Lesson16. 高橋くんの彼女が教えてくれたこと。

 高橋くんの彼女には、一回だけ会ったことがあった。夏休みのはじめだったか、バスケができず暇だと野間が暑苦しく絡んできたので、甘井ちゃんと福井さんと高橋くんを誘い、国分寺跡のなにもない広場でストリートバスケをしたのだ。学校外であそぶのはゴールがなくてもたのしくて、はしゃいでるうち夏のながい日もとっぷりと暮れ、空気の抜けたぶよぶよのボールはいつの間にか発泡酒の空き缶にすり替わっていた。宴もたけなわというころ、酔い覚ましにオレンジジュース飲みたいと酒によわい福井さんがおぼつかない声で訴え、紙パックの一〇〇%のやつじゃないとダメだとめんどくさい主張をしたので、近所のコンビニに向かい歩き出すと、高橋くんの足が止まっていた。みんなで振り返ると、ナトリウム灯の目映いひかりに照らされる高橋くんの頬がほんのり赤く見えたのは、公園の水道水でうすめた乙類焼酎のせいではなかったと思う。

「……そこのコンビニ、俺の彼女がいまシフトに入ってるけど、大丈夫?」

 高橋くんが彼女の話をするのは珍しかった。仕方なく切り出した、といったふうのおずおずとした口調だった。

 それがうれしかったんだろう。いちばんに食いついたのは野間だった。彼女のハイテンションをいさめるのが甘井ちゃんのふだんの役割なのだが、この日ばかりは甘井ちゃんも野間以上に興奮して高橋くんにいろんな質問をまくしたてた。福井さんはひたすら奇声をあげた。高橋くんには彼女がいるらしい、ということはみんなうっすらと知ってはいたのだが、高橋くんの口から聞いたことはなかったので、それがうれしかった。僕だってそうだ。高橋くんとあんなによく遊んだくせ、ぜんぜん彼女の話をしてくれない高橋くんがもどかしくて、その裏返しで、すごくうれしかった。

 みんなで高橋くんの彼女に会いに行こう、と、ごく自然な流れでそうなった。いやがる高橋くんの両腕を野間と甘井ちゃんが引っ張り、福井さんが背中を押し、僕が先導する形で行進した。高橋くんはせいいっぱいの抵抗をするように足を引きずってとぼとぼ歩きながら、空をみあげて「オーマイゴッド」と嘆いたのをよく覚えてる。満天の夜空だったか、とか、満月が出ていたか、とかは、覚えてない。けど、すごくいい夜だったと思う。

 深夜のコンビニは人が少なかった。ほかの店員はちょうどバックヤードに入っていたのか、おおきなガラス窓に貼られた冷麺なんかのポスターの隙間から代わりばんこに覗き込めば、高橋くんの彼女はすぐに見つかった。

「けっこうかわいいじゃん」

 野間がそう感想を述べた。野間はどの女子を見てもだいたい「かわいい」というので信用できない。ただ本当にかわいいときは投げやりに「かわいいじゃん」と言うから、きっと無意識に付け加えた「けっこう」のあたりに野間が持ったらしい印象が正直に現われていた。

「いや、あんまりかわいくないやろ」

 福井さんがすぐに打ち消して、僕もさすがに頷きはしなかったけれど、こっそり福井さんに同意した。

「うるせえ、福井。お前はもう帰れ」

 高橋くんがそう言って、たぶん強めに福井さんの膝裏を蹴りつけた。その高橋くんの反応のほうがかわいかった。もちろんみんなで高橋くんの彼女に会いたかったのだが、高橋くんが全力で嫌がっていたし、常識的に考えても店番中なのに五人で絡むというのはうざいだろうと思われたから、じゃんけんをして代表ひとりが買い物をしてくる話で落ち着いた。なにを買ってくるかは二番目に勝ったひとが決めることになった。じゃんけんでは高橋くんがいちばん勝ちたかっただろうに、因果にも彼がまっさきに負け抜けた。後出しを主張する高橋くんを無視し、数回のあいこを経て、僕と野間が勝ち残った。これは僕にとっては僥倖だった。野間はぜったい勝ちたいじゃんけんの最初の一手では、かならずチョキを出すと知っている。そのとおりに彼女はチョキを出し、僕はグーを出して、しっかり高橋くんの彼女に会う権利を勝ち取ったわけだった。

