『ここからは、補助輪なし』

 バキッ


 鈍い音がして、和花はハッと自分の足元を恐る恐る見つめた。

 薄いピンク色のポップなスニーカーが、深い緑色の丸眼鏡をぐちゃぐちゃに潰していた。

「……あっ、そ、その」

 和花は、目だけが割れた眼鏡に向かっている雄星を見て、身振り手振りで何かを伝えようとするが、単語は一切出てこない。

「……」

 雄星は、ただ哀しげに潰れた眼鏡を見つめているだけで、口を開かない。外ではドラマ撮影の一行が賑やかにカメラを回している。俳優が残したと思われる、淡白な香水の匂いが鼻の粘膜を微かに湿らせた。

「すみませんでした、その、あの、すっ……」

 慌てて拾おうとする和花を、雄星の腕が止めた。

 ひ弱なはずの雄星の力は、思っていた以上に強かったのか、和花は顔を強張らせ、彼の顔を見る。二人の重なった腕が少し揺れているのは、一体どちらの震えなのだろう。

「いいんだ、別に和花は何もしてない。僕がちょっと落としちゃって、そこにたまたま和花の足が被さっただけだ」

「で、でも……」

 雄星の眼鏡が落ちたわけというのは、本当に些細なことだった。バンでの撮影が行われない合間を縫って本のサブスクの作業をしている間、ふと眼鏡を拭いていた雄星の手が滑って、眼鏡が落ちた。それを和花が踏みつぶした。

「眼鏡って高いじゃないですか。ひとまず、代わりの眼鏡は私が負担します。やることなかったら眼鏡屋にすぐ行きましょう。どこまで目が悪いのか分かりませんけど、かなり悪ければ大変でしょう?」


「……そんなんじゃないんだよ」


 雄星は新鮮なレモンを舐めたような苦い顔で絞り出した。

 和花の腕がはたと止まる。

「……僕の目は、そこまで悪くはない。無くても生活できないことはないくらいだ」

「えっ、でも、高いし……」

「ああ高いよ。掛かった額はどのくらいかは分からないけれど、確かに高い。僕にとっては途方もなく大きな価値がある」

「な、なら……」

 

「ちょっと、説明させてくれるかい?」


 雄星は淡い香水の香りを肺一杯に満たし、目をこすって話し出した。



 ***

 


 雄星の祖父は、眼鏡職人だった。祖母と一緒に商店街で眼鏡屋を営んでいて、雄星が生まれた時にはすでに店主の座は父に譲っていたが、腕は衰えるどころかますます成熟していくばかりだった。

「最悪だよ、じいちゃん。視力検査、ついに引っ掛かったみたいでさ。ホント、ちょっとだけなんだけどさ、目、悪くなってるらしい」

「……そうか」

 祖父は煙草の煙をモワッと吐き出して、灰色の老眼鏡のレンズを擦った。

「……あれだけ、眼鏡は絶対掛けんなって言ってても、時代の流れには抗えんか」

「らしい。だから、じいちゃん、約束、叶えてくれるんだよね?」

 祖父は、禿げた前頭部を撫でて、白髪が残っている後頭部をカリカリと掻いた。

「……本当に、眼鏡を掛けなきゃならんのか? 掛けなくても生きていける程度のものじゃあないのか?」

 雄星は唇を尖がらせた。

「……掛けなきゃいけない、っぽい、かな?」

 嘘だった。実際は、眼鏡までは作らなくてもいいが、警戒はしておけというくらいのものだった。

 ――だけど、それでも欲しかった。

「受験で困るのも嫌だしさ」

「……分かった。約束を守るのが、男だからな」

 祖父は重い腰を上げ、作業場へ入っていった。


 雄星は少し勉強をしてから、祖父が作業をしている作業場へ入った。

 祖父はステンレスを曲げて、眼鏡のフレームを作る作業へ入ろうとしているところだった。

「雄星か。太さはどのくらいにしようか?」

「細めかな」

「形は?」

「丸眼鏡! なんか、知的そうなイメージじゃない? 本屋にいそうな感じ」

 祖父は上瞼を上げながら首を捻った。ゴリゴリと骨がぶつかり合うような音が鳴った。

「色は?」

「うーん……お任せで」

「よし分かった。あとは任せとけ。レンズの度はあの紙で分かったからな」

「オッケー、楽しみにしとくわ」




 あっという間に三年が過ぎ去り、再び雄星は受験対策に勤しむ日々がやってきていた。

「じいちゃん、正さんとこが眼鏡の調整に来てくれたよ」

「おお、本当か? 久しぶりだな」

 ソファの上で昼寝をしていた祖父は肘置きに手を添えてよっこらせと立ち上がり、杖を突きながら店へ出ていった。

 雄星は、その様子を曇った目で見つめていた。


 ガシャン!

