第十七話 天つ空に星は輝きて

 五月晴れ――とは、誰が言い始めたのだろうか。

 朱雀大路での一件から十日後――、全快した青年は茵から起き出して、妻戸を開けた。

 数刻前から低く垂れ籠めていた鬱陶うつとうしい雨雲は、くんぷうに追われるようにして姿を消していた。今や昊に残る雲は所々綻びて、洗いすました青空がまばゆく広がっている。

 室に戻ってからびつを開けた彼は狩衣に着替え、髪を手で梳いた。

 本当なら四条家に赴き、荷葉の様子を見に行きたいが、四条家の媼は青年の訪問を快くは思わないだろう。

 破軍星の姫は、好む好まざると妖を引きつける――そこに半妖である己が近づけば、その可能性は高まる。しかも、陰陽師とならば。

 いつもの朝なら賑やかな雑鬼たちに起こされるのだが、あの一件から顔を見ていない。 百鬼夜行に加わったことで祓われると隠れたか、それとも他に手頃な住み処を見つけたか。それはそれで、静かになっていいのだが。

『晴明さま、お客様がお越しです』

 蝶の式・たまむしが、あさを済ませた青年の前で来客を告げる。

「客……?」

 どこぞの貴族が、霊符の依頼に使いを寄越してきたか――、朝から迷惑な客である。帰ってもらえと言おうとしたとき、軽快な足音が近づいてくるのがわかった。

(あいつか……)

 嘆息して視線を廂に向ければ、やって来た訪問者――藤原冬真の姿が視界にとまった。


         ◆


 かの一件後――謎の法師・延慶の本当の名前が、小波令範であると判明した。

 五十年前、殺生石を王都に持ち込み、王都を地獄の底に沈めようと画策したとされる男である。かなりの呪力ちからを有していたそうだが封じられ、配流されたと晴明は聞いている。

 しかし、五十年前である。

 現在の彼の年齢としは九十近いという。晴明は直接顔を見たわけではないが、延慶はどう見ても晴明や冬真よりやや上。調べた結果、己の躯を若返らす呪法があるらしい。

 百年越しの怨讐――師・賀茂忠行が、険しい表情かおで唸った姿が思い出される。

 殺生石を砕いても、小波令範をたおさない限り、王都は再び危機に呑まれる。

 穢れなき無垢な命が、危険に晒される。

 人に手をかけるのは、陰陽師としての矜持が許さない。逡巡の末に荷葉は令範に浚われ、姫の躯に鬼が入ってしまった。


 ――あなたの所為です。安倍晴明さま。


 四条家の、おうなが浴びせてきた言葉は正しい。

 荷葉は再び危険な目に遭う。そういう星に生まれた姫。

 この身は半妖、己の背負ったさだめも変わらない。一度逃げ出したことはあったが。

 晴明は土器かわらけを手に、視線を上げた。

 開けた半蔀から陽射しが射し込んでいて、床には四角い日だまりができている。

「いい天気だ」

 冬真が土器を口に運んで笑う。

「ああ……」

「四条家へ行ってやれよ」

 晴明が答えるまで、間があいた。

「…………」

「ただ顔を見せてくればいい――俺はそう思う」

 いつもは賑やかな男が、この日は静かだ。

 季節は初夏――荷葉の名を刻んだ香が炊かれる頃。

 それはおそらく、晴れ渡る蒼穹の如く、濁りのない薫りなのだろう。

 耳朶に触れるふうせいが、晴明に問いかける。


 問う。お前はだれだ?

 問う。お前は何者だ?

 なにゆえ、いま生きている?

 なにゆえ――戦う?

なんのために、戦うか?


