#14 魔法の言葉


 深く息を吸い、目の前の、固く閉ざされた扉に手を伸ばす。

 ノブを握った指先が、小さく震えていることを自覚した瞬間、とん、と肩に大きな手が置かれる。コート越しのその感触に励まされるようにして、ゆっくりと、ドアを、開いていく。


 この前の再現のように、ぱたぱたと、弾んだ足取りで、お母さんが奥から姿を現す。もう何度となく上演を続けているお芝居の始まりの台詞を、お母さんが、いつもの笑顔で口にする。



「お帰りなさい、明葉。……あら、そちらは?」


「音色さん。――お母さん、大事な、話があるの」



 いつの間にか繋がれていた手と手に、お母さんの視線が注がれる。数瞬の間を経て、久方振りに耳にするような、華やいだ声が上がった。



「あらやだ! そういうことなら、事前に言ってくれたらよかったのに! まあ二人とも、上がって上がって!」



 空いた片方の手を引かれるようにして廊下を進み、そのままリビングへと導かれる。いつもの席に半ば押し込まれるように腰掛けてから、そわそわとお茶の支度を始めたお母さんの顔を、見つめた。

 心底嬉しそうな、どこか照れの滲んだその表情に、固く抱いていたはずの決意が、胸の中でしぼみかけていく。


 ――この笑顔を、曇らせたくない。

 ――願わくば、ずっと、このまま。何も気付かないまま、笑っていてほしい。


 手から力が抜けたことを悟ってか、ぎゅっと、繋がれた指先に力がこもる。そのぬくもりに背中を押されるようにして、喉の奥から、懸命に言葉を絞り出した。



「お母さん、話があるの。――わたしは、お姉ちゃんじゃ、ない。『宮澤明葉』じゃ、ないの」


「どうしたの急に、何の冗談? だってあなたは、ここにいるじゃない」



 意を決して切り出しても、以前と同じく、全くお母さんは取り合わなかった。視線すら上げず、コンロの上の小さなケトルの様子を、じっと眺めている。



「お母さん。……もう、お姉ちゃんは、この世にはいないの。八年前の夏に、海で、」「ねえ明葉、あなた本当にどうしたの? ちょっと変よ、お客様もいるのにそんなこと言い出すなんて」



 この子ったら、突然突拍子もないことを言い出すんだから。ごめんなさいね、と困った顔で続けられ、言葉を失う。


 ――ああ、きっと。お父さんも、こんな気持ち、だったのかな。


 何を言っても、聞き入れてもらえない。取り合ってもらえない。拒絶されてしまう。そんな相手に、何を言ったって。


 知らず俯きかけた目を、隣から向けられたまなざしが、引き留める。凪いだ、夜の海の瞳は、わたしを、映している。


 肩までの髪を下ろし、白いセーターと紺色の長いスカートに身を包んだ、わたしを、見つめている。


 その事実に、こころが、すっと静まっていく。



「お願い、聞いて。わたしは、お姉ちゃんじゃないの」


「――じゃあ、あなたは、誰だって言うの?」



 ケトルが高い音を立て、湯気を立ち昇らせる。こちらに視線を向けないまま、お母さんは、カップにお湯を注いでいく。ケトルをコンロの上に置いた瞬間を見計らってから、ひとつ、息を吸い。



「わたしは、妹の、鏡花です。……ごめんなさいお母さん、わたし、ずっと、嘘を吐いてた。お母さんをこれ以上哀しませたくなくて、お姉ちゃんのふりをしてた。でも、それじゃだめだって、ようやく、気付けたの」



 多分、それが、それこそが、その時のわたしにできる、精一杯だったのだ。

 もちろん、今更否定するつもりはない。当時のわたしは、自分ができる最善を選んだ。きっと過去に戻っても、何度だって、わたしは同じ道を選ぶだろう。


 でも、今は。

 いま、このとき、わたしが、願うのは。



「このままじゃ、わたしも、お母さんも、ずっと前に進めない。だから、お願い。お姉ちゃんの代わりにはなれないけど、お母さんが哀しいときは、そばにいることくらいはできるから。……一緒に、一歩だけ、踏み出してみようよ」



