Lesson19. 福井さんは「斜陽」が似合わない。

 三が日を過ぎたころ、学校でセンターの直前模試があった。上履きごしに足の指先が凍りそうなぐらいひんやりした廊下で、しめった息を切らしながら祈るように模試の結果を開くと、ふたつ折りの紙に機械の印字が並んでおり、Aという文字がおおきく目立つ。志望校はいつつ書くことができて、それぞれに判定が出るのだが、京都の私立と地元の国公立だけを書いた。どっちも合格確率80%以上といわれるA判定だった。ちいさくガッツポーズを作る。

 帰りみち、本屋に寄った。センターまであと二週間、もう学校にいく必要はなく、家に籠っての追い込みとなる。ちょうどいい参考書とか問題集がないかチェックしたかったし、模試の結果がすごく良かったから、ごほうびとして気分転換もしたかった。

 けっきょく、参考書は数冊開いただけで、なにも買わず、漫画コーナーに向かおうとした。通りがかりに文庫本コーナーがあって、野間と一緒に観に行く予定の映画を思い出した。たしかあの映画は、小説にもなっていたんじゃなかったか。あれ、むしろ小説が原作だったっけ? 予習しておけば野間も喜ぶかもしれないな、ぐらいの軽い気持ちで文庫本コーナーに寄った。大学だとか進学だとか野間はナーバスになってる気がするし、模試の結果は話せないけど、映画のことならうれしそうに語ってくれると思う。野間と家のまえで待ち合わせして、ふたりで自転車で映画館に向かい、たぶん映画館はガラ空きだからホールは二人占めで、野間にコーラとポップコーンのいちばんでかいやつを買ってあげて、真っ暗ななか野間の息遣いだけが聞こえて、やがて映画がはじまり、けど僕は居眠りしたりして、あとで野間に怒られて、ミスタードーナツでオールドファッションなんかを摘まみつつ、ほとんど説教みたいに野間にストーリーを聴かされるわけだ。野間とはひさしぶりに映画を観にいく。けっこう、いや、かなり、楽しみだった。それとも、野間は泣いたりするだろうか。そのときの心構えをしておきたかっただけかもしれない。どんな映画なのか事前に知っておきたくて、うろ覚えのタイトルを思い出しながら、文庫本の表紙を追った。

 小説はJKが薦めてくれた名作をたまに読むぐらいでそれも古本ばかり買ってたから、行儀よく整頓された本の回廊をどう探したらいいものか迷っていると、見覚えのある猫背を見つけた。福井さんがむずかしそうな顔で文庫本を開いていた。福井さんもたいがい小説は読まないイメージがあったので、珍しいな、と思い、なんか声をかけにくいオーラを放っていたが、模試の結果で気が大きくなっていた僕は、福井さんの背中を軽くたたき、本の表紙を覗き込んだ。

「福井さん、なに読んでんの?」

 福井さんが開いてるのは太宰治だった。

「おお、新立か」

 福井さんは表情をいっそうむくれさせて、ちいさな文字をじっと睨んだまま焦れったく返事をした。太宰治なんか読めるんだろうか。福井さんの現代文の成績もだいぶひどいもので、欠点を取ってJKに怒られていたこともあるはずだが。

「ダザイ?」

 尋ねると、福井さんは埋もれるぐらい本に顔を近づけて、はあ、とやっと息ができたような深呼吸をした。

「ぜんぜん読めねー」

 よっぽど苦しかったのか、毛穴が黒ずんだ団子鼻の頭に汗が浮いていた。

 就職先の課題図書として太宰治を薦められた、というか、感想文を書けと言われたらしかった。やっぱり福井さんは本を読んだことがほとんどないらしく、JKに感想文の代筆を頼んだが断られ、「これが読みやすいから」と紹介されたのが「斜陽」らしい。まあ、薄くて、たしかに分量は少なそうだが、よくも福井さんに「斜陽」なんか薦めたものだ。福井さんほど「斜陽」が似合わない男もいないだろうに。

 そんなことより、福井さんがJKに会っていたことにびっくりした。JKはぜんぜん学校に来てなくて、会おうと思っても手がかりがまったくなかったのである。

 うまいこと福井さんを引っかけて、誘導尋問でくわしく聞き出すことにした。福井さんはちょろいので、簡単にぜんぶを教えてくれた。

 十二月の頭ぐらい、つまりあの給食の直後ぐらいから、JKは産休に入ったらしい。おなかはぜんぜん目立っていなかったので、にわかには信じがたかったが、福井さんが嘘をつくはずもない。言えた義理ではまったくないけど、裏切られたような思いだった。よくよく考えれば、僕はありふれた生徒のひとりでしかないのに。学年に数百人いて、学校全体でいえばもっといて、しかも毎年変わる。なのに、僕だけ特別なのかもしれないと勘違いさせてしまうことこそ、いい先生の証なのかもしれない。けど、僕はJKに「いい先生」でいてほしかったわけじゃないし、僕は「いい生徒」でいたかったわけじゃない。JKを困らせたかった。福井さんより、誰よりも。JKが学校に来なくなったあとですら、福井さんは個人的に相談をしていたらしく、その話をすごく冷めた気持ちで聴いた。すげえズルいと思って、でもそう思うのはいかにも子どもだから、表情にも態度にも表さないようにした。どうしたら大人になれるんだろう。JKに会いたい。

「新立はなんの本を探してんの? 一緒に探してやろうか?」

 福井さんは言った。福井さんらしい的を外した気づかいはありがたかったが、彼にくらべれば僕のほうがまだ読書をするぐらいで、言ってもわからないだろうと思いつつ、いちおうタイトルと、野間と一緒に映画を観に行く件を教えた。だいじな試験の一週間前に映画を観るなんてなに考えてんだ、とか、彼女がいるのに別の女と遊んでんじゃねえよ、とか、ひとによってはまともなことを言いそうだけれど、「あ、その映画ならうちにあるよ」とあかるい表情ですぐに返事があり、虚を突かれる。

 その映画の封切りはたしか昨年の春だったはずで、たいていの流行りと同様、半年以上経ってやっとうちの町にも回ってきた。すでにレンタルとか販売で入手できるのかもしれないし、金ローでやってるのを録画したりもできるのかもしれない。でも福井さんが持ってるのはおかしいだろう。そんなことを伝えたが、福井さんは「持ってる」「観た」の一点ばりで応じない。言い争いも没交渉のまま、僕は福井さんの家に行き、一緒に映画を観ることになった。

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