#13 偶像


 ――ずっと、〝普通〟に、憧れていた。


 物心ついた頃から、人の目を見るのが怖かった。誰かから、視線を向けられるのが嫌だった。話をするのが、苦手だった。


 始めから、集団の中で浮いていた。同じ説明を、指示を受けたとしても、わたしだけは、すぐにあれこれと喋りながら動き出す周囲の流れに、ついて行くことができなかった。今の言葉はいったいどういう意味なんだろう、これからどうすればいいんだろう、と考えて立ち竦んでいるうちに、他の人たちの背中は、どんどん遠ざかっていって。


 一人だけ、暗闇の中にぽつんと取り残されるようなその感覚が、ほんとうに、おそろしかった。


 何をするにも不器用で、人より遥かに時間がかかった。折り紙ひとつ折るにしても、周りのみんなが次々と手順をこなしていくのを目にして、終わっていないのは自分だけだと気付いて、焦って。頭の中が真っ白になって、指先も、上手く動かせなくなって。


 ――鏡花ちゃん、まだ? 

 ――鏡花ちゃん、早く。


 無邪気な声が、視線が、身体中に突き刺さってくるようで。他の人と同じようにできない自分が、恥ずかしくて仕方なかった。


 最初は、みんな、やさしかった。こうやるんだよ、と教えてくれる親切な子もいた。けれど、二回、三回と同じところでつまずくたびに、同じ過ちを繰り返すたびに、その表情には、苛立ちと呆れが浮かんでいった。


 ――なんで、同じことができないの?

 ――どうして、みんな簡単にできることが、きみにはできないの?

 ――みんな当たり前にできることができないなんて、おかしいでしょう。


 やがて、苛立ちは嘲笑に変わり。呆れは、憐憫に姿を変える。

 嘲笑は、排斥を呼び。憐憫は、「あの子には期待しないであげようね、可哀想だから」と、触れない優しさを生み出して。


 ああ、わたしは、みんなとは〝違う〟のだと、自分は劣っているのだと、人生の始めの段階で、思い知った。


 だから、他人の存在も、行動も、言葉も、〝普通〟で在れない自分を、鏡のように映し出しているように思えて、息をするだけで苦しくて。



 唯一、深く息を吐くことができたのは、お姉ちゃんの隣にいるときだけだった。



 お姉ちゃんにだけは、視線を向けられると嬉しくて、こころがふっと、解けていって。

 お姉ちゃんだけは、わたしがどんなに失敗をしても、呆れも笑いもせずに、そばにいてくれて。

 お姉ちゃんだけは、いつだってわたしに、やさしかった。


 身体が弱かったわたしが寝込むたびに、友達との遊ぶ約束を断って、飛んで帰ってきてくれた。風邪がうつるからやめなさい、と言われても、わたしの好きな、二つに折って食べるチューブ状のアイスを、こっそり部屋まで持ってきてくれた。細い腕で、顔が赤くなるくらい力を入れて、一生懸命割ろうとしてくれた。

 結局上手く折れなくて、鋏を使って真ん中を切ったら、水色の雫が、布団の上に零れてしまって、慌ててティッシュで拭った。それから二人で、お母さんには内緒だね、と笑い合って。


 ――おねえちゃん、ありがとう。


 ささやくように告げると、お姉ちゃんは何度か瞬きをした後、はにかむように口元をほころばせて、まぶしいものを見るように、少しだけ目を細めて。


 ――どういたしまして。

 ――そうだ、いつものおまじない。

 ――あついの、いたいの、飛んでいけ! 

 ――きょうか、もうだいじょうぶだからね。すぐよくなるよ!


 お姉ちゃんはいつも明るくて、楽しくて、やさしくて、そこにいるだけで、みんながつい笑顔になってしまうような、溌溂とした魅力があった。人望があって、話を盛り上げるのが上手で、運動も勉強もできて、でもちょっとだけ抜けているところもあって、とにかく人を惹き付けずにはいられないような存在だった。


