#12 鏡花水月


 一緒に来てほしい場所があります、と彼女は言った。


 わかった、と頷いてから数日後の、日曜日の昼下がり。駅を出て、無言のまま先を行く彼女の背を追いつつ、見知らぬ街の風景をさりげなく見渡す。


 一軒家やアパートが立ち並ぶ、閑静な住宅街。大きな商業施設や高いオフィスビルが林立する賑やかな地域からは二駅ほど離れた、静かな街だった。


 日曜の昼間だというのに、周囲にはまるで人気がない。しかしこの街に息づく人々の暮らしの一端は、そこここで窺うことができた。


 二階のベランダに干してある布団と、サイズのばらばらな洗濯物。玄関近くの寄せ植えと、水を撒いて黒く沈んだアスファルト。どこからか漂ってくる煮物の匂いと、遠くで響く、ボールが壁にぶつかる音。子どもの、無邪気な笑い声。


 長く伸びた家陰の中を進む彼女の雰囲気が、いつもと違うように思えるのは、きっと見慣れぬ光景に囲まれているためではない。



 高い位置で、一つに結わえられた髪型。細身のスキニーデニムに、カーキのスニーカー。肩にかけられた、紺色のスポーツバッグ。



 彼女が、どこに自分を連れて行こうとしているのかはわからない。けれど、細い肩の周りに滲む緊張感が、目的地が彼女にとって特別な場所であることを示していた。


 こちらを振り返ることなく、彼女が道を曲がる。歩く速度が落ちてきたからそろそろ着くのかな、と考えていると、角を曲がってすぐの場所で立ち止まっていた彼女に、危うくぶつかりそうになった。



「うわ、ごめん。……大丈夫?」



 俯いていた彼女の背中が、一瞬あまりにも頼りなげに見えて、思わず声を掛ける。その問いが聞こえなかったかのように、ちらと顔だけ振り返った彼女の両耳で、丸い、ぎんいろのイヤリングが揺れる。



「もうすぐ着くんですけど、一つだけ、お願いがあります。――絶対に、口を差し挟まないでください」



 いつもよりも、くっきりと施された化粧のせいか、どこか印象が異なって見える表情。強い、射抜くような瞳と、言葉。



「……え、どういうこと? というか、結局どこに行くの?」


「相槌を打つ以外、何もしないでください。それができないなら、帰って」



 きっぱりと告げた後、再び背を向けて歩き出してしまった彼女の背を、湧き上がる疑問を持て余したまま追いかける。それから二十メートルほど進んだ先、一軒のアパートの前で、彼女は再び足を止めた。



「ここの三階が、実家です。……私の友人ということで話を通しているので、余計なことは言わないでください」


「え、」



 目的地が彼女の実家だったことに動揺を隠せず、声が漏れた。

 一応手土産は持ってきたけどこれで大丈夫かな、だの、もう少しちゃんとした格好で来ればよかった、だの、さまざまな雑念が刹那頭の中に溢れ返って、しん、と静まる。


 ――実家に、ご挨拶、のわけがない。


 彼女の言動や今までの経緯からも、それは明白だった。オートロックの玄関を慣れた手つきで開錠し、階段を上っていく彼女の背中を見つめながら、ひたひたと、うすら寒いものが忍び寄って来る気配を感じる。


 ――どうして、彼女は、いつもと違う服装をしている?

 ――なぜ彼女は、あれほどまでに、何も喋るな、と念を押している?


 辿り着いた扉の前で、彼女がひとつ、白い息を吐く。呼び鈴を押した指先がゆっくりと下ろされ、ポケットから取り出した鍵を握る。

 鍵を回し、扉が、ギィ、とかすかに軋んだ音とともに開く。奥から、誰かがぱたぱたと弾んだ足取りで駆け寄ってくる、気配。


 そして。

 ぱっと、彼女によく似た表情を輝かせながら姿を現した、その女性は。




「――――お帰りなさい、!」


「ただいま、お母さん」




 知らない名前で、彼女を呼んだ。


 呆然と彼女の背後に突っ立っている人影に気付いたのか、女性の目が驚いたように見開かれる。



「あら、明葉あきはのお友達? はじめまして、いらっしゃい」


「もう、今日は一緒に友達が来るって伝えてたでしょ? こちら、吾妻くん」



 とん、と何度か足の脇を小突かれて、慌てて頭を下げた。



「はじめまして、吾妻と申します。……お邪魔、します」


「明葉の母の、昭枝あきえです。どうぞ、上がっていって」



 にこやかな笑顔と言葉に促され、自分のものではないかのように動かない足を、どうにか持ち上げてスリッパを履く。思わず横目で彼女を見ると、射るような、鋭い視線が返ってきた。


