6章 ブライアンの秘密とマティ

6-1

 まずは落ち着いて、自分を立て直さなきゃいけない。

 鍵を差し込みながら、ぼくは自分に言い聞かせた。くそ、鍵が右に回らない。どうやら買い物に行く時、鍵は閉めずに出たらしい。

 改めてドアノブに手をかけながら、ぼくは内心で続ける。

 罪悪感で自分勝手に苦しみ続けるなんて、不健全だし傲慢だ。そんなことくらい、ぼく自身の短くて恵まれた人生経験を省みたって明らかなことだった。だから、カシムは自分なりに考えて行動を起こした。ヴィクトールやクロエが何だかんだとぼくと会ったり会いにきたりするのも、そういうことなのだろう。

 玄関の扉を開け、中に足を踏み入れる。長身の美丈夫もまたぼくに続いた。目にしただけで回れ右をしたくなるような乱雑な空間は、今のどん底の気分を立て直すにはおあつらえむきの散らかりぶりではあった。

「手を、洗わなくていいのか」

 事務所を眺めながら棒立ちになったぼくに、傍らの男が声をかけた。そうだ、まずは手を洗わなくちゃ。自分がまずやるべきことを思い出し、ぼくはようやくほっと息をつく。

「洗う洗う。ごめんな、我ながらちょっとびっくりするくらい散らかってるや」

「このくらいなら、散らかっているというほどでもないよ」

「……まあとりあえず片付けるから、お前はソファにでも座っててよ」

「わかった。だが役割の分担には異論があるな。お前が、ソファだ」

「このくらい別に――」

 食い下がるぼくを置き去りにして、ブライアンはさっさとキッチンへと入っていった。すぐに手を洗う音と、それに続いて食器を洗い始める音が聞こえてくる。ぼくは大人しく洗面台で手を洗い、事務所に引き返してソファに体を預けた。

 その次の瞬間、体が浜辺の砂城ほどのあっけなさでぐずぐずと強度を失う。体の緩みと共に頭の蓋もまた緩んでしまい、向き合いたくない問題をぼくに突きつける。

 アランはあの日、ひどく参っていた。

 ぼくと会う時はいつだってぎりぎりの状態ではあったけれど、あの日は喪失と絶望で言葉も出ない有様で、なんとか彼から教科書や本が燃やされてしまったのだと聞き出すまでに一時間もかかった。

 ぼくは自分の小学生の頃の話を青年に語って聞かせた。あの頃は、友人の家に遊びに行った時にもらった一振りの箒がぼくの宝物で、これがあれば自分の家もぴかぴかになるものだと信じていた。母がどれだけ嫌がっても手放さなかった、ぼくの夢と憧れの象徴。けれどそんな魔法の箒は、あっさりと燃やされてしまったのだった。

 アランに、その喪失がどれほどの衝撃なのか分かると伝えたかった。それでも、本当に大切なものは何一つ失われてなんかいないのだと教えたかった。

 ぼくは、ぼくの語る言葉で、彼の心を軽くしてあげたいと思ってしまった。

 何かの力に叩き起こされるようにソファから身を起こし、ぼくはキッチンへと向かった。片膝をついて食洗機の中に手を伸ばしていたブライアンが、ぼくを見て少し驚いたように立ち上がる。

「どうした? 飲み物なら――」

 男の言葉を無視して、ぼくは彼のすぐそばへと距離を縮めた。触れるか触れないかのぎりぎりの距離まで。体に張り付いて少しよれた白いシャツから、男の熱と匂いがはっきりとぼくに届いた。男がかすかに身をひいたから、その分だけぼくは身を乗り出した。

 出会って二十七年も経つのにいまだに見慣れない青灰色。優しくて厳しいブルーグレイが狼狽に揺れ、その肌がじわりじわりと赤く染まっていく。

「ブライアン」

 ぼくの呼びかけに、ブライアンがはっとぼくの目に焦点を合わせる。ぼくの目の前で、彼ののどがごくりと大きく動いた。

 男が浅い呼吸を繰り返し、そのたびにシャツが張り付いた立体的な胸がぼくの体に触れそうになる。遠く地上で車のクラクションが響いた。その音が溶けて消えると、そこにはただ二人の小さな息遣いだけが取り残された。