 わたしとお姉ちゃんは何もかも正反対だったけれど、互いのそばにいるときが、いちばん落ち着いていられた。多分それは、お姉ちゃんも、同じだったのではないかと思う。


 お姉ちゃんは、わたしと二人でいるときは、静かだった。ぽつりぽつりと話をしたりもするけれど、友達やお母さんやお父さんといる時に比べると、格段に口数が少なかった。

 一度だけ、その理由を尋ねてみたことがある。ややあってから返ってきたお姉ちゃんの答えは、簡潔なものだった。


 ――鏡花だけは、わたしに何も、望まないから。


 少しだけ目を伏せてそう告げたお姉ちゃんの表情は、どこまでも静かで、なぜか、ひやりとしたものが心の奥底を過ぎっていったことを、覚えている。


 同時に、ああ、一緒なんだ、と安堵して。


 ――お姉ちゃん、あのね。


 お姉ちゃんだけは、わたしになにも、望まなかった。〝普通〟であることも、自分と同じように振る舞うことも、同じ価値観を持つよう要請することもなく、そのまなざしは、ただわたしを包み込むように、見つめていてくれた。


 それが、どれだけ、嬉しかったか。


 ――わたし、お姉ちゃんが、だいすきだよ。


 たとえ、誰もが認める優等生ではなくても。何でもできる、万能の頼れるお姉ちゃんじゃなくたって。そんな要素は、わたしにとって、お姉ちゃんを彩る衣装に過ぎないのだと、ただそばにいてくれるだけで嬉しいのだと、伝えたくて。でも、幼いわたしは上手く言葉を見つけることができなくて、そう告げるだけで精一杯だった。


 それでも、聡いお姉ちゃんは、たどたどしい言葉に込められたわたしの想いを、いつだって汲み取ってくれて。


 ――ありがとう、鏡花。わたしも、そのままの鏡花が、大好き。


 たった二つしか違わないのに、その手で何もかも包み込むように、わたしの頭を、撫でてくれたのだ。





 そうやって、いつも、守られてばかりいた。


 かつて一度だけ、わたしの将来を案じたお母さんが、『どうして明葉みたいにできないのかしら』と、ぽつりと零したことがある。


 周囲と同じように振る舞うことを期待されているのだと、わかっていた。そうしなければ集団から疎まれることも、排斥されるのだということも、だからこそ案じてくれているのだということも、理解していた。でも、それらの期待と不安を悟っていたからこそ、わたしはお母さんの前で、ことさら上手く振る舞うことができなかった。


 お母さんの言葉を聞いていたお姉ちゃんは、静かに。けれど、底に溶岩のような怒りをはっきりと湛えていることがわかる声で、きっぱりと告げた。


 ――どうしてそんなこと言うの。鏡花は鏡花でしょう。わたしみたいになる必要なんてない。


 行こう、と告げてわたしの手を引いてくれたお姉ちゃんは、全身から炎のような怒気を迸らせていた。今まで見たことがない剣幕に驚きつつ、玄関から外に飛び出したお姉ちゃんの後に、ついて行く。


 ――お姉ちゃん? どこ行くの?


 その問いには答えず、ずんずん進んで行くお姉ちゃんは、道の角を曲がり、家が見えなくなった辺りで急に立ち止まった。振り向いたその目や頬の辺りに、先程の厳しい表情の名残が浮かんでいて、小さく息を呑むと、お姉ちゃんはすぐに口元をほころばせた。


 ――鏡花、さっきのこと、気にしなくて大丈夫だからね。

 ――うん。お母さんが心配してくれるんだって、わかってる。

 ――ねえ、鏡花、よく聴いて。


 そう言ったお姉ちゃんは、真剣な目で、まっすぐに、わたしの瞳を覗き込んで。



 ――わたしは、鏡花が何かができるから、好きなんじゃないの。自分に何かをしてくれるから、好きなわけじゃないの。鏡花が鏡花だから、好きなの。ただ、そこにいてくれるだけでいい。


 ――それに、自分で思ってるよりもずっと、鏡花には素敵なところがいっぱいあるんだからね。……傷ついてきたからこそ、誰かにやさしくしたいと思ってるところとか、他の人の気持ちを慮れるところとか、自分の気持ちを一生懸命考えて、まっすぐに伝えてくれるところとか、嘘を吐かないところとか、なかなかできないことでも、こつこつ真剣に取り組んでいけるところとか、誰も見てないところでも頑張れるところとか、人の悪口を言わないところとか、……鏡花?



