6−2

 ブライアンはぼくの動揺に、すぐには気づかなかった。ぼくは表情を悟られないようにすぐにその視線を床に落とす。相変わらず暴れ回る心臓の音に邪魔されながらも、必死に頭を回転させた。

 本当にブライアンがあの日の夜の男なのか?

 でも防犯カメラの映像は?

 あの防犯カメラの映像自体が嘘なのか?。

 浮かんでは消えていく言葉の数々に眩暈がした。いかに自分がこの一連の事件について従属的だったかを痛感して唇を噛み締めるぼくに、ブライアンが訝しげな視線を向ける。焦燥が募る。この場から逃げるための嘘が、舌のすぐ奥まで迫り上がってきた。

『ごめん、ブライアン。何だか急に疲れが出てきたみたいだ。そろそろ休もうかな』

 この場を取り繕って逃げ出すための調子のいい言葉、けれどぼくはすんでのところで飲み下す。小さく息を吸い、そして深く吐き出した。震えをこらえて、ブライアンの目に真正面からの鋭い一瞥を投げつける。

「――立て」

「何だって?」

「出かける準備をしてくれ、ブライアン。今すぐに」

 ぼくの言葉に戸惑いを見せた男だったが、ぼくが立ち上がりながらデバイスをポケットに突っ込んだのを見て徐々に顔を険しくしていった。

「……まさかお前も外へ出るつもりじゃないだろうな」

「そのつもりだよ」

「お前、今自分がどんな顔色をしているのか分かっているのか?」

 男の言葉を聞き流して、ぼくは歩きながら腕時計をデスクの定位置から取り外した。アナログに設定している文字盤はあと数秒のうちに夜の八時五十分を示しそうだ。時計と共に、ぼくは鍵を手に取ってそのまま玄関へと向かう。

「待て、ルーク。お前正気なのか⁈」

「どうだろうな。お前の目にはどう映ってる?」

「おれから見たお前は常にいかれてるよ」

 その声は、ぼくのすぐ背後から聞こえた。はっと振り返ったぼく越しに、男が開きかけていた玄関のドアを力任せに閉ざした。普段はごく丁寧に扱われているドアが、ぼくの真後ろで派手に抗議の声を上げる。

「お前は今すぐにこのドアの鍵を閉めて、シャワーを浴びて、それからベッドに横になるんだ」

 ぼくは、自分を睨みつける二対のブルーグレイを見つめ返した。ここからぼくを逃さない自信は十分にあるようだった。おかしなことを言う顔色の悪いぼくが相手ならそうだろうさ。

 彼の変化を見逃さないよう視線を固定したまま、ぼくは口を開いた。自分でも意外なことに、ぼくの声にはどこか穏やかな笑みが混じっていた。

「マティを――あの青いガラスのお守りを、お前はいつ、ぼくの寝室で見かけたんだ?」

 ぼくの質問の意図が、ブライアンは分からなかったようだ。――始めの一瞬だけは。

 男の黒いまつ毛が微かに震え、二回の素早いまばたきが彼の目を覆う。喉の奥で鋭く息を吸う気配。それを皮切りに、自分の犯した間違いに気がついた男の顔色がゆっくりと変化していった。アイスグレーの目が焦点を失い、そして再びぼくの目でその焦点を結んだ時、男の顔に形容し難い笑みが浮かんで消えた。

 なるほど、理解したよ。

 後ろ手でドアノブに手をかけ、閉ざされた扉をもう一度開く。

「……お前の嘘を見抜くのは、どうやらぼくにもできそうだ」

 そのまま振り返って外へ出ようとしたぼくの肩を、ブライアンの手が掴んだ。自分でも制御できない恐怖に、ぼくは思わず体を凍り付かせる。

「話を聞いてほしいというのは、過ぎた願いか?」

「お前の話を聞くために、外に出るんだよ」

 みっともなく声ががたつくのはどうしようもなかった。こわばり切ったぼくの体に気がついたブライアンが、引きつれを起こしたように顔を歪める。腕を掴む手に強い力がこもったが、ぼくが自分の暴れる心音を五回数えた辺りで力が抜ける。

