#10 亀裂


 ――最近、鏡花さんは、どこか遠くを見ている。


 もちろん、物理的に遠方を眺めているというわけではない。そうではなくて、自分の内面に深く潜っているがゆえに、現実に向けるまなざしが、どこか茫漠ぼうばくとしている、とでも言うべきか。


 白米を口に運びながら、差し向かいにちらと視線を送る。ちょうど小松菜と揚げの煮びたしを手に取ろうとしていた鏡花さんの目は、わずかに伏せられていて、その表情を窺い知ることはできなかった。


 ――また、何かを、見つめている。


 単に、手元を眺めているだけなのかもしれない。自分の、思い過ごしなのかもしれない。それでも、その瞳は、指先の食器ではなく、もっとどこか、遠くを映しているようで。


 視線が合わない、わけではない。会話が減った、わけでもない。それなのに、こうしてふとした瞬間に、胸がざわつくような、感覚に襲われることがある。



「……鏡花さん。最近、なにかあった?」


「いえ、特には。……ごめんなさい、心配をお掛けしてしまって。大丈夫です、ありがとうございます」


「ううん、こっちこそごめん。もし気になってることがあれば、いつでも話聞くから」


「はい」



 いつもと変わらないその微笑みが、なぜかひどく、儚いものに見えて。

 喉につかえたかすかな違和感を流し込むようにして、味噌汁の椀を静かに傾けた。





 * * *


 霧のようにうっすらとした不安が心の片隅にわだかまったまま、二週間が経過した頃、久し振りに一護いちごから着信があった。



「メールじゃなくて、いきなり電話してくるなんて珍しいな」


『音くん、メールしてもほぼ見ないじゃん。電話しても基本無視だし。出てくれたってことは、今暇なんだよね?』



 白い湯気を上げる珈琲のマグを傾けつつ、液晶に指を滑らせて携帯を耳元に運んだ瞬間、矢継ぎ早に言葉が飛んできた。常と変わらない、くっきりとした輪郭の声に、なぜか少しだけ安堵を覚えつつ、親指でボタンを連打して音量を下げる。



「忙しいから切るぞ」


『いや絶対嘘でしょ。……あのさ、ミラちゃんのことなんだけど』



 概ね図星だったが、認めるのはどうにも癪で軽口を叩くと、見透かしていたらしい一護にばっさりと切って捨てられた。呆れたような呟きの後、どこか躊躇いがちに続けられた聞き捨てならない言葉に、傾けていたマグを置く。



「……何か、あったのか?」


『相変わらず、ミラちゃんのことだったら食いつきがいいよね。というか、何かあった、はこっちの台詞なんだけど』


「どういう意味だ?」



 喉から、温度の低い、声が出た。その響きに余裕がなくなっていることを自覚して、浅く、息を吐く。



『ああごめん、そんな大したことじゃないから安心して。……一週間くらい前に、ミラちゃんにメールしたんだけど、まだ連絡来なくてさ。別に急ぎでも何でもないから返事はいいんだけど、今まではだいたい当日か、遅くても翌日には返信くれてたから、何かちょっと気になって。体調でも悪くしてるんじゃないか、とかさ。ほら、ミラちゃんってすごい律儀じゃん? 音くんみたいに無視するようなタイプじゃないし』



 確かにそれは珍しい事態だな、と訝しみつつ、一週間前の彼女は、どんな様子だったかな、と記憶を辿る。



「体調は、俺が目にしていた限りだと、問題なさそうだった気がする。でも、鏡花さんが、お前からの連絡を理由もなく無視するとは思えないから、携帯の調子が悪いのかもな。今度それとなく訊いてみる」


『――体調は、ってことは、他には何か問題ありそうってこと?』


「……お前は、ほんと、そういうところ鋭いよな」



 すかさず飛んできた指摘に、苦笑が漏れる。無意識が滲み出ていたのであろう言葉尻を過たず捕らえた一護は、濁した返答の意を察して、ああそういうこと、と呟いた。



『ミラちゃん、何か抱えてるっぽいけど、触れさせてもらえないんだ?』


「……今までは、こっちから訊いたら、話してくれてたんだけどな」



 ずばり核心を突く台詞に、思わず溜息が漏れる。


 ――これまでは、問い掛ければ、必ず答えてくれた。


 変化に気付き、何かあったのか、と問えば、躊躇いつつも、事情を話してくれた。

 けれど、彼女が自発的に胸の裡を明かしてくれたことは、実のところほとんどない。こちらの言動に応じて心境を打ち明けてくれた際も、その動機は、「心配を掛けてしまったのだから、理由は話すべきだ」「訊かれたことには、答えなければならない」という、義務感に近いものだったように思える。


 それでも、問いに答えるために紡がれる彼女の言葉は、いつだって真摯で、驚くほど、まっすぐで。一生懸命考えてくれていることが、瞳からも、息遣いからも、声の抑揚からも、伝わってきて。