 突然ぽろぽろと涙を零し始めたわたしの頬を拭いながら、お姉ちゃんは、そっと、花のように微笑んで。


 ――鏡花、大好きよ。わたしが鏡花を好きだってこと、忘れないでね。


 泣かないで、ではなくて、泣いてもいいよ、と言ってくれるひとだった。そういうところも、大好きだった。


 お姉ちゃんは、この世でただひとり、わたしのことを、まっすぐに見つめていてくれるひとだった。


 ――ああ、それなのに。

 ――わたしも、お姉ちゃんのことを、見つめていたはず、だったのに。


 それなのに、わたしは、守られてばかりで。いちばん近くにいながら、何一つ、気付くこともできず、見落として、見過ごして。



 お姉ちゃんを、ひとりで、旅立たせてしまった。





 夏の、終わりだった。わたしが中学二年で、お姉ちゃんは高校一年生だった。

 蝉の合唱が遠く響くなまぬるい教室の中で、台風で休校になった分の振替授業を受けていた時だった。



『宮澤、ちょっといいか』



 突然教室の前側の扉から姿を現した担任に、暑さでだれかけていた教室の空気がざわめいた。クラス中の視線を感じつつ、いったい何だろう、と身を縮めながら、担任の下へと向かう。

 すぐさま扉を閉めた担任は、血色の失せた真剣な面持ちで、声を潜めて続けた。



『今すぐ荷物を持って、家に帰りなさい。……タクシー代はあるか?』


『え?』



 そもそも、自転車で通学しているのに、タクシー代がいくらかかるのかなんて、わかるはずがない。それに、今すぐ帰れと言われても、事情が全くわからない。

 担任もすぐに気付いたようで、あー、と、呻き声のようなものを上げて、宙に視線を彷徨わせた。



『とにかく、タクシーを呼んだから、今すぐ荷物をまとめて来なさい。足りなけりゃ俺が払うから』


『……はい』



 心が不穏にざわめきはじめるのを感じながら、席に戻り、手早く荷物をまとめた。周囲で何事か囁き合っている気配を感じたけれど、早鐘を打ち始めた心臓の音の方が大きくて、あまり気にしていられなかった。



『荷物、大丈夫か』


『はい』



 言うが早いか、ぱっと背を向けた担任の後を小走りで追う。クーラーのついていない廊下は焼けるような陽射しが射し込んでいて、すぐに身体が汗ばんできた。



『……先生、何があったんですか』



 担任は、無言だった。黙ったまま歩き続けて、校門の前で停まっている黒いタクシーの数歩手前で、おもむろに足を止めた。



『宮澤、落ち着いて、聞いてくれ。さっき、お父様から連絡があってな。……宮澤の、お姉さん、が――――――――――――――』




 蝉時雨が、止んだ。




 うそだ、と思った。けれど担任の痛みをこらえるような表情を見て、ああこれは質の悪い冗談じゃないんだな、と他人事のように考える。


 そこからの記憶は、断片的で、混沌としている。


 気付けば家に帰っていて、獣のように慟哭するお母さんの背を、お父さんが必死に抱き締めていて。


 二人とも、朝に顔を合わせてから数時間しか経っていないのに、一気に十年も年をとってしまったような、やつれた、白い顔をしていて。



 ――鏡花、あなた、何も聞いてないの?



 すがるような、責めるような口調に、お父さんが、やめなさい、と窘める声が遠く、響いた。


 友達と旅行に行くのだ、と言っていた。心から楽しそうな笑顔で、お土産は何がいい? と、雑誌を片手に尋ねてくれた。


 ――これなんかどう? このイヤリング、鏡花に似合いそう!