「ルーク、おれは……」

「でも、ここでは何も聞きたくない!」

「それなら、おれが、ここを出ればいいだけだ。お前は家にいろ」

 落胆が抑えられなかった。

「……この三年間を、また繰り返すのか」

「そんなつもりはない。状況が落ち着いたら、改めてまた話をするつもりだ」

「ぼく達に、また改めて話をする機会があると思っているんだな」

 乾いてひび割れたぼくの皮肉に、それでもブライアンは冷静だった。

「今はお前の身の安全を、何よりも優先するべきだ」

 自分に言い聞かせるような男の言葉に応えないまま、ぼくはただ自分の二の腕を掴んだ彼の手を強く振り払おうとした。男がそれに気がついて再び手に力を込める。

「お前が、おれを信じられないなら今はそれでもいい。だが家は出るな、自分の身を大事にするんだ」

「うるさいな、どうして自分のことなんて大事にしなくちゃいけないんだよ! もううんざりだ‼︎」

 隣に住むアールシュが家にいたら飛び上がっていそうな大きな声で、ぼくは吐き捨てた。

「ぼくは、お前の話を聞くって決めたんだ、ここではない場所でな。それ以外に選択肢なんてない。そのために自分の身に何かあったって、知るもんか。お前がそれが嫌だっていうなら、お前がぼくを守ればいいだろ!」

 喚き散らすぼくに、ブライアンがあっけに取られた様子で手の力を緩めた。その一瞬の隙に、ぼくは今度こそ男の手を振り払う。

「次はお前が選べ、ブライアン。お前に残された選択肢は二つだ。ぼくに今度こそ全て話すか、このままおとなしくタリンガにある自分の家に帰って、ここ二週間であったことを、全てなかったことにするか。今、ここで選べよ」

 棒立ちでただぼくを見下ろしていたブライアンが低く「わかった」と答えてぼくのそばをすり抜ける。ぼくはその答えに小さくため息をつくと、男が扉をくぐるのを待って鍵をかけた。

 無言のまま、ぼく達は二人で狭い箱に乗り込む。グランドフロアのボタンをぼくの指先を、ブライアンがちらりと横目で見た。

「行き先は?」

「レキサンドラのとこ」

「おれの車――」

「いやだ」

 そう切り捨てるぼくにブライアンさらに顔をこわばらせた。その表情に、ぼくのほとんど凍りついてしまった胸が罪悪感に疼いた。

 どんな時でも相手を信じて心を開くべきだろうか。でもぼくだってどうしようもないんだ。こうして強い言葉で武装して自分を奮い立たせ続けなければ、怖くて頭がどうにかなりそうだった。

 エレベーターがようやくグランドフロアに到着し、ぼくとブライアンを大急ぎで吐き出した。エントランスを通り過ぎ、エレベーター内から手配したシルバーのホンダの到着を待つ。不幸な運命が確定したホンダは、ぼく達が自動ドアを出て二分ほどで迎えにやってきた。

「……どうせこれだって、お前自身のためじゃないんだろう」

 ブライアンが底抜けに暗い視線を車に落としていた。

「お前のこういうところを、三年前からおれは、壊したいほど愛してるよ」

「ようやく本音が出てきたな」

 愛を語りながらむしろ憎しみが溢れた男の言葉に、ぼくは顔をひきつらせる。

「乗れよ。別にお前のためじゃない。とっとと話を終わらせたいだけだ」

「わかっている。おれの脚を労ってくれてありがとう」

 ブライアンの声も徐々に刺々しくささくれ立っていく。ぼく達の間に流れる張り詰めた空気と自分の運命にまだ気がついていないお気楽な青年ドライバーが、笑顔で「ルーカス?」とぼくを振り返った。

