第十八話 冬真の縁談

 悲恋の末に冥府へ向かった幽鬼を見送って半月、都にも湿った風が吹くようになった。

 依頼された霊符を届け、邸の門を出た晴明は、昊を見上げて眉を寄せる。

 昇った月は霞がかかり、雨が近いことを報せている。

 気まぐれな昊の神が雨を降らせねばいいがと思いつつ、晴明は辻を曲がって大路に出る。が、それは儚げに揺れていた。

 やれやれ。

 晴明は大儀そうに髪を掻き上げる。烏帽子もつけずまげも結わえぬ彼の髪は、さらさらと纏う狩衣で音を立てた。

 見なかったことにして通り過ぎるか――、晴明はそれを一瞥してそう思うも、邸までついてこられても困る。

 ユラユラと揺れる白い影、かなり透けているが、影は幾度も人の形を成しては崩れる。

 やっと幽鬼を送ったというのに、またも別の幽鬼に遭遇してしまった。

 この現世になにかしらの未練があるのか、彼岸に渡ることを躊躇ためら理由わけは、彷徨さまよこんぱくそれぞれ。中には鬼と化し、人に仇なす怨霊となるモノもあるが、彼が出会ったそれはもはやその力もなく、透けた状態で揺れている。

 出会ったのが鬼や妖でなかったのが幸いだが、ゆうも放っておいていい存在ではない。冥府へ送るのも彼――、陰陽師・安倍晴明の務め。

「これも縁だ。話ぐらいは聞いてやるぞ」

 晴明の言葉に白い影は大きく揺れて、


「あぁ……嬉しや」


 声はたった一言。ざっと吹いた風に影は飛ばされて、もうそこには誰もいなかった。

――無事に、冥府へ辿り着けるだろうか。

 あの幽鬼は、誰かに気づいて欲しかったのだろう。この現世に確かに存在していたのだと、誰でもいい。気づいて欲しかった。

 あくまで推測だが。

晴明の邸は、一条大路を更に進んだ堀川近くにある。

 ここもある意味、此岸と彼岸の境界であり、異界へ繋がる場所でもある。夏になれば賀茂祭で賑わうが、夜となれば異界の住人が平安王都をかつする。

 自邸に戻った晴明は、板敷きの床に設えた畳に腰を下ろし息を吐いた。幽鬼の霊気にあたったせいか、躯も冷えて疲労も襲う。

 これでは、すぐには寝付けそうにもない。

 幸いにも、くりやに下げられぬことがなかったへい土器かわらけがあった。

 土器を口許に運んだ瞬間、燈台の灯が揺れた。

 妻戸も蔀も閉じられ、外気からの風は遮断されているにも関わらずにだ。だが晴明は、気には止めることはない。彼にとっては、いつものことだからだ。

 まもなく聞こえてきた衣擦れに、晴明は胡乱に目を眇めた。

「消えろ。ここが誰の邸か知らぬわけではあるまい」

 だがその衣擦れは、まっすぐ近づいてくる。

 人がやって来た気配はなかった。門扉を叩く音もなかった。そもそもこくを過ぎて人の邸を訪ねようとする人間は、常識があればまずいない。

 晴明は視線を上げなかったが、緋袴と深紅の袿が目に入った。

 やって来たのは女のようだ。しかも妖気をたっぷりと含んでいる。

「喰う相手が違うのではないか?」

 幽鬼で出くわしたと思えば、今度は妖が乗り込んできた。

 陰陽師という職柄、避けられない存在ではあるが、おとなしく喰われてやるつもりはない。懐には常に呪符が忍ばせてあるのだ。

 女は晴明の横に座ると、躯を預けてきた。

 女の妖気もそうだが、強い花の薫香に眩暈めまいを覚える。仕掛けてくるか――成り行きに任せていたのがいけなかったようだ。

 女の手が晴明の頬を撫で、首筋に女の息が掛かる。

「いい加減に――……」

 晴明は、女の目を見てしまった。深い闇の底のような目を。

 ――しまった……。

 後悔するも、躯は動かず、意識が揺らぐ。

 女が嗤った。妖艶に且つ美しく。

 晴明は、そのまま意識を手放した。

 