 ぎんいろの、丸いイヤリングの写真が、お姉ちゃんの笑顔が、明るい声が、次々と蘇って。


 ――なにも、聞いてないよ。


 まるで現実感のないまま、よくできた夢でも見ているかのような心地で、呟いた。





 どこか覚束ない記憶に残っているのは、お父さんの、鏡花は家で待ってなさい、という言葉。


 ――鏡花は、家で待っていなさい。……きっと明葉も、鏡花には、綺麗な顔を、覚えていてほしいだろうから。


 絞り出すように付け足された言葉に、ふと、昔お姉ちゃんと見たある光景を、思い出した。



 夏、だった。

 強い、目を刺すような異臭が、漂っていた。

 魚を捌いている時よりも数段強烈な、いきものの、血と、なにかのにおい。


 ――鏡花。見ちゃ、だめ。


 ため池の中、水に膨らんで、ぐちゃぐちゃしたものがどろりとはみ出したそれは、腐乱した、犬の骸、だった。



 お姉ちゃんは、海で、見つかった。

 それは、つまり。



 ようやくお父さんが言わんとすることに理解が及び、反射的に、口を開こうとした。


 ――わたしも、連れて行って。


 けれど、その瞬間、お父さんの、あまりに悲痛な瞳を、憔悴しきった表情を、目にしてしまって。


 結局わたしは、口を噤んで、頷いてしまった。





 だから、骨になったお姉ちゃんと対面しても、わたしはまだ、信じられなかった。この黄みがかった、小さな骨の持ち主がお姉ちゃんだなんて、まるで思えなかった。


 あのときからずっと、お姉ちゃんは、本当はどこかで生きているんじゃないかって、心の片隅で囁く声が、消えなくて。



 きっとそれは、お母さんも、同じだったのだろう。



 お父さんと一緒に、お姉ちゃんの身元確認を終えてからのお母さんは、魂を失ってしまったかのようだった。事実、そうだったのだろうと思う。愛娘を突然喪って、正気でいられるはずがない。


 だから、仕方がないのだ。


 ――明、葉?


 性格は正反対でも、一目で姉妹とわかるほどに、目鼻立ちが似通っていたわたしたちを、お母さんが見間違えてしまったとしても。

 その瞳に、お姉ちゃんではなく、わたしの姿が映ったことへの絶望と落胆が、浮かんでいたとしても。

 直後に、その感情を必死に打ち消そうとするかのように、罪悪感の滲んだまなざしを、向けられたとしても。


 仕方が、ないのだ。


 だって、わたしだって、鏡写しのように、同じことを考えていたから。


 ――どうして、お姉ちゃんだったの。

 ――どうして、わたしじゃなかったんだろう。





 それからほどなくして、お母さんは、わたしの姿を見ると、嬉しそうに、『明葉』と呼ぶようになった。お父さんは驚き、嘆き、それからお母さんを諭そうと試みた。お母さんは何を言っているのか、ときょとんとした表情で、だってここに明葉はいるじゃない、とわたしを見た。


 絶句したお父さんに、わたしはちいさく微笑んで、それ以上言い募ろうとするのを止めた。


 それから少し経って、お父さんは、会社に転勤願を出してきたと告げた。新しい環境に引っ越して、少しでもお母さんの心を回復させたい、という一心だった。

 けれどお母さんは、頑なに引っ越しを拒んだ。家の中に、口論が絶えなくなった。お父さんが、日に日に憔悴していく姿を見ていられなくて、わたしはある提案をした。


 ――お父さん、大丈夫だよ。お母さんには、わたしがついてるから。

 ――このままだと、お父さんまで倒れちゃうよ。わたしなら大丈夫だから、行ってきて。


 お父さんは、最後まで渋っていた。けれど転勤願を出してしまった以上、やっぱり取り下げます、というわけにはいかなかったから、結局単身赴任をすることになった。


 ――なにかあったら、いつでも電話するんだよ。

 ――うん。


 案じるようなお父さんの表情が、ゆっくりと新幹線のホームから遠ざかっていくのを見送ってから、わたしは急いで、家に戻り。

 深呼吸をしてから、ずっと扉を開けていなかったお姉ちゃんの部屋に、足を踏み入れた。


 部屋の中は、何もかも、お姉ちゃんが出かけて行った、あの日のままで。今にもお姉ちゃんが姿を見せてくれるのではないかと、少しだけ立ち尽くして。


 軋む胸に蓋をして、クローゼットの扉を開け、お姉ちゃんのお気に入りだった、水色のカットソーと、ネイビーのパンツを取り出す。


 着替えている途中で、ふわりと、お姉ちゃんの匂いがした。震える手で、髪を頭頂部近くで一つに結い、最後に、机の上に置かれたぎんいろの丸いイヤリングを、手に取った。


 ――これなんかどう? このイヤリング、鏡花に似合いそう!


 耳の奥で明るい声が蘇り、ぎゅっと、目を瞑る。



 ごめんね、お姉ちゃん。

 わたしのこと、好きだ、って、そのままでいいよ、って言ってくれたのに、ごめんね。

 でも、もう、お姉ちゃん以外に、わたしのことを好きだなんて言ってくれるひとは、現れないだろうから。

 わたしの名前を呼んでくれるひとは、もういないから。



 だから、〝鏡花〟がいなくなっちゃったって、いいよね?



