Lesson6. 福井さんは男になった。

 図書室の奥の書庫に入ると、本がみんな生きていて呼吸をしてるんじゃないかというぐらい胸につまる黴臭さがあふれてきた。福井さんはソファに深く腰かけて足を開き、僕らを出迎えるドラゴンクエストの魔王みたいな格好で待っており、異様なぐらいかしこまった表情に鼻でわらった。ソファは壁際にあっただろうに、自分で動かしたのかな。やっぱバカだ。慌てて準備したんだろう、避けられた文庫本が床にジェンガみたく積まれているけど、あとでちゃんと片づけとけよ。

「ようこそ」

 文化祭のときクラスでやった演劇を思い出させるひどい棒読みで福井さんは言った。

「いったいなんなんだよ、早く言えよ」

 高橋くんがまずそう言って、仰々しく福井さんを囲んでいるパイプ椅子にどかんと座りながい足を組んだ。ついで甘井ちゃんが座り、そのとなりに野間が、最後に僕が座った。高橋くんはだらしなく背もたれに身体をあずけ、英語の歌詞の落書きで埋まった上履きをかかとを踏み潰したまま揺らし、うあー、と気怠い声をあげた。甘井ちゃんは背筋をぴんと張りかしこまって膝のうえに手をそろえる。野間はガニ股気味に前のめりで座り、ほかの子より長いスカートの裾から濃い紫色のレギンスがのぞいた。僕はなんだか居住まいが悪く、座りなおせば椅子がぎしぎし鳴って、目をやると、パイプが交差する部分だけゆるいネジが赤黒く錆びていた。

 えへん、と分かりやすいタメを作り、ふう、と深呼吸し、やはりずいぶんしゃちほこばった表情で、福井さんは言ったのだ。

「ついに、男になってしまいましま」

 噛むなよ、ととりあえず僕は思った。ええ、と驚いてるとも呆れてるともつかない声を上げたのは野間だった。甘井ちゃんもへんな音を立てたが、なんの音だったか分からない。唾を呑む音は、僕が立てたのかもしれない。

「嘘でしょう。福井さん、彼女いないじゃないですか」

 高橋くんが茶化すように右手でマイクの形をつくり囃し立てた。つい僕もうなずいてしまった。福井さんに彼女ができたことはない。これは確信をもって言える。もし彼女ができていれば、それこそその時点でこういう記者会見を開催するに違いないからだ。

「じわっとね。指を、入れただけで、血が出たんですよ……」

 福井さんは高橋くんを無視するみたいに、僕、野間、甘井ちゃんの顔をそれぞれ覗き込み、夏休みの稲川淳二を思わせる言い回しを披露した。かたちのいびつな小指をぴんと立てていた。にきびの跡だらけの、僕らよりちょっと大人びた顔がいつになく迫真で、また唾を呑んでしまい、それはさっきより酸っぱかった。「指を入れただけで血が出た」のくだりが童貞の想像力からすればすごくリアルで、見たことのないその赤色の鮮かさまでが見える気がした。

 高橋くんはもう何も言わなかった。福井さんは、さなかの話をちょっとだけして、それは「指を」のくだりと比べればAVみたいに薄っぺらく、信用できなかったので、話半分に聴いた。そのあとは、福井さんによる質疑応答が行われた。いちばん喰いついていたのは野間だった。正しい順番がどうの感じる場所がこうの重箱の隅をようじで穿つみたいに尋ね、図書室からメモ用紙とペンまで借りてきたのは閉口した。福井さんに質問をうながされた甘井ちゃんは、むずかしそうな声で悩んだのち、「だしたの? なかに」とだけ尋ねた。その内容、というより言い方がいちばんやばかった。今日のおかずは決まったと思った。そこで予鈴が鳴ったので、福井さんの答えは聞けなかった。うちの高校は、昼休み明けの予鈴は二回鳴るのだが、一回目を聞き逃してたみたいで、みんな五限目に遅刻した。悪いことに、五限目は英語の授業だった。現代文だったらJKが許してくれたのに。ティーチャーに遅刻の理由を尋ねられて、福井さんは赤面してモジモジし、いかにも怪しかったが、ティーチャーは高橋くんばかりを問い詰めていて、ちょっとした言い合いになった。結局、甘井ちゃんとなぜか僕だけが許された。高橋くんはプラスチックのゴミ箱を蹴りつけながら教室を出ていった。野間と福井さんは補修を受けさせられるはめになり、放課後は進路指導室に来いと脅されていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る