#9 年の瀬


「で? 音色のどこが良かったの? やっぱ顔? それとも金目当て?」

「え、」



 にこにこと人好きのする笑みを浮かべたひびきさんから、朗らかな声でとんでもない質問を投げ掛けられて、思わず表情が固まった。


 この場にいれば、おそらく制止の声を上げたであろう音色さんは、あいにく席を外している。――否、音色さんが不在だからこそ、響さんはその問いを、発したのだろうけれど。


 缶ビールをぐびりと一口呷り、鉄壁の笑顔を崩さぬまま、さあ答えて、と無言の圧力を放つ響さんの目は、怖いほど真剣で。


 姿勢を正し、小さく息を吐いてから、そのまなざしに相対する。



「――あの、」



 今にも震え出しそうな声で、それでも目は逸らさずに。

 ポケットをぎゅっと一度握り締め、響さんの問い掛けに返答すべく、口を開いた。





 * * *


 ――遡ること、およそ二時間。


 音色さんのご実家の最寄り駅に降り立った途端に、視界一面に広がった銀世界に、わあ、と思わず感嘆の声が漏れる。



「綺麗、ですね。……久し振りに、雪が積もってるところを見ました」


「俺も、この景色を見ると、帰ってきたなー、って感じする。まあ、足が濡れると最悪なことになるんだけどね。……鏡花さん、寒くない? 大丈夫?」


「はい。音色さんが、事前に教えてくださったおかげです」


「ならよかった。冷えるようだったら言って、服貸すから」


「ありがとう、ございます」



 言葉を交わすたび、その輪郭が、白く彩られる。声の端が、ほんの一瞬だけ溶け合ったかと思えば色を失い、儚く消えてゆく。


 束の間その光景に見入っているうちに、抱えていたスポーツバッグを、ひょいと大きな手に奪われてしまった。持ちます、と慌てて伸ばした指先が、手袋をしていない左手に包み込まれる。そのまますたすたと歩き出した音色さんに、手を引かれるようにして、人気のないホームを歩き出した。



「ね、音色、さん」


「なに?」


「……あの、手、」


「手? 手がどうかした? ――あ、寒い?」



 ぽすん、と音色さんのコートのポケットに繋いだ手を導かれ、寒さによるものではない朱が、頬に差すのを自覚する。


 同時に、ご家族に対面する、という緊張で固くなっていた身体から、ふっ、と少しだけ力が抜けた。息を吐くと、手袋越しに感じる音色さんの手の感触がひときわ鮮明になって、このままずっと繋いでいてほしいような、今すぐ逃げ出してしまいたいような、相反した気持ちが込み上げてくる。そのぬくもりに、確かに安堵しているはずなのに、高鳴る心音が指先から伝わってしまうのではないかと、胸の奥が、そわそわと落ち着かなくなる。


 ――本当に、このひとには、敵わない。


 いつも、何もかもお見通しみたいに、音色さんは、こうして手を差し伸べてくれる。けれどなぜか、それがちょっぴり悔しいような、嬉しいような複雑な心境で、音色さんの背中を見つめていた。





 ロータリーに止まっている、八人乗りの大きな乗用車にもたれるようにして立っていたその人は、音色さんとわたしの姿に気付くとすっと背筋を伸ばし、ひらひらと手を振ってくれた。


 慌てて会釈を返し、先を歩く音色さんを追い越す勢いで、車へと向かう。寒い中、これ以上外で待たせてしまうのは申し訳ない、という意を汲んでくれた音色さんも、そんな焦らなくても大丈夫だよ、と呟きつつ、応えるように、少しだけ歩調を速めてくれた。


 ようやく声が届くくらいの距離まで近付き、意を決して口を開こうとした瞬間、ぱっと陽が射すような、明るい声が耳朶を打った。



「お帰りなさい。――あらやだ、素敵なお嬢さんじゃない、音色! あなた不愛想で出不精なのに、よくお付き合いまで辿り着けたわねえ。……大丈夫? 何か音色が迷惑かけたり、困らせたりしてない?」


