Lesson11. 福井さんは空気が読めない。

 十二月の給食は、とびきり豪華なのだ。クリスマスが近いわけで、デザートにはぷりぷりの真っ赤な苺がすわったショートケーキが出される。おわんは味噌汁の代わりにたっぷりのコーンスープで満ち、かりかりのお菓子みたいに可憐なクルトンがうかぶ。さらにたくましい骨付きチキンだの彩りゆたかなサラダだのブルーチーズだの、たいていの生徒にとっては年を締めくくる給食にふさわしくいっとうにうれしい食卓なのだろうけれど、福井さんはしんどいだろうな、と斜め前をみれば、みごとに顔面蒼白だった。彼の真横にはティーチャーが腕組みしている。うちのクラスの給食担当をしているうち、福井さんが食べきれないことをめざとく見つけたのだろう。野間と甘井ちゃんのパスまわしに食いつくときの僕もしゃっぽを脱ぐしつこさである。ティーチャーが見てるから、福井さんの給食をこっそり減らしたりできないし、僕とか高橋くんが代わりに食べてあげるのもなかなか難しい。それどころか、ティーチャーがよそった福井さんの皿はほかの生徒よりも量が多いときさえある。ある種の先生というものは、生徒を屈服させることに喜びを感じるらしい。まさにティーチャーがそういう教師で、高橋くんの名づけたとおりで、三年生にとっては高校最後ともなる給食では、ティーチャーはこれまで以上にあからさまに、福井さんの皿を料理で埋めた。ずいぶん雑な盛り付けで、不味そうで、それを見下ろしているティーチャーはこれまで以上にうれしそうだった。いやらしくほくそえんで、福井さんにこう突っかかったのだ。

「就職できたからっつって調子のんなよ。目ぇかけてやったのに、留年しやがって」

 高橋くんが顔を歪ませた。野間が舌打ちをした。甘井ちゃんが顔を伏せた。

 福井さんが留年してるってことに誰も触れようとはしなかった。呼び名こそ「さん」づけてあったけれど、それだけで、すくなくとも僕らは敬語なんか使ってなかったし、ながい友人であるかのように振る舞った。高橋くんは彼を誘って釣りにいったり、こっそりパチンコにも入ったりした。甘井ちゃんは勉強を教えてあげていた。野間はAVを借りてよく分からないサブカル談義に盛り上がっていた。きっと仲が良かった、けれど、そのぶんだけ危うかったと思う。きっとひどいことを言われた福井さんにたいし、僕たちは誰ひとりとして反発できなかった。そもそも、誰も福井さんの傷(もしそんなものがあるとすれば)に、共感なんかしてない。もしそんなものがあるとすれば、と思っちゃうぐらいに。だって留年の理由を誰も知らない。勉強ができなくもあり、偏食がはげしくもあり、いろんなことがちゃんとできてなかった福井さんの、もろさのようなものに誰も触れたことがない。にも関わらず、壊れそうだった。

「メシを食えないようじゃ、社会で通用しねえぞ。俺が見ててやるから、最後に全部食え。時間以内に。もったいないだろ」

 ティーチャーの顔は見えなくて、でもきっとにやにやしながら言った。「もったいない」をこんな残酷に言えるのかと驚いた。けど、教育のありえる側面であり、表面だったと思う。子どもはそれにより、かんたんに、潰されてしまう。福井さんはもしかすると、潰されたことがあったのかもしれない。だから潰れなかった。しっかりとティーチャーを見上げ、はっきりした声でこう言ったのだ。

「じゃあ僕がこれぜんぶ食べきったら、甘井ちゃんを解放してくれますか?」

 さいしょ、何を言ってるのか分からなかった。その意味をつかまえようとするみたいに、僕らはみんな黙り込んだ。野間が机のしたで僕の手をかたく握った。その理由だけは汗ばんだ感触ごとわかる気がした。高橋くんはぐずんと鼻を鳴らした。甘井ちゃんのすきとおった頬が絵筆をひたした水みたいに赤く染まっていくのが分かった。