 ――何も、言わないで。


 そのまなざしに、開きかけた唇を閉じ、無言で昭枝さんと、先を行く彼女の背を追った。


 導かれたリビングの扉を開けると、ふわ、と焦がしたチーズの香ばしい匂いが漂ってきた。食卓の上に並べられた好物の数々に、彼女が小さく歓声を上げる。



「やった、グラタンじゃん! あ、かぼちゃのスープとポテトサラダも!」


「久し振りに明葉が帰ってくるって聞いたから、張り切って作り過ぎちゃったの。あなたも、遠慮せず食べてね」


「……ありがとう、ございます」


「吾妻くんも、座って座って!」



 夏空のように、からりと明るい声。大きな手振り。大輪のひまわりが花開いたかのような、鮮やかな笑顔。



「いただきまーす! わあ、どれから食べよっかな」



 一朝一夕で身に着くような、付け焼き刃の表情でも仕草でもなかった。こちらこそが彼女の本来の姿なのだ、と悟らざるを得ない、自然体だった。


 ――音色さん。


 彼女の、ひっそりとほころぶ白い花のような淡い笑顔が、やわらかな声が、どこか遠慮がちな仕草が、胸の中で浮かんでは消えて。



「美味しいー。やっぱりお母さん、料理上手だよね。今度また教えてよ」


「いつでもどうぞ。――また、同じものばっかり作ってるんじゃないの?」


「ばれた? だって、好きなものは何回食べたって美味しいじゃん」


「もう、本当に、昔からそういうところは変わらないわよね。小学生の頃は、当たり付きのソーダアイスで、中学生の時はピザまん。高校に入ってからは確か、冷麺だったわよね?」


「そうだけど、吾妻くんもいるんだからあんまり昔のこと言わないでよー。……なんか、ちょっと恥ずかしい」



 拗ねたように少しだけ唇を尖らせ、ぱたぱたと両手で頬を仰いで熱を追いやろうとするその仕草も、顔を見せまいとする彼女の恥じらい方とは、全く異なっていて。



「あら、明葉もそんなこと思うようなお年頃になったのね」


「お母さん、それ、ちょっと失礼!」



 彼女と同じ顔と、声帯と、肉体を有した全くの別人が、目の前で喋っているようで、眩暈めまいがする。彼女の面影が浮かんだそばから、明るい声に、表情に、塗り潰されてゆく。



「あー美味しかった、ごちそうさま。――そうだ、せっかくだから、吾妻くんが持ってきてくれた手土産食べよ!」


「明葉、あなたちょっとは遠慮なさい。……ごめんなさいね、娘が」



 まるで味が分からなかった食事を終え、お茶で一服していると、不意に彼女がぱちんと指を鳴らした。申し訳なさそうに眉根を下げた昭枝さんの視線がこちらに向き、慌てて紙袋から手土産の箱を差し出す。



「どうぞ、ささやかなものですが」


「ありがとうございます。お気遣いいただいて悪いわね、遠慮なくいただきます」


「あっ、ここのクッキー美味しいんだよね~。ありがとう吾妻くん! ナイスチョイス!」



 まったく悪びれずに、親指を立ててにっこりと微笑んだ彼女が席を立ち、背後の食器棚から小皿を取り出そうとする。



「あ、その横の使いなさい」


「はーい」



 一枚一枚取り出して持ってくるのではなく、重ねられた小皿を一気に取り出そうとする彼女に、ああ本当に違うんだな、と改めて実感していた、その時。


 ――棚に並べられた食器の上で、ふと、視線が留まった。


 枚数を認識した瞬間、時が、止まる。ずれた鏡像を覗き込んでいるかのような、決定的な違和感の正体に不意に行き当たり、息が、できなくなった。


 ――見間違い、じゃない。すべて、ある。


 今まで、うっすらと抱いていた疑問や、この家に立ち込めるある種の異質さが、すべてその一点に収束していくような感覚に襲われて、机の下で、祈るように両手を握り締めた。



「うん、やっぱここのクッキーは美味しい~。最高!」


「久し振りにいただいたけど、やっぱり美味しいわねえ。今度、私も買ってこようかしら」


「じゃあ次は、わたしが買ってくる!」


「そう言って、自分で全部食べないでよ」



 義務的に口に運んだクッキーが、砂のように砕けては広がり、水分と言葉を根こそぎ奪っていく。


 すぐ隣で喋っているはずの二人の声は、どこまでも、遠かった。





 昭枝さんに暇を告げ、来た道を戻る間も、お互い一言も喋らなかった。

 無言でエレベーターから降り、彼女の部屋の扉の前で、示し合わせたように二人とも足を止める。



「……今日は、ありがとうございました。それでは」



 短い、沈黙を経て、彼女はそれだけを告げ、鍵をポケットから取り出そうとした。



「あ、」



 そのはずみに、ポケットに入れていた小さな何かが、床に滑り落ちる。透明な四角いビニールに包まれた丸いものが、廊下の照明をはじいて、きらりと輝いた。


 ――缶、バッジ?


 落ちたよ、と拾おうとした手をものすごい速さで払いのけられ、思わず呆然と目を瞬く。拾い上げたそれを、胸の前で守るように握った彼女は、伸ばされたまま固まった指先を見て、はっとしたような表情を浮かべた。



「……ごめんなさい。それじゃ」


「待って」



 目を伏せて、今度こそ鍵を開けようとした彼女の、手を取る。小さく震えるその手を握ったまま、一つ、息を吐き。



「話を、しよう。――鏡花さん」



 頑なに顔を上げない彼女の、白いうなじに告げた。

 彼女は、動かない。逃げ出さない。――手を、振り払わない。



「約束したろ。……教えてよ」


「……もう、わかったでしょう」



 どこか疲労感が滲む、乾いた平坦な声とともに、静かに、顔を上げ。

 夜の底のような、すべての感情が抜け落ちた、昏い瞳で。


 彼女は、告げる。




「――――初めから、〝宮澤鏡花〟なんて、どこにもいなかったんです」




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