「母さん落ち着いて。まず挨拶してよ……」



 珍しく盛大な溜息を吐いた音色さんの肩をぱしりとはたき、表情豊かな声と瞳をこちらに向けたそのひとに、視線が吸い寄せられる。


 闊達かったつで屈託のない、明るい栗色の双眸。どこか少年めいた雰囲気の、さっぱりとしたショートカット。髪型に映える、綺麗な形の、耳。その下で揺れる、木製の、小さな鳥のかたちのイヤリング。


 造作の整った顔立ちと、何よりも涼やかな目元が音色さんとよく似ていて、ああこのひとが、音色さんの、お母さん、なんだなと実感する。



「そんなこと言われたって、落ち着けるわけがないでしょう? 話を聞いてから、ずっと会えるのが楽しみだったんだもの。――初めまして、音色の母の、綾音あやねです」


「は、初めまして。宮澤みやざわ鏡花きょうか、と申します。音色さんには、いつもお世話になっております。……本当に、いつも、助けていただいてばかりで」


「へえー、あの音色が? ――ちょっとその話、詳しく教えてくれる? きょうかちゃん」


「はいはい、冷えるから早く中入ろ。……鏡花さん、荷物後ろ置いとくね。あと、母さんはずっとこんな調子だから、いちいち取り合わなくても大丈夫。一人で勝手に喋ってるから」


「あー、ひょっとして照れてるの、音色? じゃあ武士の情けで、晩ご飯まで掘り下げるのは待ってあげるわ」


「情けどころか、余計地獄度が増してるんだけど。全員揃うじゃん」



 賑やかに会話を交わしながら、暖房の効いた車に乗り込む。ほどなくかすかな発進音とともに、周囲の風景が、ゆっくりと流れ出した。電車のそれとは速度も距離感も異なる、知らない街の光景を、束の間窓越しに見つめる。



「それにしても、綺麗な響きの名前よね。ねえ、きょうか、って、どんな字を書くの?」


「鏡に花、で、きょうか、です」


「とっても素敵。……あれ、確か、同じ名前の文豪さんがいなかった?」


「名字も含めたら、二人いると思うけど」


「そこまで言うなら教えてよ。まったくもう、鏡花ちゃん以外には相変わらず冷たいんだから」



 あたたかい空気が満ちた車内に、言葉が、ひとひらずつ、降り積もってゆく。

 いつもよりも少しだけ力の抜けた雰囲気で、気安い声と言葉で、綾音さんと語らう音色さんの姿が、新鮮で。その隣に座って、家族同士の和やかな会話の中に、自分がいつの間にか混ざっていることが、何だか不思議で。



「――あ、そうだ。ひびきも昨日から帰ってるわよ」


「げ。兄貴、帰ってきてんの?」


「そうよ、音色も帰って来るって言ったら大喜び。まあ、ちょっとは相手したげて」


「絶対やだ。……うわー、最悪」


「音色さん、お兄さんがいらっしゃるんですか?」


「四つ上にひとりね。人をからかうのが生き甲斐みたいなやつだから、何か言われても無視して」


「あのねえ、そう言われたって鏡花ちゃんが無視できるわけないでしょ。あなたが上手いことやりなさい。――それに響、無視すると余計に面倒臭いわよ。一度興味を持ったら、食らいついて離さないんだから。あれはワニね、ワニ」



 そんな発言を聞いてしまったものだから、思い描きかけていた音色さんのお兄さんのイメージは、にやりと笑みを浮かべるわにに変貌してしまった。


 いったいどんな人なんだろう、とあれこれ想像を巡らせていると、不意に横から伸びてきた手に、左手を包まれた。驚いて隣を見ると、音色さんは前方を見据えたまま、何食わぬ顔で、重なった指先にきゅっと力を込めた。


