第6話 えっ、汚い?どっちが?

 武蔵は吉岡一門の挑戦を受けることに決めた。

 場所は洛北の一条寺下り松。

 あの辺りの朝は、霧が深い。

 それを計算に入れて、武蔵は「果たし合いの時刻は早朝」と相手方に申し入れた。


 一条寺のある村は、瓜生山うりゅうやまの山麓にある。

 吉岡方は朝霧をついて一条寺村に出向き、人員を配置した。

 まず下り松の根元に床几を据え、これに総大将の又七郎を座らせた。

 総大将といっても、まだ前髪立ての愛くるしい少年である。

 又七郎、このとき11歳。


 武蔵は考えた。

 向こうの手勢は百人余。となれば、これは合戦である。

 合戦であれば、総大将さえ討ち取れば、こちらの勝ちとなる。

 こちらが勝利をおさめ、生き残るには、この少年を真っ先に殺さなければならないのだ。

 汚い?どっちが?

 吉岡一門は、鉄砲、弓まで持ち出して、武蔵を待ち構えているのだ。

 兵法は殺るか、殺られるかである。勝った者が強いのだ。きれいも汚いもない。


 武蔵は東山の山道をたどり、大文字山を越え、洛北をめざした。

 いずれも人気のない道である。

 それでなくても、当日は案の定、霧が深かった。

 胸の鼓動が高鳴る。過呼吸ぎみになり、何度も立ち止まって深呼吸した。

 一歩間違えば、死ぬのだ。心臓が張り裂けそうであった。

 一条寺下り松まで、もうすぐのところで、武蔵は興奮を鎮めるため、竹筒の水を飲み、草鞋の緒を締め直した。


 一方、吉岡方は夜も明けきらぬうちから、兵力の配置に余念がない。

 鉄砲方はこちら、弓隊はこちらと、道の各所に分散し、武蔵が来れば、いつでも矢玉を放てるよう万全の備えを期した。

 とにかく武蔵を殺せばいい。問答無用の配置である。


 これで絶対に殺れる。

 負けるわけがない。なにせ、飛び道具まであるのだ。

 各自が持ち場に陣取ったとき、朝が明けようとしていた。

 このとき、吉岡一門の誰もが思った。

「今度も絶対に武蔵は遅れてくる。相手を苛立たせる、いつもの姑息な策戦を取るであろう」

 

 

 しかし、すでに武蔵は霧の中に潜んでいた。

 一刻ほど前から、吉岡方の配置をすべて見定め、勝負のあと、逃げる道筋まで考え抜いていた。

 霧の中から下知の声がした。

「鉄砲方、火縄をけよ。武蔵を見たら、一斉に撃ち放つべし」

 老い錆びた年配者の声である。

 そのとき、大きな影が下り松の根元に近づいた。

 武蔵であった。


 無言で武蔵は又七郎の首を刎ねた。

 その首はあかみおを曳いて、宙に飛んだ。

 吉岡方がそれに気づいたときには、武蔵は霧の中に姿を消していた。


 夢中で走りながら、武蔵は叫んだ。

「勝った。吉岡百人のバカどもに勝った。これで、俺の名は天下に轟く。勝った。勝ったぞ」

 このあと、用心深い武蔵は、京の都を離れた。

 吉岡一門につけ狙われ、命を捨てるハメになっては、愚の骨頂である。

 今までの必死の努力が水泡に帰しては、笑うに笑えないではないか。

 臆病こそ、最強の武器である。

 臆病な者こそ強くなれるのだ、と武蔵は肌で感じ取っていた。

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