         ☆☆☆


『とんだ為体ていたらくだわ……』

 こめかみを手で押さえ、赤毛の女が嘆く。

 彼女は素肌に肩当てなど身につけ、耳と腕には金の飾り、身の丈ほどの薄い領巾を腕に絡ませている。

「うるさい。人の傷を突くな、たいいん

 渋面で唸る青年に、太陰の言葉は容赦がない。

『あら珍しい。あなたでも傷つくことがあって? 晴明』

 太陰は、晴明が使役する最強の式神・十二天将の一人である。

 十二天将は陰陽師が使う占具・六壬式盤ろくじんしきばんにその名を刻まれ、陰陽師ならばその名を知らぬ者はいない。ただ、実際にその姿を見たのは晴明だけだろう。

「お前たち……、私をなんだと思っているんだ……?」

『神使いが荒くて性格も最低、態度が大きくて無愛想、それと――』

 これでもかとけなしてくる天将に、晴明は怒る気も失せた。何しろ使役しているといっても、相手は神だ。

「もういい……」

 すると、太陰の語気が弱まった。

『それでもあなたは、私たちの主だわ』


 今朝――晴明は茵以外の場所で目が覚めた。軽い眩暈と疲労感にやっと身を起こすと、十二天将・太陰が睨んでいた。

 理由は聞かなくてもわかった。晴明すらもできれば消したい昨夜の失態は、陰陽師としてはありえぬことだ。

 妖の呪力に落ちた晴明を、太陰はどう見ていたのだろう。

 喰われずにすんだのはありがたかったが、かなりの有力を宿した妖であったことは、ごっそりと削がれた躯の疲労感からわかる。

 あれは恐らく、小波令範が放った〝式〟。

 女の姿ゆえ、晴明の反応が遅れた。


 ――お前には何も救えぬ。安倍晴明。


 女が嗤ったあと、男の声が重なった。

 意識を失う前に聞いたその声は、〝彼〟だろう。

 晴明は頭を振って、しとみを明けた。

 一気に流れ込んでくる陽光に目を伏せ、風に几帳も揺れた。

 この体力では出仕してもろくな働きにはならない。そう判断した晴明は、物忌みと称して一日、邸に籠もることにした。



 藤原右大臣家では、冬真が眉を寄せていた。

 淑景舎しげいしやから里下がりをしていた従姉・章子が、檜扇越しに睨んで来る。

「……薮から棒になにを言い出すかと思えば……」

「私は至って真面目よ。相手は高階家の一姫・澪さま」

「あの――長橋局ながはしのつぼねさまですか?」

 七殿五舎の女房たちの中で、妃候補となれる女房の位は、典侍すけ掌侍ないしみようだという。 典侍は七人で、典侍の頭が大典侍おおすけで、新大典侍しんおおすけけんちゆうごん典侍すけさいしよう典侍のすけと続くらしい。掌侍ないしは四人で、筆頭がその長橋局である。

 長橋局は女官の取り締まりや、外との交渉の事務一切を取り仕切り、関白ですら帝に何か奏上するときは長橋局を介する。

 問題はその長橋局が、従姉・章子以上の性格をしていたことだ。

 帝であろうと叱り飛ばすという彼女の武勇伝は、近衛府にも聞こえていた。

 よりにもよってその彼女と、見合いせよとは。

 確かに彼女の性格に太刀打ちできる殿方は、多くはないだろうが。

 渋面を作る冬真を、章子は「嫌だと言えば承知しない」と言わんばかりの視線を寄越してくる。

  長橋局こと高階澪の父・高階斉昭は伊勢守を代々歴任し、斎宮(※伊勢神宮)の斎王に仕えていたこともあって、帝の信も厚い。

 晴明なら助けてくれると思えば――。


「よかったではないか」

「お前なぁ……」

 晴明はこの日も、式盤を睨んでいた。

「なにが不服だ?」

「お前、この前俺に女難の相があると言っただろう?」

「それが高階家の姫だと?」

「あの関白さまでさえ手こずる長橋局だ……」

「お前にも怖いモノがあったんだな」

 晴明は他人事である。

 晴明と付き合うようになって妖や鬼には慣れた冬真だが、どうも強い女性は苦手である。 確かに右大臣家跡取りとしては、そろそろ良家の姫と縁を結ばねばならないことわかっているのだが。

 嘆息して見上げた昊は曇天である。

 間もなく、ゆううつ五月雨さみだれとなる。

 ある歌人は、


 おほかたに さみだるるとや 思ふらむ

 君恋ひわたる 今日のながめを


と恋の歌を詠んだそうだが、和歌が苦手な冬真には何一つ浮かばない。

 さてどうしたものか。

 もう一人、恋に奥手な男はまだ式盤を睨んでいる。

 冬真は何度かしたかわからない溜め息を、ここでも漏らしたのだった。

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