 丸テーブルが大きく揺れた。グラスに入ったビールが溢れた。サラダに入ったトマトが飛んだ。長く使っている茶碗が転げ落ちて割れた。

「なんだこれ! おい、どういうことだ?」

 父が再び両手でテーブルを叩いて叫んだ。

「何が? うるさいんだけど」

「この進路希望だ! 何だ、書店員とは。待遇も低くて肉体労働で趣味の無い人間が集まる書店だと? ふざけるのも程々にしろ!」

 雄星は耳を塞いで、すました顔をしていた。

 目線を食卓の大皿に向けながら、水をグイッと注ぎ込む。入りきらなかった水が口から垂れた。

「あなた、いい加減に」

「小学校の時、卒業式で『大きくなったら店を継ぐのが夢です』と言っていたのは嘘だったのか?! 父さんはそれが嬉しかったのに!」

 その一言で、雄星の眉が尖った。

「じゃあ聞くけどさ、父さんの将来の夢はスーパーヒーローの赤だったんだろ? どう考えても実現してないじゃないか」

 わざとらしく、雄星は鼻で笑った。再び注いだ水が小さな波紋を立てて、ガラスの壁まで広がってゆく。

「こんな将来性も無いような店じゃあ、ちょっと希望、持てないよね。僕は元来、本が好きだから、その道を進むまでの話さ。第一、憧れたのは父さんじゃない、じいちゃんなんだよ」

 嘲るように吐き捨てた途端、パシン、と不思議なほど耳にスッと入る鋭い音がした。頬の辺りがジンジン熱くなった時、やっと雄星は頬をさすって、その音が自分のものだと知った。

「……もう、お前と話すようなことは何もない」

 父は雄星の茶碗を片手に持って、床に叩きつけた。

 パキン、と茶碗は四つにぽっかり割れた。眼鏡がデザインされた面が、真っ二つに分離していた。


「……じいちゃん、起きてる?」

「お、おう、どうした雄星、えらく浮かない顔してるじゃないか」

 痩せこけた顔の祖父が、布団から身体を起こして言った。目が二重で開ききっていないのを見て、雄星はバツの悪そうに、夕食の時のことを話した。

「そうか。……お前の父さんも馬鹿らしい男だわな。それは、じいちゃんの教育不足だからだ」

 少し残念そうな顔をして、俯き加減で祖父は言った。

「だから、お前の父さんの罪は、教育したじいちゃんにも責任がある。それは、詫びなければならん」

 すまなかった、と祖父はしわの寄った額が敷布団に触れるほど深く頭を下げた。

 部屋で過ごすことが増えた祖父の頭は、髪の面積が随分少なくなったように見えた。

「いや、じいちゃんが謝るようなことじゃ」

「だから、その詫びとして言う。眼鏡屋は、継がんで、いいっ」

「……え?」

 力を込めて祖父が言ったセリフに、雄星は少々拍子抜けした。

「好きなように生きろ。いくらでも失敗すればいい。やりたいことをするんだ。未来のことなんぞ考えんでも、なるように流れる。やりたいことを無我夢中でやればいいんだ。……分かったな?」

 雄星は目頭がジワッと熱くなるのを不覚にも感じた。ひとつ、唾を飲み込むと、拳を握り締め、力強く頷いた。



 ***



「この眼鏡は、じいちゃんが作ってくれたやつだったんだよ」

「え、なら、そんな大事なものを……」

 息を止めた和花の頭を、雄星はそっと触った。

「ありがとな、眼鏡、無くしてくれて」

「……え?」

「あれから三日後に、じいちゃんは肺ガンで死んだんだ。最後に言いたいことを僕に言ってから死んだんだろうな。元々、長くはないって分かってたけど、時期が時期だったからさ、僕はなかなか立ち直れなかった」

 そう語る雄星の顔は、どこか晴れ晴れしていた。

「それで、眼鏡は中三の時からずっとこれだったんだけどさ、ずっとやっぱ、じいちゃんを引きずってたんだよな。憧れの人だったから。……でも、眼鏡が無くなって、やっとじいちゃんと離れられた気がする。じいちゃんには、この瞬間までたくさん背中押されてたけどさ、そろそろちゃんと自分で生きないとな」

 だから、今から僕はここから補助輪無しだ、と、お気に入りの曲の歌詞を雄星はメロディーを付けながら言った。

「ま、代わりの眼鏡はどのみち必要だからさ、和花、甘えるわ」

「へ?」

「とびきり高いの、よろしくな」

「え、えぇっ?!」

 その反応を見てカラカラ笑う雄星の顔は、爽やかな青春を生きる男の顔だった。

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『移動書店・BOOK MARKのあるフシギ』 DITinoue(上楽竜文) @ditinoue555

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