 ブライアンが酸素を求めるように口を小さく動かす。そしてそれをぐっと食いしばると、慎重にその両手をぼくの方へと伸ばし、そっとぼくの肩に添えた。

「……お前は、心身ともに消耗しきっているんだ、ルーク。今お前に一番必要なのは暖かい食事と睡眠だよ」

 思わず喉の奥から笑いが漏れた。ああ、そうだろうな。ぼくもそう思うよ。お前はいつだって正しい。でもぼくが今一番欲しいのは、そんな正論なんかじゃない。

 ぼくは両人差し指でブライアンのベルト通しを掴んで引っ張ると、そのまま彼との距離をさらに詰めた。そして、お互いの唇と唇が触れるか触れないかの位置で動きを止める。男の唇が「ルーク」の形に動き、その動きに合わせてお互いの唇の触れ合う部分もまた少しだけ動いた。

 彼の唇を擦るように少し顔を動かして、ぼくはゆっくりと自分の唇を彼の唇に沈めていった。そのあまりに柔らかくて温かな感触に、ぼくの心はさらに乱れた。こいつの人の良さを利用するようなマネをしておきながら、自分の全てを受け入れてもらっているような錯覚に胸が痛んだ。

 体を硬直させたままぼくを口づけを受け入れていたブライアンが、突然ぼくの唇ごと飲み込むようなキスで覆いかぶさってくる。思わず体が跳ね、鼻の奥からくぐもったうめきが漏れた。身を引きそうになったぼくを宥めるように男が再び優しいキスを重ね、そしてぼくの呼吸が落ち着いたのを見計らって、再び深くぼくを飲み込む。

 酸素を求めて彼の名前を口にしようとしたぼくの口の中に、今度は男がすかさず舌を滑り込ませた。たじろぐぼくを宥めるように舌をなぶり、器用に口腔内を探る。同時に男の左手がぼくの背中に回り込み、ぼくをきつく抱き寄せてキスをさらに深めた。一体、どこの誰にこんなやり方を教えてもらったのやら。

 自分の知らない幼なじみの姿に戸惑ったのは一瞬で、ぼくはすぐに両腕を男の肩に伸ばして彼のキスに応える。ぼくの動きに合わせて彼の右手が、ぼくの体をたどり降りていく。薄く筋肉のついた背中をさぐり、やや細めの腰のラインを確かめ、そしてその下へと手をすすめる。下腹部に重い熱が巡る。ブライアンがぼくを強く抱きしめ、ぼくの耳にその唇を押し付けた。

「……お前からキスをしてくれたな」

「え?」

 酸欠と陶酔ですぐに意味を理解できないぼくに、男が続ける。

「こういうことをしようと思えるくらい、お前にも、少しはおれに対して幼なじみ以上の好意があるんだな?」

 思わず首を捻って男を見た。爪先立ちしていた足を地面に下ろし、ぼくは両手でブライアンの頬を包んだ。

「そんなの、当たり前だろ……」

 ブライアンが再びぼくを両腕に抱き込み、ぼくの首に口をつけて深く息を吐き出す。そのまま、男はぼくの首元でしばらく深呼吸を続けていた。男が息を吐くたびにぼくの首筋には電流が走り、ぼくが息を吸うたびにぼくの体はブライアンの匂いでいっぱいになった。この、柔らかくて熱い体にずっとしがみついていたいと思った。その間はきっと、何もかも忘れていられるだろう。

 ブライアンがふうっと一際深く息を吐き出した。

「……さて。それで、おれにこんなことを仕掛けた理由は、なんだ? ルーク」

「は⁈」

 陶酔から突然蹴り出されて、ぼくは思わず声を上げた。思わず腕を振り解こうとしたぼくを、ブライアンが逃すまいと強く抱きしめる。

「痛いっ! 痛いんだってば、お前の本気は!」

「本音を言う気になったか?」

 こいつ、下半身はこんなになっているくせに、まだそんな正しいことを言うのかよ。妙な感心と強い苛立ちに、ぼくはブライアンの腕の中で叫んだ。

「だってもう、ぼくは何も考えたくないんだよ……!」

 ぼくの言葉に、ブライアンがあやすように、その長い腕でぼくの背中をゆっくりと撫でる。

「……お前がそう思うのは当然だ。ルーク、お前は見ず知らずの相手に悪意を持って追っかけ回されたんだぞ」

 その言葉に、ぼくの力が抜けてしまった。男に体を預けながら、その理性的で思いやりに溢れる言葉を反芻する。さっきまでもどかしく思えたその優しさが、じんわりとぼくの心の奥へと滲んできて、ぼくは今度こそ男に降参してしまった。