 大丈夫だと、そのぬくもりが、仕草が、伝えてくれて。安堵すると同時に、綾音さんに気付かれやしないか、と鼓動が忙しく騒ぎ出す。



「あんま怖がらせるようなこと言わないで。まあ兄貴が鰐っぽいのは事実だけど」


「あなたが余計怖がらせてどうするの。ほら、そうこう言ってるうちに着くわよ」


「やっぱ帰ろうかな……鏡花さん、一緒に帰る?」


「え、と……せっかくですし、お兄さん、にも、お会いしてみたいです」


「ここまで来ておいて、今更何言ってるの。鏡花ちゃんもこう言ってくれてるんだから、あなたも腹括りなさい。――はい、到着! 長旅おつかれさま」


「運転、ありがとうございました」「迎え、ありがと」


「いーえ、どういたしまして。こちらこそ、こんな山奥までようこそお越しくださいました」



 ばたん、と車の扉を閉じ、シャッター付きの車庫から、連れ立って玄関へと向かう。薄く雪化粧を施された低木の向こうに、まだ真新しい、四角い倉庫のような建物がちらりと見えた。何だろう、と思いつつも、庭の中に伸びる石畳と、花壇から健気に顔を覗かせている、花々の色彩に目を奪われる。



「ビオラ、綺麗ですね」


「でしょう? わかってくれて嬉しいわ。お花、好きなの?」


「はい。……こういう、お庭、憧れです」



 花と綾音さんの間を行きつ戻りつしていた視界の端に、目を細めている音色さんが、ほんの一瞬映った。視線を向けると、マフラーに覆われていない口元も、ほんの少しだけ、綻んでいて。どうしたんですか、と瞬きで問うと、音色さんは無言で微笑を浮かべたまま、小さくかぶりを振った。



「はい、今度こそ到着。鏡花ちゃん、ゆっくりしていってね」



 綾音さんの朗らかな声に意識を引き戻され、立ち止まりかけていた足を慌てて前に動かした。開錠の音とともに綾音さんが大きな玄関扉を開き、屋内へと招き入れてくれる。お邪魔します、と恐縮しながら玄関先へと一歩足を踏み入れた瞬間、胸の奥がすっと落ち着くような、澄んだやさしい香りが鼻先をくすぐった。


 ――木、の匂い、だ。


 音色さんの部屋とも、わたしが居候させてもらっている部屋の匂いとも違うそのやわらかな香りに、ああ音色さんのご実家に来たんだな、と実感した。


 靴を脱ぎ、フローリングの通路に足を置くと、じんわりとしたぬくもりが床から伝わってきて驚いた。



「……あったかい、ですね」


「いいでしょー、床暖房。ちなみに我が家は全館床暖房仕様だから、寝ようと思えばどこでも眠れるわよ」



 ふふふ、といたずら気な笑みを浮かべた綾音さんは、つと視線を上に向け、右手の階段に向かって、よく通る声で呼びかけた。



「響ー? 音色、帰ってきたわよー。……おかしいわね、寝てるのかしら?」


「呼ばなくていいから! 本当に!」


「だって、音色が帰ってきたのに教えなかったら拗ねちゃうでしょう。――響ー、音色が、彼女、連れて、帰ってきたわよー!」


「なんで藪をつついて蛇を出すかなあ!?」



 焦った様子の音色さんに背を押されるようにして、正面の木の扉の方向へと誘導される。にこにこと楽しそうな笑みを浮かべた綾音さんの後に続き、室内へと足を踏み入れた。


 ――……あった、かい。


 ふわ、と部屋に満ちたあたたかな空気に頬を撫でられて、外気で知らず身体が冷えていたことを、ようやく思い出す。


 ガスストーブの上で、しゅんしゅんと湯気を上げるやかんを見て、あーしまった! と慌てて駆け寄る綾音さんの声が、ほんの一瞬、遠ざかる。


 木の机を囲むように配置された、ゆったりとした大きさの、クリーム色のソファー。壁にかかった、複雑な模様のタペストリーと、目を惹くような精巧さの木彫りのお面。幼い頃に、音色さんたちが描いたのであろう、色とりどりの絵。ファックス付きの固定電話と、赤いペンで日付に丸がつけられた、縦長のカレンダー。