 なにを買ったらいいか、まだ悔しがっている野間に尋ねると、彼女はしれっと言った。

「コンドーム買ってきて」

 ずいぶん趣味が悪いなと思ったし、じっさいに抗議した。福井さんはともかく、高橋くんとか甘井ちゃんが加勢してくれないのが意外だったし不本意だった。

 野間は平然とした口調で続けた。

「だって新立、持ってないでしょ。そういうの、ちゃんとしといたほうがいいよ。いつどこでそうなるか分かんないんだし。男の責任でしょ。別に恥ずかしいことじゃないんだし。そんなの気にするほうがよっぽど恥ずかしいと思う」

 なにも言い返せない。だいたい野間と口げんかすれば、昔から必ず僕が負けるのだ。じっさい、僕はコンドームを持ってなかったし。けど、彼女もいないわけで、そういうことが起こるなんて考えたこともなかったから、その点は言い返した。そしたら野間はやっぱり、表情をまったく変えずに言った。

「なんでそんなことが起こりえないと思うの? 新立は自己評価が低いと思う。君は自分が思ってるより、いい男だよ」

 ぷはっ、と声がして、振り返ると、高橋くんがけたけた笑っていた。彼女を僕らに紹介するのが嫌そうで、ずっと不機嫌を現したまま黙っていたはずが、なにかが弾けたような笑い方だった。そして人差し指で目元を拭いながら、高橋くんはこう言ってくれたのだ。

「いいよ、新立がゴム買うんなら、俺の嫁に会っても。サービスしといてやるよ」

 会ってもいいとか、サービスとか、もったいぶった言い方が鼻についたが、とにかく僕は許されたわけだ。

「ほんと、野間と新立ってナイスカップルだよな。俺たちもそこを目指すわ」

 高橋くんがその言葉をどういうニュアンスで言ったのか、なにか違うと思ったが、なにが違うのか説明できない。そういう、関係が不安定な夜だったと思う。僕と野間の関係にしてもそうだし、高橋くんと彼女の関係にしてもそうだし、甘井ちゃんとか、福井さんも、みんな不安定なままそこにいて、僕もきっとそうで、そんな夜、僕ははじめてコンドームを買うことにした。友だちの恋人から買う、というのは、やっぱりちょっとインモラルだと思った。

 コンビニに入ってすぐ左手の棚には栄養ドリンクとかゼリー飲料なんかのパウチがあって、その隣が医薬品売り場だった。僕は高橋くんの彼女から身を隠す忍者のように棚のかげにしゃがみ込んだ。コンドームは棚のいちばんしたに整列していた。おもったより種類が多く、どれを買えばいいのか分からない。パッケージには薄さと思われる数字がコンマ下二桁まで書いてあるが、こんなわずかな差で感覚が変わるものなのか。福井さんにもらった男性向け情報誌でコンドームが破れた悲劇を読んだことがあり、母親に電話して泣きつくくだりがトラウマだったので、数字がいちばん大きいものを選んだ。コンドームの箱は思ったより軽い。十二個入りらしいが、一生なくならない気がする。使用期限とかはあるんだろうか。いろんなことを考えていると、気づけば僕はレジの前に立っていた。エロ本を買うときみたく、ダミーの買い物も混ぜたほうがいいことにやっと気づいたが、引き返すのもいかにもだから、仕方なくレジの机のうえに銀色の箔押しが光る仰々しい箱を置いた。高橋くんの彼女の顔は見られなかった。

「一〇五〇円になります」

 たしかそんなふうに高橋くんの彼女は言ったと記憶しているのは、つまり、僕が財布がわりに使ってる百均のジップ式ペンケースのなかには当月のおこづかいの千円札一枚しか入ってないことに気づいたからだった。コンドームを買うつもりがお金が足りてなかったという、なかなかに恥ずかしいシチュエーションだった。どう考えても「すみません、お金ありませんでした」とか応えて頭を下げて引きさがるしかなかっただろうに、僕は顔を赤らめたまま立ち尽くしてしまい、そのほうがよっぽど恥ずかしかった。