 そんな彼女の不器用さと真摯さを、愛おしい、と感じているのだけれど。


 だからこそ、「大丈夫」だと言われてしまえば、それ以上踏み込めない現状が、時折、ひどくもどかしくて仕方ない。


 踏み込まれたくない、という気持ちも痛いほどわかるからこそ、触れられなくて。待つしかできないことが、身勝手だとわかっていても、苦しくて。



『あー、でも、ミラちゃんって、なかなか心開いてくれなさそうだよね。親身になって一生懸命話は聞いてくれるし答えてもくれるけど、自分のことはあんまり語らないでしょ。そういうとこ、音くんとちょっと似てるよね』



 待つ身の苦しさ、ちょっとはわかった? と冗談めかして続けた一護に、長い嘆息で返答する。相当骨身に沁みてるんだねえ、と珍しく同情するように呟かれて、ぽつりと本音が零れ落ちる。



「ほんのちょっとは、近付けたような気に、勝手になってたけど。……鏡花さんのこと、まだ全然、わからないことばっかりで。一歩近付けたかな、と思ったら、また知らない一面が増えて、遠くなってく。何だろうな、……蜃気楼を追いかけてる、みたいな感じがする」


『じゃあまさしく、ミラちゃんは名を体で表してるわけだ?』



 鏡花きょうか水月すいげつ


 ――目には映れど、けして触れることはできないもの。


 その言葉が過ぎった瞬間、なぜか、自分でも思いがけないほど、胸が詰まった。



「……誰が、上手いこと言えと」


『まあ、苦しいかもだけど、気長に待つしかないんじゃない? 焼くや藻塩の身も焦がれつつ、だよ音くん!』


「あれ確か相手は来ないだろ。来ぬ人を、って初っ端で詠んでるじゃん」


『それでも待つのが乙女心ってもんでしょうがまったく。――音くんだってさ、結局まだミラちゃんに言ってないんでしょ? あのこと』



 軽口の応酬に突然紛れ込んだ鋭い言葉に、鼓動が、跳ねる。


 ――言えないことがあるのは、お前も同じだろう?


 突き付けられたのは、紛れもない、厳然たる事実だったから。



「……そのうち、な」


『そりゃ今はミラちゃんが何か悩んでるっぽいし、言い出しづらいのもわかるけどさ。あんまり先延ばしにしてると、余計ハードルが上がるんじゃない?』



 歯切れの悪い返答に対して、的確に痛いところを刺した後、ごめんもう出なきゃ、それじゃまたね、と唐突に一護は通話を終わらせた。暗くなった携帯電話の液晶にぼんやりと映る自分の顔を眺め、長く、息を吐く。


 ――わかってる。言わなきゃ、いけないことくらい。


 本当は、あともう少しだけ、このままでいたいけれど。

 彼女の思い悩んでいることが解決したら、今度こそ伝えよう、と心に決意を促した、その矢先に。


 手の中で携帯電話が震え出し、画面に、「岡崎拓馬おかざきたくま」の文字が、表示された。



「もしもし岡ちゃん、何事?」


『吾妻くん、今、どこにいる?』



 今日は電話日和だな、と思いつつ通話に出るや、隠し切れない焦りを帯びたマネージャーの声が耳に届き、思わず眉根を寄せる。



「――家だけど、どうしたの」


『よかった。……今日、宮澤さんに会った?』


「いや。そろそろ帰ってくる時間だとは思うけど、何かあった?」



 告げられた内容と、いつも朗らかな彼のつとめて感情を抑えた声音に、鼓動が不穏に騒ぎ始める。問い掛けのていを為した確認の言葉に、電話口の向こうで、小さく息を吸う音が響いた。



『僕、今、宮澤さんの部屋に来たんだけどね。――何にも、荷物がないんだ。部屋が、空っぽになってる。……吾妻くん、何か、聞いてる?』



 腕が勝手に下がり、気付けば足が床を蹴っていた。廊下に飛び出し、裸足のまま、隣の部屋の玄関に向かってひた走る。勢いよくドアを開けると、驚いた顔をした岡ちゃんが、ぱっとこちらに振り向いた。



「吾妻くん、……」



 それ以上言葉を継げなかったらしい彼から続きを引き取るように、周囲に視線を巡らせる。


 ――丁寧に磨かれた革靴以外、何も置かれていない玄関。シンクの横に置かれた、空っぽの一輪挿し。掃除の行き届いた室内と、見事なまでに家具以外何もないリビング。


 生活感や住人の個性というものが一切排された、色彩と味わいを失った部屋の中で、呆然と立ち尽くす。


 彼女がこの部屋に来て以来、ほとんどこちらには足を踏み入れていなかった。それでも、この部屋から彼女の気配が消えていることは、すぐにわかった。わかって、しまった。



「探してた書類を、この部屋の物入れに置きっ放しにしていた気がして、宮澤さんに連絡してみたんだ。返事がなかったから、通りがてらあそこのパン屋さんに寄って断りを入れておこうと思ったんだけど、休みだって聞いて直接ここに来たら、もうこの状態だった」