 鏡の前に立ち、震えの止まった手で、ぎんいろのイヤリングを耳につける。

 鮮やかな、笑みを浮かべる。



 ――そうして、わたしは、『宮澤明葉』になった。





 * * *


 ひんやりとした仮住まいの部屋の中で、わたしは、少し離れた場所に座る、音色さんに語りかける。



「……全部、嘘だったんです。あなたが今まで目にしていたのは、お姉ちゃんのふりをしているだけの、偽物で、抜け殻。ほんとうのわたしは、空っぽで、あなたに返せるものなんて、なにもない。――だから、あなたの気持ちには、応えられません」



 音色さんは、黙っていた。無理もない、と思う。いきなりこんな話を聞かされても、困るだけだろう。



「わたし、実家に、戻ろうと思います」



 もう、潮時だった。自分を偽って彼のそばにいるのも、母から目を背けて逃げ続けるのも、限界だった。



「わかった。あと一つだけ、訊いてもいい?」



 黙って頷いた音色さんは、静かなまなざしをまっすぐにこちらに向けて、何かを確かめるように、その問いを発した。




「お母さんのこと、どう思ってるの?」




 考えるまでもない、問いだった。けれど、答えようと開いた口からは、空気以外、何も出てこない。陸に上がった魚のように、はくはくと息だけ零しながら、どうして、と自問する。


 ――たったひとりの、お母さんだから。

 ――わたしが、お母さんを支えなくちゃ。


 そう、心から思っているのに。どういうわけか、声が、言葉が、出てこなかった。


 ――本当に? ほんとうに、そう思ってる?


 ずっと心の奥深くに閉じ込めていた後ろ暗い感情が、無理矢理蓋をこじ開けようと、声を上げている。


 ――嘘つき。本当は、そんなこと、思ってもないくせに。


 もうやめて、と懇願するわたしを嘲笑うかのように、いつの間にか手に負えないほど膨らんでいたそれが、目を背け続けていた代償のごとく、とうとう堰を切って、溢れ出す。



「……なんて、」



 ずっと、言えなかった。心の中で、必死に、押し殺していた。

 一度認めてしまったら、もう、歯止めが効かなくなりそうだったから。

 そんなこと考えちゃいけないって、家族にそんな感情を抱くなんておかしいって、意識に上らせることすらできなくて。


 だけど、本当は。





「お母さん、なんて、だいっきらい……!」





「嫌い。――――嫌い、嫌い、大嫌い!」



 口にした瞬間、ついに認めてしまったな、と絶望すると同時に、仄暗い喜びのようなものが湧き上がって、自分の醜さをはっきりと突きつけられた気がした。


 ――ああ、すっとした。


 だって、本当はずっと、叫びたかった。

 どうして。どうして、どうして、どうして。



「なんで、わたしのこと、忘れちゃったの」


「わたしのことなんていらないくせに、どうしてわたしに頼るの」


「そばにいるのはわたしなのに、どうしてお姉ちゃんのことばっかり、ずっと探してるの」


「――どうして、お姉ちゃん、なの?」


「どうして、わたしじゃなかったの」


「わたしだったらよかったのに」


「どうして、わたしが生きているの」


「空っぽで、何も価値なんてないのに」


「ずっと守ってもらっていたのに、どうして何も気付けなかったの」


「お姉ちゃん、どうして、いなくなっちゃったの」



「わたしがいなくなればよかった。……そうしたら、お母さんも、あんなに哀しまずに済んだのに」



 とうに捨てたはずの、もうそこには存在しないはずの何かが、胸の中で軋んで、悲鳴を上げている。

 空っぽのはずなのに、本当はずっと、苦しくて。辛くて。痛くて。

 いっそ心なんて、お姉ちゃんがいなくなってしまったあの日に、すべて消えてしまえばよかったのに、と思う。

 そうすれば、こんな想いを、することもなかったのに。

 何も考えずに、ただ、すべきことを義務的に、もっと上手に、こなしていくことができたのに。


 それなのに、と目の前の音色さんを、きっと睨みつける。

 ずっと凍らせていたはずの感情を、失くしたはずの心を揺り動かして、この手で殺したわたし自身を、その名前を、このひとは、呼び覚ましてしまったのだ。



「音色さん、なんて、だいきらい! ――どうして、どうしてわたしなんかのことを、好きだ、なんて、言うの……! どうして、やさしくなんてするの……! どうして、わたしの名前を、呼ぶの!」



 嫌われることにも、疎まれることにも慣れていた。蔑みも呆れも無関心も当たり前で、空気のように扱われることに、安らぎすら覚えていた。


 だから、まっすぐな好意を向けられると、どうすればいいのかわからなくなる。こんなわたしのどこがいいの、と戸惑って、それまでどんな風に振る舞っていたのかが、全くわからなくなってしまう。