「……もしかして、お金ない?」

 さすがにおかしいと思ったのだろう、高橋くんの彼女がそう尋ねてきた。僕はレジのうえに間抜けに転がったあからさまな0.03という数字に目線を置いたまま、こくこくと頷くしかなかった。「千円ならあります」とか言おうかと思ったけど、お金が足りないのは変わらないわけで、意味がなかったし、そもそも声が出なかった。

 ふつうにいって、だいぶ迷惑な客だったと思う。深夜に、コンドームを買いに来て、お金が足りなくて、しかもレジの前から去らないのだ。足ががくがく震えて、動けそうになかった。小学五年生のとき、初めて告白したときにだってこんなには震えなかった。あるいは忘れ物をして先生に怒られてるときとよく似て、そのいつよりもずっとふてぶてしい顔をしてた。コンドームを買うとか、お金が足りないとか、そういうことじゃなくて、もっと悪いことをしているような感覚だった。その原因のひとつは間違いなく「相手が高橋くんの彼女だったから」だと思う。

「もしかして、初めて使うの?」

 その声は、さっきまでのちょっと戸惑ったものとは違い、すごく落ち着いていて、僕の心にすんなりと入ってきた。ようやく僕は顔を上げて、高橋くんの彼女と向き合った。それが僕にとっての、高橋くんの彼女の第一印象だった。つまり、たいへん失礼ながら、「あんまり美人じゃないな」と思ってしまった。

「はい」

 いつもより大人びた声が、僕の身体のすごく深いところから押し出された。僕には彼女はいないから、セックスをする当てはないわけで、嘘といえば嘘だったのかもしれない。

「大切なことだよね。あたしも、お金あるわけじゃないし、代わりにこのコンドームを買ってあげることはできないけど」

 高橋くんの彼女はそう言って、ジーンズの後ろポケットから二つ折りの財布を出してきた。ジーンズは太もものあたりがパツパツだった。財布は安っぽいヒョウ柄の合皮製で、インチキくさいシャネルのロゴが目立ち、折れ目のあたりが剥げて汚らしいねずみ色の繊維があらわになっていた。

「これあげるよ」

 高橋くんの彼女の軽快な口調に促されるまま、両手を差し出すと、そこに正方形のビニル袋がぽんと載せられた。半透明だから、それがコンドームだとすぐに分かった。中身はわかりやすい蛍光ピンクだった。ほんとうに、ぜんぜん無理のない、余計な力がちっともこもってない、軽い調子だった。そういうふうに感じさせてくれる人だった。だから僕も照れたりだとか、遠慮したりだとか、余計なことを考えたりせずに済んで、もらったコンドームをポケットに突っ込み、おもむろにレジを離れようとした。

「あ、ねえ」

 呼び止められて、高橋くんの彼女を振り返った。やっぱり美人じゃなくて、でも素敵な笑顔だった。

「大切なのは、したあとだから」

 このとき高橋くんの彼女がしてくれた話は、ちょっとおおげさなようだけれど、僕にとって人生の宝物だと思ってる。大切、という言葉をよく使うひとだった。その言葉をほんとうに大切そうに使うひとで、そういうふうに大切なことを教えてくれるひとだった。

「したあとね、寝たりとか、煙草吸ったりとか、テレビ観たりしてちゃだめだよ。そういうの、すごく傷つくから。大切なことなんだよ。したあとはね、女の子がぐったりしてるでしょ。その濡れてるところを、やわらかくしたティッシュで拭き取ってあげて、腕枕してあげて、話をいつまでも聴いてあげるんだよ」

 高橋くんもそんなふうにしてたんだろうか、とか、考えてしまった。そして高橋くんは、ほかの女の子にはそんなふうにはしなかったような気がした、というより、そうあってほしいと思った。コンドームをもらったことは、野間にも、甘井ちゃんにも、福井さんにも、もちろん高橋くんにも言わなかった。買えなかった、とだけ伝えた。なぜか野間に「使えねえなあ」とか呆れられて、自動販売機でいちばん安い天然水を買い、福井さんに押し付けて帰った。

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