Lesson12. 福井さんはそういうやつなのだ。

 昼ごはんが食べられなかったからということで、JKが車で食事に連れていってくれることになった。五限目と六限目には出られなくなるわけで、まあなんというか、体のいいサボりだ。ほとんど逃げるみたいに学校を飛び出したけど、大丈夫なんだろうか。

「……JK、どこ行くん?」

 しばらくみんな黙っていたが、車が町でいちばん大きなトラス橋を越えたころ、助手席に座る高橋くんが尋ねた。マツダ車のエンジン音は静かなので、高橋くんの大人びたかすれ声は古いJポップとともに三列目までよく聞こえた。

「海」

 JKはそれだけ答えて、アクセルを踏み、加速した。

 併走する電車より速くなる。坂を駆け上がり、バスを追い抜いて、きいろいガードレールの向こうにまっさおな視界がひらけた。カモメの滑空を見下ろしている。みじかいトンネルをふたつ越え、急坂を下れば、踏切の向こうには、町でたったひとつの海水浴場があった。シャンシャン鳴る踏切を二輌だけの電車が通り過ぎるのを待ち、僕らはでこぼこの砂地にたくさんのロープが区分けする駐車場に吸い込まれた。季節外れなのでほかに車は一台もいない。

 JKと福井さんは「ドーナツ買ってくるから」とミスタードーナツに向かってしまい、海には僕と野間と高橋くんと甘井ちゃんだけが残された。海はちょうど引き潮なのか、ここはかなりの遠浅なので、まだ濃い色のしめりを残す砂浜が広がっている。帰りそこねた水たまりに青い空や白い雲が跳ねかえって、美しい。高橋くんは煙草をふかしながら海に降りていった。ぬかるんでおり学生靴だと歩きにくいから、野間と手をつないで後に続いた。

「なつかしいね」

 野間が水たまりを覗き込んで言った。引き潮の砂浜は海の生きものの宝庫で、すごく珍しい魚や虫が見つかったりする。子どもの頃は、野間とそういうふうにして遊んだっけ。

「そういやよくふたりで海いったよな」

「新立は泳ぐの付き合ってくれなかったけどね」

「泳ぐの苦手だし。そのぶん野間に海の生きもののこと教えてやったじゃん」

「あった、あった。異様に詳しかった。ふたりとも真っ黒に日焼けするまで海にいたよね」

「帰りにシャワー浴びるのめっちゃ痛かったよな」

「あの狭い小屋の、15分100円のやつね」

「そうそう、高い、つって、ふたりで入ってた」

「中学生ぐらいまでね。新立くんも、ばっちり毛が生えておりました」

「うるせえよ、暗くて見えてねえだろ」

 ほんとうは、覚えてる。トタン屋根の隙間から漏れるわずかな明かりに、照らされたこまかな水しぶきと、くっきり浮かび上がる水着の跡。子どものものじゃなかった野間の胸と股間。なぜか心もとなくなってしまって、甘井ちゃんの姿を探すと、高橋くんの視線の先にいた。堤防に身体をあずけて海を見下ろしている。

「行ってきたら?」

 高橋くんは大人のなりかたを教えるときによく見せた、いたずらっぽい笑顔で言った。

「それは違うんじゃない?」

 つい反発してしまう。否定してほしかっただけかもしれない。

「僕、甘井ちゃんのために何もできてないし。ティーチャーに啖呵切ったのは福井さんだし、ティーチャーをぶっ倒したのはJKじゃん。それに、野間みたく甘井ちゃんの相談に乗ってたわけじゃないし、高橋くんみたいに格好よくもないし……」

 だからなんなんだ、ひどく言い訳じみてる。

「ま。エンコーっつっても、甘井ちゃんも金もらってたわけだしね。騒いでたのは福井さんと新立だけだし」

 高橋くんは、煙草を持ってないほうの手をポケットに突っ込み、くすんだ煙をわっかのように吐きながら言った。そのとおりだよな。JKと甘井ちゃんに迷惑かけただけなのか。

「高橋、言いすぎ。甘井っちだって、感謝してると思うよ」

 野間が取りなしてくれた。僕の手をにぎる力がつよくなる。野間が言うならそうかもしれないと思えた。

「褒めてんだよ、俺は」

 高橋くんは、そっぽを向く。水平線にはタンカーがぼやけている。どこからか汽笛が響いた。野間が欠伸をした。

「新立の甘井ちゃんへの気持ちも分かってるし、福井さんがあいつなりにすげえ悩んでたことも知ってる」

「福井は新立のこと好きすぎだよね」

「まあ、俺からすりゃ、どうなんだって思うけど」

「ふたりらしくていいんじゃない?」

「まーね。かっこよかったよ、ヒーロー」

 ようやく踏ん切りがついた。こくんとふたりに頷いて、甘井ちゃんに近づいていくと、後ろから野間が「結婚式には親族席に座らせろよ!」と叫んできて、うるせえよ、と思った。言われなくても、分かってる。

