ」

 福井さんが続けて声をひそめて言った、無駄に得意げな言葉は、けどいつもの福井さんらしい、全然ためにならない言葉で、僕は爆笑した。涙が出るぐらい笑った。足をばたばたさせたらカルピスを蹴飛ばしてしまい、床のアレみたいな木目にひろがる白濁液がいかにもで、福井さんと丸めたティッシュで拭きながら手を叩いて笑った。そしたらふすまが開けられて、いちばん上の朝青龍みたいな姉にふたりまとめて投げとばされた。そのあとは、十数人の家族みんなでせまい食卓を囲んだ。福井さんが特製ラーメンを作ってくれた。もやしとぶった切りの豚肉が山盛りで、うどんみたいな太麺がわずかだけ入っていて、たっぷりの唐辛子で味付けされたまずいラーメンにむしゃぶりついた。「しょうゆ取って」「脂身あげる」「ネギないの?」「かった」「ふうふうしてー」「パンツはけよ」とかみんな文句たらたらで、でもさいごはみんなわらった。スープ一滴のこさず食べきった。ぼろぼろの土壁に背中をあずけ、お腹をさすりながら窓のむこうを眺めた。養生テープがばってんで貼られた隙間から真っ赤な夕日が見えた。いつもそこを自衛隊機が飛んでいくのだ。次の日、尻の穴が腫れるぐらいのひどい水下痢に苦しんだ。

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