「行き先は、ええと、カフェ・レキサンドラだね」

「うん、よろしくね」

「おれが捕まったのはラッキーだったよ。今は道路のあちらこちらで……」

 青年の感じのいいおしゃべりを、低く容赦ない声でブライアンが叩き潰した。

「それで、おれと二人きりではない場所という条件は満たしたが、話は聞いてくれるんだろうな」

 青年が目を見開いて、勢いよくブライアンを振り返った。自分が乗せてしまったのがやばいやつなのか見極めようとする青年を無視して、ぼくは顔を歪める。

「せっかちなやつ」

「何から聞きたい」

 完全に開き直った男の物言いにぼくは口を曲げ、運転席の青年は自らの運命を嘆くように天を仰いだ。

「……店に着くまでに一つだけ確認させてくれ。本当にお前なのか? あの日、アランが死んでしまった日の夜に、ぼくを連れて帰ったのは……」

「そうだよ」

 ブライアンがただ淡々とぼくの言葉を肯定する。

「あの日、お前をあの店から引き摺り出して家まで送り届けたはおれだ」

「――どうして!」

 さまざまな意味をはらんだぼくの「なぜ」に、ブライアンが静かに答える。

「お前を、今度こそおれのそばから逃さないためだ」

 情熱と狂気の狭間を揺らめく男の言葉に、ぼくは鋭く息を呑んだ。

 ぼくはできるだけ冷静であろうとした。深く息を吐き出し、冷ややかに続ける。

「悪いけど、お前の答えは何ひとつ意味がわからない」

「少しは人の言葉を理解する努力をしたらどうだ」

 勝手な言い分に、ぼくの頭に一気に大量の血液が駆けのぼる。

「お前……ぼくが努力をしていないとでも?」

「お前の質問は、なぜ、おれがお前にあの日のことを黙っていたのかっていう意味だろう。お前を逃さないためだよ、何もおかしなところはない」

「……無茶苦茶だ。だいたい、真実がばれた瞬間に台無しになる計画だ。初めから終わってる」

「いずれ話はするつもりだったさ。お前のことを、きっちりおれの元に縛りつけてからな」

 身震いしたくなる衝動を抑えて、ぼくは眉間に力を込めた。

「その考えが、自分勝手だとは思わなかったのか?」

「お前がおれにしたことを考えたら、それほどでもないよ」目を釣り上げて反論しようとするぼくを遮り、ブライアンが続ける。「だいたい、おれは隠すつもりはなかったんだ。お前がまさか、あの日のことを忘れているとは思わなかった」

 その言い分が真実を話さなかった理由になるとは思えなかったけれど、確かにぼくが覚えていたなら起こらなかった問題ではある。

 ため息をひとつついて、ぼくは改めて切り出した。

「あの日本当は何があったのか、今度こそきちんと話してくれ」

「おれはあの日、たまたま見かけたお前を家に連れ帰った。それだけだ」

「……たまたまは嘘だろう、さすがに」

「さあな」

 曖昧な返答に、ぼくは苦虫を何度も何度も強く噛み潰しつつ続ける。

「寝室に、ぼくの許可なく勝手に入ったのか」

 開き直っていたブライアンの目が、ようやく揺らいだ。

「……部屋の電気はつけずにお前をベッドに寝かせたから、誓って部屋の様子を観察してはいない」

 けれど、ぼくの事務所を見て「意外ときれいにしている」という言葉が出たと言うことは、つまりはそう言うことなのだろう。

 顔をこわばらせるぼくを見て、ブライアンもまた苦しげに顔をしかめた。

「お前は、おれの名前を呼んだんだ」

「覚えてない」

「呼んだんだよ、何度もな。おれに会えなくて寂しい、まだ好きだと」

「嘘だ」

 さらに塗り重ねられた羞恥に咄嗟にそう口走ったけれど、その言葉を紡いだ記憶が、自分の唇の上に確かに残っている気がした。まだ好きだ、ブライアン。寂しいよ――覚えていないはずの泣き言がなぜか違和感なく自分の内側で再生されて、ぼくは思わず唇を噛み締める。

 ブライアンがその泣き言にどう答えたのかは、今は考えたくもない。

 話は終わりだと窓の外を向くぼくに、男がひどく癇に障る笑い声をあげて言った。

「嘘なものか。お前だって心当たりはあるだろう」

 その言葉を嗤い返そうとして、ぼくはふと嫌な予感に息を詰まらせた。

「……お前、まさか」

 我ながら少しも動揺を隠しきれない声に、ブライアンが冷ややかな顔で笑う。その顔を見てぼくは確信した。こいつは、ぼくとかつての恋人との別れの原因が、自分にあることを知っているんだ。