 ふと、ブライアンにベッドで寝てもらおうかな、と思った。今日こそは、こいつをぼくの寝室に入れよう。ぼくの聖域にこいつを受け入れるんだ。

 そう決心できたことが、ぼくは今この瞬間、とても嬉しかった。

「……わかった。お前の言う通りにする」

 ブライアンが腕をほどき、ぼくを覗き込んだ。その表情は慈愛そのもので、現金なぼくは少しだけ残念な気持ちになる。

「まずはちゃんと休息をとることにするよ」

「ああ、そうしろ」

「お前のことを利用しようとしたのは、本当にごめん」

 気にするなというように首を横に振る男に向かって、ぼくは続ける。

「あのさ、ブライアン。今はまだ、お前のそばにいるだけでぼくは結構満足しちゃってるんだ。でも、いつかそれでは足りなくなったらさ、その時は――」

「分かった、分かったから」

 ブライアンが唸るようにぼくの言葉を遮った。

「とりあえずお前は、シャワーでも浴びてこい。今すぐに」

 まあそれが今の最善だろうな、と今度こそブライアンの言葉に従って、ぼくはキッチンを後にした。

 そして洗面所とベッドルームの間にある壁に埋め込まれた引き出しから、へたれて手触りの荒いタオルを一枚取り出して、そのざらざらとした感触を何度か手のひらで往復する。ついさっきまでぼくのものだったブライアンの体温を思い出し、ぼくは思わず甘いため息をついた。

 ぼくの吐息をかき消すように、その時ブライアンの低い悲鳴が事務所から飛び込んできた。

「ブライアン⁈」

 ぼくの呼びかけに、ぼくの名前らしきくぐもったうめきが答える。ぼくは使い込まれたタオルを放り出して、慌てて事務所にとって返した。

 ソファのそばに立ち尽くしていた元刑事がぼくを振り返り、先ほどの甘い雰囲気を完全に吹き飛ばした憤怒の表情でテーブルを指差した。

「おま、お前、お前というやつは……!」

「え、なになになに」

「一体なんなんだ、この手紙は! こんなものを受け取っておきながら一人で外出したって言うのか⁈」

 それが例の手紙のことだとすぐに気がついて、ぼくは「ああ」と顔を緩める。

「誤解だよ、ブライアン。そいつを受け取ったのはけっこう前のことで」

 ブライアンが愕然とした表情で口をぱくぱくさせた。

「あれ、手紙のこと言ってなかったっけ。ちょっと存在を忘れててさ」

「一体何を、どうしたら、こんなものの存在を忘れられるんだ‼︎」

「だって怖かったんだよ、仕方ないだろ!」

「それが言い訳になると本気で思っているんじゃないだろうな」

「……ごめんってば」

 我ながらそれほど誠意の感じられないぼくの謝罪に、ブライアンは諦めたように鼻を鳴らしてキッチンへと戻っていった。そしてすぐになみなみとお茶の入ったカップを二つ持ってきて、テーブルの空いたスペースに乗せる。

「座れ。とりあえず今すぐ、おれに事情を説明しろ」

「さっきはもう休めって言ったくせに」

 ぶつぶつ言いつつ、ぼくは大人しくソファのそばに置いてある椅子に腰掛けた。そして、ひどい人相でぼくの言葉に耳を傾けるブライアンに、一週間くらい前にメーガンに促されてこの手紙を見つけたこと、怖くなって封印していたけれど、手紙を見たいというクロエの希望を叶えるために今朝取り出したことをかいつまんで説明する。