 張り出し窓にかけられた、薄いレースのカーテン越しに射し込む、透きとおった冬の陽射しが、淡く、室内を照らしていて。



「……素敵な、お家、ですね」


「そう? ありがとう。気に入ってもらえたなら嬉しいわ。鏡花ちゃん、ほうじ茶と珈琲と紅茶、どれにする?」


「ええと……ほうじ茶で、お願いします。……あの、何か、お手伝いとか、」


「いーのいーの。少しくらいおもてなしさせてちょうだい。音色は?」


「俺もほうじ茶。……母さん、本当に大丈夫?」


「失礼ね、いくら私でもお茶くらい淹れられるわよ」



 いったいどういう意味なんだろう、と音色さんにちらと視線を向けると、手振りでソファーに座るよう促される。



「端的に言うと、俺の料理の腕前は母さん譲りってこと」



 向こうの方が才能が上だけどね、と続けられて、何と返していいのかわからず、曖昧に頷いた。



「だからまあ、店屋物てんやものばっかりになっちゃうけど、そこはどうかご了承ください」


「普段お店にあんまり行ったりしないので、わたしは嬉しいですよ? 色々研究もできますし」



 別に構わないのに、どうしてわたしに断りを入れるんだろう、と首を傾げながら返すと、目を細めた音色さんに、ぽんぽんと頭を撫でられた。え、どうして、と戸惑っていると、お盆を手にした綾音さんが、お待たせ、と軽やかな声とともに戻って来てくれた。


 香ばしい香りを漂わせる湯呑と、小さな木皿に盛られたかりんとうを机の上に並べつつ、しみじみとした口調で、綾音さんが呟く。



「それにしてもびっくりだわー。まさかこの目で、音色がいちゃついてるところが見れるなんて」



 ありがと、と早速かりんとうを一つ口に運んでいた音色さんが、盛大に、せた。



「音色さん、大丈夫ですか?」



 慌てて背をさすっていると、大丈夫、と片手をかざされる。じっとこちらの様子を見守っていた綾音さんは、嬉しそうに、あらあら、と頬に手を当てて。



「音色、大丈夫? いいじゃない、別に見られたって」


「俺は良くない。――鏡花さん、上がろ」



 え、と戸惑っているうちに、湯呑とお茶請けを回収して盆の上に乗せた音色さんに、手を引いて促される。立ち上がった音色さんと綾音さんの間であわあわと視線を往復させていると、くすりと微笑んだ綾音さんに、いってらっしゃい、と手を振られる。


 いいのかな、と思いつつ会釈をしてから、すでにリビングの扉を開けた音色さんの後を追った。



「あの、音色、さん。……どこに、行くんですか?」


「俺の部屋」



 廊下を進み、階段を上りつつ投げかけた質問に思いがけぬ答えが返ってきて、一瞬だけ足が止まる。振り向いた音色さんに、俺の家にはほぼ毎日来てくれてるでしょ、と笑い混じりに言われて、それとこれとはまた別なんです、と胸の裡だけで反駁する。


 結局心の準備ができないうちに、とうとう部屋の前まで辿り着いてしまった。片手で無造作に扉を開け放った音色さんに、どうぞ、と促され、小さく息を吸ってから、室内に足を踏み入れる。



