#11 崩壊


 冬の日が暮れるのは、早い。


 夕暮れの光が世界を淡く染めたかと思えば、黄昏の帳が静かに街を包み、やがて澄んだ宵闇の中に、ぽつりぽつりと星のような灯りが瞬きはじめる。

 先を行く車の、薄闇に滲んで尾を引くようなテールライトを眺めながら音楽を聴いていると、ふっと曲が切り替わり、懐かしい旋律が流れ出した。


 その音につられるようにして視線を上げれば、冴え冴えと輝く月と、目が合って。


 そういえばあのときも、月が綺麗だったな、と思い返し、束の間の追憶に浸る。



 ――鏡花さんが初めてうちに来たあの日も、満月だった。



 さながら記憶をなぞるように、過去と全く同じ道を辿りながら、ひたすら前に、進んでいく。車内に広がるゆったりとした旋律に、どこか秘めやかな歌声が寄り添い、映る視界に、過去の記憶が、重なってゆく。



 ――凍てつくような、夜だった。


 海すら、星すら、息を潜めているような。そんな、静かな夜だった。



 いつしか前を走っていた車の姿は、見えなくなっていた。闇の中に伸びる道を、二つの眼のようなライトを頼りに、走り続ける。



 ――あの日は確か、煮詰まっていて。散歩にでも行こうか、と不意に思い立って家を出て。


 扉を開けた瞬間、白い闇に、蒼いひかりに、目を奪われた。


 吐息が昇っていく先、凍てる空に輝く月が、あんまり綺麗で。誰もいない、広いところで見たいと思って、音楽を聴きながら、海まで車を走らせた。

 誰もいない夜道は、まるで世界に自分しか存在していないんじゃないかと錯覚するくらい、静かで。冷たい車内の空気も、ひそやかに流れる旋律も、ひどく心地よくて。


 多分、あの時の自分は、色々なことに、疲れ切っていて。

 日々積み重なっていく小さな疲労感や倦怠感を、振り払うだけの気力も、残っていなくて。

 現実逃避をしたって何も変わりやしないってわかっているのに、どこか遠くへ、逃げ出したくてたまらなくて。



 結局今も昔も、根本的なところは大して変わっていないな、と気付いて、自嘲が漏れた。視界の端に、馴染みのあるコンクリートの建物と駐車場の看板が映り、ゆっくりと速度を落としていく。


 ――それでも、そんな僕を、変えてくれたのは。

 ――変わりたい、と想わせてくれたのは。


 左にウインカーを出し、壁とブロックにぶつけないように最低限の注意を払って停車してから、静かに車のドアを閉めた。人気のない道路を渡り、砂浜へと続く、階段を下りていく。


 脱いだ靴を片手に持ち、遠くの街灯にうっすらと照らされた砂浜を、ゆっくりと踏み締める。足裏を包むやわらかな砂は、やはり少しひんやりとしていて、その感触が否が応にも冬を感じさせた。


 凍えるような海風に晒されながら歩いていくと、やがて、ぽつりと立っている人影が、目に映った。次第に近付くその影に、逸る心を抑えた足取りで、一歩、また一歩と、前に進んでいく。


 三歩ほどの距離を残した位置で、自然と足が止まった。何を言おうか、とここに来るまでに考えていたはずなのに、頭の中を探っても、なにひとつ言葉が見つからない。何度も口を開きかけては閉じて、ようやく喉から、零れ落ちたのは。



「――――鏡花、さん」



 彼女の名前、だけだった。


 それ以上何を続けることもできず、ただ、波打ち際に立つ、彼女の姿を見つめる。


 紺色のコートに包まれた、華奢な体躯。裾から覗く、長いスカートと、真っ白い素足。普段は手袋に包まれている両手は、ぴくりともせず、細い身体の脇で、沈黙を保っている。


 海風に、やわらかな髪が、かすかに揺れる。その動きがなければ、きっと、彼女の周りだけ、時が止まっているのではないかと錯覚していただろう。



 瞬きすら忘れて、彼女は、海を見ていた。


 海の上にゆらゆらと伸びる、月のみちを、見つめていた。



 なめらかな額に、瞼に、頬に、鼻梁に、首筋に。白い、月の光が落ちる。彫像のようなその横顔には、けれど、何の感情も浮かんでいない。



「…………鏡花さん、」



 今にも彼女が、海に架けられた月の路を渡って、どこか遠くに去ってしまうのではないかという焦燥に駆られて、名を呼んだ。


 ゆっくりと、両の眼が、こちらを向く。



「――――音色、さん」



 冴えた月光に抱かれてなお、ひかりを喪ったままの、くらい瞳で。ぽつりと、かすれた声で彼女は呟いた。



「どうして、来たんですか」


「……話が、したくて」



 鼓動が、騒ぐ。潮騒が、次第に遠のいていく。

 何かひとつでも間違えてしまえば、彼女がほんとうに、手の届かないところに行ってしまうような気がして、身体が小さく震えていた。



「話すこと、なんて、何もありません」


「――本当に? 俺に、顔を合わせて、伝えたいことがあったんじゃないの」



 怖気づきそうな心を奮い立たせて、言葉を、紡ぐ。問い掛けに、ほんのわずかに、彼女の視線が揺れる。その反応に一筋の光明を見出し、じっと、言葉が口の端に上ってくる瞬間を待った。



「――今まで、本当に、ありがとうございました。こんなわたしに、やさしくしてくださって。……それだけ、伝えたくて」



 やがて、風に紛れそうな声で、短い応えが返ってくる。彼女の右手が、きゅっと何かを握り締めるように動いた。



「本当にそれだけなら、どうして俺と、顔を合わせられなかったの?」



 口に出して、初めて気付く。


 ――そうだ、彼女はなぜ、直接告げることを、選ばなかった?