 話を聞き終わったブライアンが、今日一番の深いため息をついた。これだけ何度もため息ばかりついていれば健康にも良さそうだ。

 肺中の空気を吐き切ったクマが、投げやりな声で言った。

「……当然この話は刑事にはしていないんだろうな」

「そりゃあもちろん」

 ブライアンがまたしても深いため息をつく。血中酸素濃度測らせて、とお願いしたい衝動に何とか耐えて、ぼくは言い訳をした。

「手紙を受け取ってすぐ、ぼくはお前に連絡をしようとしてたんだよ。ただ、その時にうっかり別のことに気を取られちゃっただけなんだ」

「別のことっていうのは?」

「それはまじで覚えてない。一週間くらい前のことだし」

 ぼくの言葉にひとつ頷いて、ブライアンがテーブルの上に視線を戻した。探偵に相応しい冷静な視線を取り戻している。

「この手紙を見たがったのは?」

「大学生の一人。唯一の女性で、便箋がクイーンズランド大学のノートだとか、手紙の書き出しは冷静だったとか、筆跡を変えようとしてるとか、そんなことを推理していったよ」

「この青いガラス玉も一緒に、封筒に入れられていたのか?」

「いや、それはばーちゃんからもらったお守りなんだ。この手紙を封印するのに使――まあつまり、ぼくの持ち物ってこと」

「ああ、だから見覚えがあったのか」

 マティに見覚えがあった? そいつは意外だ。ぼくはばーちゃんに出会うまで、こんなお守りの存在は知らなかった。

「南ヨーロッパに旅行にでもいった時に見たのか?」

「まあそうかもな」

 腑に落ちなさそうにそう言って、ブライアンが――手に取ってもいいものだと判断したのだろう、マティを摘み見上げてまじまじと眺めた。

「それか、ばーちゃんの家で見かけたかだな。お前、ばーちゃんの家に来たことあったっけ?」

「ああ、アメリアの家に行ったことはあるよ」

 そう言って少し考え込んでいたブライアンが、ふと顔を上げて小さく頷いた。

「ああ思い出した、お前こいつをベッドにくくりつけていなかったか?」

 男の言葉に、ぼくの頭が少しの間一時停止する。その脳裏に、ベッドのヘッドボードに無理やり飾っていた青い目玉の飾りがはっきりと映し出された。

 表の事務所とは正反対の伝統色の強い寝室、場違いなガラスのお守り。離れていても見守ってもらえるように、そしていつでも初心に帰れるように。手紙を受け取ったあの日、確かにぼくは恐怖のままにベッドルームからあの青いガラスを掴み出した。

 あの時のことを思い出した瞬間、全身が一気に粟立った。

 同時に、口の中が一瞬にして干上がる。

「ベッドにくくりつけていなかったか?」――こいつは今、そう言ったのか?

 息を呑みたくなる衝動を必死に堪えて、ぼくは慎重に細く息を吐いた。心臓が痛みを伴うほどの早鐘を打ち、一方で体感温度は急速に下がっていく。体の芯から自分の中のあらゆるエネルギーが一気に流れ落ちた。

「ルーク?」

 戸惑ったようにぼくに呼びかける聴き慣れたはずの声が、全く見ず知らずの人間のもののようにぼくの耳に響いた。体が震えないよう必死に両手を組み、目を伏せる。からからの口を何とか開いて、ただ「くくりつけてたよ」と告げた。

 ああ、確かにぼくはお守りをベッドにくくりつけていたよ、ブライアン。

 けれどそれは、ぼくが実家からもばーちゃんの家からも離れて、一人で暮らし始めてからの話だ。ばーちゃんの家を離れてからは、かつての恋人にだって、寝室への立ち寄りを遠慮してもらったんだよ。

 ――揺れる視界の中で規則正しく地面を蹴る、磨かれた焦茶色の革靴が再び脳裏に蘇る。ぼくが何か泣き言を言うたびに答えてくれた声が、今、はっきりとブライアンの声で再生された。

 なあ親友、お前はぼくが落とし穴に落ちた日に初めてぼくの事務所に入ったんだよな。

 それなら一体どうして、ぼくがマティをベッドにくくりつけていたなんてことを知っているんだ?

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