「お邪魔、します……」


「あー、客用の机とか座布団とかなかったわ、ごめん。――ちょっと探してくるから、適当にくつろいでて」



 二人分の湯呑とお茶請けが乗ったカップを窓際に置かれた机の上に乗せ、音色さんはくしゃり、とわたしの頭を撫でてから、再び階下へと降りて行った。


 ――くつろいで、いて、と言われても。


 部屋全体に染み込んだ音色さんの気配に包み込まれているようで、どうにも落ち着かなかった。所在なげに動かした視線が、ふと、ある一点に吸い寄せられる。


 窓際の机と、椅子と、それからベッド以外に、ほとんど何も置かれていないすっきりとしたモノトーンの部屋の中で、色彩を放つもの。


 思わず一歩、二歩、と歩み寄り、数歩の距離を空けてから、間近でそれらと対峙する。天井まで届く高さの棚の中に収められていたのは、本と、雑誌と、図鑑と、それから。



「……CD?」



 思わず声が漏れたのは、その夥しい数に圧倒された、からではなく。整然と並べられているそれらが、途中から、まるで抜き取られたかのように、ごっそりとなくなっているゆえだった。


 ――どうして、ここだけなくなってるんだろう?


 不思議の念に駆られつつ、そういえば、音色さんが音楽を聴いているところは、見たことがないな、と取り留めのない思考を巡らせる。


 ――今のお家に、持って行ったのかな。


 だが、記憶を辿っても、CDやプレイヤーの類を、音色さんの家で目にしたことは一度もない。


 ――わたしが知らなかっただけで、本当は、音楽、好きなのかな。


 また今度訊いてみようかな、とぼんやり物思いに耽っていると、コンコン、と部屋の扉をノックする音が背後から響き、振り返る。



「はい、どうぞ」



 反射的にいらえを口にした直後、扉を開けて姿を現したのは、戻ってきた音色さん、ではなく。



「お邪魔しまーす! おっ、きみが噂の音色の彼女? はじめまして、音色の兄のひびきです」



 えんじ色のジャージに身を包み、缶ビールを片手にまばゆい笑みを浮かべて登場したのは、音色さんのお兄さん、こと響さんだった。



「は、じめまして……。宮澤、鏡花、と申します」


「きょーかちゃんかあ、よろしくね。まま、座りなよ」



 にこにこと人懐っこい笑みを浮かべてベッドに腰を下ろした響さんに促され、おずおずと床に腰を下ろした。すると不思議そうに瞬きをした響さんから、すかさず質問が飛んでくる。



「ん? そこの音色の椅子に座ったらいいのに」


「それは、ちょっと……何だか、申し訳ないので」


「ふうん? 面白いね。――まあいいや、俺、ちょーっときみと、差しで話してみたかったの。音色が戻って来るまでそんなに時間もなさそうだから、単刀直入に訊くけど、」


「……はい」



 いったい何を尋ねられるんだろう、と若干身構えてつつ返事をすると、そんな取って食ったりしないから安心しなよ、と笑われた。



「――で? 音色のどこが良かったの? やっぱ顔? それとも金目当て?」


「え、」



 朗らかな声音と質問の内容がまったく嚙み合っていなくて、束の間思考が混乱する。わたしの聞き間違いだったのかな、という希望的観測が、鉄壁の笑顔と、怖いほど真剣なまなざしに、呆気なく打ち砕かれる。


 無意識に、背筋が伸びていた。姿勢を正し、真正面から、響さんの視線を受け止めて。


 ひとつ息を吸ってから、口を開いた。



「――あの、ごめんなさい。……言えない、です」


「音色のことなんて、別に好きでもなんでもないから?」



 突き付けられた鋭い眼光と言葉に、静かに、首を振る。



「いいえ。……ただ、どこがどういう風に好きなのか、どうして好きなのか、上手く、言葉にできないんです。――音色さんの、瞳も、声も、指先も、腕も、鼻も、眉も、髪も、唇も、首も、背中も、仕草も、みんな、好きで。やさしいところも、すぐに照れちゃうところも、まっすぐなところも、ちょっといじわるなところも、意外と負けず嫌いなところも、全部、好きで。ひとつひとつは言えるんですけど、でも、ここが好き、って言ったら、その要素がなくなったら、好きじゃなくなってしまうのかな、って考えてしまって。同じ要素があれば、別の人でもいいのかな、って思ってしまって。……だから、言えない、んです」



