Lesson7. 小指じゃ血は出ないと甘井ちゃんは言う。

 その日、甘井ちゃんは保健室に寄らなかったから、めずらしくふたりで帰ることになった。どちらが誘うわけでもなく、自然とそういう流れになり、いかにもカップルみたいで、飛び上がるぐらいうれしかった。甘井ちゃんも心なしか体調が良さそうで、頬がいつもよりピンク色に見えたのは、僕のあおくさい勘違いなのかなんなのか。

 いつもより長く自転車を走らせた。いつもは見ない景色が新鮮だった。田んぼ脇の用水路を兼ねた小川はだんだんと広くなり、川沿いのアスファルトはほそく廃れたものに変わり、高架から降りてきた二本だけの鉄道を1.2mの看板を尻目に上半身をちぢめて潜りぬけ急坂をいきおいよく登れば、茅なんかの雑草をわって湿った土の轍がぐねぐねと伸びる。見渡すかぎり、稲穂はもう刈り取られていて、荒涼とした大地が広がっていた。枯れ草の匂いはやがて潮の匂いに変わった。甘井ちゃんの家は、漁港にあるのだった。

 丘のうえから漁港を見下ろすまっしろい洋館である。中心部から尖塔が高くのび、てっぺんでは洒落たとさかの風見鶏がくるくる踊る。

「じゃあ」

 階段のしたで立ち止まり、いくつかの言葉を悩んだすえ、声をかけた。ぴかぴか輝く石造りの階段は急で、まんなかにステンレスの手すりがあって、上がったところには赤毛のアンに出てきそうな門がうやうやしく構えている。甘井ちゃんのお父さんは、漁港でたったひとりの医者だ。

「福井さん、おかしいよねえ」

 たくましく葉をひろげる大きなクスノキのしたに自転車を停めて、リング錠とワイヤーチェーンを掛けて重そうなバッテリーを器用に抜き取り、階段を数歩あがった甘井ちゃんが振り向かずに言った。まんまるくカットされた、モダンなかんじの茶色がかるマッシュルームヘアが潮風にゆれ、みかづき形にゆるむ唇があらわになった。

「小指を入れただけで血なんか、出るはずないじゃんねえ」

 どのぐらい呆然としていたのだろう、JRの青いバスが海に溶けるみたく通り過ぎていった。下校時のこの時間でも一時間に二本か三本だというバスは、ほとんど人が乗っておらず、きいろいチューリップみたいな帽子の小学生と目が合った。その女の子は野間に似ている気がして、彼女はそんな冷たい目をしたことがないのに、罪悪感に追われるまま、やっと自転車にまたがって走り出した。

 けっきょく、甘井ちゃんでは抜かなかった。代わりみたいに、野間で抜いた。想像のなかの野間は、「なかには出さないで」と聴かせたことのない声で懇願した。やっぱり、甘井ちゃんで抜くときよりたくさん出て、物理の力学のページがかぴかぴに乾いた。

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