「……何を、言ってるの? 明葉」



 ごめんなさい、音色さん。

 一生懸命頑張ってみたけど、やっぱり現実は、物語みたいには、上手くいかないのかもしれない。――なんて、諦めるわけにはいかない。


 なぜなら、あなたがわたしに、教えてくれたから。


 真っ暗闇の中で手を差し伸べてくれたときの、嬉しさを。たとえ拒絶されても届かなくとも、相手に伝えようと言葉を紡ぐ、その強さを。

 与えられるばかりではなく、与えることができるようになりたい、と。守られるばかりではなく、護れるようになりたいと、想ったから。


 もう、諦めない。



「ずっと、一人だけ哀しんでるお母さんは、ずるいって思ってた。だけど、気付いたの。わたしが何とかしなきゃって、思えたから立ち上がれたんだって。でも本当は、わたしだって、卑怯だったの。――わたし、本当は、ずっと、お姉ちゃんみたいになりたかった。お母さんのためだ、なんて自分には言い聞かせてたけど、ほんとうはずっと、大嫌いな自分以外の、誰かになりたかった。だから、お姉ちゃんのふりをしてたの。……でも、でもね。それだけじゃ、なくて。――お姉ちゃん、の、こと、忘れたく、なかったから。こうしてたら、ずっと、お姉ちゃんが、そばにいてくれる気が、したから。お姉ちゃんが、いなくなっちゃったなんて、今でも、信じられなくて。――わたしも、ずっと、目を、背けてた。あんまり哀しいから、受け止められなくて、お姉ちゃんはわたしなんだって言い聞かせて、逃げ出した。……お母さんと、おんなじだよ」



 困惑した顔で、湯気を立てるカップを運ぶのも忘れて、お母さんはわたしを見ていた。その目に理解も動揺も浮かんでいないことを悟り、静かに、席を立つ。



「お母さん、急に色々言ってごめんね。また来るね」


「――待って、明葉」



 引き留めるように伸ばされた手と言葉を受け留め、束の間瞑目する。



「わたしは、〝鏡花〟なの。……ねえお母さん、覚えてる? わたしの名前の由来。――――『貴下あなたは、わたくしを、知りますまい!』」



 それだけ告げて背を向け、ぎゅっと互いに握った手を引いて、歩き出す。リビングの扉を開け、廊下に一歩を踏み出した、その瞬間。





「――――――――忘れ、ません」





 背後で、かすれた、囁くような声が、響いた。

 足が、止まる。呼吸も、瞬きも忘れて、まっしろになった頭の中で、何かを思考しようと試みる。


 ――いま、なにが。

 ――いま、なんて。


 とん、と肩に置かれた手の感触とぬくもりに促され、ゆっくりと、振り返る。

 恐れるように、どこか祈るように、視線を向けた、その先。




 ――お母さんは、わたしを、見ていた。




 先程まで困惑に染まっていた瞳が見開かれ、その最奥に、ひかりが宿る。

 無意識に開かれた唇が、瞳が、肩が、震え出す。いつの間にか小さな皺の増えた手が、口元を覆う。

 自分によく似た淡い色の瞳から、透明な雫が、みるみるうちに溢れ出した。




「……きょう、か」




 震える唇が、揺れてかすれた声が紡ぐのは、間違いなく。




「――――――――鏡花!」




 わたしの、名前だった。



 悲鳴のような叫びの後、その場に崩れ落ちてしまったお母さんの下に、もつれる足で、慌てて駆け寄る。ぼろぼろと涙を零すお母さんは、キッチンの床に額を擦りつけんばかりに、頭を下げていた。



「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! ……わたしの弱さで、あなたを、ずっと苦しませてしまった。本当に、ごめんなさい」