 好意の受け止め方すら知らない自分が嫌になって落ち込んで、そのくせ嫌われるのが怖くて、何をしたら嫌われてしまうんだろう、と怯えて。それを悟られないように、必死に笑って。


 お姉ちゃんが恋をしている姿を、わたしは知らない。少なくとも、目にしたことも、話を聞いたこともない。だから、お姉ちゃんのふりをすることもできなくて、わたしは途方に暮れていた。音色さんの言葉に触れるたび、お姉ちゃんの仮面が剥がれ落ちていくことに混乱して、これ以上近付くまいと、自分に言い聞かせていた。


 それなのに。



 ――鏡花さん。あなたが好きです。



 どうして、空っぽのわたしのことを、好きだなんて言うの。



 ――鏡花さんは、ちゃんと前に進んでるよ。……大丈夫。



 どうして、わたしがいちばん欲しかった言葉を、贈ってくれるの。



 ――鏡花さん。



 どうして、そんなやさしい声で、捨てたはずのわたしの名前を呼ぶの。


 いつか、空っぽの、不器用でなにも取り柄がない本当のわたしを知ったら、みんなみたいに、離れていくくせに。


 仮に、もしも万が一、嫌われなくたって。

 

 いつかあなたもこの手をすり抜けて、自分の前から消えるのだ。


 だから、そのうつくしい瞳に、わたしを映さないで。そのやさしい声で、わたしの名前を呼ばないで。



「鏡花さん、」



 それまでずっと、静かな表情でわたしの話を聞いてくれていた音色さんが、ゆっくりと、唇を開く。嫌だ、これ以上、聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。


 それなのに、見つめてしまう。その言葉を、待ち受けてしまう。





「――お母さんのこと、大好きなんだね」





 このひとは何を言っているの、と思った。今まで何を聞いていたんだろうと、怒りすら覚えて口を開こうとした、そのとき。


 ――ぽろ、と頬を、熱いものが伝っていった。


 長い指先が、労わるように、溢れ出した心の欠片を受け止める。そっと身体を引き寄せられて、頭を大きな手で撫でられた瞬間、ふつりと糸が切れたように、涙が止まらなくなった。



「……っ、ほんとう、は、わかってる、んです」


「うん」


「お姉ちゃん、じゃ、なくて、……わたしを、見て、ほしかった」


「うん」


「なんであなたが生きてるの、って目で見られて、苦しかった」


「うん」


「忘れられて、哀し、かった。さみしかった」


「うん」


「お姉ちゃん、が、……いなくなって、すごく、哀しくて。でも、お母さんが、もっとずっと、哀しんでたから。わたし、は、落ち込んで、いられなくて。お母さんばっかり、ずるい、って、思ってしまう、自分が、嫌で」


「うん」


「ほんとう、は、」


「うん」



「だいきらい、なのは、お母さんじゃなくて。……あいされない、なにもできない、わたし自身、なんです」



 ――お母さん、ごめんなさい。

 ――あなたに愛されるような、娘になれなくて、ごめんね。



 そうなれないと、わかっていた。それでも、心の底では、ずっと、あいされたいと、希っていて。だからずっと、苦しくて、辛くて。痛くて。


 そんな、わたしに、あなたは。

 あなただけが。



「鏡花さん。……ここまで、頑張って歩いてきてくれて、生きてきてくれて、ありがとう」



 いつだって、心に、ひかりを灯してくれた。

 そのうつくしい瞳に、わたしの姿を、映してくれた。

 わたしの名前を、呼んでくれた。



「――――好きだよ」



 その言葉で、魔法のように、暗闇に包まれていた世界が、ゆっくりと、色とかたちを変えていく。


 ああ、そうだ。



 ――あの日、何もかもに絶望していなければ、あの海で、音色さんに出逢うこともなかった。



 ――これまでのすべてが何かひとつでも欠けていれば、こうしていま、あなたと見つめ合うこともなかった。



 簡単に、過去の記憶を、すべて肯定することは、まだできそうにはないけれど。刻まれた痛みが、ぽっかりと空いた喪失感が、切り裂かれるような哀しみが、唐突にすべて癒えるわけではないけれど。

 それでも、それらすべてに、生きてきたことに、意味があったのだと、思えたから。



「……音色さん、お願いが、あります」



 頷いた音色さんに、ぐい、と涙を拭って、震える声で、それでもはっきりと、告げる。



「もう一度、――実家に、一緒に来てもらえませんか」



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