Lesson18. 野間はわがままを言わない。

 例年どおり、野間の部屋で紅白歌合戦をカップそばに向かう気もそぞろに最後まで見てから、初詣に出かけた。「甘井っちも誘う?」と野間が訊いてくれたけれど、断った。高橋くんとか、福井さんを呼ぶつもりもなかった。年のはじめは野間と過ごしたかったし、もしかすると、これがさいごになるかもしれないという予感もあった。野間の志望校は、母親経由で仕入れた情報によれば、まだ決めかねているそうで、なかには関西の大学もあったが、基本的には東京に行くつもりらしい。いったい何しに行くのかな。とにかく、大学進学を前後して野間と離れる可能性が高い、というのは僕にとってはぜんぜん現実感がなくて、その感覚を確かめようとするみたいに、できるだけいまは野間と一緒にいたかった。野間はといえば、僕と離れるさみしさのようなものはまったく窺わせず、まあでもそんなもんなのかな、とも思う。そんなふうに、ひとはひとと別れるものなのかもしれない。受け入れようとする自分のことを、大人になったのかな、と感じ入ったりもした。

 そんなふうなので、最後の初詣かもしれないとはいっても、例年どおりの流れだった。夜中に野間とならんで自転車を走らせ、ながい坂を立ち漕ぎで上り、競輪場のわきに自転車を止めて、しょうゆの焦げる匂いがただよう赤提灯の隙間を足早に抜けた。人でごった返している境内に入り、おしくらまんじゅうみたいに身体を押し込んで賽銭箱のまえまで歩き、五円玉をたかく投げ込んで、手を合わせた。なんの迷いもなく「京都の大学に受かりますように」と願って目を開けた。すると、野間はまだ手を合わせたまま、目元をぎゅっと瞑っていた。もとより細いきつねのような目がたよりない線を描き、ますますいたいけに見える。いくらなんでも真剣すぎるだろう。

「もう行くぞ」

 ふたたび野間の手を掴み、境内から離れた。

「ちょっとー、願いごと叶わなくなるでしょ」

 野間は不満を漏らす。八重歯のすきまから乳白色の靄がむわっと空に立ち上った。

「お前、学問の神さまって分かってる? 余計なこと祈るなよ?」

 冗談めかして言うと、野間のつぶやきがうしろから聞こえた。

「新立は余計なこと祈らなかったんだ」

 周りからは、屋台の電動機の規則正しいエンジン音や、テキ屋の呼び込みをする威勢のいい声がする。忙しなくて、振り返らないまま、野間の昔よりやわらかい手をただ引いた。余計なこと、という、野間の言葉が頭に残った。野間は、余計なことを祈ったのだろうか。僕は、余計なことを祈らないといけなかったんじゃないか。すくなくとも、野間が学問の神さまに、学問以外のことを祈ったことは分かった。じゃあ、それってなんだろう。野間は、志望校のことを僕にはまったく話そうとしなかった。母親経由で得た情報も、どこまでほんとうか分からない。それは、野間の将来を知らないこととも等しかった。誰よりも野間のことを知っている、という自負がある。じゃあ、これからは? 野間が描いている将来に、僕はいるのだろうか。当たり前にいるものだと思っていた。

 野間の家に帰り、交互に新年の初風呂を浴び、リビングであつあつのぜんざいを食べて小腹を満たしてから、野間の部屋に戻った。ベッドのしたには電気毛布の毛羽立ったコードが飛び出す布団がていねいにしわを伸ばして整えられている。いつもこうして、初詣のあとは野間の部屋でひとねむりするわけだ。ぜんぜん特別なことじゃない。昔からずっとそうだったし、親だって、僕らだって、余計なことが起こるなんてまったく思ってない。その「余計なこと」というのは、初詣で野間が口にしたそれとおなじものなのだろうか。

 ふいに余計なことを言いたくなった。野間の机のうえには、数学の参考書が置いてあった。難易度別にいくつかあり、表紙の赤いそれは旧帝大クラスの受験生が使うもっとも難しいものである。

「まだ数学なんか勉強してんの? 野間、もっと文系科目勉強したほうがよくない?」

 僕は野間の椅子に座り、参考書を開いた。びっしりとシャーペンのメモ書きとかカラフルな蛍光ラインで埋まっている。野間は数学が得意で、校内テストで一位を取ったことも何度かあった。いっぽう、英語や古文は大の苦手で、そっちを強化するようJKにも指導されていたはずが、あいかわらずぜんぜん従う気配がない。へんなところで頑固なやつなのだ。