「ね、頭、上げて。わたしはもう、大丈夫だから。――大丈夫、に、なれたの」



 たとえあなたに、忘れられてしまっても。愛されなくても。

 わたしがあなたを覚えていて。愛していれば、それでいい。


 そう、気付けたから。


 笑みを浮かべて、ずっとわたしを見つめていてくれた夜の海の瞳を、見つめ返す。大きな手が、慈しむように頭を撫で、席外してるね、と囁かれる。



「……憶えてるわ。わたしが一番、好きな作家さんの名前を、あなたに贈ったのよ。――鏡花」



 愛おしむように、八年振りに、名前を呼ばれて。

 ひとすじだけ、わたしの目からも、涙が零れ落ちた。





 * * *


 帰り道は、二人とも無言だった。

 けれどそれは、先日のような重苦しい沈黙ではなく、繋いだ指先から何かを共有しているような、どこかすがすがしい静寂だった。


 暮れなずむ街を歩き、途中で少しだけ買い物をしてから、久し振りに、晩ご飯を一緒に作った。他愛のないやり取りをしながら二人で手を動かしているうちに、鍋から、ふわりとした香りが漂ってくる。


 どこか甘い、醬油と味醂の入り混じった、食欲をそそる匂いに吸い寄せられるように視線を動かすと、そろそろ良さそうですね、と鏡花さんは笑った。その屈託のない笑顔に、澄んだひかりのようなものが、胸の中いっぱいに広がっていく。


 味見しますか、と食器によそわれた肉じゃがを箸で持ち上げ、自分が剥いたじゃがいもの形のあまりの不格好さに、これひどいな、と思わず苦笑を零す。大丈夫です、味がよく染みますから、と微笑んだ鏡花さんが、ふっと、視線を鍋に戻した。



「わたし、思い出したんです。どうして、お料理を作るのが、好きになったのか」


「……何か、きっかけがあったの?」



 浮かせていた箸を戻し、俯いた鏡花さんの方に、静かに向き直る。小さく頷いた鏡花さんは、懐かしい記憶をたどる声音で、ゆっくりと語ってくれた。



「はい。姉と――お姉ちゃんと、ある年に、母の日に一緒にお料理を作ることにしたんです。いつもお母さんが美味しいご飯を作ってくれてるから、たまには私たちがご馳走しようって、お姉ちゃんが提案してくれて。二人で一緒に、晩ご飯を作ったんです。そのとき、お姉ちゃんが作った肉じゃがが、本当に、美味しくて。お母さんもお父さんも、わたしも、作ったお姉ちゃん自身もびっくりするくらい、美味しかったんです。お母さんも、『またお母さんも作りたいから、どうやって作ったのか教えて』って言ってくれたくらいで。でも、作り方は、わたしとお姉ちゃんだけの秘密のままでした。それから毎年、母の日には、肉じゃがと、出汁巻き玉子を作るのが、わたしたちの定番になりました」


「お姉さんと、ご家族との、大切な想い出なんだね」



 ――今日は、肉じゃがと出汁巻き玉子を、作ってもいいですか?


 珍しく希望を伝えてくれた彼女の意図に、遅ればせながら思い至り、手の中の小皿と、玉子焼き器の中で黄金色に輝く出汁巻きを、じっと見つめた。



「そうですね。――今でも、この肉じゃがを作っている時は、お姉ちゃんのことを、あの頃のことを、想い出します。……お姉ちゃんがいなくなってしまってから、お母さんは、何も食べられなくなってしまったんです。あまりに哀しくて、何もかも、生きることすら拒絶してしまっているような状態で、身体もすごく、衰弱していて。病院に入院する寸前だったんですけれど、ある日、そうだ、って思いついて、お姉ちゃんの肉じゃがを、作ってみたんです。そうしたら、今まで何を作っても反応すらしなかったお母さんが、顔を上げて、『肉じゃが』って呟いて。一口だけ、食べてくれたんです。そうしたら、『明葉の、肉じゃがだわ』って、瞬きをして。――『美味しい』って、言ってくれたんです。それが、嬉しくて。食べてくれたことが、本当に嬉しくて。……それが、お料理に特別な思い入れが生まれた、瞬間だったような気がします」