 甘井ちゃんに並ぶかたちで、潮風で色あせたはいいろの堤防に両肘をのせると、彼女が、ふ、と笑った。

「私ね、ティーチャーと、エンコーしてたの!」

 甘井ちゃんははじめてそのことを教えてくれた。知ってたよ、という言葉を呑み込む。

「デートで一万、ゴムありで三万、ナマで五万。ピルはティーチャーがくれて、毎日飲んでた」

 ずいぶん安いな、とか、どうでもいいことを思ってしまった。そのぐらい甘井ちゃんが教えてくれたことは僕の現実からは離れていて、金額だけがリアルだった。いや、おこづかいがせいぜい月千円の高校生にとって、金額のリアルも知れたものだ。つまり、ちっともリアルじゃなく、甘井ちゃんの告白を聴いた。

「でも、キスだけはしなかった」

 そう言ったとき、甘井ちゃんの唇を噛む音が聞こえたような気がした。ナマではやらせるくせに、キスは許さない、そのことはすごく、順番が逆に思えて、でも僕たちは結局のところ、順番を間違えて大人になるものなのかもしれない。

「いちおう、パパへの反発心みたいなのもあったかな。言うのも恥ずかしいんだけど。お金には困ってなかったしね。そういうのがすごく嫌だった。エンコーで貯めたお金が、ちょうど百万円ぐらいでね。高校卒業したら、こういうのは止めるつもりで、京都に行って、ひとり暮らしして、大学生活をエンジョイしようと思ってた。夏休み、オープンキャンパスにも行ったことあってね。すごいきれいな校舎で、まわりにはオシャレなカフェもいっぱいあって、大学生たちはきらきら輝いてた。ついでに物件も見せてもらったの。大学からはちょっと遠いんだけど、神社の裏にあるオートロックの五階建ての五階で、エレベーターはないんだけど、ロフトがあるの。かわいらしい梯子がついててね。ピンク色の。それで、おおきな窓が笑っちゃうぐらいまんまるで、窓の向こうには鴨川が見下ろせて……」

 甘井ちゃんの言葉を僕は、すごく寂しい気持ちで聴いた。大学進学するころにはその物件はないんじゃない、とか、そういうことじゃなくて、でもそういうことが寂しさの根幹にある気がした。甘井ちゃんの生活であり、生き方だ。甘井ちゃんは「寂しかった」とかありふれたことは言わなかったし、言わないでほしかったけれど、そういうのはぜんぶ伝わってきた。

「私にはそういう人生が、送れると思ってた」

 甘井ちゃんは、きっぱりと言い切った。甘井ちゃんらしい、要領のいい口調じゃなく、へたくそに未来を向いた過去形だった。

「けど、そうじゃないんだよね。私がしていたことは忘れたりとか、なかったことにはできないんだ。減らしたものはまた増やせると思ってたけど、そうじゃないものもあるんだなって」

 頷かないでいる。だって僕は甘井ちゃんじゃないんだから。甘井ちゃんだけが見つけた結論を、僕はそのまま受け入れようとだけ考える。どんなにナイーブなものであれ、僕は否定しない。

「そのことを、JKに教えてもらってね。あのときのティーチャーを見てると、ああ私はこんな汚いひとに抱かれてたんだって思って、すごく自分のしてきたことが下らないものに思えてしまって。でもね、私は、私自身のことを下らないとはけっして思わなかった。へんな話だけどね、こう思える自分も、けっこういかしてるじゃんって。JKのしてくれたことは、私を否定はしなかった。だから、忘れたりとか、なかったことにしたりとか、できないけど、したことはそうでも、私自身は変われるし、変われないし、変わってないんじゃないかなって、そのことを信じることができた。大丈夫だって、何をしていても私は私だって、そう思うことができたんだ」

 言った瞬間、甘井ちゃんのおなかが、ぐうう、と鳴った。すごくいいことを言ってるくせ、身体は正直で、笑ったけど、つまり彼女の身体と心の不一致みたいなところで、やっぱり僕は甘井ちゃんを大好きだと思った。

「新立さん、ひどい。だって、なにも食べてないんだもん。JKもさ、ケーキ奢ってくれるって言ってたくせに……」

 りんごのように頬が染まった甘井ちゃんの肩に僕は手を置く。彼女のおどろいた瞳を覗き込む。ゆたかな蜜がわいたように潤んでいた。

「お腹がすいてるならさ」

 この枕詞は必要だったのだろうか。とにかく僕は言った。

「キスしてもいい?」

 甘井ちゃんは何も答えなかった。ただまぶたを震わせながら目を瞑り、こぶりなあごをわずか上に向けた。甘井ちゃんの背丈と僕の背丈はほとんど変わらないので、ということではなく、彼女の唇がすごく近く感じた。

「……大人のでも?」

 そう尋ねると、甘井ちゃんは、ん、とおもったより余裕のない笑みで眉尻をさげ、僕の両手を握った。それはやけどしそうなぐらい熱っぽかった。いま唇が重なろうとする瞬間。

「ふたりのドーナツ買ってきたでー!」

 両手に持ったドーナツの穴から目をのぞかせた福井さんが反復横跳びしながら現われて、鼻のおくが同時にへんな音を鳴らした。とっさに顔を離して、僕たちは笑いころげた。こんな肝心なときにそれかよ。福井さんっていうのは、つまり、そういうやつなのだ。

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