 そうだった、福井さんはいつも、そういう奴だった。空気が読めなくて、馬鹿で、馬鹿なぐらい純粋だった。たぶん、そういうところに僕たちは惹かれて、ただそうじゃなくても、福井さんが福井さんであれば、いまは良かった。彼ときっと友だちでいられて嬉しいと思った。この瞬間のことを、いつかどこかで思い出話として語ったりはしないし、できないけど、いつもどこでも思い出せる、そんな大切な瞬間だったと思う。

 福井さんと最初に仲良くなったのは僕だったはずだ。高校三年生にあがって数日たったとき、黒板が見えないと訴えた子に代わり、僕はいちばん後ろの席に席替えをさせられた。窓際で、そのとなりが福井さんの席だった。いちばん後ろの列には僕と福井さんしかいなかったが、福井さんはなかなか登校してこなかったので、初めて福井さんと話したのは、四月も終わりにさしかかったころだっただろうか。福井さんがAVを貸してくれたのだ。留年して、一学年したの子とどうやって仲良くなったらいいのか、距離感を摑みかねてもいただろうに、近づくための手段というのがAVというのもなかなかすごい。正直、ちょっと引いて、わらいながら野間に話したら、なぜかうちで一緒にAVを観ることになり、内容はまあ珍しくもないよくある純愛モノだったのだけれど、ビデオデッキのなかでテープがぐちゃぐちゃに絡まり、親が帰ってくるまでに取り出すのにひどく焦った記憶がある。野間は爆笑していた。で、テープはぶちぶちに切れてもう再生できそうになかったし、謝るつもりで野間と一緒にAVを買いに行き、頭をさげるとともに福井さんに手渡したら、福井さんはあののんびりした口調で、こう言ったんだ。

『寝取られモノは抜けないから、返すわ』

 それがよかった。なんか、その言い方がよかったんだ。野間と僕のツボは相当に近いから、彼女も福井さんを気に入って、AVを借りるようになり、野間を通じて甘井ちゃんとか、僕を通じて高橋くんとかとも話すようになった。で、高橋くんに誘われて、みんなでバスケをするようになり、それで。

 尊敬という言葉が近いと思う。僕も、野間も、高橋くんも、甘井ちゃんも、福井さんを尊敬していた。続けて福井さんが口にした言葉で、僕は抱きしめたくなるぐらい、福井さんを大尊敬だと思った。

「僕がこれ食べきったら、甘井ちゃんを買春するの、止めてもらっていいですか?」

 それは福井さんにしか言えなかったと思う。童貞だけが魔法を使えるっていう。そういうのとは違って、でもひどく童貞じみた、福井さんだけが言える魔法のことばだった。

 ぐしゃり、と音がした。ティーチャーの毛むくじゃらの手が、福井さんの牛乳パックを潰した音だった。震えるごつい手が牛乳パックを握りしめて、滴り落ちるしろい液体が、福井さんの目のまえにあるショートケーキにかかった。こんなときにひどいけれど、きれいだと思った。福井さんの心とおなじぐらい。悲しく思ったのは野間だったと思う。怒ったのは高橋くんだった。もうすこし遅ければ、高橋くんがあるいはティーチャーに殴りかかったかもしれない。しかしとにかくそれより速く、ティーチャーを呼ぶ声がかけられた。

「先生! 先生!」

 振り返ると、JKが走ってきたところだった。給食は、担当の教師と食べる形になるので、JKと同席することはない。給食の時間にJKがランチルームに来るのは珍しかった。

「英語の問題教えてほしいって子が来てるから、ちょっと職員室に戻ってもらっていいですか! 京大英語の超難問なんです! 先生にしか分からないって言ってるから! 早く!」

 JKはものすごい勢いで駆けてくると、流れるように捲し立て、見事な流れでティーチャーの背中を押してランチルームから追い出した。戸惑う暇もないぐらい、自然な動きだった。

 ほかの子は机の一角で行われた僕たちの騒ぎには気づいていない様相で、楽しそうにおしゃべりしながら給食を食べ始めていた。僕と、高橋くんと、野間と、甘井ちゃんと、福井さんはすっかり黙り込んでしまった。ティーチャーに牛乳をかけられた福井さんの給食はぐちゃぐちゃになってしまっており、気まずさから目を離せないみたいに僕らはじっとそれを見つめていた。