「……そっか。心していただくよ」



 小皿のじゃがいもと肉をひとくち噛み締め、思わず、目を見開いた。



「――うわ、本当に、美味しい」


「よかったです」



 ほんのりとしたやわらかい甘さと、醤油の風味が絶妙に絡み合った味付けに、箸が止まらなくなって、しばし無言で食べ進める。ほどなく小皿を空にしてから、少しだけ緊張しつつ、口を開いた。



「……ねえ鏡花さん、一つだけ訊いても?」


「どうぞ、何なりと」


「お姉さんと鏡花さんだけの秘密だから、答えてくれなくても大丈夫なんだけど。……この肉じゃが、隠し味に何か入れてる?」



 この後を引く味わいの秘密を知りたい、という好奇心に駆られつつ、そんな軽々しい気持ちで訊くのは申し訳なかったな、と少しの罪悪感に襲われる。しかし鏡花さんは、口の端に笑みすら浮かべて、あっさりと答えを口にした。



「――メープルシロップ、です。ちょっと意外ですげど、和食とも合うんですよ。やわらかい風味になりますよね」


「なるほど……。鏡花さん、大事な秘密を教えてくれてありがとう。でもなんで、メープルシロップを入れようと思ったの?」



 その組み合わせは全く思いつかなかった、と内心で膝を打ちつつ、素朴な疑問をそのままぶつけた。



「本当に、その場の思いつきだったんです。肉じゃがの味付けをしようとした時に、たまたま砂糖を切らしていて。父がお土産でもらってきたメープルシロップが残っていることを思い出して、『お姉ちゃん、あれ入れてみようよ!』って試しに入れてみて、それが結果上手くいったという、いわば偶然の賜物ですね」


「へえ、面白いね。ないものを代用したことで、結果的により美味しいものを生み出せたんだ」


「そういうことです。以来わたしも、いろいろなものをお料理に入れてみることにはまってしまいまして……たまに、とんでもない失敗をやらかしてしまったこともありましたけど」


「鏡花さんでも、料理で上手くいかないことがあるの?」



 下ごしらえをしながら、自分に助言をしつつ、鍋の火加減の調節と洗い物まで魔法のような手際でやってのける鏡花さんは、失敗とはおよそ無縁に思えて、つい訊き返す。



「それはもちろん。一番悲惨だったのは、セロリを一本丸ごとスープにしてしまった時でしたね……セロリに罪はまったくないんですけど、いかんせんわたしには風味が強すぎて、半泣きで三日間かけて飲み切りました」


「俺は多分セロリ食べたことないけど、そんなに凄いんだ?」



 遠い目をした鏡花さんに、興味半分、恐れ半分で尋ねると、深々とした頷きが返ってきた。



「それはもう。一口で心が折れました」


「逆に食べてみたくなったな」


「いいですよ。今度作りますから、覚悟しておいてくださいね?」


「……お手柔らかにお願いします」



 若干慄きながら呟くと、ふふ、と楽しそうに微笑んだ鏡花さんは、不意に、囁くように、声を落として。




「音色さん。――この肉じゃがの作り方を知っているのは、この世で、音色さんと、わたしだけなので。……誰にも内緒に、してくださいね?」




 人差し指を口元にそっと当てた彼女の、はにかむような、淡い笑み。お姉さんとの大切な想い出を共有してくれたことに、その表情に、胸がさざめいて。


 敬虔な心持ちで、そっと、小指を彼女に差し出した。




「――はい、誓います」




 それはさながら、神様の前で宣誓するかのような、響きで。

 目を瞠った彼女に、そして今もどこかで見守っているであろう彼女のお姉さんに誓いを捧げるように、細い小指に、自分の小指を絡めて。


 それからちいさく、笑い合った。


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