 ――私は。


 晴明が四条家へ赴いたのは、それから三日後のことだった。


     ☆☆☆


 叶わぬ――と思っていた。

 七殿五舎・昭陽舎に女房として仕え始めて一年、心の中に生まれた小波さざなみ

 それがなんなのか、彼女は最初はわからなかった。

 御簾の前で、他の女房たちが殿方に心を時めかせていても、真面目なかの姫はその輪に入ることもない。

 恋をしても叶わない――そう思っていたから。

 何れは姫のおうなと同じく、婿を迎え、家を継がねばならぬ。

 それに対して父・中納言惟道は何もいわないが、媼は明らかに期待している。

 良き縁を結び、家を栄えさせる――それが貴族の家に生まれたもののさだめ。

 なのに――逢ってしまった。

 きっかけは、些細なことだ。

 一度だけ――、そう一度だけ。

 想う心をそっと奥にしまい、姫は鏡の中で笑顔をつくる。偽りの笑顔を。

 姫にとって、その男の存在はあまそらに輝く星のようなもの。姫の中で常に碧く輝く星、だがその星は掴むことはできない。

 姫の背負ったもう一つのさだめに、その男を巻き込んでしまうから。

 もう逢ってはいけない。

 なのに――その男の声を聞いた。

 触れあうほどの近さで、彼が姫の名を呼んだ。


 ――荷葉どの。


 夢――だったのかも知れない。

 荷葉は、その男の顔を見ていなかったのだから。

 目覚めたら、自邸の茵にいた。

 父や媼は、ずっと眠っていたと語る。

 

「姫さま、安倍晴明さまがお見舞いにお越しになりました」

 几帳越しに告げる女房に、荷葉は弾かれたように顔を上げる。

 そしてその人物は、いつも変わりなく荷葉の前に現れたのだった。


                  ◆


四条中納言邸――。

 半蔀からの流れ風が柱の間を吹いて、うす甘い凌霄花のうぜんかずらの匂いが鼻を擽った。庭の何処かに咲いているのだろうか。

 庭の緑は微睡まどろむような静けさで風に吹かれ、へやに入ってくる光は几帳の花模様を揺らしていた。

「お加減はいかがですか? 晴明さま。怪我を――されたと聞いております」

 白の単衣に淡紅梅たんこうばい、紅梅に薄青と若菖蒲の襲を纏った荷葉は、檜扇で顔の半分を隠していた。どうやら元気そうだと安堵して、晴明は笑んだ。

「たいしたことはございません」

「それはようございました」

「本来ならば――逢わぬのは身のためと思っていました。荷葉どのもご存じのようにこの身は半妖、陰陽師という職柄、異界のモノに更に近い」

「晴明さま、おばあさまの非礼、お許し下さいませ」

「わかっております。媼どのいうことは決して間違ってはいません。荷葉どのを護りたいのは、当然のこと。なれど――人では荷葉どのは護れないモノがあります」

「わたしが――破軍星だからですか?」

 破軍の星は凶星――、天がさだめし運命は人の力では変えられない。

 晴明は、四条家に赴く決意に至る前に葛藤した。

即座にその場を飛び出してしまいたい衝動と、もっと巧みな手練手管で他に手はないかという冷静な思慮とが激しく戦い合った。結果、晴明が導き出した答えは――。

「今後――、荷葉どのを危険に巻き込むことは致しません」

「晴明さま」

「あなたは――この安倍晴明が必ず護る」

 この言葉は、四条家の媼にもいった言葉である。

 四条家を訪れたとき、媼は最初は晴明を責めた。

 しかし何かしらの心の変化があったのか、晴明の決意を聞いた媼はそれ以上はなにも言うことはなかった。

 すると荷葉が座す傍らから、雑鬼が顔を出した。

 荷葉は彼らを、友達という。

 愛嬌のある顔をした雑鬼で、百鬼夜行に誘われたと晴明邸にやって来た中にその雑鬼もいた。ただ彼は、別の依頼をしてきた。


『姫を助けてくれないか?』


 雑鬼が天敵にも等しい陰陽師に頼み事をする――、変わった行為にその時は一笑に付した。結果、姫を助けたのだが。

 彼らのいうことを聞いたわけではないが、人に徒なすモノは祓わねばならぬ。


 ――半妖であるお前が人助けか?

 

 十二天将・十二柱を従えるとき、最後まで不服を言っていた水将・青龍がそう嗤った。

 確かにこの身は半妖、同時に人でもある。

 周りは晴明に厳しいが、逃げることはできない。


 ――なれば人間、たとえ死するような危機にも飛び込む気はあるか? 闇に染まらぬ強き心となるか? 我らは神、生半可な気持ちならば我らは従わぬ。お前の中の闇が濃くなれば、我らは即異界に帰す。

 

 あのときの思いは、今も変わらない。

 さすがに常に不機嫌な青龍が顕現してくると、かなり疲れるが。

「晴明さま……?」

 遠慮がちな荷葉の声に、晴明は「またいずれ」と笑んで立ち上がった。

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