 JKは僕らの給食をかき集め始めた。いったいなにをするのか、見ていると、ぜんいんぶんの給食をティーチャーの皿のうえにぶちまけた。パンも、チキンも、ケーキも、躊躇なかった。みるも無惨な残飯とも見まがうほどの山ができあがったころ、高橋くんが「もったいなくない?」とふつうのことを言った。「なくない!」とJKはばっさり言い切った。「私のケーキ」と呟いた甘井ちゃんの口調が心底かなしそうで、こんなときなのにおかしかった。「あとで奢ってあげるから!」と応えたJKは力強かった。料理を台無しにしたことも、それが僕らの最後の給食で、クリスマスの特別なものだったことも、なんらの頓着もしていない。こんなこと言ったら、それこそ現代文の先生には怒られるかもしれないけれど、愛という言葉の意味を知った瞬間だったかもしれない。

 しばらくして、ティーチャーが帰ってきて、自分の食卓を見て唖然とした。

「さあさあ先生、どうぞ食べてください! クリスマスプレゼントですよ!」

 JKがティーチャーの肩を押して椅子に座らせた。相当に強く押されたのか、JKの言葉におののいたか、座ったあとにわかによろめいた。

「先生、よく言ってたでしょ? 『俺は生徒を愛している』って。じゃあ、食べられるよね。しっかり証明してあげてくださいね。見てるから。福井さんも、甘井さんも、私も」

 JKはにこりと微笑んで言った。すごいと思った。でも本当にすごいと思ったのは、そのあとだった。ティーチャーは文句ひとつ言わず、箸やスプーンやフォークやナイフを手に取り、そのゴミのような料理を食べ始めたのだ。僕はティーチャーを嫌いだし、高橋くんも野間も福井さんもそうだろうけれど、彼もやはりそれなりに教師であり、理想があって、それに殉じることができるぐらいの信念を持っていたのかもしれない。甘井ちゃんがティーチャーに抱かれたのも、気の迷いとかお金のためとかじゃなくて、ちゃんと理由があったのだと知る。ちょっとは好きだったってことだ。三つ星の美食でも味わっているかのように端正な手さばきで食べるティーチャーを見ているのは悲しくて、なにより悲しいのは、そんな彼をちょっと格好いいと思ってしまったことだ。けっきょく給食時間のうちに、ティーチャーは料理をほとんど食べ終えてしまった。あとショートケーキをひとつ食べれば完食だった。

 しかし、ティーチャーはその残りひとつのショートケーキを食べることができなかった。フォークを握ったまま、ショートケーキを前にして、しばらく固まった。時折のどの奥から音の濁ったげっぷが吐き出された。もう限界だったのかもしれない。

 そのショートケーキをJKが持ち上げた。もう許すのかな、それでもいいかな、と思って見ていると、JKはそのショートケーキをむりやりティーチャーの口に突っ込んだ。ティーチャーの顔がひどくゆがみ、ほとんど言葉になっていない声でうめいた。

「……ごちそうさまでした」

 ティーチャーは殺虫剤まみれのゴキブリみたいに床に悶えながら、あたりに大量の吐瀉物を撒き散らした。悲鳴が響き渡るなか、JKは二つ折りのケータイを開き淡々と写真を撮り、写メを経由して噂はその日のうちに学校中を駆け巡った。やりすぎたのか、肝心のエンコーのほうは思ったほどの問題にならず、むしろ「ティーチャー」の呼称が「ゲロティー」に変わった。そっち拾っちゃうのかよ。のちに高橋くんが「ゲロティー事変」と名づけたそれは、僕たちの勝利だったのか、敗北だったのか、すくなくともJKの顔は勝ち誇っていた。僕は初めて彼女を恐いと思い、先生を恐いと思い、憧れと言い換えても間違ってはいなかったけれど、そうなりたいと思うのとはぜんぜん違って、むしろなれないのだと知る。こうして遠く届かないのが先生という存在であれば、僕にとってJKは先生に違いなかった。

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