 できる限り正確に、正直に、自分の胸の裡を語った、つもりだった。目を逸らさずに最後まで言葉を紡ぎ終えてから、躊躇いがちに口を閉ざす。これ以上告げられることはなかったけれど、黙り込んでしまった響さんから反応がないので、どうすればいいのかわからなかった。


 響さんは、わたしの顔を、じっと見つめていた。視線を逸らすわけにもいかず、無言でしばらく見つめ合っていると、不意に響さんが、ぐい、と缶ビールを一口呷った。



「きょーかちゃんさあ、無難なこと言ってやり過ごせばいいや、って思わなかったの?」


「響さんは、音色さんの、大切なひと、なので。……それに、音色さんを大事に想われている方に、嘘は吐きたくない、です」


「不器用だなあ。……ほんと、不器用なくせに、どうしようもないくらいまっすぐだ。そういうところ、音色によく似てるよ。――きょーかちゃん、俺の可愛い弟を、よろしくね」



 よいしょ、とベッドから腰を上げた響さんに、すれ違いざまに、ぽん、と肩を叩かれる。三拍ほど遅れてから、ようやく告げられた言葉の、意味に気付いて。



「――――は、い!」



 慌てて響さんの背中に返すと、音色さんとそっくりの仕草で、ひら、と手を振られた。ああやっぱり兄弟なんだな、とひそかに感慨にふけっていた、次の瞬間。



「――兄貴? は、何で俺の部屋にいんの? つーか、それ俺のジャージじゃん! 何勝手に着てんの?!」



 折りたたみのテーブルと座布団を脇に抱えた音色さんが、通路側から扉を開けた。たちまちまなじりを吊り上げた音色さんを取り成すように、へらりと響さんが笑いかける。



「まあまあ音色くん、細かいことは気にしなさんな。そんなことより、まずはお兄ちゃんに、帰省の挨拶の一つでも」


「するわ! 兄貴、自分の着替えくらい持って帰ってるだろ! 何でわざわざ俺の服着てんだよ! そもそも――……いや、そうじゃなくて。鏡花さんに、何話した?」



 詰め寄る音色さんに、まばゆい笑顔で、ぴん! と親指を立てた響さんに、ちらりと目配せをされる。なぜか、とても、嫌な予感がした。



「おお、よくぞ聞いてくれた! 喜べ音色、きょーかちゃんは、お前の、『瞳も、髪も、声も、指先も、腕も、鼻も、眉も、髪も、唇も、首も、背中も、仕草も、みんな好き』らしいぞ!」


「――――出てけ」



 乱暴な手つきで響さんを部屋の外に追い出し、ばたん、と音を立てて扉が閉ざされる。無言で音色さんが折り畳まれていたテーブルを開き、その脇に座布団を置いたのを、音だけで察知する。



「鏡花さん」



 ――目を、合わせられない。


 とてもじゃないけれど、今、顔を上げられない。



「兄貴と、何、話してたの」



 影が落ちて、音色さんが、すぐそばにしゃがみ込む気配を感じた。声が、近い。咄嗟に両腕で顔を覆ったまま後ずさりすると、とん、と背中にベッドのフレームが触れた。



「……音色さんの、どこが、好きなの、って、訊かれました」


「で、何て答えたの。教えてよ」



 三角座りをして顔を埋め、せめてもの抵抗を試みるも、返ってきたのは容赦のない答えだった。



「さっき、聞いたじゃないですか……」


「……俺は、言ってもらったことない」



 どうにか絞り出した声で懸命に訴えると、拗ねたような呟きを、耳が拾った気がした。その響きにつられて思わず顔を上げると、少しだけ唇を尖らせ、むっとしたような表情を浮かべた音色さんが、視界に、飛び込んできて。