 一度思い至ってしまえば、後は自明だった。


 黙って姿を消したのは、本当の理由を、口にすることができなかったから。

 その理由が、彼女にとって、けして触れられたくないものだったから。


 彼女は今も、貝のごとく、口を噤んでいる。それが、何よりも雄弁な、答えだった。



「ねえ、鏡花さん、」



 波に洗われ、凍えて感覚のなくなりかけた爪先を、一歩、前に出し。


 ずっと二人の間に横たわっていた深淵に、互いに避けて通っていたその聖域に、足を、踏み入れる。



「――――どうして、出て行かなきゃいけないと、思ったの」



 呼吸が浅くなり、声がわずかに掠れる。

 これを問えば、もう元の関係には戻れないと、わかっていた。


 それでも、知りたい、と。近付きたいと、寄り添いたいと、願ってしまったから。



 ――後は、前に進むほかなかった。



 彼女が、ゆっくりと一つ、瞬きをする。たったそれだけの仕草で、視線を、心を、奪われてしまう。他のことを何一つとして、考えられなくなってしまう。


 風にさらわれた細い髪を、左手で耳にかけると、やわらかな黒に縁取られた耳殻の白さとかたちが、いっそう際立った。こんな時にもかかわらず、ああ、綺麗だな、とつい見惚れてしまう。


 貝のように結ばれていた彼女の唇が、何かを形作らんと、ちいさく開いていく。時間が引き伸ばされているかのように、そのさまが、やけにゆっくりと、目に映って。

 白い瞼が、とばりのように、瞳を覆い隠す。束の間の瞑目を経て、透きとおった双眸をこちらに向けた、彼女の口から。


 決定的な言葉が、放たれる。



「――全部、嘘なんです。あなたが好きだ、と言ってくれた、わたしは」


「……どういう、こと?」



 告げられた言葉の内容か、まるで飲み込めなかった。戸惑いがそのまま零れ落ちた声を聞いた彼女は、何かを堪えるように、少しだけ目を細めて。



「言葉通りの意味ですよ。――……貴下あなたは、わたくしを、知りますまい」



 空恐ろしいほど、うつくしく。

 鏡に映る花のように、わらった。



「だから、音色さん。――さよなら、しましょうか」



 伸ばした指先が、紡いだ言葉が、すり抜けていく。

 これ以上語ることはない、とばかりに彼女はこちらに背を向け、砂浜に無造作に投げ出されていたスポーツバッグに片手を伸ばした。


 固く握られたその手が、こちらに差し出されることはない。いくら呼ぼうと叫ぼうと、その背が、こちらに振り返ることはない。


 積み上げてきたものが、儚く砕け、崩れ去っていく音を耳の奥で聴きながら、凍てつく指先を、ぐっと握り締めた。



 ――それでも。



 たとえ届かなくとも、それで傷つこうとも。それでもなお、伝えたい想いがあった。



「――じゃあ何で、ここに来たの! 本当は、俺に、見つけて欲しかったんじゃないの!」



 ――本当に行方をくらます気なら、俺が全く知らない所に行けばよかった。



「ねえ、本当は、助けて、って言いたかったんじゃないの? 話を、聞いてほしかったんじゃないの?」



 ――一人では抱えきれないほどの苦しさを、背負い込んで。


 ――誰にも打ち明けないまま、その重さに押し潰されそうになりながら、一人で歩いて行こうとしないで。



「もっと俺を、周りの人を、信じて、頼ってくれよ! 俺の事だって、少なくとも、ご飯の作り置きをしてくれるくらいには、大事に想ってくれてるんだろ! 俺も、俺だって、鏡花さんが大事なんだよ!」



 小さな、背中が震えた。一瞬だけ身動ぎを止めた後、全身から絞り出すようにして、彼女が叫ぶ。



「――――もうやめて!」



 悲鳴のような、哀願のような、痛切な響きだった。耳を塞ぎ、蹲ったまま小さく首を振る彼女に歩み寄り、両手を掴む。



「それなら、教えて。全部嘘だったっていうなら、ほんとうの鏡花さんを、俺に教えて」



 びくりと肩を跳ねさせた彼女の瞳を覗き込み、まっすぐに告げる。今度は、視線は逸らされなかった。


 瞳が、揺れる。小さく震える唇が、声にならない声を、発していた。



「…………あと、一度だけでいいから。一緒に、帰ろう」



 静かに、祈るような心地でそう告げると、鏡花さんは、ほんの一瞬だけ、泣き出しそうな顔をした。


 それから、潮騒と自分の心音だけが、長い、沈黙を満たし。


 世界の果てのような静寂が広がる砂浜の上で、永遠とも思えるような視線の交錯を経た後。



 ――小さく、彼女は頷いた。


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