「まさか、レオのことまで調べたって言うのか?」

「当然だ。そいつはドリンクスパイキングの第一容疑者だった」

「とうの昔に別れた昔のボーイフレンドが、一体ぼくに何をしようって言うんだよ⁈」

「犯罪の動機のほとんどは金か痴情のもつれだよ」

 言葉を失うぼくの視線を平然と受け止め、ブライアンが無知な相手に言い聞かせるように優しげに言った。ぼくは一体誰と話をしているんだろう。一体誰と、この二週間を共に過ごしてきたのだろう。

 もしも、目の前の男が幼なじみでなかったなら。

 ――いや、もしこいつがブライアンでさえなかったなら、ぼくはきっと今すぐにこの場から逃げ出して、今夜中にブリズベンからも姿を消しただろう。ぼくは我慢強い方じゃない。プライバシーの侵害や束縛についてなんて理解したいとも思わない。それなのに、世界中に溢れかえる恋愛アドバイザーが「今すぐ逃げろ」と忠告しそうな男を前にして、ぼくの中にはいくら引っ掻き回しても、少しの嫌悪感さえ湧いてこなかった。

 こんなことを許すつもりなんてない。それなのに――これほどまでにぼくを堕としてしまっているくせに。

「どうして、ただぼくに正直に全部話してくれなかったんだよ! ぼくの心なんて片手間に奪ってしまえるくせに、一体これ以上ぼくの何がほしいっていうんだ‼︎」

「お前があんな風におれから逃げたからだろう!」

 ぼくの大声に煽られるように、ブライアンの声も跳ね上がった。ぼく達の大声に合わせて運転席の青年が飛び上がる。

「なあ、落ち着いて話をしようぜ、兄弟。建設的な話し合いってのは――」

「部外者は前を向いて運転していろ!」

 青年が最大限まで見開いた目でブライアンを振り返った。自分に対する敬意のなさが信じられないと言いたげに男を凝視した後、ぷいっと顔を正面に戻す。触り心地のよさそうな耳たぶをぐいぐい引っ張っているのは「耳が痛む」という抗議だろうか。

 哀れな青年にフォローの一つも入れられないまま、ぼくは喧嘩腰で聞き返した。

「逃げたってどういうことだ。目玉の落書きの話か? セスの論文の方?」

「おれのリハビリが終わった時の話だ」

 もうとっくに終わったと思っていた話を蒸し返されて、ぼくの頭に血が昇る。

「逃げるだなんて、あんまりな表現じゃないか? ぼくは少なくとも、手助けが必要なくなるまでお前に付き添った!」

「ああ。いらん節介だけ焼いて、おれから一番大事なものは奪っていったな」

「お前……告白してきた時は殊勝な態度で『傷つけた』とか言っていたくせに。実はめちゃくちゃ根に持ってるじゃないか」

「当たり前だろう。自分がおれにしたことを分かっているのか? おれの言葉よりお前がおれにしたことの方が、よほどたちが悪い」

 腹の底から怒りが噴き出して、ぼくの頭の冷静な部分を一気に吹き飛ばした。

「ぼくの方が悪いだって?! お前こそ、自分がぼくに何を言ったのか覚えているのかよ!」

「覚えていると言っただろ、お前はすっかり忘れていたがな、この鳥頭!」

「なんだと、くそったれのばかブライアン!」

 叫ぶと同時に窓の外の通行人と目があって、ぼくはようやく車が完全に停車していることに気がついた。ぼく達のことをはらはらと見守る青年に慌ててお礼を告げる。

「到着してたんだ、ありがとう。騒がしくしてごめんな」

「大丈夫。でもそいつとは別れた方がいいと思う」

 青年の言葉に、ぼくとブライアンが同時に叫んだ。

「付き合ってない!」

「大きなお世話だ!」

 青年がまたしてもぎょっと身を引いて、その拍子に彼の背中にあたったクラクションが辺りに鳴り響いた。

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