Lesson15. つまり美人ってのはダメなんだ。
昔ときどき高橋くんと籠もったプレハブの倉庫は、「予習」だとか言って回し読みしたふるい少女漫画たちがすっかり片づけられ、バイクのガレージに変わっていた。僕ははじっこに体操座りをし、高橋くんがバイクを弄る様子を眺めていた。
高橋くんは言葉すくなに、何があったのか教えてくれた。結論からいえば、彼は退学することにしたらしかった。詳しくは教えてくれなかったし訊かなかったけれど、やはりカツアゲをしたわけではないらしい。それを前後してのティーチャーとのやりとりについて、高橋くんは「疲れた」とだけ言った。なんというか、彼らしいな、と思う。高橋くんはバスケが下手で、しかも体育の授業ではいつも手を抜いていて、速攻の先頭を走ることはなく、だいたい守るほうのゴール下に留まり、攻撃中は先生に怒鳴られながらも泰然とウンコ座りしていたりした。けど、昼休みのバスケはけっこう本気だったりして、リバウンドだけはしっかり取ってくれて、そんなギャップがなんというか、生きにくそうだなと思ってた。かといって彼はきっと死ぬことも選ばない。高橋くんの「疲れた」という言葉は、その間ぐらいでいつも諦めたような目をしていたことと繋がっていて、僕はもう彼をがんばらせることはしたくない。たとえば「薬学部B判定だったろ。もったいないじゃん」とか言ってしまうことは簡単だったし、間違ってはなかったけれど、僕がもしそれを頼めば彼は、「オーケー。ティーチャーに頭下げて高校戻って、東大目指しちゃおうかな」とか茶目っけたっぷりに応えられる男だった。高橋くんに言ったことはないけれど、訊いたことはないけれど、彼がどうして薬学部に入りたかったのか、僕には分かる気がする。「お母さんを病気で亡くしたから、薬学部に行きたいの?」とか、訊けるはずもなかった。なんで医学部じゃないのか、尋ねたら高橋くんは言ったんだ。「俺は不器用だから」と。いまの高橋くんは、その不器用な手つきでバイクの部品を弄り、「高校辞めたら免許取れるし、そのほうがぜんぜんいい」とうれしそうに言って、彼が彼のために生きている感じがする。初めてそのやり方を知ったみたいに、らんらんと。ちなみに、バイクの免許はまだ取ってないらしい。車校というものには通わず、試験の一発合格を狙うつもりらしく、どのぐらい難しいのか分からないが、「絶対受かるよ」と僕は太鼓判を押した。B判定なんてもんじゃない。薬学部なんてメじゃない。「ぶっちぎりで受かるよ」と、僕は鼻息を荒くして、いつか二人乗りをさせてほしいとねだった。高橋くんは「免許取ってしばらくはできねえ決まりなんだよ」と恥ずかしそうに言ったが、きっとすぐに乗せてくれると信じている。
「で、新立は、最近どうなん?」
作業が落ち着いたころ、高橋くんは僕のとなりに腰をおろし、コンビニのビニル袋から取りだしたずんぐりのポカリを僕に手渡して言った。高橋くんの左手は油でどろどろに汚れており、ポカリのあおい肌には薬指の指輪跡がわかるでっかい手形がついていた。
「甘井ちゃんともうやった?」
冗談っぽい口調なくせ、ちょっと声が小さくなって、そのことを一番いいたかったのか、心配してくれているのかもしれない。甘井ちゃんと付き合うようになり、高橋くんとはわずかに距離ができてしまって、それは彼が反対していたことを知っていたからだ。「あの女は新立の手に負えない」という言葉はどういうニュアンスだったのか、訊くのが恐い。高橋くんはやさしいから、僕を傷つけるような正しさを振り回すことはしないと分かってはいたけれど、そのやさしさがときどき恐い。あんなに女の子を弄ぶくせ、僕とか、福井さんとか、野間とか、甘井ちゃんにどうしてあんなにやさしくしてくれたのか、理由を知るのが恐い。
「高橋くんこそ、どうなんだよ。あの、ブ……」
言いかけて、自分の語調のとげとげしさに慌て、口をつぐんだ。
「あの、ブスの彼女と?」
しかし高橋くんは、僕が発しようとした言葉を正確になぞった。さすがに自覚はあったのか。「煙草吸っていい?」と高橋くんは尋ねてきて、僕はうなずいた。「火を点けてよ」とはじめて言われ、怒ってるのか甘えてるのか、ちょっとおもしろくて、浜崎あゆみの「A」の金メッキがかすれた黄緑色のオイルライターを手際わるく震わせながら火を点けてあげた。ガソリンくさかった倉庫の匂いが高橋くんのショートホープで上書きされた。脇にあるバドワイザーの煤けた空き缶に吸いさしの煙草を乗せてから、ひざのまえで血管がむらさきに浮いた手を組み、はんぶん得意げに、はんぶん照れくさそうに、教えてくれた。
「いろんな女と遊んで分かった。つまり、美人ってのは、ダメなんだ。美人は顔だけでモテるから、そこに甘えてしまうからな。できなくても許されちゃうんだよ。けど、ブスはちがう。ブスは、顔のぶんを他のとこで取り返さなくちゃなんない。だから努力して、いろんなことを上手くやれるようになる。よく言うじゃん。美人よりもブスのほうが性格がいいって。俺はあれ、信じてない。ぶっちゃけ、平均とれば美人のほうが性格いいと思う。いろんなとこでもてはやされてるからな、まあ、性格が歪むようなイベントがないわけだ。ブスは性格わるいし、それはうちのも例外じゃねえよ。けど、それでいい、つうか、それがいい。上手くまとめてくるっていうのは、そういうことなんだ。俺が人生を任せられるのはあいつだけだ。俺がどこにいても、なにをしてても、どうなっても、あいつは絶対俺を見捨てない。ちゃんとまとめてくれる」
高橋くんは、あたかもその告白を誰かに話す準備ができていたかのように、言って、人恋しそうに口をすぼめ、こう付け加えた。
「俺が結婚したいと思うのはあいつだけだ」
バドワイザーにとまる季節はずれのホタルのようなショートホープが事切れた。うすぐらい倉庫のなかが、しん、とさびしくなった。
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