「もう無理。大学なんか行かないし」

 野間はたぶん頭をかきながらそう答えた。もしかすると、僕に将来の話をするのは初めてで、ずっとそう決めていたのだろう。野間は、きっぱりと言い切った。

 振り返れば、丸椅子がぎし、と鳴った。野間は床に敷かれた布団にうつぶせで寝転がり、おろしたてのパジャマ姿で、ポニーテールをほどいた髪を濡らしたまま、ふるい少年漫画を読んでいた。野間はいつも僕に用意されているほうの布団で眠り、ベッドを僕に預けてくれる。野間のベッドはなつかしい匂いがして、ふだんよりよく眠れて、毎年の元旦、そこで寝るのが楽しみだった。昔はときどき、野間とおなじ布団で寝ることもあった。いまも野間のベッドに横たわれば、あのころにタイムスリップできる。あのころ、野間とおなじ布団のなかでつまらない冗談をわらいながら寄り添うように眠りに落ちたときの安心感が帰ってきて、ながい夢を見ているような感覚に浸ることができる。あるいは、野間と過ごした時間自体が、さめない夢のようだった。いつの、いつかの。

 はらり、と数学の参考書から飛びたった紙がかろやかに宙を舞い、野間の手元に落ちた。 野間はそれを拾い上げると、無造作に僕に手渡してきた。

「ちょっと。どこまでやったのか分かんなくなるでしょ。戻しといて」

 ほそながい紙だった。落ちたものと、参考書に残ったものと、二枚あって、それが離れたこととか、そんなしょうもない、どうしようもないことが悲しかった。紙には日付と、英数字と、値段と、タイトルと、「高校生」という文字が解像度の粗い黒で印字されている。二枚の内容はほぼおなじだが、数字は下一桁がちょうど1ちがう。映画のチケットだと分かった。町には映画館がひとつだけあって、駅前の雑居ビルのなかにあるそこは、とにかく狭くて汚い。ホールはふたつだけあり、アニメをやってる隣で任侠映画をやっていたりして、煙草くさい待合室は混沌としていた。昔はよく野間とドラえもんなんかを見に行ったっけ。「雲の王国」の、ドラえもんでいちばんかなしいあの場面で野間が号泣し、抱きしめたときの不確かさとか、震えなんかをいまも覚えてる気がする。あのとき震えてたのは、野間だったのか、僕だったのか、どちらでもない、僕らのあわいにある重なりようもない何かだったのか。

「野間、映画なんかいくの?」

 わかりたかったんだと思う。なんの映画を観にいくのとか、だれと観にいくのとか、どんな映画なのかとか、野間の趣味や人間関係なんかを、僕はあまりちゃんとわかろうとしていなくて、それがふいに怖くなった。どうしようもないことだらけの、高校三年生の冬、どうにもならないことを知っていて、どうにかしようとする、したいいちばんは、野間との関係、というよりも、野間といままでどおりでいられれば、すべてはいままでどおりでいられるように思った。たとえば、またバスケがしたかった。甘井ちゃんがスリーポイントシュートを打つ、がん、とリング上に跳ねたボールを高橋くんが取りにいく、パスを戻し、野間がフェイントをひとつ入れ、だまされた福井さんをかいくぐって、ドリブルで切り込む、わあ、と歓声がきこえ、振り返ると、JKとティーチャーがならんで拍手をしていて……。

「甘井っちを誘っていこうと思ってたんだけどさ、センターの一週間前なんだよね。それ。ほら、あの子の大学、センターの配点がほとんどじゃん。二次はおまけみたいなもので、センターが本番だから。ちょっと誘えないかなあって。まあ、訊いてもないんだけど」

 野間は漫画をめくりながら、どうでもよさそうに言い、ふっとわらった。開いていたのは、ギャグ漫画じゃなかったはずだ。

「一緒に行く?」

 気づいたら、僕はそんなことを口にしていた。野間がようやく顔をあげて、すごく間抜けな表情だったが、僕はもっとひどかったかもしれない。

「いいの?」

 野間は言った。センター一週間前なのになに考えてんの、とか怒られるかと思った、というより、怒ってくれるのが野間だった。高校入試のときも、緊張感に耐えられず野間の部屋でポケモン赤のチャンピオンロードをあそんでたら、野間が激怒してゲームボーイが窓のむこうに投げ捨てられたことを思い出す。地面に単三マンガン乾電池を四本飛び出させた手垢まみれの樹脂筐体。あのとき、野間は泣いていたと思う。バカだ。そんなふうに、バカなぐらい僕のことを考えてくれるのが野間だったはずが、いまは違った。彼女のはじめてかもしれないわがままを、僕はかわいいと思った。

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