「俺だって、言ってもらったことないのに。――兄貴じゃなくて、俺に、教えてよ」



 まっすぐに見つめられて、目が、逸らせなくなる。もう逃げることなんてできはしないのに、ゆっくりと伸びてきた長い指先に、駄目押しのように、両頬を包み込まれる。



「……聴かせて」



 とうとう、退路は断たれた。観念して開きかけた唇を、閉じてはまた開くことを何度か繰り返した後、至近距離で瞬きもせずこちらを見つめている双眸に向かって、震える声で、告げる。



「音色、さんの、目が、好きです。……すごく、透きとおっていて。夜の海、みたいで。見つめていると、吸い込まれてしまいそうで。目が、逸らせなくなって。恥ずかしいけど、ずっと、見ていたくて。笑ったり、はにかんだり、驚いたり、いろんな感情が、伝わってくるところも、好きで。わたしを見つめていてくれるときのまなざしも、とても、やさしくて――……音色、さん?」



 ぼふ、とのけぞるように布団の上に音色さんが倒れ込み、結果としてわたしは、音色さんの身体と布団の間に挟まれるような体勢になった。苦しくはないけれど、ちょっとだけ、重たい。



「……ごめん、ちょっと、色々と限界……」



 布団に顔を埋めたまま、呻くように呟いたきり黙り込んでしまった音色さんに、聴かせて、って言ったのは音色さんなのに、どうしたんだろう、と訝しみつつ、口を噤んだ。そのまま動かずにいると、じわじわと、自分が今しがた口にした言葉やら、音色さんの体温やら広い肩やら首筋をくすぐる髪の感触やらが押し寄せてきて、いてもたってもいられなくなった。



「あの、音色、さん」



 もう心臓が耐えられない、と懸命に呼びかけた、その時。



「――あらあらあら。これは失礼」



 ノックとともに扉を開けた綾音さんとばっちり目が合って、声にならない悲鳴を上げる。あの、これ、ちが、と、しどろもどろに呟いていると、にっこりと満面の笑みを浮かべて、背を向けた綾音さんは。



「――響ぃー! 音色が、鏡花ちゃんといちゃいちゃしてるから、今こっち来ちゃだめよー!」


「だから何でそういうこと言うかな!?」「これはその、違うんです! 誤解なんです!」



 階下に向かって、高らかに、楽し気に、呼ばわったのだった。




 ――それから、賑やかに、朗らかに、年の瀬の夜は、更けていって。




 気付けば、あっという間に、帰りの電車に二人して乗り込んでいた。

 どさりと座席に身体を沈めるように座った音色さんが、苦笑とともに、視線をこちらに向ける。



「ごめん、鏡花さん。うちの家族、あんなで」


「いいえ。とっても、楽しかったです」


「ほんと? うるさいだけで、疲れたでしょ」


「いえ、本当に、一緒に年越しができて嬉しかったです。……素敵な、ご家族だなあと思いました」


「ありがとう。……鏡花さん、一緒に来てくれて、ありがとね」


「いいえ、こちらこそ。ありがとうございました」


「とんでもない。――ごめん鏡花さん、俺、昨日兄貴のせいであんま眠れなくて、途中で寝ちゃうかもしんない」


「大丈夫ですよ。わたし、楽しかった名残で目が冴えてるので、任せてください」


「ほんと? ……ありがと」



 そう言って目を閉じた音色さんは、本当に寝不足だったようで、ほどなくすう、すう、と寝息を立て始めた。その安らかな表情を、じっと見つめていると。


 ――不意に、真っ暗な車窓の向こうに、自分の顔が映っていることに、気付いた。


 冬の夜に黒く塗り潰された硝子に、ぼんやりと映った虚像に、指先を伸ばせば。



 寒風と冷気に晒された窓は、室内の暖かさからは想像できないほど、凍てついていた。


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