 話を半ば聞き流しながら、彼女に電話を掛ける。呼び出し音が鳴るばかりで、一向に繋がる気配はなかった。やがて無機質ななアナウンスが響き、無言で通話を切る。メッセージ画面に切り替え、ほどなく送信を終えると、すさまじい沈黙がし掛かってきた。


 自然と、唯一この部屋に残されたとあるものに、四つの眼が吸い寄せられる。おそらく二人とも真っ先に気付いていながら、示し合わせたように触れられなかったそれに、ゆっくりと、歩み寄っていく。


 視線に促され、テーブルの上に置かれた飾り気のない白い封筒を、手に取った。自分の指先が、少しだけ震えているのをどこか他人事のように眺めつつ、ゆっくりと中身を取り出した。


 三つ折りにされた、白い便箋に、丁寧な筆跡で綴られているのは、短い文章だった。



『音色さんへ。

 直接顔を合わせて伝えることができなくて、ごめんなさい。

 今まで、本当にありがとうございました』



 ご飯は冷蔵庫に作り置きがあるので、もしよかったら、召し上がってください、という言葉で締めくくられた書き置きに、何度も、目を通して。


 繰り返し読めば、記された内容が何か変わるのではないか、と淡い期待を抱きつつ、ここ最近の彼女の様子を、思い返す。


 ――いつから、だったのだろう。


 いくら物が少なかったとしても、ここまで片付けるには、相応の時間がかかっているはずだった。


 ――いつから、見過ごしていた?


 彼女の様子が今までと違うことに、気付いていた。気付いていながら、傷つけることを、傷つくことを恐れて、それ以上踏み込まなかった。



「……吾妻、くん」



 結果として、彼女を一人で思い詰めてさせてしまった。お互いに、相手の触れられたくない部分を無意識に避けて通っているうちに、いつの間にか距離を取ってしまっていた。


 こんな、自分が。今更、手を、伸ばしたって。



「――――吾妻くん!」



 一喝するように名を呼ばれ、はたと俯いていた顔を上げる。自己嫌悪の淵にどっぷりと浸りかけていた心を諭すように、静かな声で、岡ちゃんは続けた。



「探しに行こう。昨日は仕事を休んでなかったって言ってたから、きっとまだ、遠くまで行ってないはずだ」


「……探してほしくない、って思ってるかもしれないだろ」



 真っ向から瞳を覗き込まれ、反射的に目を逸らす。それでもその淡々とした声は、怯むことなく、両の耳を追いかけてくる。



「仮にもし、宮澤さんがそう思ってたら、吾妻くんは探しに行かないの? ――吾妻くんにとって、宮澤さんは、その程度の存在なの?」


「そんなわけないだろ!」



 叫ぶように返してから、唇を噛む。試すような物言いは、本音を引き出すためのものだとわかっていた。同時に、先の自分の弱音が無意識の甘えを含んでいたことにようやく思い至り、恥ずかしさと情けなさで顔を覆いたくなった。



「大事なんだろ、宮澤さんのこと。――だったら自分が傷つくことなんて、怖がってる場合じゃない」



 仕方ないな、と年下の弟を見守るような、どこか慈しむようなまなざしと声音を向けられて、今度こそ頷く。


 ――大事、なんてものじゃない。


 その段階は、もうとっくに、通り過ぎてしまっていて。今更後戻りなどできるはずがないのだと、思い知る。



「……岡ちゃん、たまにはいいこと言うじゃん」



 時としてもう一人の兄のような、頼れるマネージャーに照れ隠しでそう告げると、たまには、が余計なんだよなあ、とぼやきが返ってきた。



「ところで、どこを探しに行くかなあ。連絡は全然通じないし。吾妻くん、心当たりとかある?」


「――一箇所だけ」


「わかった。じゃあ、そこ行ってみようか」



 首肯するや否や、早速身を翻そうとした岡ちゃんに、片手をかざして待ったをかける。



「俺が、迎えに行ってくる。……それに岡ちゃん、書類を探しに来たってことは、急ぎの仕事があるんだろ」


「いや、こっちの方がどう考えても大事でしょ。仕事はまあ、どうにでもなるからね。――ちなみに、ここからその場所は遠いの?」


「多分、十キロはないと思う」


「なら、送っていくよ。それか、タクシー使うとか」


「却下」


「正直、あんまり吾妻くんに、運転してほしくないんだけど」


「やだ。俺一人で行く」


「……絶対、無事に帰ってくるんだよ。気が急いても、安全第一でね」


「わかった。ありがとう」



 ばれたら社長に殺される、とぼやく岡ちゃんに背を向け、今度こそ、一目散に走り出す。



 ――たとえ、鏡花さんが、俺の顔を、見たくもないのだとしても。

 ――俺は、どうしても、きみに逢いたい。



 たとえ届かなくとも、触れられなくとも、そのこころに、手を伸ばすことを、止められない。諦められない。


 もしも今、きみが一人で、さみしさを抱えているのなら。

 寄り添っていたいと、そのさみしさを分かち合いたいと、強く、想うから。


 ――どうか、あと少しだけ、待っていて。



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